2
横長のテーブルの上には、木の碗になみなみと注がれた乳の汁が湯気をあげていた。背の低い丸太の椅子に腰をかけ、ユナは木のスプーンで汁の中に入った山菜とほんの少しの獣肉を無言で噛み砕く。動物の骨から出汁をとり、乳に塩とほんの少しの香辛料で味付けをした簡素な汁物だが、ユナはこの朝食が大好きだった。学舎のある日は、このメニューにパンが加わる。今日もユナの握りこぶしほどの大きさのパンがふたつ、食卓に並んでいた。いつもならば、それだけで心躍るのだが、この日のユナは、食事を目の前にしても表情が沈んでいるのがわかった。
「どうしたんだい? またいつもの夢を見たのかい」
ユナの正面に腰をかけた老爺――ラムザが心配そうに顔を曇らせた。
「ううん。違うよ、今日はちょっと違う夢だった」
「違う夢?」
碗の中をスプーンでかき混ぜながら頷いたユナを、ラムザは怪訝そうに見た。
「化け物は出てこなくて、そのかわり、僕が違う人になって、違う世界を見て歩いて話をしていたの。どこかのお城みたいだった」
そう言うユナは、相変わらず表情が硬く優れない。
話を聞く限り、そこまで気分が塞いでしまうような悪い夢でもなさそうなのに、とラムザはユナが続きを話し出すのを待ち、黙った。
「大きな樹があってね、えっと……万年樹、って言っていたかな」
目が覚めたばかりのときは、どちらが自分なのか見失ってしまうほど鮮明だったのに。すでにぼやけ始めた夢の内容を思い出そうと、口の中で転がすように呟く。するとユナの言葉に反応したラムザが目を丸くした。
「万年樹――金色の葉や花が咲く樹か!」
「ラムザ爺さん知っているの?」
「お前さんに散々聞かせてやったろう。月の裏側にはもうひとつ違う世界があって、天気の良い日のお月様が金色に輝いて見えるのは、裏側の世界を透かして見せているからだってな。その世界の物語の中にその樹は出てくるんだよ」
ラムザ爺さんが、少し早口に喋りだすときは、決まってこの話題だった。現に今も感奮しているのが手に取るようにわかる。幼い子供のように、目を大きく見開き、呼吸をすることすら忘れてしまうほど、周りが見えなくなる。時おり自分の唾液で噎せて咳き込む姿を見ていると、不謹慎にも頬が緩んでしまうのだ。そんなラムザ爺さんが、ユナはとても好きだった。また彼が聞かせてくれる話も。
いつもは不思議に思わなかったラムザ爺さんの話も、しかしこのときばかりはふと胸に大きなしこりを残した。川で泳ぐ魚の姿はたくさん見えるのに、いざ釣ろうとすればどれだけ時間をかけても釣れないときの気持ちに似ている。どうしてだろう、と焦燥する。なにか、大事なものだけが指の隙間から滑り落ちていっているようだった。
――だって、あまりにも似ている。
夢の中に出てきた様子と、ラムザ爺さんが話してくれる世界の姿が。
現実に戻ってすぐには、その事実が結びつかなかったが、今こうしてラムザ爺さんが万年樹という樹の名前を知っていることも、そもそもこことは違うという世界の様子を知っていること自体が不思議でたまらない。だから、訊かずにはいられなかった。
「――ねえ、ラムザ爺さんはなんでそんなにたくさんのことを知っているの?」
ふいに、静寂が訪れた。ラムザ爺さんが話をやめてしまうと、こんなにも部屋の中は静かになってしまう。糸をぴんと張ったような緊張感がユナの中に流れた。
「儂がまだお前さんほどの頃に流行ったんじゃよ。そういう物語がな。あの頃の人間は、誰でもこの話を信じている」
いつもと変わらぬ笑顔だというのに、その表情にはどこか困惑の色が刷けられているように思えた。そして一層、ユナの中に芽生えた瘤が大きくなっていく。
ならば、なぜ学舎の子供たちにこの話をすれば、みんな口を揃えたようにユナを笑いものにするのだろう。そんな絵本みたいな話があるはずはないと。ラムザ爺さんと同じ年の頃の祖父母を持つ家庭は決して少なくはない。たとえばそれが僅かな人間の間でのみ流行した物語だとしても、学舎の同じ教室の子供たち全員が知らない、というのはおかしくはないのだろうか。
