第9話 スガルとサヤカ

何の前触れもなかった。

突然、おりつのすぐ脇で、けたたましい悲鳴が上がった。

悲鳴の主は、広がりつつある血だまりの中で尻もちをつき、目の前に立つ白無垢を纏った女を見上げていた。

片手で血が溢れ出す胸を抑え、もう一方の手は震えながらも白無垢の袖を懸命に掴んでいる。


「最初に姉の刃に倒れたのは母でした。姉の異変に気付き、駆け寄った所を袈裟切りに斬られたのです。

母が斬られ、胸元から吹き上がる血を見ても、誰もその場から動こうとはしません。いや、あまりの出来事に動けなかったのでしょう。

気丈な母は傷つきながらも姉を止めようとしました。袖を掴み、これ以上は進ませまいと。

しかし、姉は無慈悲にも、必死にすがる母のその腕に刀を振り下ろしたのです。

母は二度目の激痛で声を上げ転げ回りましたが、次第に動きは鈍くなり、ついにはぴくりとも動かなくなりました。

そうなって初めて、男達は姉を取り押さえようと、女達は我先に逃げ出そうと一斉に動き出したのです」


様々な音がおりつを取り囲む。

そんな中、ひと際激しい足音が聞こえ、背後から一人の男が飛び出してきた。

背は高くはないが、がっしりとした体格をしていて腕にも自信があるのだろう。

サヤカ様と一言叫んだ男は、体ごとスガルの姉――サヤカに突っ込んでいく。

凶器を持っているが、細腕で女のサヤカが太い腕をした男にかなうはずもない。

おりつも、その場にいた誰もが、そして、その男自身がそう思っていたに違いない。

だが、サヤカの刀は男の手が自らの袖を掴むよりも早く、横一閃にうなりをあげていた。

電撃が走ったかのごとく男の動きが止まり、その手からは力尽きた芋虫が地面に落ちるように、ぽとぽとと4本の指が畳の上に転がった。

男は怯むことなく血走った眼をサヤカに向けたが、既に顔上には刀の影が走っていた。

男の体が倒れるのを見届ける事無く広間の中央に躍り出たサヤカは、軽々と、まるで年端もいかない子供が木の枝を振り回すように容赦なく、刀を振り回していく。

時折妖しく光を放つ刀を見たおりつは、海の中を縦横無尽に泳ぐ魚を連想していた。

光が走るたびに血飛沫と悲鳴が上がり、純白であったサヤカの白無垢はほぼ全身が赤く染まり、袖からは血が滴ってすらいる。

逃げる女の背を存分に斬り下げ、その脇を走り抜けようとした男の足をすくうように切り払った。

幸福の空気に包まれていたはずの空間は、今や地獄の底と化していた。

血の海となったそこは、うめき声や死を待つばかりの荒い吐息だけが、さざ波のように大小の音を繰り返し立てているだけだった。


「その場で生きているのは、姉の夫になるはずだったあの青年と私だけでした。

血が飛び、赤く汚れた金屏風の前で呆然と立ち尽くしている彼に、姉はそっと顔を向けたのです。

その表情はさっきまでの鬼の形相が嘘のように、清らかで美しい姉の顔に戻っておりました。

夫婦の誓いをするかのように、姉は彼の元へ歩み寄ると、彼はもはや諦めていたのか、それとも未だ姉を愛していたのかもしれません。寂しくも優しい笑顔を私に向け、姉に向けました」


おりつもまたその青年の笑顔を見つめていた。

その場にいたスガルと同じように、ただなす術もなくじっと。

サヤカが音もなく腕を動かすと、青年は一瞬大きく目を見開いた。

ごとっとだけ鈍い音をさせ、あの笑顔を張り付けたまま青年の頭は畳の上を転がっていく。

サヤカに寄り添うように、一回と半分だけ転がり、そして止まった。


「姉は足元に転がる彼の頭に暫くの間目を落とし、次に私を見つめました。私には分かっておりました。これは全て私のせいだと。私のかけた呪いのせいだと。でもまさかこんな事になるなんて、夢にも思っていなかったのです」


