第百十九頁 マリス・ミゼル 3 -タチムカウ-

 意識が朦朧としている。

 椿木どるの身体は、肩までどっぷりと何かに浸かっていた。

 生暖かく、ドロドロしており動けない。何より、身体全体を何かに掴まれているような感覚だった。いつもの制服に浸食してきて気持ちが悪い。

 薄暗いが、この小さな部屋には見覚えがあった。部屋の隅のキャンバス、乱雑に並べられた大量の絵。

「シュニキスと、イワンの…」

 ここはかつて、イワンがシュニキスをボロボロに切り刻み、自らの手でキャンバスに落とし込み「作品」として創作した部屋だ。カーテンの外は明かりひとつなく真っ暗で、夜の暗さというよりは、風景を真っ黒な墨で塗りたくったような不自然な暗闇だった。液体を溜められるような部屋ではないはずなのに、どるの肩あたりまでヌメヌメしたプールが蓄えられている。洪水があったにしてはあまりに静かで、鼻をつく臭いがたちこめていた。

 あの光景を、1秒たりとも目をそらさず、瞬きもせず目の当たりにしたあと、気付けばここにいた。

 自分の目的は何だっただろうか。

 力が出なかったが、何とか立ち上がろうとした瞬間、腕と脚を何かが強く掴んだ。

「ひっ…」

 万力のような、異常に強い力でそれはギリギリと彼女の手首と足首を握りしめてくる。「い、痛い!痛…」血管が圧迫され、骨がくだけそうな痛みにどるは顔をゆがめた。

 抵抗して暴れたため、飛沫が散ってどるの顔に降りかかった。

 鉄の味がした。

 目が慣れてきて理解した。血の海だ。この部屋中に溜まり、どるの身体をがんじがらめにしている液体は血液だ。

「い、嫌…」

 逃げようとするが、なおも手足を掴む何かの力は弱まらない。


 途端、目の前の血の水面から、ボコボコと何かが現れた。


 人間の、女の顔だ。長い髪はべっとりと顔に張り付き、その顔には皮膚が無かった。片方の目玉は抉られ空洞になっており、鼻は削がれて二つの穴だけになり、ダラリと開いた口には歯が一本もない。かろうじて残っているが半分飛び出してしまっているもう片方の目が、ギョロリとどるの目を見つめた。

「い、嫌!いやーーーーッッ!」

 一瞬で理解した。シュニキスだ。イワンにズタズタにされ、脳を溶かして絶命した悲劇の少女、シュニキスだった。

「…すけて。一緒…に…」

 もはや人間とは言い難い彼女の肉の塊のような顔が、どるの頬に接吻するようにベチャリと張り付いた。また生暖かく、かろうじて生物として生きている状態。血を浴びたどるの目からは、恐怖と痛みでボロボロと涙が溢れ出た。

 どるとシュニキスの周りの血の海から、更に無数の手が生えて、どるの顔や肩、頭を押さえつけた。

「あ、あぁあーっ!あがっっ!」

 どるの口の中に、数本の指が押し込まれ、そのまま血の海に引き下げられた。強烈な死臭と嗚咽を飲み込むような味が口の中に流れ込んでくる。息が出来ない。

 シュニキスは身体をのび上げ、どるに覆いかぶさるようにのしかかった。ズルリと鼻の中に血液が流れ込んでくる。「んんんー!!んんんんんんー!!!!」肉片なのか、大小剛柔様々な異物も次々と喉に流れ込み、完全に息が出来なくなる。


