第8話 昔々、そのまた昔

ひとしきり笑った二人が緩やかな坂を上り続け、閼伽流山の麓までやってきた頃には、太陽は頭上高くに位置していた。

だがそれでも、その山の麓に建つ観音寺家の屋敷には日が差しているようには見えず、暗く重い空気に覆われているようにおりつは感じていた。

二人は入口の脇に生える杉の樹に自転車を寄せると、屋敷の様子を伺おうと敷地の中へと一歩だけ足を踏み入れた。


「まるでお化け屋敷じゃねえか。これで井戸でもあったら、皿でも数える声が聞こえてきそうだぜ」


「もしそんな井戸があったら、井戸の縁にお皿を置けばついでに数えくれるかもしれませんね」


「ありったけ積んでおいたら、朝になっても数えてるんじゃないか?」


「さすがにそれは――」


「生憎うちには井戸は御座いませんの」


声はすぐ近くからだった。

思ってもみなかったところに突然声をかけられ、おりつは寧々よりも二倍は飛び上がり、寧々に至っては小さくキャッと声を上げ、すぐにそれを恥じたようで顔を赤くさせている。

居心地が悪そうに顔を見合わせた二人は、声の主を探し右へ左へ視線を泳がせた。


「見学の方かしら?」


沈んではいるが、よく通る声と共に女が姿を現した。

どこからと言えば、おりつ達が自転車を停めた杉の樹の影からで、マジックショーのような出来事に二人はまた顔を見合わせる。


「見学の方なら申し訳ないのだけど、今はやっていないの」


「あの、あなたはこの家の――」


そう言いかけた寧々は思わず言葉を飲み込んだ。

おりつの言ったような、お化け屋敷のような所に、しかも樹の影から突然出てきたような人物が、こんな綺麗な人だとは思ってもいなかったからだ。

年齢は三十前後か、きっちりと整えられた髪は飾り気のないヘアピンで留められ、ゆったりとした白いシャツに黒のパンツという出で立ち。


「ええ、私はこの屋敷の主、観音寺スガルと申します」


不思議なものを見るような目で二人を見つめるその瞳は、どこか哀しみをたたえている。


「学生さんのようだけど、何かうちに御用・・・?」


何も言わない二人を訝しんだのか、観音寺スガルと名乗った女は首をかしげ、困ったような表情を浮かべている。

そこまでされて、やっと我に返ったおりつと寧々は、慌てて頭を下げ、


「勝手に入ってしまってすいませんでした。私達、咲耶平高校の生徒で、今この地方の歴史の研究をしていて・・・」


「一般に公開していると聞いて来てみたら、こんなお化け屋敷みたいでびっくりした?」


いたずらっ気たっぷりに、寧々の先を継いだスガルはおりつに向けて片目をつぶってみせる。


「え・・っと、ごめんなさい・・・!」


自分の言った事を聞かれていた恥ずかしさと申し訳なさで、おりつは勢いよく頭をさげる。


「ふふふ、別に構いませんよ。昔は家の者が何人かいたのだけど、今はもう私一人になってしまったものだから・・・」


スガルはそこまで言うと、足元に生える伸びきったペンペン草や、本来空が見えるはずの空間にまで生い茂る楓の樹の枝、そして最後に背後に建つ屋敷そのものを見やった。


「観音寺さん、さっき見学はやっていないっておっしゃってましたけど・・・」


スガルは恐る恐る口を開いた寧々に向き直ると、本当に申し訳ないという顔をして、


「お庭がこの通りでしょう?折角きていただいた方に悪くって、暫くの間公開するのを止めにしているんですよ」


「そうなんですか・・・」


寧々が肩を落としたのを見て、おりつは大きく息を吸い、


「あたし達、その、屋敷というか、ここに昔から伝わるっていう着物を見に来たんだ。もし良かったら、それだけでも見せてもらえれば・・・」


「着物・・・。もしかして赤い白無垢の事かしら?」


その言葉を聞いた途端、二人は大きく目を瞠った。

