第4話 ノクト②家族~familia~
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ボドボドボド…
本来なら白い表鱗を、オリーブオイルでチリチリに焦がしたトリケラトプス系白竜人の少年・天野若尾(他称ワカ)は形容しがたいプロペラ音に首をもたげる。中天を回る太陽が眩しくて、クチンとクシャミのおまけつきで。
輸送ヘリのエンジンががなり立てる演奏は、その[[rb:襟>えり]]状突起の持つ集音能力には大きすぎた。
「うるせーわけ!なんで何台もくるわけ!?」
「うん…大きな音、なの」
その隣でトリケラトプスとしっかり手を繋いだ鯱人の少年・ノゾミも頭鰭からこくんと頷き追従する。
「てか大きいね!あんなに大きくて撃ち落とされないのかね?」
更に鯱人のその隣で、これまた身体のあちこちを焦げ跡で飾った犀人の少年・荒川
トリケラトプスと犀人はつい先程までささいなきっかけで死闘を演じ、ペンギン人
避難所の上空には、合計四機ものヘリが飛来していた。風はさほどないのだが、なぜか空中にとどまって陣形を何度も組み直している。
先程スピーカーから指示されたように、避難者総勢947人のうちほとんどは建物側へと集まり、あるいは一部建物の中から外の様子を見守っている。
トリケラトプス人のワカ、鯱人のアキ、犀人のシャモ。その背中にそびえるのはサモエド系の
この六人は他の子供達よりも前に、一番見通しの良い最前列に陣取って思い思いに頭上を眺めている。
三角の耳、様々な毛並み、太さもまちまちな角の生えた頭たちの上から「ピガッ、ピガガッ」と、スピーカーノイズが弾け飛んできた。
『あっ、ああー、あー…これいってるさー?うん?聴こえてるかねあっちに?だからそうさー、先に行くさー』
少し鼻にかかる
『あ、あー…聴こえてますかー、豊沼の皆さんー』
避難所の子供達から「きこえてるよー!」と声が上がる。
『これからここに病院を投下しますのでー、どうかそのまま離れてていてほしいさ〜』
大人達はネコジャラシで鼻先をくすぐられたように微妙な顔になり、子供達は何が起こるのかと目を輝かせ尻尾を振り回す。
「聞いた?びょーいんだって!」
「うん!とーかするって!…とーか、ってなんだろ?」
刺激が少なく制限は多い避難生活。『災害』の恐怖が押さえつけてきていても、彼らの生命力はそれをはるかに凌駕しているのだ。
『それではいくさ〜、はいドーン!』
建物に一番近い輸送機の腹がポカリと割れた。
動物の胸郭にも似た構造の格納庫が裏返しになり、素っ気ないベージュのコンテナが落下傘にぶら下がった状態で大気中へ放流される。
「わー、パラシュートだ!」
やんやと騒ぐ子供達。駆け出して近づこうとするのを引き留める大人達。実際そうしていなければ危険であったことを次の瞬間誰もが理解した。
だしぬけに大気中を漂うコンテナの底面四隅からワイヤロープつきのビスが地面に撃ち込まれた。
コン!と乾いた音を返すコンクリート。その奥深くまで矢尻のような金属が刺さり、さらにそれを頼りにコンテナがゆるゆると降りてくる。…どうやらロープを巻き取るウィンチのようなものが内蔵されているらしい。
やがて狙い通りの位置に固定されると、地面についていない箱の五面が爆発した。…ように、壁面に折りたたまれていた内部構造が展開したのである。
「うぉー!すっげーわけ!」
これにはワカもノゾミもその他の面々も興奮して手を叩く。
瞬く間に二階建ての車椅子用スロープつきの診療所が、迷彩柄に覆われた姿を現した。
『お次は〜、発令所行きましょか〜。ほいさっ』
コチンという小さな音が語尾にくっついている。どうやら掛け声と一緒にボタンを押しているらしい。
二機目が同じように腹を開いてコンテナを産み落とし、診療所の横にやや無骨な平屋の建物が現れる。診療所よりは小さいが壁が分厚くなっており、強度は倍近くありそうだ。
『奥様たちの強〜い味方も持ってきましたさ〜。そーれ!』
三つ目は、やけにふんわりのっぺりとした大きな食パンのような建物。それは「総合金融・販売連携所」、つまりは銀行郵便局とスーパーを合わせたものなのだという。
「えーと…病院と…基地と…お店屋さんもできて…あとは、なんなんだろうなの」
指を折って数えながらノゾミはクリンとした瞳で成り行きを見守る。すごいけれど、まだ幼く軟らかい心にはちょっとおっかない光景だ。
ワカの横目がその顔をチラと撫でた。
白竜人は尻尾をそっと振って、ノゾミの双葉の形の尾鰭と先端を触れ合わせる。風がいじった穂先のように軽く、まるで何気ない仕草のはずみだとでもいうように。
「………?ワカく…」
尻尾の感覚が鋭敏な竜人とは違い、根元よりもやや鈍感な鰭先への接触は、ノゾミ本人も気のせいだろうかと思うぐらいかすかなもので、思わず問いかけてしまう。が、ワカは何も言わない。ただ面白くなさそうに、ノゾミのことを無視して前を見続けている。
けれども手を握ってくる指の力は衰えない。ノゾミはワカが何を言いたいのか、その含まれた意味を推し量ることはできないけれど、なんとなく心臓のあたりから温もりが広がってきた。
これから、新しいことが起こる。いや、今まさに起き始めている。
運命の歯車が回り、坂道を転がるボールのように止まらない何かの予感が押し寄せてくる。
それは、怖い。恐ろしい。ワクワクする反面、瞼が震えるほど緊張する。
(だけど、ワカくんのこの手がある限り、不安はない。ワカくんがおるさけ平気や。怖くてもへっちゃらやねん)
嬉しい。そう感じると、少しだけノゾミの頭鰭が震える。
(自分が他の子より劣ってるて、そんなこと僕が一番よう分かっとる。ワカくんの言う通りや。グズでノロマでオッチョコチョイでおまけに泣き虫。…けどかまわんねや。僕はワカくんの子分やねんから、それでもええってことやよね…?)