それに、とユナは無言で夢の中での意識を取り戻そうとしていた。
(月から枝を持ち帰ったっていうあのお話……あれも誰もが知っている伝承じゃなかったっけ。もしかして、ラムザ爺さんの話してくれる物語はあのお話のことなのかな)
いつもとは違う夢を見て、さらに身を乗っ取られるような薄気味の悪い心地でいたことをどうでもいいと思えてしまうほど、今はラムザ爺さんの話す物語のほうが気になっていた。
ただの夢の気まぐれ、と言い切ってしまうにはあまりにも偶然が重なりすぎているように思う。思えば、獣の夢の途中で出てきた樹は万年樹ではなかったか? 万年樹と一体化していた女性は、ルーンと呼ばれた王女ではなかったか。あまりにできすぎている、繋がりすぎている。
そうして、不安になる。自分という存在が。
もともと自分はラムザ爺さんとは直接血の繋がりはない。ただ拾われただけの子供だ。自分が捨てられていたという状況は、聞いていてあまり心地の良いものではない。だから事細かく訊いたことはない。だが、と思う。今更になって、自分がどういう生まれなのかが不安になってきた。ラムザ爺さんを本当の家族――それこそ父のように思っている。今でもその想いは変わらない。だが本当の自分は、もともとどこにいるべき存在だったのだろう、とこのとき初めて不安になったのだ。
「ほら、今日は学舎に行く日じゃないのかい。早くしないと間に合わなくなってしまうよ」
すっかりスプーンを持つ手が疎かになっていたのを見咎めて、ラムザは席から立ち上がり言った。
ユナはごめんなさい、と呟き慌てて汁を流し込むと、心が晴れないまま家を後にした。
王城を中心とし、波紋を広げるようにして城下街はあった。
街路は隙間なく石畳で埋もれ、鳥の視線を借りたのならきっと感嘆することだろう。街全体の石畳は、何枚も重ねて万年樹を模した配列になっていた。
ラナトゥーンは石造りの建物が多く、城下街に並ぶ建築物もその例から外れない。穿たれた窓にはどこも硝子は嵌められておらず、一年中山野から流れてくる風や匂いを感じた。開放的だ、と思わせるのはそれだけではなく、街を行き交う者も多ければ、それらの人々がみな穏和な雰囲気を持っているからだろう。
決して豊かな国ではないが、常春ゆえに冬の寒さに凍えて命を失う者も、食料が底を尽きることもない。それらを巡って、争うこともない。民の気性はとても穏やかで、誰かと誰かが口争いをしている場面に直面するなど、滅多にない。護身用の軽い武器ならば、城勤めの者以外でも身に帯びることを許可されているが、このような風潮ゆえに、売れることもほとんどなかった。
街には城の騎士団が警備に配置されているが、彼らが動くことは例外的な事件にでも直面しない限りないに等しいので、騎士団の中で彼らの位置はさほど重要視されていない。もっとも、街へ買出しへと行かされる者は、その更に上を行くが――
「ジェス、今から姫さんと逢引きかい?」
紙袋いっぱいに詰め込まれた食料や医療品、それらを両手いっぱいに抱えたジェスの背後から声がかかり、視線だけをそちらに移しため息をついた。
「見てわかるだろう。……それにその逢引きってなんだよ」
いたずらを楽しむ、幼い少年の笑顔にも似たそれを浮かべながら、男はジェスの抱えていた紙袋をひとつ奪うように抱えた。中からよく熟れた果実を取り出すと、ジェスの咎めるような呼びかけにも「大丈夫、ひとつくらいバレやしない」とあっけらかんと笑ってみせた。
「最近、噂になってるぞ」
買出しを終えて、ゆっくりと城に向かって進んでいたジェスの足が止まる。一歩先で止まった男を見ると、男は果実にかじりついたまま、ジェスを振り返った。
「姫さんとよく会ってるだろう?」
「リュウ、俺は――」
言いかけた言葉を、リュウと呼ばれた男が笑顔で止めた。ごつごつした手の感触が、乱雑にジェスの頭の上で動く。
まるで駄々をこねた子供にするみたいだ、と思いながらもジェスは心地よさを感じていた。
「とにかく、こいつら持って帰らなきゃいけないだろう」
