第11話 拳
「スガルさんさ、あんたの着てるソレ。見世物小屋にでも持って行ったらどうだ?きっと大人気――」
とっておきを言い終わらないうちに、スガルの両脇に飼われているタチの悪い二匹の獣は解き放たれていた。
左袖が伸びたかと思えば右袖が、避けたはずの左袖が再び頭をもたげ、おりつの首を執刀に狙ってくる。
余計な口を叩けばこうなるとは分かっていたが、少々スガルの癇に障りすぎてしまったらしい。
容赦のないスガルの仕打ちは続いたが、おりつも持ち前の運動神経の良さを生かし、体を逸らし、右に跳ね飛び、時には地面を転がるようにして避け続けている。
だがその全てを避ける事が出来るはずもなく、全身に切り傷ができ、血が滲み、流れ出ている箇所さえあった。
「嗚呼・・・愉快でたまらない」
残忍な表情から一転、恍惚の表情を浮かべているスガルを見たおりつは、ある事に気が付いた。
もしかしたら、今の所ではあるが、スガルが本気で自分を殺す気は無いのではないかと。
殺す気があるのであれば、とっくにそうしているはずだ。
とは言っても、避けなければやはりその分傷は深くなり、おのずと流れる血の量も多くなる。
どうやらスガルはおりつを弄び、血を流す様を見て楽しんでいるらしいが、それもそう長くは続かないだろう。
飽きればすぐにおりつの首が飛ぶに違いないし、そうではなくとも、永遠におりつの身が持つとは思えない。
袖を避け続けながら、おりつの脳裏には今まで考えもしなかった、死という言葉がよぎっていた。
不意に夕食時のバカ騒ぎが懐かしくなり、わが家へ目をやるおりつ。
その一瞬だった。
廊下のガラスに寧々であろう影がチラリとよぎったのだ。
天がくれたのか、ただの偶然だったのか、いずれにせよチャンスを見逃すおりつではない。
萎えかけていた闘志は湧きあがり、思わず口元には笑みが浮かぶ。
「寧々さん、今だ!」
影が映った廊下とは見当違いの方向に呼びかけるように、おりつは声を張り上げた。
「待ち望んでいたとはいえ、やはり貴女は愚か者ですね」
嘲るよう言い捨てたスガルは、振り向くと同時に手加減のない一撃を放つ。
十中八九、寧々がその場でバケツを抱えていたら、今頃は辺りは血の海になっていただろう。
だが、袖が切り裂いた物は寧々ではなく、物干し竿から取り込み忘れた手拭い唯一枚。
ひらりと舞う手拭いの切れ端を目で追ったスガルが、おりつの意図に気づいた時には全ては手遅れとなっていた。
「お袋のやつ、毎回何かを取り込み忘れるんだけどさ、たまには役に立つもんだよな」
寧々はおりつが張り上げた声に合わせ、廊下を飛び出し、その勢いのまま酒で満たされたバケツを放り投げていた。
バケツは緩いカーブを描き飛び、着地点は当然のごとくスガルの頭の上だ。
寧々のコントロールは抜群で、スガルは文字通りに頭から苦手とする酒を被ったのだからたまったものではない。
全身に酒を浴びたスガルは、咆哮をあげながら地面に膝をついた。
スガルが纏う赤い白無垢はジタバタと暴れ、全体からもうもうと白い煙が立ち昇っている。
鼻をつく強烈なアルコール臭に顔をしかめるおりつ。
「寧々さん、アレ何を入れたんだ?」
「おりつさんに言われた通り、流しの下にあったものですよ。日本酒に焼酎、あとは奥にあって取るのに苦労しましたが、ウィスキーですね」
「げ、それ、親父が毎月の楽しみにちびちび飲んでたやつだぜ。もしかして全部入れちまったのか?」
勿論、と寧々が答えようとした時だ、スガルは無言の一撃を彼女に浴びせていた。
寧々は声を上げる間もなく後ろに吹っ飛び、地面に転がると、ピクリとも動こうとしない。
「寧々っ!」
おりつは寧々を凝視したが、この位置からではよく見えず、駆け寄ろうにも怒り狂うスガルがそれを許すはずはないだろう。
ゆっくりと立ち上がったスガルは、よろめきながらも大きく目を見開き、言った。
「ころしてやる・・・」