ワカはノゾミの視線が自分から外れると、すぐに相手の表情を確認した。そして頭鰭の反応を見てとり、ちょっとだけ頬を緩め、また唇を真一文字に引き絞って最後の輸送機を見やる。
『それでは最後にお待ちかね〜、スーパーな贈り物をさせて頂くさ〜』
子供たちの期待が
『っそぉい!ど〜ん!!』
最後の機体から着地して展開したのは、ティッシュの箱にボールを幾つも植えたような珍妙な建物だった。
はじめは怪訝そうに眼をすがめていた住人たちの表情が、壁に大書された『♨︎』のマークに照らされたように輝く。
「うぉっふぅ〜!風呂だぁ〜!!」
最初に叫んだのはセントバーナード系犬人のユキだった。
犬人で毛足の長さもそこそこある少年は、特に暑がりで、湯船に全身を浸かって毛根の根元まで汗を洗い流すのが大好きなのだ。
それが『災害』のせいで家を追われ、先の秋から避難生活が始まったことにより、それまでは多い日は日に2度3度と湯を使うのが習慣だったのを週に一度のシャワー浴で我慢するしかなかったのである。
歓喜を全身で表して、ぴょんぴょんと空気を踏んでジャンプするユキである。
「うふっ。うふうふうふふふ…」
避難所の中で誰が一番底意地が悪いかと聞かれたら、子供達の指はこのセントバーナードに向かうだろう。みんながそう思うほど他人の傷口をほじくるのが大好きな犬人が、跳ねるのをやめると眼鏡の奥の目を細めてうつむき、震えていた。
「笑ってるなユキ。そんなに嬉しかったわけ?」とワカ。
「…気持ちはわかるなの…僕も嬉しいし…」とノゾミ。
「湯船に入るなんてもー、昔のことすぎて忘れちゃったね」とシャモ。
「シャワー週一じゃさすがに臭いもん、これで気持ち悪い汗のベタベタも大丈夫だね」
とナオヤ。
「さて、誰が一番最初に入るかな」
とトオル。
「僕は一番最後でいいよぅ」
と、なぜか怯え顔なユウイチ。
押し殺した笑いが漏れているのだろう。そう思っていた彼らの後ろで、セントバーナードが天を仰ぎ号泣した。
「うふっうぶぶぶ……………………うわぁぁぁぁん」
「えっ、泣いてるわけ!?」
「笑ってるんじゃなかったなの…!?」
「そこまでかね!?そこまでカンドーしてるのかね!?」
ワカ、ノゾミ、シャモは両手をだらんと身体の脇に垂らして身も世もなく涙を流すセントバーナードの感激っぷりに若干引いている。だいたいにおいて体温の高い子供、さらに言えば男の子の方の数が多く、彼らは泥んこにまみれていようとへっちゃらだし熱くて面倒な風呂はそこまで好きではないのだ。
「大丈夫!?鼻水とかも出てるけど」
とナオヤはおかっぱを振り乱して慌て、
「それだけユキは嬉しいんだろうな。俺なんかは汗を拭くだけでも充分なんだがな」
とユキよりもずっと毛深いサモエド系犬人の透は、腕組みしては皮脂と汗の汚れで若干色味の変わってきている尻尾を振り、
「ここ怖いよぅ、こんなユキ見たことないよぅ」
とユウイチはペンギン人の嘴を目まぐるしく開閉して
そんな子供らであったが、大人達は透に近い心情であり内心では小躍りしていた。
何しろ入浴施設である。日本人なのである。成長するにつれてそのありがたみも増してくる、温泉・銭湯とは切っても切れない離しても離れられない宿命の民族なのである。
『以上をもって建築物の投下は終了です〜、実際の稼働は発電装置その他諸々の動作確認をしますんでまた後日〜。明日には医師・通信士・整備士・金融経済担当の会計士など他の隊員が食糧及び援助物資とともにやってきますので、そっちはそれまでお待ちくださいさ〜』
荷物を降ろした順に数えて一機めの輸送機。その操縦席があると思しき区画のドアが開き、コクピットからソッブ型の力士のような固肥りの人影がのぞいた。
「…あいつなんなわけ?あんなとこから。あぶねーわけ」とワカは小馬鹿にする。