ああ、と頷きながら、ジェスは背を向けてしまったリュウの後ろ姿をぼんやりと見つめた。野で凪ぐ草のように、リュウの髪が風に合わせて揺れる。一箇所だけ寝癖がひょっこりと顔を出しているのを見つけて、思わずジェスの頬が綻んだ。
リュウとは、同じ騎士団に所属する同士でもあり、たった一人の友人でもあった。
誰もがジェスの外見を見ては薄気味悪いものでも見るように、さり気無く遠ざけていく。だが彼だけは初めて会ったときから、違った。
懊悩としていた自分の気持ちなど瑣事だと思わせるほど、彼の印象は強烈で、新鮮だった。道に捨てられている子猫を見つけたときのように、みなジェスの外見については口にしない。触れない。見てみぬふりをする。そうして心の中では、そんな姿に生まれて気の毒に、という哀れみも含まれていることをジェスは知っている。だが、リュウは笑いながら言ったのだ。
「黒い色っていうのもいいものだな。強そうだ。――っていうか、その色もともとなのか?」と。
人々の言葉に、鬱屈とすることはなかった。またか、と諦めにも似た感情だけがあった。だが、だからといって悩まないわけではない。なぜ自分は違うのだろうという思いは常にあったし、普通の外見だったならば、と想像する日もあった。すでに形成されている自分、という存在を替えることなどできはしないのに。
しかし、触れて欲しかった。訊いて欲しかったのだ。そして、異質な容姿を笑い話にしてほしかったのだと、初めて自分は自覚した。
リュウの言葉でどれだけ救われただろう。どれだけ安らいだだろう。
彼はまさしく太陽のような存在だった。草木や花が、太陽に向かって伸び成長するように、人もまた、リュウの裏表のない明るさに惹かれ、集まった。ジェスもいつの間にか、自然とリュウの隣にいることが多くなっていったし、所属を決める試験の結果で、同じ所属だと知ったときは、喩えようもない悦びを感じた。それが最低ランクだとしても。
――なんだ、お前も意外と弱いんだな!
そう言って笑いあった日は、もう何年も前だというのに、昨日のことのように鮮やかだった。
リュウの背を追い越した向こう側に、城門の影が見てきたのは、鐘が三度、辺りに鳴り響いたときだった。
正午を告げる鐘が鳴り、しばらくすると人が湧いたよう正門から出てきた。城で働く人間には、鐘が鳴ってから一時間、休憩が許されている。その間、街へと足を運ぶ者も少なくはない。
ジェスが所属する騎士団の面々も、城内の警備に就いている者以外は、街へ行く者がほとんどだ。一日の中で唯一自由になる時間。たった一時間ではあるが、やはり開放されたい、という気持ちが強いのだろう。鐘が鳴り響くと、重量感のある音とは裏腹に、屯所の中に流れていた空気が途端に煌々と輝くのが誰の目にもわかる。
「ジェス!」
城門から流れる人の波に逆らって歩くジェスとリュウの耳に、鮮やかな呼び声が聞こえてきた。
人波を掻き分け、ドレスの裾を持ち上げながら駆け寄ってくる女性――ルーンの頭に飾られていた花の髪留めが風に巻き上げられ飛ばされる。唐突の風に驚いたふうに声をあげ、飛んでいく髪留めをぽかんと見上げた。しばらくして、さも気にていないといった様子で、再び駆けてくるルーンの足は、驚いたことに素足だった。
ルーンが門前を駆けていくたび、通り過ぎる人々がぎょっとしてルーンを振り返る。そうして、彼女が向かう先にジェスがいることを知り、みな顔を見合わせなんともいえない表情になった。
すっかり硬直してしまったジェスの腕から、リュウはずっしりとした紙袋を奪い取る。手すきになったジェスが、ようやく我を取り戻しリュウを見た。その顔には困惑の色が刷けられていた。
「先に行ってるな」
「ちょっと、待て……!」
咄嗟にリュウの裾を掴むと、すでに歩き出そうとしていたリュウの足が止まる。両手を塞がれているリュウは、視線だけでジェスを振り返り、いつものように笑った。
「あとから話、聞かせてくれよ」
頷くことも、首を横に振ることもできず、ただ掴んでいた手を離した。やがて、うん、とリュウが笑顔のまま頷き、じゃあな、と告げると今度こそ本当にジェスからゆっくりと離れていった。抱えた荷物のせいで、思うように前が見えずふらふらとした足取りで去っていくリュウの後ろ姿を見ながら、ジェスは彼の言葉を思い出していた。
