第10話 水鉄砲を忘れない
『急用のため、二、三日お休みします。オリオン』
美濃部を訪ね、しょんべん横丁にやって来たおりつと寧々の目に留まったのは、扉に掛けられた白いボードだった。
若干斜めになっているそれを几帳面に直す寧々を横目におりつが、
「ったく、肝心な時に居ないなんてよ。明日の夜には、あの野郎がやってくるんだぜ?」
「きっと緊急な事が起きたんですよ。もしくは私達のために、あの姉妹に対抗する手段を探してくれているのかもしれませんよ?」
「どうだかなぁ」
おりつは釈然としないまま美濃部の顔を思い浮かべたが、どう考えてもあの男が頼りになるとは思えなかった。
「場所を変えて、ちょっと昨日の事をまとめませんか?ここだと、あの、何というか・・・」
「・・・ゲロ臭いしな」
横丁の入口から奥のここまでやってくるのに、二人は少なくとも三回は大きく股を広げている。
「自分のものは自分で片付けろって話だよな」
「ええ、本当に・・・」
二人は呆れながらも、足元に最大の注意を払いつつ横町を後にした。
昨日の観音寺家からの帰り道、二人の間で言葉が交わされる事はほとんどいってなかった。
スガルの話や、彼女自身の事、本当に実在した赤い白無垢、話したいことは山ほどあったはずなのに、二人はただひたすらにペダルを漕いでいた。
唯一、口から出た言葉と言えば、別れ際に交わしたお決まりの挨拶くらいだろう。
昨日の観音寺家からの帰り道、二人の間で言葉が交わされる事はほとんどなかった。
それぞれに家に帰り、お互いになかなか寝付けない夜ではあったが、どうにか朝を迎え、普段通りに学校に通い、何事もなかったかのように授業を終えた二人は、美濃部の元を訪ねたのだった。
だがその頼みの綱は掴む事はできず、結局自分たちだけで解決するしかないという結論に達したのだ。
今、二人の傍らにはコーラとコーヒーが置かれ、発泡の飛沫と淹れた豆の芳醇な香りを立てていた。
「で、結局のとこ昨日のアレはなんだったんだ?スガル・・さんは、ヤバいって事だけは分かるけどさ」
「まずスガルさんの話ですが・・・あれは全部本当だと思います」
「結婚式の時の話はともかく、私の時が止まった。ってのもかよ?それが本当なら、少なくても150年は生きてるって事だぜ?」
「私達が屋敷で見たスガルさんと、夢で見たスガルさん、年齢は少し違っていましたけど、同じ顔をしていましたよ。おりつさんも見たでしょう?」
「確かに見たし、同じ顔をしてたけどさ・・・。そもそもだ、二人揃って同じ夢を見るってのも、都合がいい話だよな」
おりつはコーラを一口飲むと、静かな店内を見回した。
喫茶店『花星』、おりつが小さい時から目にしていた店だったが、入ったのは今回が初めてだった。
コーヒーに関しては煩い店のようで、その証拠に、おりつはメニューを見ても種類の多さに何が何だか分からず、結局行きついたのがコーラだったのだ。
寧々は何回か入ったことがあるらしく、コーヒーを飲みながら読書をしたり、課題をしたりと、優雅なひと時を送っているらしい。
「恐らくあれは夢というより、屋敷の記憶だったんじゃないでしょうか?結果的に私達はいつの間にか寝ていたわけですけど、映写機で映画を見るように、その記憶を見せられていたんだと思います」
「どうせなら時代劇でもやってくれればいいのにな」
「それなら私はラスト三十分だけでいいので、大画面であれが見たいですね。あの怒涛の展開、おぞましい吸血鬼達、絶体絶命からの逆転劇・・・そう、それは・・フロムダスクティル――」
「それ何?というより、映画の話はいいんだけどさ、百歩譲って全部が本当だったとする。そんなやつとどうやって渡り合おうってんだ?」
嬉々として語る寧々をよそに、おりつは話を進める。
「ドー・・・え、えっと、そうですね・・・。
あの屋敷には、何らかの力が働いていると思うんです。それがスガルさんや、あの着物が原因なのか、屋敷本来のものなのかは分かりません。
