反復するトラジティ5

     (九)


 毎日放課後に、いつもの四人で食事をしたり、公園で遊んだり、買い物をしたりしているうちに、別れの日は来ていた。

 秋山は結局、暮林さんに告白することが出来なかったらしい。好きな思いは消えていないし、むしろ日々大きくなっている、と言っていたから、今年中には告白するんじゃないだろうか。彼の勇気の問題だ。

 川田さんは、髪を黒く染めた。親への反抗心から、不良みたいな格好をしていたらしいのだが、親と和解したため、もう反抗している必要がなくなったのだ、という話をちらっと聞いた。詳しいことは知らないけれど、やはりお金持ちらしい彼女の親が、娘の友人である暮林さんのことを支援してくれることになったという。

 暮林さんと母親の関係はあまり変わらないけれど、彼女は学校に居場所が出来たため、明るく笑って日々を過ごしている。絵本を描くことも、やめないみたいだ。

 たった一ヶ月で、色々なことがあった。たった一ヶ月だったけど、出来ることはやり尽くせたと思う。

 暮林さんも、秋山も、川田さんも、本当なら今日何が起きていたか、何も知らない。僕も、何も知らない顔をして、いつも通り別れる。

 ファミレスを出て、一人で駅前の方へ向かう僕は、三人に手を振った。


「じゃあね。今日も楽しかったよ」

「また明日ね、時雨くん」


 秋山と川田さんは手を振って先に歩いて行ってしまう。暮林さんが笑って挨拶を返してくれるも、二人に置いて行かれないよう、彼女は小走りで角を曲がってしまった。

 誰もいなくなった道の先に、僕は、ぽつりと落とす。


「また、明日」


 笑って、ちゃんと返す勇気が、なかった。笑って手を振られるのが、辛かった。

 また明日。暮林さんの、おまじないみたいな言葉。また明日、会えますように、と。明日も友達でいられますように、と、願うような言葉。

 僕に、明日なんてない。明日は来ない。分かっているのに、張り裂けそうな胸は、明日を欲しがっていた。また明日という言葉を、約束に似た響きを、守りたかった。彼女がどんな顔で笑うのか、明日も、明後日も、その先も、見ていたかった。

 あの日飛び降りた暮林霖雨の明日じゃなくて、今ここにいる僕の明日が欲しい。

 明坂時雨の、明日が欲しい。

 叶わない願いに呼吸が苦しくなる。喉元に溢れ返った欲望が、うまく息を吸わせてくれない。痛む胸に触れて、ブレザーが皺を作るほど、手に力を込める。

 泣きそうになりながら歩いて、行き慣れた公園のベンチに座ろうとして、座る前に膝が折れた。誰もいない公園に入った段階で、気が緩んだ。

 地面に膝を突き、力を失くして項垂れると、視界に雫が零れる。無色透明の雫が、地面を濡らしていく。雨でないことはすぐに分かった。頬を伝ったそれが、温かかったから。


「――とんだ悲劇だ。そう思うかい?」


 聞き覚えのある声の方を後目で見てみれば、真っ白な猫が佇んでいた。地面を歩く足さえ、少しも汚れていない。傍まで近付いてきた猫に、僕は自然と笑みが零れる。


「違う。猫、これは悲劇じゃないよ」

「そうかな」

「これを悲劇と呼ぶかどうかは、僕と彼女が決めることだ」


 迷いもせず言い切ってみせたら、猫は宝石みたいなその目を大きくしていた。僕は片膝を立ててしゃがみ込み、猫の頭に手を乗せる。けれどすぐにそれを後悔した。自身の手が、誤魔化しきれないくらいに震えていた。

 それを冷たい風のせいだと自身に言い聞かせ、声が震えるのもひやりとした空気のせいだと思い込んで、猫に微笑みかける。


「猫、僕はね、良かったと思ってる。明日が来ないのは、確かに辛い。けど、辛いって思えるようになったんだ。あの日捨てた明日を、悔やめるようになったんだ」

「……そうか」

「それに、僕は……ちゃんと自分を救えた」


 猫の瞳の中に、薄らと景色が見える。公園を囲う木。風で揺れる木の葉のシルエット。それよりも近くにある、僕の影。目を凝らしても、そこに映っている僕がどんな顔をしているかまでは見えなかった。

