六月のこと

六月のこと

 福井県全体を鍵の形とするなら、ちょうど鍵穴に差し込む部分。おたまじゃくしの形とするなら、尾っぽの部分。

 少々わかりにくいかもしれないが、とにかくだいたいその辺りに、鹿の形をした『市』とは名ばかりの田舎都市がある。一時的に朝ドラの舞台となったことや、アメリカ大統領の名前と同じということで、地名くらいは聞いたことがある人もいるかもしれない。

 そこをさらに細かく分けていくと、もはや地図で探すのも難しいほど小さな集落がたくさん存在する。そのうちのひとつが、わたしの故郷だ。

 わたしが住んでいたのは高校卒業までのおよそ十八年間だが、その間にも徐々に変化はあったと思う。市街地が大きくなっていく影響によって、なくなったものもあれば、その分増えたものもたくさん。

 馴染みの駄菓子屋さんも本屋さんもいつの間にか潰れたけど、代わりに幼い頃にはなかった大きなお店がたくさん建っている。

 昔の自分が見たら、「すごいなぁ、ここ都会ちゃう?」なんて言うかもしれない……なんて、それはさすがに大げさか。電車が一時間に一本しか来ないのは相変わらずだし。


 変わったといえば、昔この辺には普通に蛍がいた。夜に涼みがてら家の前を歩いていると、それだけでふわふわと、淡い黄色の光が飛んでいるのを見ることができたものだ。

 今はもう、どれだけ川の周りを探したってほとんど見かけることはなくなってしまったが……ここ数年で発展が進んだ影響かもしれない。便利になるのは嬉しいことだが、それだけ自然が減っていくことはやはり寂しい。


 縁側の窓を開けて蛍が飛んでいるのが見えると、おばあさんは珍しく声を弾ませたものだった。

「あっこ見てみ。蛍が飛んどるやろ?」

 庭に茂る柿や栗の木、紅葉などを伝ってふわふわと飛ぶ、淡い光。

「おじいさんが帰ってきなったんやで」

 ほら。お帰りって言うたって。

 そう言って、おばあさんはもっと近くに寄るようわたしに促した。


 おばあさんは、おじいさんのことをよく話してくれた。

 わたしが生まれるずっと前に、若くして亡くなったおじいさん。写真でしか顔を見たことがなく、どんな人かも知らない、けれど確かにわたしと血の繋がったおじいさん。

 そんなおじいさんが亡くなっておよそ二十年後の春、ひっそりと暮らしていたおばあさんもまた、後を追うように亡くなった。

 当時小学生だったわたしには悲しいことだったけど、晩年には口癖のように「おじいさんに会いたい」と繰り返していたから、きっと本望だっただろう。


 わたしが最後に蛍を見たのは、おばあさんが亡くなった年の夏。

 もうその頃には、川をだいぶ降りていかないと見ることはできなくなっていて、毎年のようにわたしはお父さんと連れ立って、川へ足を運んでいた。

 濡れた水草の周りに二、三の光を見つけ、心を温かくしたわたしたちが家の前を歩いていたら、一匹の蛍が電柱の辺りをふわふわと、彷徨うように飛んでいた。

 お父さんが呟いた。

「おじいさんを探しとんなるんや」

 暗に、おばあさんが来たのだと言っていた。

 パートナーを探す蛍は、何だか心細そうに、弱々しく光っていた。


 今でもふと、蛍を見たくなることがある。

 似ても似つかぬ街並みの場所に住んでいてもなお、雨に濡れた草の匂いがすると必ず思い出す。

 そしてどうしようもなく、過去が愛おしくなるのだ。


 今年はとうとうお盆休みまで待たれなくなって、有給を取り故郷へ帰った。

 中途半端な時期に帰ってきたわたしを、両親は驚きつつも手厚く出迎えてくれた。一人っ子だから甘やかされているんだ。それがすごく伝わってきて、何だかくすぐったかった。

 もともとおばあさんの持ち家であった実家は、年を経るごとにボロボロになってきて、それが味だと言えば聞こえはいいけど、これからもずっと暮らしていくには不便だろう。

 わたしがここの市民でなくなってからも、市街は少しずつ発展していた。高校時代にはこんな店なかったのに、なんて誇りに思いつつ、やっぱりその変化が悲しく、寂しいという気持ちは誤魔化せない。

 けれど一方で、そんな景色の中に、少しでも昔と変わりないものを見つけると、思い出が瞬く間によみがえりすごくホッとした。

 帰ってきたんだと実感できて、嬉しくなった。


 その夜「涼んでくる」と言い残し、わたしは一人で外へ出た。

 この時期の昼間は蒸し暑く、夜は涼しい。雨でしっとりと濡れた空気が肌に程よく張り付いて、この何とも言えない感覚が好きだった。

 実家のすぐ傍には川があって、岸を繋ぐ大きな橋が架かっている。普段はあまり雨が降らないのでほとんど水がないのだが、今日はさらさらと音が立ちそうに、涼やかに水が流れていた。

 きらきら、向こうを通り過ぎる車のライトが水面に反射する。

 橋の真ん中まで来て、欄干に凭れて風景を眺めていると、ふ、と何かが視界の端を横切った気がした。

 振り返ると、頭上にふわふわと懐かしい光が飛んでいる。人工的な眩しい街灯とは違う、柔らかくほのかに黄色い、天然の淡い蛍の光。

 思わず口を開きかけた時に、もう一つ、同じ方向からふわふわと優しい光が飛んできた。先に飛ぶ光をそっと追いかけるように橋を横切り、二つの灯は並んで真っ暗な川へと下っていく。

 それが、天国から来たおじいさんとおばあさんのようで。

 二人が揃って、わたしに「お帰り」と言ってくれているかのようで。


 胸を占める切なさとあたたかさは、久しぶりに蛍が見られた感動だったのか、天国の祖父母への想いだったのか。それとも、失った過去に対する郷愁だったのか。


 気づけば、わたしは涙を流していた。

 それなのに、口元には自然と笑みが浮かんでいた。


 本格的に夏が到来する少し前、六月のことだった。

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六月のこと @shion1327

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