第3話 児童期の発達障害者 その2

三年生になるにあたり友達が二人ともいなくなるという経験をした私。そんなことになる前に友達増やしとけよという話だが、イベントには積極的でも友達100人作ろうとはしなかった。友人Aがいるから大丈夫とか思うからこうなるのだが。


一方で現状を変える合理的なチャンスもあった。私の家は先述したように学区の境目にあった。この小学二年生の終わりに学区の再編があり、学区が変更されていた。そのため、境目に家がある私は通っている小学校ではなく、隣の学区の小学校に合理的に転校できるという珍しい状況になっていた。結局転校せずそのまま残ったのだがお別れ会が開かれた際に転校者が結構いたのは驚いた覚えがある。ちなみに友人Aは市外に転校するのでで関係なかったのだが転校するということで同じように転校者の枠に入っていた。


転校しなかったことがよかったのかどうかは今でもわからない。転校した方がいい結果になっていた可能性もあるが、たらればをいうのは大学で史学を学んだ私としてはちょっとしたプライドくらいはあるのでこれ以上は話さないことにする。


ところで、私は友達がいなくなったとはいえ三年生になった。そのためクラス替えがあった。これ以降学校の制度が変わり毎年クラス替えがある状況に変化するのだが、実を言うとこの時期に関してはあまり良かった記憶も悪かった記憶もない。むしろ3、4年生の時期の山場は4年の方に振れている。


一応は友人もでき、どうにか生活はできていた。なまじ何とか生活できてしまうというのが発達障害を考えられない原因なのかもしれない。まぁこの当時はそこまで知られてはいなかったと思うけども。あまり目立つような児童ではなかったとは記憶しているし支援学級に一直線ということもなかった。話が上がったこともない。


しかし、そんな状況下でも明らかにおかしいことはしている。正直、これを書くにあたって当時のことを思い出してみたのだが、なぜそんな行動に至ったのかがよく思い出せないのだ。


4年のころ、私はなぜか机ににプリントをため始めていた。正直今になって振り返るとなぜんこんなことをしたのか本人でさえ理解に苦しむことだった。


特に終業式の際には机いっぱいにたまっていたと記憶している。忘れ物をしてしまい取りに行った際にずいぶんとからかわれたものである。いやこれについてはもう弁解の余地はないのだが。


意味不明な行動の原因は前述したように私も今となってはよくわかっていない。長い学生生活の中でもこの時期にしか起きていないので余計不思議だ。


ただ、なぜこうなったのかを検討する材料はある。この件以降もそれ以前にもプリントを親に渡し損ねていたことが何度かあった。わざとではなかったが一度渡せないと渡しづらくなりズルズルと時間が過ぎて行ってしまったことが多々あった。どうもこの時期はその渡しづらさがピークに達してしまったのではないかと思う。よく叱られていたことも重なって怖くなってしまっていたのかもしれない。


さて、この件での発達障害の関わりだが、言葉への解釈、表情読み取り下手、言葉を文字通りにしか受け取れないという点で問題があったように感じる。


元々の原因が親への恐怖にあると考えると、遅れてプリントを渡したことに対する私への言葉が怒られていると感じた……だから渡しにくくなり結局さらに怒られるというループにに入っていたと考えられる。この怒られると感じたこと。これに焦点を当ててみたい。


先ほどまでも書いたように私は遅れてプリントを出した結果「怒られた」と感じている。しかし、母親はこう主張している。「諭した」と。


この認識の違いは時々私が母親とぶつかる原因の一つである。時には本来の用件を置き去りにしてこの件でヒートアップすることもあるぐらいだ。


ぶつかっていた当初はわからなかったが発達障害と診断されていろいろと調べていくうちにその理由に思い当たった。私は話を聞くときに(特にこうした諭されたり叱られたときに)内容ではなく口調で叱られたか否かを判断しているのではないかと。


私の母親が諭しているといった場面を振り返ってみるとガツンと響くような大声で話している。対してゆっくりと話しているときはしかられたと判断していない。このあたりがおそらく原因になっていると思う。


