水と言えば雨。

青空

水と言えば雨。

椿の場合

 西の方から黒い雲が訪れたと思ったらぽつり、ぽつりと雫が落ち、やがてざーっと大粒の雨へと変化した。季節はずれの大雨は蕾からようやく開いた紅い花をぽろぽろと落とす。大樹の枝の上では濃密だった紅い花弁は雨に打たれ、泥にまみれ、黒く汚れていく。私はそれをちょうど木の葉の影になったところからちらと見て、自分の最後を思い描いた。儚く、潔く。枝に引っかかることもなく、ぽとりと。

 ふいに、雨の中をぐちゃぐちゃとぬかるみを踏みつけてやってくる、男性。彼は着物袴に、襟のとこまでしっかりとぼたんをかけた白シャツを着ていた。坊主頭に学生帽、傘も穴一つないいいものだ。着物も袴も上等なもの。でも、今は裾が土で黒く染まっていた。

 雨宿りでもするように枝の下に入ってくると、傘をたたみ、何かを探すように上を見上げた。私のこと見つけてくれないかな、なんて。彼の目には全部同じに見える花の一つだなんてわかってはいるのに、淡い期待。花弁を少し揺らして露雫を彼の頬へと落とした。水滴が目に入ったのかきゅっと瞼を閉じる。長いまつげについた水の粒が輝いて、ここに日の明かりがないことを残念に思った。もっともっと彼は美しかったに違いないもの。私だって露化粧をまとって日の光の下できらきらと輝いてたわ、きっと。それも、まあ、きちんと花として落ちずに咲いてられたら、の話だけど。

 激しい雨水に耐えられなくなったのか私の隣、昨日咲いたばかりの彼女が私に別れを告げた。彼女はそのままぬかるんだ地上へと真っ逆さま。けれど、泥まみれにはならず、彼が彼女をすくい上げた。彼は彼女を片手の掌の上に載せ、香りを嗅ぐように鼻のあたりまでもっていった。私たちの香りはバラや、ジャスミンなんかの強いものとは違って申し訳程度ぐらい。堪能するようなものじゃない。

 手はそのまま口元へと移動する。冷えているのか、紫に変色した唇。それとは対照的な紅をひっつけて押し込むように呑み込んだ。目をつぶり、口内にいる彼女をゆっくりと食んで咀嚼する。彼女がうらやましい。彼の中に入る、体内へ、その一部になるのはどんな気分なのだろう。彼の唾液にまみれ、私を形作っていたものがその歯で潰され、ぐちゃぐちゃに混じり合う。私はその時、彼になり、彼は顔をしかめながら私を感じる。なんて素敵なのかしら。そんなことになったら私はきっと幸福感と恍惚と。愛、というより、恋というより、依存。同化。

 雨の中、ぽつりと落ちて、彼の掌にさらわれ、同じように口の中へ押し込まれる。彼の舌が私の体を這い、ざらっとぬめっとした感触が全身に伝わる。少し黄ばんだ歯が私に襲いかかり、いくつもの塊に分解される。鮮やかな紅は口内をも染めるだろうか。あふれてくる唾液の中でぐちゅぐちゅと溶かされる。

 下にいる彼を眺めると彼は満足感に浸りながらも苦しそうにその眼を歪めていた。ぐちゅぐちゅと何度も何度も彼女を食み、ようやく飲み込んだ。喉ぼとけが嚥下し、彼女は彼の一部となった。彼はまた空を仰ぐように上を見上げる。私を見つけてくれるだろうか。目が合う、なんて表現が似合わない私はそれでも懸命に見つめていた。大雨はいつの間にか霧状に変化していた。来た時と同じ、上物の傘を差し、ぬちゃぬちゃとぬかるみを踏みしめて去っていった。


青年の場合

 私が初めて彼女に会ったのはある晴れた夏の日だった。太陽の光が私を蝕む、じりじりとした熱い日。私は昔はやった書生服に身を包み、大きなずた袋を肩から下げていた。滴る汗が視界をぼやかす。田んぼと森しかない田舎から、小説家になるために都会の先生に伝手を伝って弟子入りした最中だった。このまま修行してゆくゆくは大きな出版社の専属職業作家になるつもりでいた私に故郷から届いた、陸軍学校へ入ってくれ、という手紙。出兵するはずだったはずの一つ上の兄が死に、私にお鉢が回ってきたということだった。昔から兵隊になることに何の疑問を感じてこなかった兄と違って私は体を鍛えるやら、そういったストイックさとは無縁に生きてきた。実質、三男坊だったため好きにやらせてもらっていたのだ。

 その日は私が陸軍学校への入学をちょうど一か月に控えていた時だった。この一か月は座学のため、寮に入らず、親戚の家へ下宿していた。帰路にあるのは昔は栄えていたであろう、城下町の名残と、無人となった無駄に大きい武家屋敷だった。その中に似合わず、豪奢で西洋風の建築物があり、その所有者は貿易商として有名な一家。白い柵上の門の奥には大きな庭と大輪の椿が植えられていた。