 その双眸が映す風景も、猫のふわりとした輪郭も、水が垂らされた絵画の如く滲んでいた。ピントが合わないみたいに、猫の嘘みたいな白さが揺れて、眩しく感じた。

 それでも、猫が真っ直ぐに僕を見ていることが分かり、その頭を強く押して俯かせる。


「救えた。自分で、救えたんだよ。死ぬしか道がないと思っていた僕を、生きる方の道に、進ませられたんだ。ねぇ、僕は……あんな顔で、あんなにいっぱい、笑うんだね」


 この二週間、ずっと、考えていた。僕が暮林霖雨を救った意味。僕が、この一月で得られたもの、知ることの出来たもの。それは全部、無駄なんかじゃなかった。

 猫からそっと手を離すと、その白い頭が上を向く。僕の泣き顔を見て、猫は困ったように瞳を潤ませていた。


「……君は、あと数時間で眠りにつく。やり残したことがあれば、してくると良い」

「僕が消えたら、彼女や、学校のみんなも、僕のことを忘れる?」

「もちろん。君の存在も、君がいたことも、全部無かったことになる。けど、今の暮林霖雨の傍にいる友人は、消えない。君というきっかけが消えても、そこから生まれた友情は残るよ」

「なら、やり残したことはもうないよ。未練も、後悔も、ない。あの日の暮林霖雨にはあったかもしれない。けど君のおかげで、今の僕には悔やむことなんかない。ただ、寂しいだけ。少しだけ、寂しい」


 生前の僕には想像も出来なかった楽しいことを経験して、嬉しいことを知って、笑い方を、知った。知らなかったことを手に入れ、それを手離してしまうのは、とても、寂しいことだ。

 そんな僕を気遣ってか、猫が僕の靴の上に、真っ白な前足を乗せる。


「寂しさに浸る時間を短くしても良い。今すぐにでも、終わらせることだって出来る」

「……良いよ。もう、終わらせて」

「分かった。――君の悔いが晴らせたなら、良かった」

「ありがとう」


 透き通る硝子玉を眺め入れば、僕の笑顔が見えるような気がした。だけど、涙のせいで霞む。僕がどんな顔で笑っているのか分からない。少しだけ不安になっていたら、安心させるように猫が笑ってくれた。

 涙が止まらないのに、僕の顔は笑う。きっと、これ以上綺麗には笑えないくらい、それは僕が出来る一番の笑顔だった。

 目の前が、真っ白に包まれる。まるで夢の中に沈んでいくようだった。そろそろ帰宅したであろう暮林霖雨の姿を思い描いて、くす、と息を漏らした。


「ばいばい、霖雨。どうか、これからも笑っていて」


 私のぶんまで。


     *


 絵本を描く為に、思いついたことはなんだって携帯電話にメモを取っていた。描きかけだった作品を描き終え、私はメモを確認するため、携帯電話を開く。

 森で暮らす動物の話、小学生の冒険の話、雨に恋をした小鳥の話。沢山のメモをざっと読みながら、次はどれを書こうかと眉を寄せる。うーむ、と唸って画面を見ていく中、下ボタンを押していた親指から、ふと力を抜いた。


「私が、男の子になって会いに来る……?」


 こんなタイトルのメモを書いた覚えなどなく、本文には何が書かれているのか、と興味が湧いた。吸い込まれるようにクリックする。


『家庭環境、友人関係、どれにも恵まれることなく死にたがっていた私。そこにいきなり現れた、明るくて優しい男の子。友達のいなかった私に手を差し伸べて、居場所を作ってくれた。どこか私と似ている彼は、私の心に寄り添ってくれた。仲を深めていく中で、彼が一度、言ったことがある。「もし僕が君で、明坂時雨みたいな奴が現れなかったら、きっと自殺をしていたと思うんだ」。自惚れみたいで笑っちゃうけどね、と彼は付け加えた。照れ臭そうに笑う彼の言葉が、例え話でもなんでもなく、真実を語っているみたいだった』

「明坂……時雨……」


 覚えのない名前だった。なのに、知っているような感覚に陥る。どこかで聞いたことがあるような気がして、このメモを最後まで読めば何か分かるかもしれないと思って、食いつくように読み入る。


『けど私は気付けなかった。優しい彼だから、たまたま隣の席だった私を助けてくれたのだ、と自惚れていた。気付けなかった。彼がまさか、死んだ私だったなんて。ヒントなんて沢山あって、共通点だってたくさんあって。そういう奇跡が起こることがあるのだ、と知っていたなら気付けたかもしれないけれど、多分、知っていても気付きたくはなかったと思う』


