1
風はなく、母の微笑みのような陽射しが辺りに満ちていた。
どことなく甘い香りが漂ってくるのは、ジェスが歩く先に庭園があるからだろう。万年樹と呼ばれる、金色の葉をつける大樹。王城の中心に位置する庭園には、それがある。
白夜の国ラナトゥーンは、常春ゆえに植物がよく育ち万年樹もその例から外れない。ジェスがまだ幼い頃、高台に駆けていき汗を冷やす風を感じながら城壁に囲まれた王城をよく見下ろした。万年樹の根元には石段を積み上げた背の低い囲いがあり、城に勤める女たちが石段の上に腰をかけ談笑している姿を何度も見た。その頃の万年樹はすでに人の背丈などゆうに超え、差す陽よりも葉が落とす影のほうが多かった。今では庭全体を覆うだけでは足りず、城壁の外まで影は広がっている。太くしっかりした幹とはいえ、よくあれだけ広大無心に広がる葉身を支えられるものだと感心した。だが実際に万葉樹を目の前にしたときの衝撃は、更に上をいった。
子供から老人まで、幅広く知られる物語の中に、万年樹の成り立ちがあった。まだジェスが生まれる何百、何千も昔の話である。
人知を超えた力を持った初代ラナトゥーンの王は、その力をもって月へと渡り、月に住まう王と親睦を深めた。
ラナトゥーンにはない、金色に輝く川、乾いた水のない土地には広がる熱い金色の砂。陽が沈み、訪れた濃紺の空に浮かぶ金にも銀にも似た星と呼ばれる煌き。どれもが初めて見るものばかりで、ラナトゥーンの王は常に胸の高鳴りを感じていた。そうして幾度と月へ渡る回数も多くなっていったのだという。
中でも特に興味を惹いたのが、月の王の住む宮殿周りを守るようにして立つ巨木、万年樹であった。
太く硬い樹木に触れれば、指先に伝わる人肌に似た温かさ。地に向かって
ラナトゥーンの王は、この大樹を自国にも欲しいと願ったが、月の王は何度懇願されても首を縦に振ることはなかった。昔より月を守ってきた神聖な存在を他国へ譲ることは罷り成らぬと、厳格な態度を崩さなかったのだ。自身の子供を、他人が可愛いから譲ってくれと懇願されたところで、譲り渡す親はいないだろう、と、王は笑いながらも瞳に湛える厳しさを下げることはなかった。
だが、ラナトゥーンの王は諦め切れなかった。王宮を抜け、自国へと戻る素振りを見せた王は、こっそりと万年樹のある庭へと向かい、一本の枝を折ってしまった。
途端、穏やかだった風が渦を作るようにラナトゥーンの王を囲ったのだ。穏やかだった川が激しさを増し轟音と飛沫の雨を月の大地に降らせた。枝を折られた万年樹が泣いている。自分を、傷つけた者への怒りが激しい天災を呼んだ。子供が泣いているようだと思った。痛い、と。助けて、と訴えながら。ひたすらに、絶叫しているようだった。
事実を知った月の王は激しい怒りをもって、ラナトゥーンの王を追い返した。そのとき、万年樹はただ美しく人を惹きつけてやまない存在のみではないのだとラナトゥーンの王は知った。そして折った枝を抱えたまま、王城の庭園の中心で息を引き取っていたのを、城の者が見つけたのだという。
以降、王族に不思議な力を宿して生まれてくる子供はいっさいなくなった。だが奇なことに、初代王が持ち帰った枝が育ち、葉を成した頃、再び王族に人知を超えた力が宿ったのだという。更に不思議なことに、能力を使うたびに、身体の一部に金の色が現れ始めたのだと。大きな能力を使えば使うほど、それは顕著に現れ、まるで自分が万年樹の一部にでもなってしまったかのような錯覚に陥る。
得体の知れぬ現象に畏怖した先の王族は、自分の内にそれらを秘めた。
どこまでが事実で、どこからが仮構の物語なのか、その顛末を知る者はいないが、万年樹には、そういった話がいくつも伝わっているのは確かで、不思議な樹であることには変わりなかった。
庭園の全貌が見渡せる渡り廊下で、ふとすすり泣く声をジェスは聞いた。
思わず歩みを止め、視線を左右に彷徨わせて見つける。おそらく彼女だ。万年樹の周囲に積まれた石段の上に腰をおろし、顔を覆いながら俯いている女性。白を基調としたたくさんの布を重ねて拵えたドレスから、顕わになった肩が小刻みに震えていた。