それを見たスガルは、答えと受け取ったのか満足げな笑みを作り、後を続けた。


「あんなものでよければ、いくらでもお見せできますよ。だけど、ちょっと待ってて貰えるかしら?押入れから引っ張り出さないといけないの」


「お手数をおかけします!」


感謝を述べてから二人が再度頭を下げ、上げた時には既にスガルの姿はなく、屋敷へ向け歩き出していた。

そして、くるりと振り向いてから言った。


「そうそう、家の中はお化け屋敷にはなってないから安心してね」



おりつは凝視せずにはいられなかった。

目の前の衣桁に掛けられた白無垢、その鮮やかな深紅をした背に走るシワが蠢く血管のようにも、苦悶を浮かべた人の顔にも見えたからだ。

これが噂の白無垢ですよ、とも、昔々そのまた昔・・・。とも説明を受けていなかったが、

おりつはこれが話に聞いた赤い白無垢だと、源太を脅かす原因だと確信を抱かずにはいられなかった。

恐らくそれは寧々も同じだろう。

スガルは二人をこの部屋に案内してから一度も口を開いておらず、件の白無垢から目を離せないでいる彼女たちを、品定めするかのように見つめているだけだった。

この奇妙な見つめ合い合戦を破ったのは、どこからか吹き込んだ隙間風だった。

風が白無垢の袖を揺らすと、スガルもそこに目をやった。


「お二方とも、たぶんもうお分かりでしょうけれど、これが我が家に伝わる赤い白無垢。

この紅色は、染められてから一度も色褪せていないとも言われております。綺麗でしょう?」


誇らしげに語るスガルをよそに、寧々は未だにそれを見入っている。いや、むしろ、白無垢に魅入られていると言うのが正しいのかもしれない。


「本当に綺麗・・・」


虚ろな目をした寧々は腰を浮かし、白無垢に右手を伸ばす。

透き通るような白い指先が深紅に吸い寄せられるかのように近づいていく。

未だ揺れている袖に触れようとした時、


「くしょんっ!」


おりつからやけに可愛いく、遠慮気味で場違いなクシャミが飛び出した。


「すんません。ちょっと鼻がむずむずしちゃって」


我に返った寧々は不安げな様子で、照れた様子で鼻をこする、おりつの横顔を見つめている。


「観音寺さん、あたし、先生からこの着物にまつわる話も聞いたんだけど、それって本当にあったんですか?」


「いくつか知っているけれど、どんなお話かは分かる?えっと・・おりつさんだったかしら?」


「そうそう、確か何十年前かの話で、結婚式の最中に・・・ていう」


おりつが結婚式という言葉を出した途端だった。

スガルが俯いたのを皮切りに、屋敷のどこか遠くで何かが軋むような音が聞こえ始めたのだ。

おりつがその方向へ顔を向ければ、今度は反対で、また顔をその方向に向ければ、違う場所で音が鳴る。

ひと際大きい音が部屋全体に響きスガルが顔を上げた。

表情は一変し、元々色白だった顔は能面のように白くなり、目には冷たく陰鬱な光を宿していた。


「何十年ではなく、それが起きたのは丁度百五十年前。当時、この屋敷には二人の姉妹、その家族、多くの使用人が住んでおりました」


音が止み、今では屋敷全体が静まり返っている。

部屋の空気が変わったのを肌で感じ、不吉な予感に囚われているのにもかかわらず、二人は腰を上げようとはしなかった。

スガルの話を聞き終えるまで屋敷を出られない、そんな気がしてならなかったからだ。


「その姉妹は村でも評判な美人姉妹だったといいます。家は大きく養蚕を営んでおり裕福で、二人は何の不自由もせず育っていきました。

仲はよく、どこへ行くにも、何をするにも二人は一緒です。同じ物を見て、同じ物を食べる。周囲の者もその様子を見ては微笑んでいたことでしょう。

しかし、時にはそれが災いになる事もあるようです。年頃になった二人は、一人の青年に想いを寄せてしまいました」