血に染まり、深紅となったサヤカがおりつの元へやってくる。

その目はスガルを見ているのか、おりつを見ているのか分からない。


「ごめんなさい・・・ごめんなさい。しきりに謝る私のすぐ傍に姉はしゃがみ込みました。

その時の姉は、こんな事をしたとは思えないほど優しい顔をしておりました」


おりつのすぐ目の前にサヤカの顔があった。

どこからか語り続けるスガルの言うように、泣く子をあやすような優しい顔をしている。

だが、その瞳の奥底に、得体のしれない邪悪なモノが渦巻いているのをおりつは見てとった。


「笑みを浮かべた姉は、謝り続ける私の頭を二度、三度と撫でてくれたのです。

場違いの優しさに、私はてっきり姉が許してくれたのものだと勘違いをしたものです」


今やサヤカは、おりつと頬が触れ合う程に顔を寄せていた。

おりつは身の毛がよだつ思いだったが、どうする事もできずに、ただじっとしているだけだった。


「姉は顔を寄せ、私の耳元で静かに言いました」


・・・全部、お前のせいだ・・・。


美しも怒りに満ちたその声は、おりつの耳にもはっきりと届いていた。


「その時私は全てを悟りました。これは私に対する罰なのだと」


サヤカは刀の切っ先を血が出るほどに握りしめ、血で濡れていても尚も輝きを放つ刃の先を――


「姉は私に見せつけるように目の前で、自分の喉に勢いよく押し当て――」


ごぼっとくぐもった音が聞こえ――


「噴き出た血は、私の顔を・・・全身を・・・赤く・・・」


おりつの視界は赤から黒に変わり、スガルの声もだんだんと遠くなっていく。

何も見えず、何も聞こえない、それがなんとなくに心地よく、このまま眠っていたい、そんな誘惑におりつは駆られていた。

だが、その誘惑に抗い、抵抗している自分の存在に気が付くと、おりつの脳裏にある顔が浮かぶ。

それはいつだったか、楽しみにしていたアイスを落とし泣いている源太の顔だった。

お姉ちゃん・・弟の声が聞こえた気がし、その瞬間、おりつは目を覚ました。

悪夢から解き放たれた時のように、全身は汗で濡れ、どこか体だるい。

隣を見れば寧々は未だに眠り続けていて、うなされているのか眉間にシワを寄せている。


「おい、寧々さん起きろ!」


激しく肩をゆすられた寧々は目を覚まし、寝ぼけ半分に周囲を見回している。


「スガルさんが・・・お姉さんが・・目の前で・・・血が出て・・・」


「あたしも同じ夢を見ていたよ。とにかくここを出ようぜ。なんだか悪い予感がする」


「ええ。・・・そういえば、スガルさんはどこにいったのでしょう?」


目の前にいたはずのスガルの姿はなく、衣桁に掛けられていた赤い白無垢もなくなっている。

それどころか、室内の灯りはすべて消え、今ではもう頼るのは薄っすらとしか差さない外の明かりだけだった。

二人はうす暗い広間を恐る恐る後退り、廊下に通じているであろう襖を出来るだけ音のしないように開けた。

その時だった。広間の片隅で赤い物が動いたように見え、寧々は思わず息をのんだ。


「おりつさん、今の見ました?何かが動いたような・・・」


「気のせいだよ。暗いと勝手に何かを連想するようにできてるって親父が言ってたぜ」


そっと襖を閉め、ぎし、ぎしっと音を立てながら廊下を進んでゆく。

丁度突き当りに来た時、ふと寧々が振り返ると、閉めたはずの襖が開いていることに気が付いた。

薄っすらと暗い中で、ひと際暗い闇がぽっかりと口を開けている。


「襖が・・・開いています」


「は?そんなわけが――」


振り返ったおりつは言葉を失っていた。

二人は言葉なく頷き、もう何があっても振り返らないと誓いあう。

遠くに見える玄関に向け、そっと足を踏み出した時、


「あの後の事は覚えておりません。気が付くと私は、血で赤く染まった姉の白無垢を纏い、山の中を彷徨っていたのです」


スガルの声だった。

近くから、遠くからその声が響いてくる。

まだあの話は続いているのだ。しかし、これ以上この屋敷にはいてはならない。

本能から悟ったおりつは、うろたえている寧々の腕を掴み、玄関に向け全力で駆け出した。


「村の者に発見された私は屋敷に連れ戻され、今までのようにここでの生活を続けました。しかし、それからです。私と屋敷の時が止まったのは」


時が止まる?そんなバカな事があるのかとおりつは思ったが、夢の出来事が本当ならば、あの時スガルは十代半ばか、せいぜい後半だろう。

だが、さっきまで目の前にいたスガルはどう見ても三十歳前後だ。


「最初は同情し、優しく接してくれていた村の者も、僅かに生き残った使用人達も、そんな私を不気味に思ったのか、一人、また一人と屋敷を離れていきました。これも罰なのでしょうね。私は運命を受け入れる事にしたのです」