屋根つきの、狭い渡り廊下の柱に隠れるようにして、ジェスは目を細めながら庭園の中心を見やる。たまたま人が少ない時間なのか、それとも彼女の存在が人を遠ざけたのか、万年樹の周りには人ひとりいない。
(あれは……)
金色に薄緑を流し込んだかのような細く長い髪は、万年樹の葉の金によく似た色をしており、髪を彩る留め具やドレスのそこここに散りばめられた宝石は、素人目に見ても、ひとつ売れば村町の一家が何年かは遊んで暮らせるくらいの値段はつくだろうとわかる。
王の居住する塔の周辺を囲うようにして、小塔がいくつも建っており、それらのひとつにジェスが詰める騎士団の屯所があった。ちょうど練習の時間を終え、城下街へと買出しに出かけようとしていたときだった。
城から街へと抜けるには、王の居城がある北から南に向け、庭園を縦断するようにかけられた渡り廊下を通るほか道はない。
どう対応したらいいのか迷い、一瞬来た道を引き返そうかとも思ったが、避ける理由もない。覚悟を決めて廊下を進んだ。中央の万年樹の大樹が近づくたびに、甘い芳香と嗚咽まじりの泣き声が強くなってくる。そのたびにジェスは困惑した。
長い渡り廊下も中心にさしかかると、左右に広がる庭園へと降りる短い階段が見えてくる。万年樹は、縦断する廊下の流れを切断するように位置しており、やはり短い階段が北と南にあった。
ジェスはそのまま北側の階段を静かにおり、足音なく万年樹へと近づいた。
「――どうかされたのですか」
ジェスが声をかけると、驚いたように女性が顔を上げた。
きょとんとジェスを見上げる琥珀色の瞳が濡れている。
「え、あ……あなたは……」
「申し遅れました。わたくしは、第三騎士団に所属する――」
「あ、いえ、あなたのことは存じております!」
ジェスの言葉を遮った彼女の言葉に眉根を寄せた。
「わたくしを、ですか?」
「ええ、よく噂で」
涙の痕を残したぎこちない笑顔で、ジェスの風貌を眺めるように見た。
――なるほど。そういうことか、とジェスは落としたいため息を呑み込み、自身の異を思い出し思わず口を噤んだ。
墨を流し込んだような漆黒の髪は短く、陽に焼けたというには過ぎたる褐色の肌。穏やかな弧を描く双眸は黄金色をしていた。感情は乏しく希薄な雰囲気を出しながらも、それでいて尋常ではない存在感を放つ。それは彼の内が放つものなのか、それとも異質な容姿がそう見せているのかはわからない。
ラナトゥーンの人間は、色白の肌に薄い色素の髪が基本だ。ジェスのように、漆黒の髪を持つ者も、褐色の肌を持つ者も、少なくともジェスの周りでは見たことがない。
初めてジェスを見た者は、ほとんどが眉を顰める。そうして口々に影ながら言うのだ。異質の血が混ざっている、災いの色だ、と。だが山麓の村に残してきた貧しい両親は、他の家族と変わりのない普通の父母だ。漆黒の髪でもなければ褐色の肌でもない。だからといって両親にジェスの容姿のことで嘆かれたこともない。外見を除けばどこにでもいる普通の子供だった。
(噂……か)
だが黄昏れてやるものか、と思う。嵐に晒されようと、人の靴裏に踏み潰されようと、決して枯れることのない万年樹の花のように。しぶとくしたたかにと決めた。そうでなければ自分を産んだ両親に失礼だ。ジェスに叩きつけられた非難を自分のことのように胸を痛める両親を見ていればこそ。
隠しきれなかったジェスの自嘲を見た女性は、慌てたように首を横に振る。
「あ、いいえ! 決して悪い噂じゃないの。ごめんなさい、気を悪くなされたかしら……」
おろおろと立ち上がり、わかりやすいほど真っ青になりながらジェスを見上げる。
「とんでもありません。一応これでも騎士団に所属する身です。その程度の瑣事に気を割いているようでは、いざというとき命取りになります。それに、貴女様が気にするようなことは何もありませんよ」
ジェスが静かに微笑むと、女性は安堵し、そういえば、と言葉を重ねた。
「ごめんなさい。まだ名乗りを上げておりませんでしたね」