ただ確実に言えるのは、そんな中では、手も足も、尻尾すらも出せないという事です。
ちょっぴり過激な話になりますが、屋敷に火を放つというのも成功はするとは思えません」
おりつは屋敷の玄関でスガルに殴りかかった時の事を思い出していた。
確かにあの時、スガル自身というより、何か――恐らくは屋敷の力に引っ張られるようにして、おりつの拳を避けたのだ。
「それなら、あいつが屋敷から離れる時・・・そんな時なんてあるのか?それに出かけるのを悠長に待つってわけにもいかないだろ?」
「確実にお出かけする時があるじゃないですか。私達はその行先まで分かっているはずですよ」
「・・・ようは源太の枕元って事か?」
「ええ、その通りです。枕元に立たれる前に手を打ちたいところではありますけどね。
あの時スガルさんは、夢の中で、と言っていました。つまり、生霊となって街を彷徨い、相手をさがす、と」
「生霊ってのは死んでもないのに、本人の強い念か何かが化けて出るってやつだろ。そんなのを殴って痛がるもんなのか?」
「普通なら暖簾に腕押し、殴ってもすり抜けるだけで、暑苦しい扇風機になるだけです。
ですが今回は若干状況は違っています。スガルさんは、生きている――つまりは実体のある源太さんに手を出したいと考えているんです。
前も話したと思いますが、相手が触られるなら、こちらも触れるはずです。
それに、以前おそのさんにお願いした件も、十二分に効果を発揮してくれると考えています。彼女のほうは順調そうですか?」
「ああ、あいつお喋りで、知っての通り友達も多いからな、もう止めろって言っても勝手に広まってくと思うよ」
「ふふ、それは頼もしいですね。目には目を、噂には噂を・・・この分なら、おりつさんの拳が活躍してくれるに違いありませんね」
「拳、ねぇ・・・」
おりつは自分の拳を見つめている。
その後も明日の夜に備えての話し合いは続いたが、おりつの脳裏に浮かぶのは、源太の泣き顔だけだった。
七日目の夜、おりつの家の時計の針が二時を少し回った頃。
流しに置かれた洗い桶に、雫がぴちゃんと垂れた。暫くしてもう一滴。
蛇口のひねりが甘かったのかもしれない。雫は一定の間隔を置いて、ぴちゃん、ぴちゃん、と落ち続けている。
それから幾ばくもしないうちに、、雫が奏でる単調なメロディーの中に別の音が紛れ込んでいた。
ぴちゃん、ひたり、ぴちゃん、ずずっ・・・・
雫の音、床を素足で歩く音、何かを引きずる音。
それらの音が調和していたのは、ほんの一時の間だけだった。
今ではもう雫の音は聞こえず、階下で聞こえるのは、決して気味の良いとは言えない足音だけだ。
ひたり、ひたり、ずずっ・・・、ひたり・・・
勝手知ったる人の家とはよく言ったもので、足音は迷う事なく階段を上っていき、源太の部屋の前までくるとピタリと止まった。
土中から這い出る虫のように、襖と柱の間に出来た僅かの隙間で、白くほっそりとした指がもぞもぞと動いている。
隙間がだんだんと押し広げられて、五本の指が見え、続いて掌が、腕が。
そして・・・
「待ちくたびれたぜ?スガルさんよ!」
襖の向こうにいるであろうスガルは動かない。
カチッと軽い音が鳴り、蛍光灯が輝きを放つ。その明かりの下には、腕を組み立ち塞がるおりつの姿があった。
「わざわざ来てもらって申し訳ないんだけど、生憎弟は家族と外出中でさ、帰るのは明日の朝ってとこかな?」
おりつが楽しそうに言った矢先、襖が力任せに開かれた。
スガルは白い肌に赤い白無垢だけを纏い、おりつを睨みつけている。
そこには、あの日、杉の木の脇から姿を見せた時のスガルの面影はどこにも見いだせない。
獲物を追いかける獣のように目をぎょろつかせ、部屋の中を見て回すと、スガルは口を開いた。
「あの子はどこだぁあああああ」