 これはきっと私の精神世界なのだ。

 メルヴェイユの心を読んでしまったから、強い怨念の意思が私の精神を支配した。

 私はここで完全に生き絶え、外側の肉体も支配される。

 すぐ上にいるシュニキスの心は、悲しみと後悔、そして少しの矛盾した幸せで埋め尽くされていた。

 シュニキス、ある意味で幸せに…なったのかな。


 …


 ……


 ………


「オラァッ!」


 ゴン、と鈍い音が鳴り、どるの身体が急に軽くなった。

 シュニキスが大勢をくずし、横側に倒れこんだ。同時に、どるの身体中を掴んでいた無数の手から一気に力が抜ける。

「!?」

 ぶは、とどるは血の海から顔を出し、出来る限り口の中の物を吐き出した。腐臭は拭えないが、幾分か楽になる。

「せ……」

 男は、真横からシュニキスを思い切り殴り飛ばす姿勢を取っていた。

 伸びっぱなしの髪、丸眼鏡、時代錯誤な着流しにどるは見覚えがあった。

 いや、この男なくしてどるの人生は語れない。


「先生。街田………先生ッッッ!!!」


 安堵感と嬉しさで、どるの目からは別の涙がどっと溢れ出た。

 シュニキスがゆっくり立ち上がり、俯きながら街田に向かって歩いてゆく。

「貴様の悲しみなど知った事ではないが、大切な読者様を沈められては」

 ガンッ!と殴られたシュニキスの顔からは元々出かけていた目玉がボロリと飛び出し、またバシャリと血の海に倒れた。

「困るのでな」


「せ、先生、なんで……なんで……ここに」

 ひっく、ひっくと泣きながら少女は質問する。

「椿木、お前の能力は計り知れない…近付く事で心を読み、触れる事で映像までも見られる、だけだと思っていたが」

 人差し指で頭を指し、「頭同士をぶつけると精神に入り込める、という解釈でいいのか」


 誰かに頭突きなんてした事がないから、どる自身もそんなシステムは知らなかった。メルヴェイユに身体を乗っ取られた勢いで、おそらく街田先生にヘッドバットをお見舞いしてしまったという事か。嬉しい偶然だが、何とも言えない恥ずかしさもあった。

「せ、先生、後ろ!」

 バシャ、と血の音がし、街田の後ろに影が出現した。

「シュ、シュニキス…嘘だ…」

 街田が殴り飛ばしたものとは、また別のシュニキスが、街田の背後から彼を羽交い締めにした。

 同時に、血の海から何本もの腕がまた現れ、今度は街田を海に引きずり込む。

「くそっ…」

「せ、先生!先生!!」

 駆け寄ろうとするが、力が抜けていたはずの手達もまた、どるの脚を掴もうとしているのか、脹脛に触れて回っていた。

「い、嫌っ!嫌ぁっ!」

 見ると、2人、3人と何人ものシュニキスが血の海から顔を出し、街田の肩を、頭を抑えにかかっていた。

「だめ、先生!先生を離して!!」

「椿木!!!!!」

 勢いがあるが、冷静さを含んだ怒号が響いた。

「よく聞け椿木!これはお前の精神世界、お前の能力によるものだ。責任はお前にある」

「ごめんなさい、ごめんなさい、私は…」

 自分の能力のせいで、恩人である街田先生が死ぬ。責められても仕方ない。

 数本の腕が、どるの脚に絡みついた。

「私の…せいで……」

 力が抜ける。恩を仇で返してしまう。


「お前が救うんだ…こいつを…我々を!この娘の過去を!小生の6作目252ページ目…賭博狂い、マジックテープ式シューズ収集癖の主人公が絶体絶命のピンチに陥った時、彼は一体どうした」

 更に増殖する手が、街田の身体中に絡みつく。着流しの身体が、ズプズプと弾力のある血と肉の海に沈んでゆく。

「先生!!先生ッッッ!!!!!」

「小生の質問に答えろ!椿木どる!」

苦痛に顔を歪めつつも、街田は尚も質問を続ける。

 椿木どるの頭には、彼の小説の内容が隅々まで入っていた。


「254ページ3行目……風呂桶を思い切り投げて………た………タチムカッタ……」


「ならばお前もそうすればいい…椿木どる、お前にしか…お前の能力にしか出来ない事だ。それをやれ!」


 数えきれないシュニキスの死体と手が、街田を覆い尽くし、彼は見えなくなった。


 屍累々。

 どるは思い切り体を捻って、自らに絡みつくシュニキスの手を振り払った。


「………タチムカウ……」


 一言つぶやき、なおも掴みくる手を逆にギリギリと掴み、立ち上がった。

「ふざけんじゃないわよ……」

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