ジェスは目を見開き、続いて声を上げて笑った。
「この城にいる者で王女様をご存知ない者はおりませんよ。――第一王女様のルーン様でございましょう」
――ええ、とルーンが頷くのと同時だった。
骨ばった手がルーンの肩を軽く叩いた。気配もなく近づいてきた者に、ジェスもルーンも驚き、振り返るとそこには一人の男がどこか冷えた笑顔を浮かべて立っていた。
血の気のなくなった顔で、ジェスはその場に叩頭し、ルーンは細い肩を微かに震わせ一歩下がる。ジェスは、頭を下げるほんのわずかな一瞬、笑顔に戻ったルーンに再び暗い影がさしたのを見た。
「ああ、楽にしていいよ」
低くのびやかな声。ジェスは失礼しますと呟き顔を上げると、自分を見下ろし薄い笑みを浮かべた瞳とぶつかった。
整斉たる印象を見る者に与える青年だった。袖口がゆったりした白いブラウスの、首から下全てのボタンがとまっている。黒い細身のパンツから覗く重そうな革靴は、汚れどころか通された紐まで手が行き届いているのがわかった。彼のふんわりと癖の強い金髪は、ルーンよりも少し赤みが強く、風に乱されるのを厭うように細長い指を軽く添えていた。髪も瞳も明るく、また常に微笑んでいる姿は向日葵の花のようだった。穏やかさの中にもどことなく自信があるように窺える。彼の上がった口角を見ていればこそ、余計にそう感じてしまうのかもしれない。そんな姿を見つめていたジェスに、不意に男は一瞥をくれた。そしてすぐに逸らした。
ほんの一瞬のことだった。背筋にぞわりと虫が這うような、姿の見えない恐怖がジェスを唐突に襲った。物柔らかな雰囲気とは裏腹に、彼の瞳の奥に宿った意思の色――いや、隠れた素顔の一面は、冷たい氷をはらんでいる。
ジェスは自分でも驚くほど、戦慄した。地面についたままの手が微かに震えているのを見て、更に驚愕した。
ルーンと同様、この城に関わる者ならば、誰もがその存在を知る男――次期国王に最も近いとされるアズ・ラナトゥーン。ルーンとは血の繋がった
「ルーン、こんなところにいたのかい。随分と捜したよ」
自然と差し出された手を、ルーンは素早く打ち払った。
「わたしに触れないで」
「おやおや。何がそんなに気に入らないのかな」
「――白々しい。何もかもよ! みんなわたしの言葉なんて子供の我儘だと聞いてさえくれない。わたしはあなたと婚姻を結ぶかと思うと反吐が出るのよ!」
ドレスの裾を握り締め、まるでそうすることで自分の怒りを最小限に抑えているようにも見える。穏やかに微笑っていたルーンと、今の激しさを隠さないでいるルーンと、どちらが本当の彼女の姿なのかわからないほど、ジェスは困惑していた。まるで夢幻を見ているようだった。顔を真っ赤に染め上げ息も絶え絶えに捲くし立てているルーンを、ジェスは数歩下がった場所から見つめた。
(もしかして……)
ルーンの涙の理由はそこにあるのだろうか。
ラナトゥーン王族に産まれる者には、人知を超えた能力が備わる。例外なく今まで王家が続いてきたのは、王族以外の者と婚姻を結ばないからゆえだった。一度は失った能力を再び取り戻した祖先は、血が薄れてしまうことを懼れた。封印し、使うことのない能力でも、使わないのと失くすのとでは大きな違いがある。喪失は、自分の手足が動かなくなるのと同等の恐怖だった。やがて現在の条規ができあがり、外部との婚姻は一切認められなくなった。
だがルーン・ラナトゥーンだけは異を唱えたという。血の繋がった者との婚姻を拒絶するわけではない。ただ、望んだ者との婚姻が認められない規律は、いつか瓦解を招く、と。現に他国との交流は、ほとんど皆無に等しい。自国で賄える産業には限りがあり、少しずつ、人の目に見えないほど小さな毀れが、ラナトゥーンを蝕んでいるのも事実である。
ルーンの意見を支持する者も、勿論いた。だがその大半が女性で、公述するのは難しいのも現実である。公定が男性でなければいけない、という決まりはないが力量の差か、女性よりも男性が官に望まれるのも確かなのだ。