地の底から響くようなその声に、部屋は揺れ、尻尾の先はびりびりと空気が震えているのを感じていた。
恐れを振り払うかのように、尻尾を力強く一振りするおりつ。
「あんたにあの子って呼ばれる筋合いは毛の穴程もねぇんだけどなあ」
まるで獣同士の縄張り争いのように、両者は視線を譲らなかった。
「・・・分かりました。あなたにしましょう。そのまま動かないで――」
スガルの話が終わるよりも早く、おりつは背を向け、開きっぱなしになっている窓へ駆け出していた。
彼女が纏っている白無垢が一回り膨らんだように見え、おりつの脳が赤信号を点滅させたのだ。
窓には事前に脚立が掛けられており、それを伝えば庭へと降りられるようになっている。
狭い部屋の中より屋外の方が逃げ場が多いのと、一暴れあった場合、部屋が滅茶苦茶になってしまうのを防ぐためでもあった。
素早く脚立を降りきったおりつは、下で待機していた寧々に向かって、作戦通りだと言わんばかりに頷く。
「おい、スガルさんよ、下で待ってるぜ?」
あわよくばスガルが脚立を下っている最中に、もろとも倒してしまうという淡い願いもこめた挑発だった。
もし都合よく事が運んでも、何の効果もないかもしれない。だが、何もやらないよりはマシだとおりつは思っている。
しかし、数秒後にその願いは儚くも散る事となる。
二人が見上げる窓から黒い塊が飛び出し、音も立てずに背後に落下――というより、両足からきちんと着地したのだ。
笑みを浮かべたスガルは、これでどうかしら?と言わんばかりに首をかしげて見せた。
思えば生霊でも霊は霊なのだから、このくらいは出来て当然なのかもしれない。
「動かないでと言ったでしょう」
間合いを狭めようと、スガルはじりじりとおりつに近づいていく。
スガルが足を踏み出し、寧々に向かって背を見せた時だった。
寧々は背負っていたポンプ式の水鉄砲を構えると、スガルの背に向けて引き金を思い切り引いた。
空気の圧力に押され、勢いよく噴出した液体は直線となり、スガルの背、つまりは赤い白無垢の背に命中し、じっとりとした染みを広げていく。
自分の肌に直接ではないにしろ、濡らされ違和感を感じたのか、スガルは振り返り、寧々に不思議そうに顔を向けた。
「玩具?」
相手の動きに気を配りながら、二発目を発射すべく水鉄砲のポンプを上下に動かす寧々。
「私の好きな映画でも水鉄砲は活躍するんですよ。もっともその中に入っているのは聖水なんです。でも、私達が入れたのは・・・」
いつの間にかスガルが自分の方を向いている事に気づいた寧々は、焦りを感じ、ろくに狙いをつけないまま引き金を素早く引いた。
幸運にもそれは外れることなく、赤い白無垢の袖辺りに新たな染みを広げたが、スガルの怒りをかったのは間違いないらしい。
「姉さんの白無垢を濡らすなんて・・・許さない・・・」
今やスガルの獲物は、おりつから寧々へ変更され、寧々もまたそれを感じ取っていた。
何の変化もないまま自分の元へやってくるスガルを見た寧々が、不安げな視線をおりつに送った時だった。
最初に濡らした背中、次いで袖から、薄っすらとではあるが白い煙が立ち上っているのだ。
異変に気づいたスガルは足を止め、再びポンプに手をかけた寧々は得意げに言い放つ。
「私達がいれたのは・・・お酒です!」
「酒・・・?」
「私達はマッピングした地図を見て、ある事に気が付きました。噂話が広がるに従って、赤い服の目撃情報も増えていく。それとは逆に、誰もその話を聞いた事のない場所には、目撃情報は一切ありません。つまり、あなたはそこには行くことができないんです」
寧々の話に聞き入っているのか、スガルの足は止まったままだ。
「あなたの動きは、あくまで噂の広がり次第。それに加え、広がった噂の内容に従って、目を付けた相手を追い詰めていたんです」
依然としてスガルは口を閉じたままだったが、その表情からは明らかに余裕が消えている。