なんだか昼ドラみたいだな、とおりつは寧々の耳元で囁いたが、寧々はそれを諫める様にかぶりを振っただけだった。


「お互いにその事を知っていたに違いありませんが、決して表には出さず、三人でそれなりに楽しんでおりました。時がたち、いつしか青年の心は妹へと傾いていきました。

姉もそれを察し、身を引く覚悟を決めていたようです。

ですが運命とは残酷なものです。三人の知らない所で、家同士の話が進んでおり、ある日両親は言いました。

姉をあの者に嫁がせる。そうすれば、我が家は安泰だから、と。

頬を赤らめる姉を見た妹は家を飛び出し、青年の元へ行き、必死に訴えました。

二人で村を出よう、と。しかし、妹の期待とは裏腹に、目を逸らした青年は、すまんと一言だけ言うと背を向けたのです」


淡々と語るスガルの口調は哀しみに満ちている。


「一人取り残された妹は塞ぎ込む日が続き、姉はその事を気にかけてはいたようですが、やはり嬉しかったのでしょう。

妹よりも青年といる時間が増えていきました。ある日の黄昏時、妹は村のはずれで、身なりが汚く、足を引きずって歩く旅人と出会いました。

旅人は妹に、呪ってやりたい相手はいないか?と声をかけたのです。まるで心を読んだようですね。

その一言に妹は心惹かれ、恐るべき呪いの方法を聞き出し、躊躇わずに行動に移しました」


呪いという言葉に、おりつと寧々は顔を見合わせたが、おりつは話に引き込まれているのか、再び話を聞く姿勢をみせている。

寧々はスガルの話が昔話にしては細かすぎるし、まるで自分が体験したかのように話す彼女を不思議に思っていた。

きっと屋敷を公開していた時分にも、白無垢の説明はしていただろうし、それが板についているだけなのかもしれない、と思い直し、話の続きに耳を向けた。


「その方法とは新月の晩から三日間、蚕のエサである桑の葉に自らの血を垂らし、それを食べた蚕の糸で紡いだ着物を相手に着せるというものでした。

時間はかかりますが、姉が袖を通す予定の白無垢は、一番繭である蚕から作ると決まっていたので、妹としてはやりやすかったのでしょう。

話に聞いた三日間だけではなく、その後も桑の葉に血を垂らし続けていたようです。それ程までに姉が憎かったのです。

そして糸は紡がれ、純白の白無垢は出来上がりました」


スガルはそこで一呼吸を置くと、脇に掛けられている赤い白無垢にそっと手を触れた。

まるで赤子に触れるように優しく、一撫で、二撫でし、再び二人に目を向ける。

その口元は薄っすらと笑みを浮かべているようにも見えた。


「婚礼の日、仕上がったばかりの白無垢に袖を通した姉は大変美しく、誰もが息を飲むほどだったといいます。

姉の幸せそうな姿を見た妹は、昔の楽しかった日々を思い出し、涙を浮かべました。

時が経ったのもあったでしょう。ひとしきり泣いた後、妹は言いました。おめでとう、と」


鼻をすする音が聞こえ、寧々が横を向くと、おりつが目に涙を浮かべている。

初めは昼ドラみたいだな、とバカにしていたのに、と思うと、寧々は可笑しく、それと同時に、おりつが素直に感情を表に出すのが少し羨ましくも思えた。


「姉の様子は変わる事無く、式は進んでいきます。何も起きない事に妹は安心し、姉を祝っていたようです。

しかし、宴もたけなわになった頃です。突然姉が部屋を飛び出し、屋敷の奥へと走っていったのです。

あまりの出来事に一同は唖然とするしかありませんでした。具合が悪くなったのかもしれないと言った者もいました。

何人かが様子を見に行こうと立ち上がった時、姉は戻ってきました。その姿をみた一同はもう一度息を飲む事になったのです。なぜなら――」


風もないのに白無垢の袖が大きく揺れている。


「姉は鬼のような形相をして、手に刀を携えていたのですから」

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