「そういう話題は、もう少し場所を選んで話していただきたいものだね」
アズに言われて、ルーンはそこで初めて辺りを見渡した。
突如向けられた視線に狼狽し、俯きながら足早に廊下を去る者、柱の陰で事を静観していた者が不自然に歩みだす姿。よく見れば、両手では足りないほどの人間が、ルーンやアズ、そしてただひとり部外者とも呼べるジェスを物珍しげに見ており、――やがてそれらが散った。
ルーンの頬に朱がさすと、アズはやれやれと細い息を吐いた。
「で? 君は私への不満をそこの見習い騎士殿に洩らしていたわけだ」
「そんなこと言うわけないじゃない!」
「どうかな。君が私を疎んでいることは有名な話だからね。――まさか頬に触れただけで血相変えて逃げ出すとは思ってもいなかったけれど」
万年樹に体を凭せかけ、腕組みをしながらアズは軽快に笑った。
ルーンは不快と蔑みの目でアズをねめつけ、アズはそれをかわし穏やかな笑みでもって迎えた。
だがジェスは見た。ほんの一瞬、再び自分に一瞥をくれたときの、アズの凍えるような視線を。
今、ジェスの目に映る、物腰の柔らかい眼差しとは真逆――獣のような瞳だった。一瞬のことで、気にとめるほどのことではないのかもしれない。けれど、ジェスは彼のあの身を凍らせるような冷たさの瞳が苦手だった。情けないけれど、指が震えて止まらない。ルーンに視線をやろうとすれば、毎回あの眼差しを受けた。
無言の重圧なのだろう。彼は暗に言っているのだ。ルーンと関わるな、と。余裕をちらつかせながら、その裏では烈しい感情を燻らせているのが窺い知れた。
たまたま居合わせた程度の男に、嫉妬しているのだと先ほどの一瞬で悟った。
「――ああ、悪かったね。仕事の途中かい?」
所在無く二人のやりとりをただ見ていることしかできないジェスに視線をやり、アズは体を起こし言った。
「ジェス。またあなたとお話できるかしら。今日は恥ずかしいところばかり見られてしまったから、今度はちゃんとお話したいわ」
「わたくしなんかでよければ、いつでもお供いたします」
深く頭を下げ、それでは、と短く言い、二人を切り捨てるように背を向けた。ルーンとも、アズとも視線を合わせなかった。まるでアズから逃げるようだ、と自分でも思う。だがそれもあながち間違ってはいない。できることなら、もう関わりたくない。背を向ける直前に感じた、何か言いたげなルーンと、視線で人を殺せるのではないかと思われるほど鋭い眼光を湛えているのであろうアズが、脳裏で複雑に交差し、そしてそれらがジェスに深いため息をつかせた。
(まぁ、話す機会なんてそうそうないとは思うけど)
そう思い至ったら、少しだけ気分が楽になった。自然と歩く速度も速まる。
背後を刺すような二人の視線も、万年樹の香りも気配も薄くなりはじめた頃、ジェスはふと眩暈に似た感覚に捕らわれ立ち止まり目を瞑った。色鮮やかな景色が、一瞬にして真っ白な閃光の渦に変貌した。
突如流れ出した風が、ジェスの鋼のような黒髪を撫でいたずらに遊ぶ。かたく瞑ったまぶたの裏が焼けるように熱く両手で顔を覆うと地面に崩れ落ちた。ごうごうと唸りを上げているのは風の音か。それとも――獣の声か。
そこまで考えて、咄嗟に目を開けた。
一番に目に入ったのは低い天井に使われた木の年輪だった。湿った匂いと、所々かびて染みになってしまった天井は、見慣れたもののはずなのに、やけに異質なものを見ている感覚になる。
暫くして、ようやく意識が戻ると、自分が寝台の上で横になっていることに気付いた。
――夢だ。
そう納得するまでどれくらいの時間が必要だっただろうか。恐らく今「ジェス」と呼びかけられたなら、ユナは無条件で振り向いただろう。それほど、夢の中のジェスと意識が一体化していたのだ。
深呼吸をして、一度眼を閉じる。そして再びゆっくりと目を開けたとき、やはり見えたのは低く、どこか薄汚れた天井。
光に溢れた万年樹が見える庭園は、どこにも見当たらなかった。
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