そしてこのガツンと響く話し方が私が何かミスをしたりするときは大抵の場合使われている。つまり、かなり昔から認識の差異が生じていたということになる。それは喧嘩になるはずだ。たがいに間違った認識の上で話をしているのだから。


しかし、残念ながらこれに気付いたのは今年になってからの事なのでこの後もしょっちゅう怒っている怒ってないの争いは時々続いていた。意図を察せない私が結局のところ悪いのだろうが。


一方で友人関係はこの小学校3年、4年の間は比較的安定していた。一部例外はあるが表題で触れた他人への批判になってしまうのでここでは割愛する。


ちなみにこの間にも仲良くなった友人が一人転校して行っている。とことん運がない。変な呪いにでもかかっているのかと思ったほどだ。実際アスペルガーという呪いはあったのだが。


この後5年、6年と進級しても内容こそ違えどそれでもまだ問題を引き起こすことになる。とはいってもこれはまだ平和な方だったと知るのは少し先の話。


                          ○


さて、小学校の先生というのはやはり印象に残りやすい。中学・高校・大学と違って基本的に一部教科を除けば一人の先生に教わるという形になっている部分が大きい。


私の小学校6年間の生活で一番印象に残っている先生はやはり5、6年と2年間担任だったD先生だろう。


正直、小中高大と学校に通った中で一番特異な先生だったと思う。


総合的な学習の時間というものがある。今はどうか知らないが私の学校では当時5年と6年でこの授業があった。


妙にカリスマ? といっていいのかわからないがそう言ったものがある先生という印象はある。単に乗りが良かっただけともいえるかもしれないが。


5年では野菜を作ったりしていた。6年になると横浜で見たという大道芸をやろうと言い出した。最初こそクラスの面々は難色を示していたが勢いの飲まれたのか熱意に感化されたのか最終的にはそれが総合学習のテーマになっていた。あれだけの熱意を示せれば私も就職試験の面接で落ちなかったのかなとも思う。


気まぐれにいきなりダブルタッチ(大縄を二本使う飛び方)をやろうと言い出したりいろいろと破天荒な人だったがなんだかんだ慕われていた……と思う。いきなり大道芸をやり出したのはインパクトが強かったようで、しばらく小学校では一輪車とかがブームになっていたこともあったらしい。


ちなみに、4年ぐらいたって当時同じ学年を担当していた他の先生が再び6年生を担当した際にやろうといったらしいが当時のクラスの児童に反対されてお流れになったそうだ。


……で、この時期について何が言いたいのかというと、正直これといって大きなことがないということだ。


一部例外的なものはあったが嵐の前の静けさなのかこの二年は多少の荒れ模様こそあれど比較的平和だった。むしろ中学高校の六年間の黒歴史の山に比べればこんなの大したこことはない。


が、一部中学の件や発達障害と繋がることもあるので正直思い出したくはなかったが軽く取り上げておきたい。


6年になってから登校班での登校中にちょっとしたいさかいがあった。正直これ以上は記憶が開封拒否しているので詳しくは思い出せないが、他の班の班員がこちらをからかい始めたのがきっかけであったと思う。時々言い争いにも発展していた。


一応先生が取り持ってくれて解決はしたが、この件で見えたのはストレスのため込みやすさ、それに加えてストレス耐性への低さがあげられる。思い返してみると内容こそ出てこないがからかいの内容は大したものではなかったのだろう。実際、先生に仲介してもらった時もそんな自覚はなかったといっていたぐらいだ。


非常に残念ながら私にはそれをからかいというコミュニケーションとして理解するには頭がよくできていなかったのだろう。この時わかっていればこの先の二つの事件もまた違った結論になっていたのではないかと今は思う。


いよいよ小学校を卒業した私に待つのは最大の黒歴史こと中学校。そして高校。


情緒不安定と重なり最悪な状況になっているのを知るのは中学校になってからだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

不良品の生きた道 ワラビー @koara

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