自分たちの秘密が、まさかこんな小娘二人に解き明かされているとは、思ってもみなかったのかもしれない。
「そこでだ、目には目を、噂には噂をってわけで、あたし達はある話を噂にして流したんだ」
おりつだった。
いつの間にかその手にも水鉄砲が構えられている。
「それは単純明快で、誰もが好きそうな話。赤い服の女は、酒に弱いってな!」
スガルの前後から、圧縮された空気に伴われ酒が飛び、赤い白無垢を再び濡らしていく。
白い煙はさらに立ち上り、着物は苦しそうにうねり、スガルの体の上でのたうっているように見える。
「噂話に左右されるあなたは、知らないうちにその話をも取り込んでしまっていたんです」
噴出する酒の勢いが弱くなったと同時に、がっくりと膝をつくスガル。
「どうやらその効果は絶大ってやつだな!まったく今回はおその様々だぜ」
効果を目の当たりにした二人は、追い打ちをかけようと再びポンプに手をかけた。
「・・・うん・・・」
スガルは俯き、何かつぶやきながら、おりつ達によって濡らされた部分をしきりに撫でてやっている。
充填が終わり、二人が揃って水鉄砲をスガルに向けた時、
「分かった・・・姉さん・・・・ありがとう・・・」
立ち上がったスガルは、寧々を、次いでおりつを睨みつけ言った。
「姉さんがね、もういいって。あなた達が血を流すのを見れたら、もうそれでいいって・・・」
先ほどとは違う抑揚のない調子、虚ろになった表情。
「はやく!」
何かを感じたのか、どちらともなく声が飛び、二人は同時に引き金に指をかけた。
だが酒が飛ぶよりも速く、何かがスガルの元から伸び、気が付けば二人の持つ水鉄砲は地面に叩きつけられていた。
あっけに取られた二人は、スガルを見てさらに愕然とすることになる。
なぜならば、スガルが纏っている赤い白無垢。その両方の袖先が重力に反し、宙に浮き、漂っていたからだ。
まるで首をもたげ、カエルを睨みつける蛇のように、左袖は寧々に、右袖はおりつに狙いを定め、ゆっくりと左右に揺れ動いている。
「おりつさん・・・あれは――」
寧々が口を開いたと見るやいなや、スガルの目が妖しく輝いたと思うと、両袖の動きがピタリと止まる。
「寧々さん、逃げろ!」
同時に、危険を察したおりつが足元にあった水鉄砲を思い切り蹴りあげた。
おりつと寧々に狙いをつけていた両袖は、瞬時に矛先を変更し、結果として、おりつの元へ返ってきたのはバラバラにされた水鉄砲の欠片だった。
一方、寧々は尊い犠牲のおかげで、家の影へと逃げる事ができたが、スガルは気にも留めない様子である。
まずは目の前にいるおりつから血祭りにあげようという心積もりなのだろう。
「寧々さん!聞こえるか?うちの台所の流しの下に、親父のとっておきが隠してあるんだ。どれでもいいからバケツにぶち込んで、早いとこ、こいつにぶっかけてくれ!それまでは、あたしがどうにか――」
目の隅で袖が動いたと思った瞬間、既にそれはおりつの目の前に達していた。
咄嗟に体を傾け、どうにか袖を交わしたように思えたが、首筋に鋭い痛みを感じ、焦りを覚えるおりつ。
「もうちょっとだったのに・・・惜しかったわね」
スガルが浮かべる残忍な笑みを見たおりつは、彼女が両脇に獰猛な2匹の獣を従えてるとしか思えなかった。その獣は牙を剥き、目の前の獲物に襲い掛かる合図が出るのを心待ちにしているに違いない。
「随分と大人しいけど、もう観念したのかしら?」
正直、スガルが着ている着物に何かあるとはおりつも思っていた。
思ってはいたが、まさか、生き物のように袖を伸ばしてくるなんて反則だろう。
とはいえ、この状況を打破するには、今自分にできる事をするしかない。
それは、どうにかしてあの袖を避ける事と、皮肉の一つでも言ってやる事くらいではあるのだが。
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