第百二十一頁 マリス・ミゼル 5 〜ダメ、ダメ、ダメ、ダメ人間~

「げふっ!」

 予期せず、女警官の拳に華奢なイワンの体は吹っ飛び、アトリエの資料の山に激突した。

「この…」

 イワンは倒れた傍のハサミを持ち、立ち上がろうとする。

「早まるな」仲間の警官が咎めるのを振り切って彼女は一人飛び出し、立ち上がろうとふるイワンにもう一発蹴りを入れる。ハサミは取り落とされ、彼女は彼の体という体を蹴り、踏み付け、罵倒した。

「ばかっ!ばかっ!イワンのばか!!ダメダメダメダメダメダメダメダメダメダメダメ人間!人間人間人間人間人間!」

 はひっ、はひっと情けない声を出しながら、イワンはゲロゲロと嘔吐した。

 蹴飛ばした衝撃で女警官の帽子が落ち、ショートの金髪にドアからの光が反射し、キラキラと輝いた。警官にしてはまだ学生にしか見えないくらいに、その顔は幼い。顔立ちも、この国の人間ではなくもっと東方の種族のそれであり、この場にはとてもではないが似つかわしくなかった。

 もっとも、そんな事を確認する暇もなくイワンは気を失い、そのか細い手首に手錠をかけられてしまった。

「あなたもあなたよ、シュニキス…ただ…ごめんなさい。私は、人の心を読み取れない人の気持ちは分からないの…」

 見るも無残な彼女の死体…いや、元々シュニキスという少女であった肉の塊の足元に寄り添うように、美しいフランス人形が佇んでいる。

 その人形をむんずと掴み上げ、「でも、恋するって事はそういう事じゃないと思うの。分からないけど…多分違う。もっと、こう…ええと……」そっと、シュニキスの膝に置いた。


「キラキラと輝くもの、なのよ」


 美しいフランスの少女を象った人形の顔は、心なしか微笑んでいるように見えた。


 ……………


 何もない荒野に、椿木どるは佇んでいた。

 地下に降りて、さらに長い長い階段を転げ落ちたはずなのに、なぜこんな所にいるのか不思議だった。

 ただ、ひとつの感覚が記憶としてあった。

 その証拠に、右手には可愛らしい顔のフランス人形の手を握って、ぶら下げていた。凄く恐ろしい目に遭ったはずなのに、心の中は嬉しい気持ちで一杯だった。

 こんな気持ちは初めてで、少々戸惑いさえ感じていた。

「椿木」

 自分を呼ぶ声がした。

「大丈夫か」

 街田康助。

「だ、大丈夫ですッ!ご、ご迷惑…おかけしました……」

 深々とお辞儀をして、後ずさりした。2メートル以内に入れば、また心を読んでしまう。


(また、先生に助けられた…)


 先生はの事を覚えているのだろうか。自分が覚えているから覚えているかもしれない。自分が覚えているのは能力のおかげという可能性もある。しかし、今はこの感覚だけで充分だった。


 ……


 結局、どると街田はあのエレベーターを降りた部屋に戻っていった。

 病み上がりのように調子の悪そうな、渋い顔をする松戸ガガ、桜野踊左衛門、ラサ少年も「何があったんだ」という風にキョトンとしている。

「サシはこの下には居なかった」

 街田が告げると、「ま、待って」とラサが顔を引きつらせた。

「な、なんで!何で君がメルヴェイユを連れているんだッ!」

 どるが小脇に抱える人形を見て、腰を抜かしてへたり込んだ。「すぐに捨てるんだ、そいつは…」

「これがメルヴェイユ?四天王ってやつの?人形じゃねえか…」ガガが珍しそうにツンツンと頬を突く。

『ちょ、くすぐったい。何をするの』

「これは可愛らしいでござるな。異国の人形も乙なものでござる」

 さっきまで気絶していた桜野も元気にはしゃいでいる。

 ラサは不思議だった。彼が知るメルヴェイユは、皮膚がベリベリと剥がれ、目玉が剥き出しになり、歯は全て失ったおぞましい顔だったはずだ。別人、いや、別人形なのだろうか。見たことのない、美しくおだやかな表情に彼はひどく戸惑った。

『彼らに、私の声は聴こえない』

 メルヴェイユがそっとどるに告げた。

「どうして?」

『当然よ。人形だもの。あなただけはそのの能力があるから、私と会話できるのね、きっと。でも、どうでもいいわ。私は能力も失った。ここで綿を引きずり出されて壊される運命ね』

「え?どうして?」

 どるは目を丸くした。

『どうしてって』

「悪いのはイワンでしょ。あんな事がなければ、あなただってあんな怖い人形になる事はなかったんじゃ」

 自分がここで壊されて当たり前と思っているメルヴェイユ、何故そういう考えになるのか分からないどるが平行線に差しかかろうとする時、「エスパーちゃん、そいつから離れな」態勢を立て直したガガが、大径の銃口に変形させた腕をメルヴェイユに向けていた。

「よく分からねーけど、何にしろその人形が敵なんだろ。ここで始末してやんぜ」

 銃口が光り、いつでも発射ができる状態になる。

 メルヴェイユは、お好きにどうぞという風にそっと目を閉じた。


「ダメ!やめて!」

 どるが、メルヴェイユを抱え込むようにガガに半分背を向ける。

「何やってんだよ…そいつは」

「私、この子を持ち帰る」

 全員がどよめいた。さっきまで自分を苦しめていた呪いの人形を、あえて持ち帰る?世には「事故物件に住む」という事を芸風としている芸人がいたりもするが、狂気の沙汰としか思えない。

「椿木殿…まさかまだそのあやかしに惑わされているのではなかろうな」

 桜野が腰の刀に手をかけた。

「そうじゃない…この子、独りぼっちだもの。私しかこの子と話ができない。多分悪魔の人達も、彼女が何を考えてるか知らないんじゃないの。呪いの人形だってだけで、ここに連れてこられて…」

 メルヴェイユの表情は変わらないが、この上なく驚いていた。


 人形には心が宿る。

 あるじを、大切な友達を世にも残酷なやり方で奪われ、彼女には憎悪しか残らなかった。動くことも、話すことも出来ないから、近付いた人間を得体の知れぬ恐怖のどん底に陥れる事でしか、自我を保てなかったのだ。

 それをこの人間は。

『ばかな人間。また呪われたいというの』

「今のメルヴェイユに何かを呪う理由があるの」

 メルヴェイユはしゅんとした。

 イワンという狂人は自分の性癖の為にシュニキスを殺し、また何の後悔もなく自らの命を絶った。

 この椿木どるという人間は、自分の精神世界に一度は飲み込まれたが、逆に干渉して過去を変えてしまった。イワンはフランス共和国の法の下、しかるべき処罰を受けるであろう。当時のフランスにはギロチンによる死刑制度があった。

 そう思うと、今、私は何も呪う理由がない。ただ自我を持っているだけの、抜け殻のような古びた人形なのだ。

 それをこの人間の少女は…


『ばかなひと…』


 小生はそろそろ飽きてきた、さっさと終わらせるぞ、という偏屈作家のぶっきらぼうな声を尻目に、人形は少し微笑んだ。

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パンク作家と妖怪サシ 蝿足昆布 @HaeAshComb

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