第百二十頁 マリス・ミゼル 4 〜イワンのばか〜
バシャバシャと悪魔のような血の海を掻き分け、かつてシュニキスとイワンのものだった部屋のドアに辿り着いた。
ドアは意外にあっさり開き、どるは部屋の外に出た。
不思議なことに部屋の中に満ちていた血の海が、廊下には一滴も流れ出ない。現実世界ではない事は分かっているが、奇妙な感覚だった。ドアを閉じると、さっきまで聞こえていたバシャバシャとシュニキスが暴れる音も一切が聞こえない。防音とかいったレベルではなく、元々このドアの向こうでは何も起こっていなかったかのように、奇妙な静寂があった。
気付けば、さっきまで血の海に浸かっていたはずの自分の衣服も渇き、全くもって何事もなかったようだった。
廊下は狭く長かった。今の部屋から出て右も左も、まっすぐ続いていて先が見えない。
どるは左側に進んだ。自分でも不思議なくらいに迷いはなく、こちらに進むのだという事を無意識に理解していた。シュニキスと自分の精神世界が融合しているようなものだから、分かるのだろうか。
距離にして50メートルほどだろうか。終わりが無い廊下をまっすぐひたすら進んでいると、廊下の真ん中に何かが落ちているのが目に入った。
フランス人形、メルヴェイユだ。
頭を垂れて俯く格好になっていたが、どるが近づくと、ギギギ、と鈍い音を立てて、皮膚の剥がれた顔にくっついた片方だけの目玉がどるを見上げた。
「あなたも来るのよ!」
メルヴェイユが何か言うのを待たず、どるは彼女の首根っこを掴み、持ち上げた。どるの意外な行動に、『何をするの』という風にメルヴェイユは取り乱す。
メルヴェイユの顔を自らの顔に近付け、どるはメルヴェイユよりも恐ろしい形相をして彼女を睨みつけた。
「案内しなさい。それと、先生を傷つけたら許さない。あなたの中身の綿いっぱい引きずり出してやるわ」
『椿木…どる…』
人形は何かを言いたげだった。
しばらく進むうち、どるは自分の足音の他に別の音が聞こえる事に気付いた。
足音がひとつ余計に、というやつだ。誰かぎ後ろにいるのだろうが、不思議と気配を感じない。しかし、確実にいる。
どるが振り返ろうとした時、『振り返ってはだめ』メルヴェイユが呟いた。はっと気付いてどるは前を向く。虫の鳴くような小さな声だったので、下手をすると気付かず振り向いていたかもしれない。
歩いても歩いても廊下は続いた。後ろの足音は相変わらずヒタヒタと聞こえてくる。いい加減気味が悪い。
メルヴェイユも何も言葉を発しない。
「どこまで続くの」
『……………』
「後ろのは誰」
『……………』
思い切って振り返ってみたい衝動があるが、何がどうなるか分からない。今は思ったまま、この廊下を進むしかない。
突然、足がピタリと止まった。何かにぶつかっただとか、どるが自発的に止めたのではない。
全くの無意識に、先程この道を迷いなく選んだように、彼女の脚は勝手に止まっていた。
どるが止まったから、後ろを付いてくる"誰か"はどるを追い抜く形になる。どるには気付いていないのか、見えていないのか、その後ろ姿だけがどるの目に飛び込んだ。
「ブライズ…」
どるは小さく呟いた。あれはシュニキスの親友であったブライズだ。
何故ここにいるのだろう。
やがて彼女の歩みは早歩きから、全速力に変わった。この先にある何かに向かって走っていく。
「……………」
どるは理解した。
「だめ…」
思わず声が出た。ブライズが目的地に辿り着いたら、彼女は死ぬ。
「ブラ………」
『駄目。声をかけては駄目』
黙っていたメルヴェイユが口を開いた。
「どうして!」
『あなたは彼女に干渉していない。彼女の顔も見ていない。見るはずがない。見てしまったら、ゆがんでしまう』
言っている意味が分からない。
そもそも、ブライズに向かって走ろうとしても足が思うように進まない。一体何なのか、自分はどうすればいいのか。分からなかった。
(ブライズが見えなくなってしまう…)
真っ直ぐ続く廊下の先はまだまだ真っ暗だった。闇にスルリと飲み込まれるように、ブライズの背中は消えていった。
やがて、どるの踵はピッタリくっついていた床を離れ、歩き出した。
(お、歩ける歩ける…)
しかし、どるの足はまるでルームランナーのように少しずつ加速を始めていた。「何?」と疑問に思う頃にはもはや全力疾走、不思議と疲れも感じずに真っ直ぐと、ある目標を感じ取ったままに走り続けた。
………
「魔王スリル」
「
「これは四天王のひとり、メルヴェイユの能力に間違いありませんな」
白衣の大男が目をやった窓の外は、先ほどまでの荒地のような魔界の風景ではなかった。濁々とした、赤黒くブヨブヨとした沼地のような風景に変わり果てている。
「メルヴェイユはこの魔界に来るべきして来た存在。拒否こそしないが、彼女は四天王になど加えずにこのビルの地下深くに封印しておくべきでございましたな。あの、シュニキスという少女の悲劇的な記憶と共に」
魔王スリルはその長身をゆらりとも揺らす事なく、魔城(ビル)のブラインド越しにその風景を見ていた。
メルヴェイユを持つ、人間の少女がとぼとぼと魔界の地面を歩いてゆく。彼女が一歩一歩踏みしめるごとに、周囲の空気と風景が一変する。
「地獄…ですな。実に心外。魔界と地獄は異なる。魔王スリル、あなたはまっすぐな人だ。しかし、思い込んだら最後までやり通す事も考えものですぞ。メルヴェイユを四天王に加えた事もそうですが、こたびのカインの件も…」
スリルはチラリと月海を振り返った。
「私にそこまで意見してくれるのは君くらいだよ、月海。私が考えなしにカインの事を進めているとでも」
「だからこそ大臣を務めておるのです。門番のルアージュ、そして四天王のスミレの事、メルヴェイユの後始末…高くつきますぞ」
月海と呼ばれた大男は踵を返し、"魔王室"を後にした。
「しかし、どうすっかなぁ〜。めんどくせぇなあ…」
月海は月曜日の朝のサラリーマンのように大きく伸びをし、廊下をゆく。
…………
「さよならだよ、シュニキス」
まるでそうなる事が決まっていたかのように、男はナイフを自らの首に当てた。
その刹那。男のナイフは見事弾丸に弾かれ、宙を舞い、床に聳え立った。
「………?」
「イワンの……………」
警官の女性が飛び出し、イワンの顔面に思い切り鉄拳を食らわせた。
「イワンのばかあああああああああ!!!!!!!!!」
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