移ろい行く季節の中で

井戸

四季の風景│兼六園

 春。

 空を多い尽くすように、ところ畝ましと咲き誇る、満開の桜。

 澄んだ池にかけられた桟橋の上で、人々はふと足を止める。

 ある者は天を仰ぎ、視界いっぱいに広がる薄桃色の花びらをしかと目に焼き付ける。またある者は池に目をやり、水面に写し出される天地の反った景色を面白がる。ある者は一人で、ある者は友人を連れて、ある者は家族を率いて。黙って通り過ぎる者は、ただの一人もいない。

 暖かく、悠然とそこに在る春の中で、人々は時が経つのを忘れてまどろむ。

 桜に心を奪われた人々に、待ったをかけるは梅の花。競るように気高く花開く彼らを前に、再び足音は止むだろう。紅白の花は、自分こそが春の主役だと、瞳に強く訴えかけてくる。

 陽が落ちると、各所に建てられた外灯の明かりが灯る。桜の木が下から照らされる。紺色の空を背景に、花々は橙の光に照らされ、昼とはまた違う色を見せる。


 夏。

 照り付ける日差しを喜ぶように、一面が活力に溢れる新緑に包まれる。

 中で開くは燕子花かきつばた。澄んだ緑の中に、青い可憐な花が顔を出し、風をゆらゆらと愉しんでいる。

 若い木々はこぞって葉をつける。その様を、毅然と太く長い枝を伸ばす大樹が厳格に見守る。木漏れ日を浴びる徽軫灯籠ことじとうろう。時代を超えて、石造りの灯篭の傍には、絶えず生命の巡りがある。

 梅雨の季節、外に出るのが億劫な日も、苔生した岩が雨水を弾き、それ自体が一つの風景を創る。日差しと雨の恵みを受け、全ての生命が色めきだつ。


 秋。

 夏に立派に蓄えた、緑だった木の葉が赤く色づく。光を受ける役目を終え、ひとつ、またひとつと枝から剥がれ落ちる。木の種類によっては、変わらず緑の葉をつけたままの者もいる。燃えるような朱色に対象的な深緑が、互いの存在を際立たせる。

 北陸の豪雪に備え、木々のひとつひとつに雪吊りが施されていく。棒をまっすぐ立て、その頂点から傘を張るように縄を張り巡らせる。大規模な機械は景観を損なうから使えないのだろう。棒の頂点に立つ人間が、下で待つ仲間の元へ縄を投げている。

 雪吊りはそれ自体が風景の一部と化す。夜になると、内側から照らされる円錐は、中に保護した木々も相まって、不思議な景観を創り出している。


 冬。

 北陸地方は冬になると、毎日のように雪が降る。

 兼六園も例外になく、銀の雪化粧が一面に広がる。道も、岩も、椿の花も、一帯に雪が降り積もる。 

 冷気と雪に晒される木々を、雪吊りがしっかりと守る。縄に残った細かな雪が、本来の仕事の残滓であることは理解できても、思わず見とれてしまう美しさを兼ね備えている。

 桜の木の枝にくっついた細かな雪は、まるで別の種の花のようにさえ見えてくる。

 冬の雪は他のどの季節とも異なる、より静かで幻想的な空間を生み出す。




 雪の中に、桜の花びらがひとひら舞い落ちる。


 私はふと顔を上げる。

 満開の桜が、風に揺られてふわりと踊る。

 花はいつか散る。しかし、散った後にもまた、別の彩りを示すのだ。


 私はハンドバッグからデジタルカメラを取り出す。

 桜の木に向けて、目一杯ズーム。画面が花びらで埋め尽くされる。

 数秒間ピントの補正がかかるのを待ち、シャッターを切る。さすが最新型、手ぶれの補正も効いている。

 私は録った写真と実物の桜、そしてスマートフォンの中に映っている、兼六園のホームページの写真を見比べる。


「全部見て回るのに、一年もかかるなんて……神様は意地悪ですね」


 私はカメラとスマートフォンの電源を落とした。


 広い庭園の中をじっくり時間をかけ、ぐるりと一周する。サイトに掲載された写真も見事だったが、生で見ると、それ以上。私の散策は当初立てていた予定を30分ほどオーバーした。

 歩き疲れた足を休めるべく、兼六園の中に数あるお茶屋さんのひとつを尋ねる。私は花見団子のほのかな甘みに舌鼓を打つ。

 のんびりと、心地よい時間と空間に身を委ねる。あの写真の中を闊歩していたという事実に、実はまだピンと来ていない。調和のとれたこの場所に、私という異物は不要ではないか?そう思うと、なんだか申し訳ない気分にさえなってくる。

 だからと言って、ごめんなさいと頭を下げて帰れるほど、この景色は安くない。


 少し風が肌寒くなってきた。私は空を見上げる。桜ではなく、空を。

 雲一つない晴天。来た時には澄んだ青空だったが、時間が経つにつれ、だんだんと明度が落ち、深みを増してきた。

 腕時計で時刻を確認する。

 丁度今、6時半を迎えたところだ。


 私は慌てて辺りを見回す。予定より時間が経っているのを忘れていた。スマートフォンのアラーム機能は――そうだ、電源を落としたんだった。


 兼六園のライトアップは、丁度6時半からだ。

 予告された時間通りに、全ての外灯に橙の光が灯る。


 目の前で、桜の木が暖かい光を受け、私を妖しく誘う。

 初めて見る夜桜に、私は思わず息を呑んだ。


「……まだまだこれから、ですね」


 下調べは十分したはずだった。

 それでも私は、まだ兼六園の本当の景色の、366分の1も知らない。

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