従える二匹の獣は弱ってはいるに違いないが、その牙は未だ健在で、おりつの首を飛ばす事などは軽くやってのけるに違いない。
満身創痍となりながらも、両腕を構えたおりつは心に誓っていた。
傷つけられた友の仇を討ってやろうと。なんとしてでもあいつの顔をぶん殴ってやろうと。
闘志を剥きだしたおりつに反応したのか、スガルは憎悪を募らせた両袖を放ったが、以前の速さと鋭さはそこにはなかった。
「ころしてやる、ころしてやる・・・ころしてやる!」
怒りに我を忘れているおりつの集中力が勝ったのか、酒をかけられ弱り、スガルの操る袖の動きが鈍ったせいなのかは分からない。
中々におりつを捉える事が出来ないスガルは、ますます狂乱の体となっていく。
振り回す袖の動きは正確さを欠き始め、おりつの首を狙った右袖が大きく空を切った時だった。
腰を少しだけ落としたおりつは、宙に虚しく伸びきった袖を目がけ、思い切り拳を突き上げたのだ。
拳の先に伝わる、分厚い皮をもつ生き物を殴ったような感覚。
思わぬ一撃を受けたスガルは後退り、くぐもった呻き声を上げている。
血走った目をおりつに向け、反撃に出ようと右袖をその喉元へ差し向けようとするスガル。
だが、右袖はその命に答えようとはしなかった。
異変を感じ、自らの袖を見たスガルの目に映ったのは信じられない光景だった。
鮮やかだった赤は見る影もなく黒く変色し、風に吹かれる度にボロボロと崩れゆく様は、まさに燃え尽きた灰。
「自慢の白無垢が台無しだぜ?」
思いもよらぬ結果に、おりつは少なからず喜びを感じていたが、決して油断する事は出来なかった。
なぜなら、右の袖を失ったのに関わらず、スガルが諦める気配を一切見せなかったからだ。
それどころか一層おりつに対する憎しみは増し、それが殺気となり痛いほどに伝わってくる。
残った左袖を鞭のように振り回し、地面に叩きつけ、空を薙ぐスガル。
大切であろうはずの白無垢を気遣う気は一切感じられず、あるのはただただ憎い小娘の首をはねる。それだけだ。
おりつもまた、ここまできて尻尾を巻いて逃げる気はさらさらなかった。
袖が無秩序に宙を舞い続ける中、一歩、また一歩とひたすら前に向かい突き進んでいく。
時には耳をかすり、頬をかすり、血が滲む事もあった。
それでも、おりつの足が止まる事は一瞬たりともなかった。あろうはずがないのだ。
例え腕が飛ぼうとも、足がなくなっても構わない。誓いの通りに相手の顔をぶん殴る。その一心のみがおりつを突き動かしていた。
もはやその気迫に押し負け、追い詰められているのはスガルの方であった。
たまらず足を半歩、ほんの半歩だけ後退ろうと、スガルは足元へ目を向けた。
そこに生まれた一瞬の隙。
おりつは一呼吸で間合いを詰め切ると、その勢いを殺すことなく、がら空きだったスガルの右の脇腹に拳を繰り出していた。
渾身の一撃。そう言って申し分のない程の一撃だった。
鈍く重い衝撃が脇腹から全身に駆け巡り、スガルは少しでも痛みを和らげようと体をくの字に折り曲げる。
苦悶に歪むスガルの顔をおりつは目の隅で捉えていたが、決して攻撃の手を緩めようとはしなかった。
左腕を振り切った反動を生かし、今度は左の脇腹を、そして返す刀で再び右の脇腹を。
右、左、右、そして左。容赦のないおりつの打撃が、スガルの気力を見る見るうちに削いでいく。
あれだけの威勢を誇っていた左の袖も、今では普通の着物のようにだらりと下がっているだけだ。
これで何発目になるのかおりつも覚えてはいなかった。
記憶にあるのは、深く息を吐き、今まで以上に両足を踏ん張った事だけだった。
これまでとは違う感覚と共に、おりつの拳は白無垢諸共にスガルの脇腹を深く穿っていたのだ。
度重なる打撃に、スガルも白無垢も限界を超えていたのだろう。
種火が小さな虫のように蠢いるのが傷口から見えたが、次第に弱く、小さくなっていく。
スガルはぐったりとしておりつに倒れ込み、もはや立っている事すらもままならない状態だ。
