第8話お手本
バイト終わりの帰り道、飛び飛びに照らす電灯の下を、貰ったコロッケを頬張りながら歩いていた僕は、ふと視線を感じて立ち止まった。
そうして、振り返る。
首筋にチリチリと、刺すような視線を感じたからだが――振り返って直ぐ、無視すれば良かったと後悔した。
1つ向こう、数秒前に通り過ぎた電灯の下に、誰かが立っていた。
90度、頭頂部を見せ付けるほど深くうつむいた、スーツ姿の男。
その姿は、深夜のテレビ画面のように時折ノイズが走り、安定しない。
どう見ても、マトモな人間ではない。
仮にマトモな人間だったら、それはそれで怖いけれど。
幽霊だろう。
そう思った瞬間に、男は滑るように近付いてきた。
立ち竦む僕の目の前にまで迫ると、男はゆっくりと顔をあげ、そうして言った。
「………うらめしやぁ………」
「古っ!!」
【お手本】
「………………あの、えっと、悪かったよ。正直に言い過ぎたよ、ごめん」
困りながら、僕は男に謝った。
何故なら、男は僕の一言を聞いた瞬間泣き崩れてしまったからだ。
「うぅ………怖く、なかった、ですか………?」
「うん」
「うわーん!!」
うわーん、て。
見るからに40も越えていそうなおっさんが言っていい台詞では無い。絶対に無い。
「ど、どの辺が、怖くなかったでしょうか………?」
「………言って良いの?」
「是非!」
「先ず出現の仕方だよね、通り過ぎた明かりの下に現れるのは良いけど、一個前は近過ぎ。何個か前から、ゆっくり迫ってこないと緊張感が無いよ。あと、移動はワープみたいに出来ないの? ズズズッて感じだったから………あと、そもそも『うらめしやぁ』は無いね、時代劇かよ」
ほら、泣いた。
「だから、言って良いのかと聞いたのに」
「そこまではっきり言わずとも、良いじゃあありませんか」
「僕、早く帰りたいんだよ。貴方もさっさと成仏してください」
「そ、そうはいきません」
また未練の話だろうか。
幽霊は強い感情を持っていれば存在できるが、それだけに縛られてしまいがちだ。
そうして、結局は個を失ない悪霊になるだけ。
そう言うと、男は激しく首を振る。
「私は、いわゆるなりかけでして。先月に自殺したばかりです。あ、これ名刺です」
「谷川さん? ………あ、この会社の名前、聞いたことある」
確か、新聞に出てた。
ブラック企業というやつで、休みは月2回、それも殆ど半日だけ。給料も少なく、その分社長が横領していたとか。
「そうなんです。そして、私は耐えきれず………」
「お疲れ様です」
「冷たいじゃあありませんか」
すがり付く谷川さん? に僕はため息を吐いた。
働くのが辛くて死んだのなら、こんなところで恨み言を言っていないで、早く休めば良いのに。
「しかし、せっかく私は幽霊に成れたのです。どうせなら何人か、驚かせてから逝きたいじゃあありませんか」
「はぁ」
「しかし私はその、怪談が苦手でして………。こんな夜の道で一人でいるのも怖くて………」
「向いてないよそれは」
幽霊になるのさえ、才能が要るとは世知辛いが、実際問題谷川さんには向いていない。
廃屋や病院なんかで、深夜に獲物を待つことが出来ないのなら、幽霊になってもどうしようもないだろう。
「とにかく、自我のある内にさっさと………」
「せめて、一度くらい。誰かを驚かせたいのです。どうでしょうかお坊ちゃん、協力しては頂けませんか?」
「協力?」
「はい、見本を見せてもらいたいのです!」
「見本って………」
そんな義理は、僕には無いのだけれど。
とは言え、足に幽霊をしがみつかせたまま帰る訳にはいかない。それで諦めてくれるのなら、まぁ良いかもしれない。
「ありがとうございます、では早速!!」
「え、ちょ、あっ!!」
どん、と突き飛ばされたと思ったら。
目の前に、僕が立っていた。
まさか、入れ替わられたのか。
「ふふ、はははははっ!! 身体、身体だあっ!! ふふ、では失礼!!」
「ま、待てっ!!」
下品に笑ったあと、谷川さんは僕の体で走り去っていく――。
「はは、うまく行ったぞ」
夜道を歩きながら、私は耐えきれず小躍りしながら笑い転げる。
あんな下らない嘘でどうにかなるなんて、全く世の中は馬鹿ばかりだ。
「自殺した社員じゃあない、ふふ、私が社長だったんだっての!! 生意気そうなガキだが、まだまだ甘いねぇ………っ?!」
ガサッと茂みが動いた気がして、私は息を呑む。
略歴は嘘だが、怪談が怖いのは本当だ。でなければ、あんな回りくどい手を使わず誰かを呪い殺している。
「早く帰るか………」
身体の持ち主の家は、身体が覚えている。
足の動くまま進めば良い。明日にでも、生前隠しておいた金でも取りに行くとしよう。
ジャリ、ジャリという自分の足音が、やたらと煩く感じる。
ジャリ、ジャリ。ジャリ、ジャリ。ジャリ、ジャジャリ。
「っ!?」
今。
足音が、多くなかったか?
立ち止まったので、足音は消えている。
そんなわけない、気のせいだ、言い聞かせるが、震えた心臓は脚を持ち上げようとしない。
確かめるには、もう一度歩き始めるか、或いは、振り返るしかない。
ジジジ、と妙な音がする。見上げると、電灯が明滅を繰り返しているところだった。
前を見る。前方の明かりも、同じように頼り無く点滅している。
「………ぁ、はぁ、はぁ」
息が荒い。
手に入れたばかりの心臓が、暴れ馬のように跳ね回る。
3個先の電灯が消えた。
続いて2個先が消える――その間際、闇の中に誰かの影が見えた気がした。
1個先が、消えた。あぁ確かに、今そこに誰かいた。
頭上の明かりが点滅し始めた時、私は振り返って走り出す。これが消えたときに、その下に居たくはない。
私が通り過ぎた明かりの島が、ドンドンと沈んでいく。背後から、闇が追いかけてくる。
いやだ、いやだいやだいやだ。追い付かれたくない、追い付かれたくない。
追い付かれた。
私の真上の明かりが消えた。
更にその先も、暗闇が追い抜いて行く。
明かり、明かりはないか。何処かに、光は。
キョロキョロと見回した視界に、光が映る。自動販売機だ、その明かりが、今はとても力強く輝いている。
私は慌ててその前に駆け寄った。
ガバッと自動販売機に背を預け、その光で闇を透かす。
向かってくる何かがいれば、これで確実に、
「ひっ!!」
ガシィッと、足首を誰かに掴まれた。
自販機の取り出し口から、青白い腕が伸びているのを見下ろして。
私は気を失った。
「やれやれ」
倒れた僕――の中に入っている谷川さんを見ながら、僕はため息を吐いた。
自販機から這い出ると、僕はニヤリと笑い、肩を竦めて呟いた。
「見本はこのくらいで充分かな?」
日常奇譚 奇想天外 レライエ @relajie-grimoire
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