――噂になってるぞ、と彼は言った。
自覚はあった。容姿のことで陰口を言われることは、随分と抵抗がなくなった。だがその言葉の中に時おり「王女」という言葉が交じっていることに気がついたのは、近頃の話ではない。それを知ったとき、自分が初めて陰口を言われたときの厭な気分を思い出した。
自分から会いに行ったことはない。姿を見かけて、自分から声をかけたのも、あの庭園で泣いていたとき、たった一度だけだ。悪いことをしている自覚は全くない。だが、なぜか罪悪感はあった。本来なら話すことさえできないほど、身分が違うせいなのか。それとも婚約者がいる女性と、噂になるほど親密になっていることに罪悪感を覚えているのか、それは自分でもよく理解できていない感情だった。
リュウと同じように、彼女もまたジェスの容姿に拘りはないように思える。ふと、突然思い出したように、ジェスの容姿に触れることもあった。だがそれは周りがジェスに注ぐ視線とは違い、単なる興味からくるものだとわかるからこそ、ルーンの屈託のない笑顔を見るたび、罪悪感を抱きながら接している自分に嫌気がさした。ルーンは何ひとつ悪いことなどないのに、避けようとしている自分がいるのだ。
リュウとすれ違いざま、ぺこりと大きく頭を下げたルーンに、リュウ本人も目を丸くして驚いた。思わず立ち止まり、ルーンを振り返ると、すでに走り去ったあと、彼女の微かな残り香だけが落ちていた。
ルーンの向こう、いまだ困惑顔のまま立ち尽くしているジェスとリュウの視線がぶつかり合う。お互い言葉を交わせるほどの距離ではなかったが、リュウの目が、口元が綻んだような気がした。
――頑張れ。
そう、言っているような気がして、ジェスも答えるように表情を和らげた。
「やっと帰ってきたのね、ジェス!」
ジェスの真正面で立ち止まると、荒くなった呼吸を整えながら微笑った。
走ってきたせいか頬は薔薇色に染まり、額にはうっすらと汗が滲み出ている。跳ねた髪を整えることもせず、ルーンはジェスの両手を奪うように握ると、自分がきた道を促すように精一杯の力でジェスを引っ張った。
「ここでは落ち着かないわ。いつもの場所に行きましょう」
「ル、ルーン王女……あの、履き物はどうされたのですか」
ぐいぐいと引きずられるようにしてルーンの後をついて歩き、嫌でも目に入ってしまう素足に眉を顰めた。塵ひとつないよう、綺麗に整備されているとはいえ、小石がまったく落ちていないなんてことはない。ただでさえ透き通るように白く柔らかいだろうその足に刺さったら、と考えただけで痛々しい。それにせっかく整えられた爪の塗りものが、石畳にあたって削れてしまう。だが本人はなんてことはないといった様子で首を横に傾げた。
「どうしたかしら……。そうだわ、部屋からジェスが街へ行く姿を見つけたのよ。それでずっとわたし窓から見ていたの。結構視力はいいのよ? あなたの姿が見えたから、急いで来たのよ」
「ずっと、ですか? わたくしが城を出たのはもう随分と前ですよ?」
「そうよ? おかしいかしら。そう、それでね、わたし部屋では素足でいることのほうが好きなのよ。侍女ははしたない、なんて言うのだけれど」
「はぁ……そうでしたか」
曖昧な生返事をしながら、思わずため息が漏れてしまいそうになるのを、なんとか堪えて口を噤んだ。ここに来るまでの距離、随分と長い道のりを素足で駆けてきたというのだろうか。もしそうなのだとしたら、その姿を見て誰も咎めなかったのか不思議に思った。しかし、と楽しそうにジェスの腕を引くルーンの横顔を見て、ジェスは内心首を横に振った。
言われて素直に従うほど、柔順ではないのかもしれない。と、この頃のルーンを思い返し苦笑を浮かべた。だが驚くほど素直なところもある。さきほどのリュウに対しての行動もそのひとつだ。自分よりも身分の低い者に対して頭を下げるなど、他の王族、それこそアズが見たならなんと言うか。しかし彼女は、そもそも身分などというものは飾りでしかない、と考えている節がある。心のままに、在りたいように在る。それが先ほどの彼女の行動であり、思いなのだろう。