 彼女はその椿の植え込みの中で白いモフモフの獣と一緒にいた。濡れ羽色のつややかな黒髪は太陽の光を受け輝き、陶器のように白い肌、ほんのりと赤く色づいた頬。上を向いた長いまつげ、黒く大きなまるで水晶のような輝きを放つ瞳。こんなに美しい人は後にも先にも私は見たことがない。彼女は白い羽織をまとい、桜色の地にボタンが描かれた着物に身を包んでいた。長い髪は結い上げられ、鼈甲の櫛が美しい。

 一目惚れだった。今思うと。彼女が白い獣に笑いかける笑みを私はいつまでも眺めていられた。ずっと動かない私を不審に思ったのか、獣が吠えた。くるりと振り向かれて、目が合った。吸い込まれる。彼女は戸惑いながらも会釈をする。私に向けてくれる一つ一つの動作がこんなにも嬉しい。

 彼女が近づいてきた。柵越しに、向かい合う。彼女は私の肩より少し下ぐらいの背丈で上目遣いになる。いい匂いがした。何か、御用ですか、蚊の鳴くような小さな声だった。先生の奥さんが弾いていたピアノのような、きれいな旋律のように思えた。

 あの、と紅を一切差していないのにきれいな薄紅色の唇からささやかれる言葉。黙っていたら、困ったような顔をされた。私は何か言わなくては、と焦ってしまい、手に汗をかきながら、それでも発せた言葉はあ、とかその、とかの奇声だけだった。

 余計に緊張してきて、あ、あ、ばかり。それでもなんとか自分の名前と軽い世間話ができた。彼女の表情も崩れてきて。最後に、訓練頑張ってくださいね、なんて素敵なフレーズが聞けた。

 明日も会えますか、彼女が戻ろうと振り返ったときにつぶやいた。聞こえなくても仕方ない、そのぐらいの大きさ。でも、聞こえていた。ぜひ、最高の笑顔、トーンで。

 それからは毎日、帰り道の途中にある彼女の家の前で数分、たわいもない話と主に私の趣味のことで盛り上がった。趣味、というのはもちろん、書物のことで私がそのことで饒舌になるのを笑って聞いてくれた。とてもとても、好き、だった。その愛らしい顔、声、すべてがその数分は私のものだった。

 一か月間、幸福を感じない日はなかった。会うたびに好き、と愛しい、そして会いたいが募っていった。思い胸焦がす。さながら、主人公のように私は自分の恋に酔った。椿のかすかな香りが私にとって彼女を思い出すよすがだった。

 とうとう、寮に入らなくてはならない、その前日。私は彼女に自分の思いを綴った恋文を渡した。手紙の中で彼女を表すのに使った椿、の文字。簡潔に好きだという言葉を使わず、胸焦がす思いを自分の知りうる限りの言葉、表現で伝えた。もう二度と会えなくても、私はあなたのことを忘れない、声も笑顔も、香りも。手紙を手渡すときにかすかに触れた指先の感触も。そんな思いで彼女と別れた。

 黒い雨雲の下で椿の花を食みながら、彼女の顔と香りを思い出す。忘れないように、じっくりじっくり歯で砕いて嚥下した。喉を椿の花が落ちるたび、彼女と私が一つになれたようなそんな気がした。


狐の場合

 僕があの時、吠えなかったら彼女は彼に気がつかなかった、きっと。僕があの不気味な目をした彼と彼女とを引き合わせた。彼女にそんなの必要、ないのに。

 僕が彼女と出会ったとき、彼女は泥だらけで死にかけていた僕を抱き上げて、体を洗い、餌をくれ、懇親に世話してくれた。彼女が両親から許された唯一、自分で決めていいこと、だった。彼女は学校に行かせてもらえず、勉強やその他、礼儀作法なんかは家庭教師に教わっていた。両親は学校、という場を信用せず、そのため彼女に同世代の友人、は一人もいなかった。

 話相手もいなかった彼女にとって、彼は数分とはいえ彼女を、令嬢、ではなく女の子として見てくれる相手だった。それに間違いはない。彼と話す彼女は本当に楽しそうで僕はそれがうらやましかった。僕の方が彼より先に彼女に会ったのに。でも僕は人の言葉はわかっても話すことはできないから。そういう彼女にとって必要な相手になることはできない。だからね、悔しいけど僕はその少しの間だけ吠えないでいてあげたんだ。

 でも彼が彼女のそばにずっといられない、そのことを知っていたらきっと僕は許さなかった。だって、彼女を悲しませるだけじゃないか。彼女の笑顔を奪う、そんな奴、いらないんだ。

 彼が彼女のもとを去ってすぐ、彼女はお見合いで顔写真を見ただけの男性と結婚した。彼女は家から出て、その男性と一緒に暮らし始めた。彼女が家から持って行ったのは僕と少しの書物と、ちょっと結婚するのにそれはどうかと思うけど、彼からの手紙だった。あと、両親がここぞとばかりに気合を入れて用意した嫁入り道具一式。