拳を止めたおりつの耳に、息も絶え絶えにスガルが何かを囁いている。
「貴女のおかげで・・・やっと自由に・・・」
顔をもたげ、微笑みを浮かべるスガル。
二人の目と目が合い、暫しの静寂が訪れる。
その静寂の中、おりつの耳に入ったのは、ずんっ、まさにそんな音だった。
スガルが放った一撃をもろにくらい、気を失っていた寧々は目を覚ましていた。
あちこちに擦り傷があるが血は出ていない。
おそらく飛ばされた拍子に頭をどこかにぶつけたのだろう。
焦点が定まらない中、辛うじて見えたのは、スガルがおりつへ倒れ込む所だった。
そして、右手を後ろ手にして腰元を探り、鈍く光を放つ懐剣を取り出した事におりつは気づいていない。
寧々は声を上げようとしたが、口から出たのは嗚咽だけだった。
果たしてその懐剣は、おりつの丁度ヘソ下あたりに吸い込まれ、今ではもう切っ先は完全に見えなくなっている。
全身の力が抜けたように、膝を地面につきがっくりと腰を落とすおりつ。
寧々にはそれがまるで、おりつがスガルに跪いているようにも見えた。
「嫌だよ・・・おりつさん・・・」
寧々の目からは涙があふれ、頬に幾筋かの流れを作っている。
スガルは狂喜に満ちた笑い声を上げ、次なる獲物を血に染めようと、僅かにおりつから身を離した時だった。
「今のが本当の奥の手ってやつだよな」
泣きじゃくっていた寧々がおりつを見、スガルもまたおりつを見ずにはいられなかった。
「おりつさん・・・!」
「そうそう、その位置だ。時代劇であったんだよ。死んだふりをしてさ、相手が油断したところを逆に突く、ってのがさ」
どういうわけか、寧々にははっきりと分かっていた。
おりつの右足に次第に力が込められ腰に伝わり――腕に、拳に、そして、その力の終着点がどこになるのかも寧々には分かっていた。
「貴様、化け物か・・・」
「あんたにだけは言われたくないね」
辛うじて動く左の袖を慌てて振り上げるスガル。
が、既におりつはありったけの力を込め、大地を蹴り上げ飛んでいた。
限界まで見開いたスガルの目に迫る、傷つき、血に濡れ、怒りが込められた拳。
その拳がスガルの顎に達する寸前、彼女は一言だけ呟くと観念したかのように目を閉じた。
次の瞬間、スガルの首は天高く舞い上がり、地に落ちる前にはすっかりと灰になり消えていた。
残された胴体も、赤い白無垢だったものも、あらゆる個所から灰となり、先を争うようにして風に吹かれていく。
おりつはその様を眺めながら、スガルが最期に言った言葉を口に出していた。
「サヤカお姉ちゃん、か・・・」
駆け寄る音が聞こえ、顔を向けると寧々が心配そうな顔でおりつを見つめている。
未だ目には涙を浮かべ、もしもう一度何かあったなら、滝のように流れ落ちるに違いない。
「おりつさん、お腹大丈夫なんですか?確かあの時・・・」
二人の視線が同時におりつの腹部へと向く。
刺さっていたはずの懐剣は、あの時に一緒に灰になったのか、影形も見当たらない。
「ああ、あれな。念のために入れておいたんだよ。これを――」
そう言っておりつはシャツの下をゴソゴソとやると、黄色い表紙の分厚い本を取り出し、寧々の顔の前へ出して見せた。
表紙の中心には細い切れ込みが入っている。
「電話帳・・・」
呆れ半分、安心半分で寧々は深いため息をついたが、おりつの腹を見て、思わず息をのんだ。
「おりつさん、お腹から血、出てますけど・・・」
「え・・・」
恐る恐る腹を触れたおりつの指先は、明らかに赤く濡れている。
「なにこれ、めっちゃ痛ぇ!寧々さん、絆創膏とか何か持ってきてくれよ!」
慌てて家の中へ駈け込む二人。
普段の静けさを取り戻した庭の片隅で、忘れ去られたままの手ぬぐいが風に吹かれひらりと揺れた。
三日後、観音寺屋敷跡。
山の麓に埋もれるようにして建っていた観音寺スガルの屋敷は、今ではもう見当たらず、目につくのは黒く焼け焦げた数本の柱だけだ。
近所の者の話によれば、炎は突然に上がったという。