玄関はすぐそこのはずなのに、どういうわけか近づいているようには思えなかった。

むしろ次第に遠くに、差し込む光が小さくなっているようにも見える。


「お・・りつさん・・・」


「あ?」


苛立ったおりつは声を荒げ、寧々を見ようと振り返った。

だが、寧々よりも先に目に入ったのは、わずか後ろに立つスガルの姿だった。

母の血で、姉の血で、そして姉妹が愛した青年の血で赤く染まった白無垢を纏ったスガルが、一歩、また一歩と近づいてくる。


「いつの頃からか、外に出してくれと姉の声が聞こえるようになったのです。その度に私はこの白無垢を纏い、裏の山を、屋敷の周りを、声が止むまで歩き続けました」


闇の中に浮かぶ赤色が迫り、二人は必死に駆け続ける。

あと五歩、あと三歩、その僅かな距離が数十メートルに感じるほどに遠い。


「疲れ果てた私は数日間眠りに落ち、その夢の中で、私達の姿を見て驚き怯えた挙句、自ら死を選んだ者を何人も見てきました。

ある者は首を括り、ある者は高所から飛び降りる。流れ出す血はどこまでも赤く・・・姉の欲求を満たし、死によって恐怖から解放された者の安らかな顔は・・・私の欲求を満たしてくれます」


玄関は目前へと迫っていた。

おりつは必死で手を伸ばし、玄関の取っ手を掴み力をこめる。

寧々はおりつの腕にすがり、すぐそこまで迫るスガルを見続けている。


「最近見たのは可愛らしい男の子でした。私があんなことをしなければ、姉にも子供が生まれ、楽しく暮らしていたかもしれません。それなのに・・・私が・・・わ・・しが・・・」


背後で狂気と闇が膨らむのを二人は肌で感じ取っていた。

だが、同時におりつの中でも膨らみ、限界に達しようとしているものがあった。


「姉妹喧嘩なんて勝手にやってればいい。でもな、人様の家の子供にまで手を出すのはどうかと思うぜ」


走っても走っても、玄関に辿り着かなかった苛立ち、そして何よりも、


「それにな、よりによって、あたしの・・・このあたしの弟に手を出したのが許せねえんだよ!」


怒りを爆発させたおりつは、取っ手に掛けていた右手に一層力を込めると、強引に引き戸を開け放った。

だが、それだけの事で怒りが収まるはずはない。

おりつは戸を開けた時の勢いをそのままに、拳を握りしめ、体を回転させる。

左腕を掴んでいた寧々が、反動で外に投げ出されるほどの勢いと力強さだった。

怒りに満ち、呻りをあげるおりつの拳の先が、スガルの顔を捉えようとした刹那、伸びきったバネの玩具が元の位置に戻るように、スガルの体が背後の闇へと引き戻されたのだ。

結果、おりつの拳はスガルの尖った鼻先だけを掠め、大きく空を切っていた。


お前の・・・せいだああ・・・


サヤカとも、スガルともとれる獣じみた咆哮が屋敷に響く。

おりつはそれを聞き、屋敷の中へ一歩踏み出そうとしたが、後ろから尻尾を強く引っ張られ、思わず振り返った。

それは、尻もちをついたままの寧々だった。

寧々は首を横に振り、今日はもう帰りましょう、と一言だけ静かに言った。

おりつは寧々に手を貸してやり、彼女を引き起こすと、二人は足を揃え、入口脇に停めてある自転車へと歩き出す。

闇に埋まる屋敷は何事もなかったかのように静まり返っている。

聞こえてくるのは控えめな木々のざわめきと、気の早い秋の虫のか細い鳴き声だけだった。

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