 結婚生活、は幸せの形をしていたとは思う。彼女は少なくとも一人じゃなくて、子供も旦那さんもいた。僕は昔みたいにはしゃげなかったけど、元気のいい子供たちの相手をしてあげたりはしてた。でも、その幸せの形は戦争が始まってあっけなく崩れ去った。空襲で彼女の家は焼けてしまった。逃げ遅れた子供を助けるために彼女はせっかく離れた家に逆戻りし、子供を助け出した。でも、彼女は間に合わなかった。焼け崩れる家の中で彼女は僕の名前を呼んで、逃げて、と叫んだ。嫌だよって何度も叫んだけどそのたびに逃げてって聞こえるから。彼女を助けることができなかった。逃げて、の後に聞こえた彼に会える、の声に。助けちゃいけないって思った。

 僕はその場から走って走って逃げた。空襲を避けて、森の中に入った。逃げたこと、助けなかったこと、やっぱり後悔した。あの声で彼女が僕の名前を呼ぶことはない。あの手で僕を撫でてくれることもない。

 戦争中、僕はずっとこの国をさまよい歩いた。ご飯は本能と、所々に落ちていた残飯をあさった。やせ細って、ふらふらだったけど、人間も僕と大して変わらなかったから我慢できた。特に子供が見ていられなかった。僕が見つけたごはんの半分はその小さな子供たちにあげていた。僕はもう十分、生きたし。狐、として五年生きた僕は人間でいうともういい歳したおじさんだし。

 そんな状況は戦争が終わっても変わらなかった。相変わらず食べ物も住む家も、何もかもがこの国で足りない、そんな感じだった。僕は北の方へ進路を変えて歩いた。僕の故郷ってたぶん、寒いとこだった気がする。それを頼りにどんどん寒くなる、この季節に北を目指して歩いた。途中、ものすごく眠くなったし、そのまま眠ってもいい気もしたけど僕は頑張って起きて、歩いた。目的も何もないのに。

 歩いて歩いて、狩りをして。そんな風に過ごしているととても臭い、死んで腐った生き物のにおいがした。もう、これは食べられる感じのものじゃない。そう思って通り過ぎようとしたんだけど、その中に懐かしいあの彼女のにおいがした気がして、僕はその方向へ歩いて行った。

 霧が辺りを包んでいて、視界が効かない。先に見えたのは彼女の家にもあった椿の木だった。赤い花を一輪だけ咲かしたその木の下に、腐ったにおいの元凶があった。よく見ると、それは人間で、そして、ほんのちょっと彼のにおいがした。彼、かどうかはっきりとは分かんない。でも、おそらく。

 彼はもう記憶の中にあった青年ではなく、おじさんになっていた。たぶん、彼女、よりずいぶん長生きしたんだろう。許せないなあ。おいしくないってわかってても彼にかみつきたくなった。

 ねえ、なんで君はこんなところでさ、死んでんの。彼女は、君に会えるって言って死んだのに。

 僕は頭上の椿を見上げた。一輪、しか咲いてない。木が枯れているのに、一輪だけ咲いている。僕はその椿の花まで駆け上がった。くんと嗅ぐと彼女のにおい。ぱって目を開けると彼女が見えた。あの、まだ彼に会っていた時の一番きれいで若い、彼女の姿だった。

 また、会えて嬉しいわ。彼女がそういった。僕の体も昔の元気な若いころに戻っていて、飢餓状態でもなかった。彼女は僕を優しく撫でた。あの手で。嬉しくなって鼻を近づけた。気づいたら彼も僕の隣にいた。彼もやっぱりあのころの姿で、でもあのころとは違い、僕の背を撫でた。

 全然気持ちよくなかった。だから、ペンだこのついた手に噛みついてやったんだ。そしたら、すぐに引っ込めた。僕はさ、君を許していないし、大嫌いなわけ。だから、勝手に触るな。

 彼女と彼と僕と三人で天国、に行くんだ。彼女はそう言って笑った。


椿の場合 2

 私の恋い焦がれた彼はとうとう私を食すことなく死んでしまった。本当にひどいわ。せっかく、彼が永遠に思いを寄せる、彼女の魂を見つけて私の中にとどめておいたのに。彼女は私にお礼を言って、彼と変な色の狐とともに行ってしまった。彼なんて、振り向きもしなかった。

 悔しいなあ。彼のお願い事なんか叶えてあげなきゃよかった。彼女を一生、忘れない、なんてそんな願い。

 私が生えているこの木は随分前からこの地方に生えていて、そばには小さな神社もある。そこに昔から伝わるおまじないがあって。


 あなたはどちらを選びます?赤い椿と白い椿。赤い椿は永遠を。白い椿は出会いを。赤なら、あなたの思いは永遠に消えずに、あなたを蝕みます。白い椿は思いに別れと、新たな出会いを連れてきます。あなたはどちらを食べますか?


 そんな文句のわらべ歌。縁結び、だったこの神社は反対側に実は白い椿も生えているの。参拝客はみんなそっちを選んだのに、彼だけ私を選んでくれた。彼は永遠に消えない彼女を求めて私たちをそれこそ文字通り死ぬまで食べ続けてくれた。


 赤い花は永遠を。

 私は笑って、と言っても表情はないけど。この数年間枯れずにいた自身を彼の体の上へ落とした。

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