「ところでジェス」
王城と街へとおりる城門を繋ぐ渡り廊下の途中、万年樹の影のもとで突然ルーンがジェスを見上げた。どことなく怒っているふうにも見える表情に、ジェスは一瞬身を硬くする。
「……どうなされました?」
「ジェスはいつになったら私のことをルーン、と呼んでくれるのかしら」
知らず粗相をしてしまったのだろうか、と自分自身を嫌疑にかけていた矢先の言葉に、思わず笑い出してしまいそうだった。なんだ、そんなことか、と。だが当の本人はいたって真剣な表情で今にも怒りの爆弾が爆発しそうな勢いだった。
「お言葉ですが、ルーン王女はわたくしなどとは身分が違うのですよ。こうしてお側にいることだって、本当は畏れ多いことなのです」
「そう! その言葉遣いもだめって何度も言っているじゃない!」
火に油、とはまさに今の状況のことを言うのだろうか。ジェスはよかれと思って言った言葉に、ルーンは更に顔を赤くして頬をふくらませた。
「さっき一緒にいた方は友人の方でしょう? いつも一緒にいるのを見かけるわ。あの方と話をするときみたいに、わたしとも話してちょうだい」
「いえ、そういうわけには……」
いずれは王妃となる存在に向かって、ただの騎士見習いごときと同じ態度で接していいはずがない。決してリュウに対して軽んじているというわけではない。すでに問題にあげること自体が間違っているのだ。兎に向かっていつか獅子のように大きくなってくれ、と無理難題つきつけて餌を与え続けるに等しい。そんなことを言われても、兎は困惑するしか他にない。
だが、と横目でルーンを追った。
長い睫毛が宝石のような瞳に影を落とす。先までの勢いはどこへいってしまったのか、今にも泣き出してしまいそうなほど何かを耐え忍んでいる様子がわかった。腕にあった自分とは違う重みはすでになく、ルーンはぎゅっとドレスの裾を掴み口を結んでいる。
なぜそこまで呼び名や態度にこだわるのか、ジェスにはわからなかった。しかし、と辺りを見渡す。すでに万年樹の根元までやってきた。落とす影は濃く、辺りにはむせ返るほどの甘い香りが充満していた。強くもなく、またゆるくもない風が、ルーンの長い髪と戯れる。そのたびに、万年樹の香りとは違う甘さが流れてきて、ジェスはため息をひとつ落とした。
まるで人除けを施したあとのように、周りにはジェスとルーン以外、誰一人としていない。
「わかった。でも周りに人がいないときだけ。そうでないと俺が咎められるってことも覚えておいていください。って、少しくらいは勘弁してくださいね。すぐに全く同じというのは、意外と難しいんですよ」
慣れないジェスの言葉遣いに、ルーンは勢いよく顔を上げる。ぎこちない笑顔で、不器用な動作でルーンの細い手を取った。そのまま石段の上にルーンを促し、しっかりと腰をかけたのを見届けると頷く。
戸惑いの色が刷けられているルーンの表情を見ながら、ジェスは彼女の足元を見た。風に凪ぐ草が、ルーンの足首をくすぐる。よく見れば、ところどころ赤く傷になっていた。もともと肌が白いだけに、余計その赤さは目を引く。
ゆっくりとジェスは腰を折ると、ルーンの足元で揺れている草を抜き、風にまかせて流した。溶けるようにして消えていく細い草を視線で追いながら、ルーンは呆然と何も言えずいた。やがて視線をジェスへと戻すと、ジェスがルーンを見上げて笑う。暖かい手がルーンの足首に触れた。
「せめて靴くらいはこれから履いたほうがいいんじゃないかな」
そのまま立ち上がったジェスは、ルーンの隣に腰を下ろす。しばらくしたあと、消えそうな声で、そうね、と呟きが聞こえた。
そのとき見たルーンは、今までみたこともないような表情で、微笑っていた。
万年樹の旅人 樹杏サチ @juansachi
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