 それは、絵本を描く為のメモ書きではないような感じがした。まるで日記のようだった。


『私は、明坂時雨くんに、恋をしていたから』


 胸の奥で、心臓が跳ねる。喉が狭まって、息が苦しくなる。恋、と呟いて、その恋物語の続きを探した。


『だけど、これは全部夢の話だ。妄想だ。忘れたくない夢を見た。ただ、それだけ』

「だって現実に、時雨くんはいない……」


 零れたのは、最後の一文。時雨くん。そう、私は彼のことを、そう呼んでいた。

 昨夜の記憶が、ぼんやりと思い起こされる。今日と同じように勉強机の前に座って、絵本の構想を練っていたら、いきなり、左側にある窓から風が流れ込んだ。

 窓もカーテンも閉めていたのに、と不思議に思いながらそちらに目をやってみたら、開かれた窓に白猫が座っていた。


「暮林霖雨、君にとって、明坂時雨は大切な人かな?」

「え? え……は、はい」


 猫が喋ったことにも戸惑ったけれど、それ以上にその問いかけが私の興味を引いた。何故この場で、よく分からない白猫に、時雨くんのことを聞かれているのだろうか。

 猫は、「そうか」と、どこか寂しげに頭を傾ける。


「けれど、君は今日で彼のことを忘れるんだよ」


 え、と言葉に詰まる。わけが分からなかった。そんなわけないでしょう、と言いたくとも、目の前で猫が喋るというあり得ないことが起きているのだから、信じるしかなかった。それでも、そんなことになるなんて嫌だと、心が叫ぶ。


「忘れるって、なに、言ってるの?」

「彼は、本来なら今日死んでいた君だったんだ。君が自殺なんてしないように、未来を変えるために、明坂時雨として君の前に現れた。だけど君を救えたから、彼はもう消えるんだ」

「なに……なんなの? わけが、わからない」

「そうだろう。もちろん、このことも君は忘れる。全部、記憶は消えてしまう」


 時雨くんがいなくなる。存在だけでなく、いたという思い出さえも、消えてしまう。想像しただけで恐怖が湧き上がって、総毛立った。

 彼がいなくなった日々を想像してみた。私は上手く喋れるだろうか? 私は上手く笑えるだろうか? 想像して、みた。私の傍には、誰もいなかった。時雨くんが作ってくれた居場所は、時雨くんがいなくなったらなくなってしまう。私はまた、どこにもいられなくなる。

 体温がどんどん下がって、震え出す体を掻き抱く。


「……嫌だ。嫌だよ。時雨くんがいないと無理だよ。だって、私、また一人に」

「ならないはずだ。君にはもう、友達がいるだろう? 明坂時雨というきっかけが消えても、そこから生まれた友情は消えない。だから、もう大丈夫」

「……でも、大丈夫でも、そこに時雨くんがいないなんて嫌だよ!」


 雪ちゃんがいても、秋山くんがいても、確かに私は笑って過ごすのかもしれない。楽しく過ごせるのかもしれない。けれど、一番大切で、一番失くしたくない彼がいなくなってしまう感覚に、私はきっと押し潰されてしまう。

 ああ、まるで彼は、シンデレラの魔法使いだ。私を救うだけ救って、幸せにするだけ幸せにして、ふらりといなくなってしまう。悲しくて、目の前が歪んだ。


「そんな気持ちも、すぐに消えるさ」

「やだ……忘れたくない、消えて欲しくない! 私は、だって私、時雨くんが……」

「どうしても忘れてしまう。彼の存在も、彼がいたことも消えてしまうし、彼にはもう二度と会えないんだ」

「……どうして、そんなことを、私に言いに来たの? あなたは、誰なの?」

「夢を与える神様、とでも言っておこうか」

「神、様」


 舞い込む風でカーテンが揺れる。だけど、白猫は毛並みを乱すことなく、真っ直ぐに私を見据えていた。


「明坂時雨が消えて、二度と会えなくなるとしても、その思い出を忘れたくないなら。日付が変わる前に、何かに書き留めておくと良い」

「それは……消えないの……?」

「消さないでおこう。なぜなら君が何を書き留めても、現実にはありえない、夢の中の話にしか成り得ないのだから」


 ――だから、私は書き留めた。

 昨夜の白猫との会話は鮮明に思い出せる。自分がこれを書いた理由も、どんな気持ちで瞳を濡らしていたかも、全て想起出来る。

 というのに、思い出は何一つ蘇らなかった。私が恋をしていたという彼の姿も、声も、送った日々も、何も分からない。シルエットが見えてこなければ、ぼやけた情景さえ浮かばない。真暗なイメージしか脳裏を過らないのに、彼との思い出が全部大切だったことだけは、心が覚えていた。