おおよその時刻は三日前の深夜。丁度おりつとスガルが死闘を繰り広げていた時刻と一致する。
その事を知った寧々は、きっとあの時、スガルは屋敷に残された自身の肉体と引き換えに、おりつと戦い続ける事を選択したのだろうと言った。
屋敷が燃え始めたのがその時だったのか、スガルが敗北し、灰となってからなのかは分からない。
いずれにせよ、おりつにとって重要なのは、弟がいつもと変わらない朝を迎える事だけだった。
焼け跡からは遺体は見つかっていないと報道されているが、スガルの肉体は屋敷と共に灰となり消えたのだろう。
あわやスガルに命を奪られそうになったおりつであったが、一人で生き、一人で死んだ彼女を不憫に思い、屋敷跡に赴くと花を一束添えたのだった。
帰り道、見た事のない車とすれ違い、思わずおりつは振り向いたが、すでに車は見えなくなっていた。
ペダルを漕ぎだした時には、車の事などはすっかり頭から消え、今ではもう今夜の献立の事で一杯になっている。
風に吹かれ、どこからか漂ってきた匂いに鼻をひくつかせるおりつ。
「おし、うちもカレーにするか」
おりつは進路を肉屋へと向けると、意気揚々と坂道を下っていく。
おりつが去った屋敷の跡地に未だ立ち込める物の焼け焦げた臭い。
燃えるような夕陽から差し込む光によって、焼け落ちた瓦礫のコントラストがくっきりと浮かび、火事の現場を一層生々しいものとしている。
今そこに近づいてくるのは、低く、重く、体に響くほどの車の排気音。
その重低音と共に土煙を上げ、ぐんぐんと屋敷の跡地へと駆ける様は、まさに荒野を走る野獣と言えるだろう。
赤い皮膚に二本の太く黒い縞を持つ野獣の名は、ダッチチャレンジャー。
子気味のいいブレーキ音と共にその足はピタリと止まり、間髪いれずに運転席側のドアが遠慮もなしに開かれる。
細く、魅惑的なカーブを持つ足が見えたかと思うと、身を躍らせるようにして車から降り立つ一人の少女。
すれ違えば十人中十人が振り返るであろう容姿を持つ少女が、車の屋根に手を乗せ辺りを伺う様は、美しき猛獣使いと言っても過言ではないだろう。
少女は屋敷の立っていた場所へ足を向けると、後を追うようにして助手席のドアが開かれ、姿を見せたのは、帽子を深く被り、
黒い服装で身を包んだ老人だった。
彼は片足を引きずりながら少女を追い、二人は焼け跡の中へと入っていく。
暫くの間何かを探していた二人は、一つの箱を見つけ出したようだ。
老人はそれを車の近くまで運び、少女は期待に胸を膨らませながら蓋を開けていく。
もし、その少女の眼差しをおりつが見たのなら、少々どきりとするかもしれない。
なぜなら屋敷で見た夢、そこに出てきたスガルと同じ眼差しを少女はしているのだから。
少女は箱の中に入っていた物をしっかりと掴むと、宙に投げるようにして頭上にそれを広げて見せた。
風に舞い、まるで生きているかの様にたなびく赤い白無垢。
そして、少女が満足げに頷いた時だった。
ひと際強い風に吹かれた赤い白無垢が、空を覆わんとばかりに一回りにも、二回りにも大きく広がったのだ。
その矢先、赤い白無垢だったものは少女の体を目がけ収縮を開始する。
裾は縮み、袖は消え、気高さを証明するかのような衿が構成されていく。
気が付けば少女はレザーの質感を持つ深紅のコートを身に纏い、同時に、中世の騎士が持つような風格や凛々しさをも身に纏っていた。
少女は誇らしげに体を一回回転させると、静かに見守っていた老人に顔を向ける。
「ちょっと野暮ったいかしら?」
静かにかぶりをふった老人は、笑みを浮かべながら少女に言った。
「いいえ、よくお似合いですよ――鞘香様」
二人を乗せた野獣は再び土煙を上げ、真っ赤に燃える夕陽へ駆け戻っていく。
いつまでも鳴り止まぬ重低音は、歓喜に満たされた獣の雄叫びそのものだった。
赤い服の噂 @omasa
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