「時雨、くん……」


 本当に、夢の中の話みたいだ。目が覚めてしまったから、どんな夢を見ていたか、今となっては思い出せない。やけに現実味を帯びた夢に、浸った後の感覚。たかが夢、と思えたなら、どれほど気が楽だったろう。

 結ばれることのない人に恋をして、その記憶すら忘れてしまう。なんて、悲劇だ。胸には悲しみしか残っていない。

 そう思ったのは、一瞬だけ。私はすぐに、頭を左右に振っていた。


「違う……」


 彼のおかげで、私に居場所が出来た。友達が出来た。友達のおかげで、自分の夢を捨てることなく笑えるようになった。彼との出会いは、私を幸せにしてくれたのだ。

 それなのに、彼がくれた幸せから目を背けて、消えてしまった彼を追いかけ泣き叫ぶ自分が、最低な人間に思えた。そこでようやく、気が付いた。


「消えて、ないよ」


 しゃくり上げるような涙声が溢れ出す。彼の存在はまだここにある。彼が作ってくれた幸せが、彼の証だ。彼がくれた笑顔が、彼が居た証だ。

 ぐちゃぐちゃに歪んだ顔で、私はなんとか唇を引っ張る。口角を左右に引いて、頬を押し上げる。零れる嗚咽のせいで、唇が震えていた。それでも、今は笑いたかった。

 操作しない時間が長く続いた携帯電話の画面は、黒く塗られている。それをそっと顔の前に運んで、鏡みたいに自分を映した。情けない目元のまま、なんとか笑っている私がそこにいた。それを見たらなんだか、自然と笑いが込み上げてくる。

 意識して表情を動かすのではなく、勝手に笑みが作り上げられて、ああ、と私は思った。

 私、こんな顔で笑うんだ。

 まるで自分の笑顔を初めて見たようで、苦笑してしまう。携帯電話を二つ折りに畳んで、自身の胸元に押し当てた。


「時雨くん、ありがとう」


 ぽつりと呟きを零せば、それに呼応するみたいに、携帯電話が震動した。びっくりして体を跳ねさせてから、そっと開き直す。メールが一件届いていた。雪ちゃんからだ。


『明後日、暇? 秋山も連れて遊びに行かない?』


 最近では誘われることにも慣れたけれど、誘われて嬉しくなるのは相変わらずだった。メールの受信箱には雪ちゃんや秋山くんの名前がいくつも並んでいる。今まで親や、知らない大人としかやりとりをしたことがなかったのに、今となっては友達のメールがたくさん。

 口元を綻ばせて、私は雪ちゃんに返信をした。


『うん、行きたい!』


 それだけ返したら、私は携帯電話を机の上に置く。卓上に広げていたノートを左手でそっと撫ぜて、よし、と口に出した。

 シャーペンの先を、真っ白な紙に押し付ける。次に描く作品には、私も、秋山くんも、雪ちゃんも登場させたい。それで、二人に読んでもらいたい。

 私が見ていた夢は、きっと暖かい気持ちになれるようなものだから。


『私と僕と白猫のお話』


 黒鉛で書かれた仮題の下へ、私は筆を走らせた。

 携帯に記された思い出から想像を膨らませて、時雨くんとの日々を思い描く。夢のような出来事を、書き留める。完成させるのが楽しみだった。

 絵本を開けば何度でも夢を見ることが出来るのだ。どこか悲劇的で、けれど私にとって大切な思い出の夢は、表紙を開く度に紙上の世界で何度も繰り返される。

 この絵本が完成したらきっと、私は生涯、それを宝物にするのだろう。

 擦り付けられた黒鉛が、じわりと滲んだ。

 優しい雨が降り出す。今いるのが室内で良かった。外だったなら、冷たい秋風で頬が冷えてしまっていたはずだ。

 雨音は聞こえない。窓は濡れていない。雫は、私の手元だけに零れていた。

 濡れてしまった『時雨くん』という文字が、泣いているみたいだった。

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La Lune -短編集- 藍染三月 @parantica_sita

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