「…さあ…でも、パラシュートもつけてないみたいなの…」とノゾミは小首を傾げる。
「ノゾミっち目ぇ
「大丈夫かな、大丈夫かな、片脚ほとんど外に出てるけど!?」とナオヤはわたわたしている。
「あのまま落ちてきそうだな」とトオルは平然と口にする。
「さすがにそれはないよぅぅ、そんなことになったら怖」
最後のユウイチの科白の終わり間際、人影がぽろりと落っこちた。…否、両手両足を曲げたり伸ばしたりしながら自ら飛び出した。
「飛び降りた!?」
と真っ先に駆け出したのは直哉だった。その後から
「あいつバカなわけ!死ぬわけ!」
「何か敷くものなの…!」
「間に合わないね!死ぬね!」
「南無阿弥陀仏な」
「怖いぃぃー!!」
と、まだ感涙の余韻にぼうっとしているユキを除いた全員が引っ張られていく。が、肝心の落下地点には間に合わなかった。
ドシャ、グシャ!
…そんな音を想像し、めいめいが耳を塞いだのだが。
実際には「ツトン」という小さな第一音、それに続く「ドササササササ」という連続音がしたのみだった。
ノゾミとは違った意味で目のいいワカには、下膨れな体型の自衛隊員が地面に片方の爪先をつけるや自ずから折れるような複雑な倒れ方をし、さらに落下の勢いを回転運動に変えて身体をころがし、スックと立ち上がるまでがスローモーションのように焼きついた。
「…すっげぇわけ…」
走りながらもノゾミの手は放さず、ワカは素直に感動する。
八点着地___
日本人の大半が、人生のどこかで(その大半は体育の授業で)受け身の取り方を教わったり、いくつかのやり方を実践したりしていることだろう。
投げられたり倒れ込んだりした時に怪我をしないための受け身の数々。ただしこれは、畳の上ではなく高所から飛び降りても無傷でいるための方法として発展したもの。それが、この奇妙奇天烈な着地技術である。『八点着地』はその正式名称なのだった。
高所から身一つで落下した際の衝撃を、足首から先、膝から下、臀部、腰背部、肩、二の腕、肘、手首から先の、計八つの部分で受け身を取ることで分散させ、もって熟達した者はパラシュートなしで飛び降りても怪我ひとつなくいられるようになる。___土埃に多少はよごれるとしても。
避難所の者たちは、練達の隊員によるまさに受け身の応用であり最高の到達点を見せつけられたのである。
その隊員は男、それも胡麻塩になりかけの頭から年齢は壮年に近いことが明らかな人種不明の人物だった。
「キズひとつねーわけ!」
「すごい…すごいなのこんなの見たことないなの…!」
「なんて頑丈なんだね!バケモノだね!」
「なんかすごい変な地面のつき方だったけど、あれで大丈夫だったの!?」
「あっ、ヒゲを生やしてるな。ちょっと、かっこいいな」
「でもちょっと太りすぎなんじゃない?よく足とか腕とか折れなかったねぇ、怖いねぇ」
卓越したプロの技術を披露した軍人は、ドヤ顔で小鼻を膨らましながら格好良く話し出そうとして、ふいに団子鼻から頭をのけぞらすと
「ウブェックショオィ畜生っ!」
と盛大にくさめを取り落とした。
「クシャミしたわけ」
「え、…クシャミなの?」
「おっさんくせーね!いま足とかゴリラみたいに大股で踏ん張ってたし、すげーおっさんくせーね!!」
「大丈夫…だよね?」
「寒がりなのかな」
「怖ぃぃ…くはないよぅ…?」
黒っぽい軍用の
首元に覗くのは黒シャツとドッグタグ。広い肩にはミニサイズの樽のような頭が載っている。
「やーははは、ちと締まらんかったさぁ〜」
鷹揚に牛のような尻肉を掻きながら歩いてくる姿は、団子な鷲鼻も相まって某ラテン系のスーパーでマリオなゲームキャラクタそっくりだった。
「おっさん
ワカは唐突に現れた軍人に、
「んー元気元気!男の子らしくていいさ〜やははははは!」
下から
「まず、そうだな〜、人種でいえば自分はサソリ人さ〜」
背中側に隠れてあった尻尾をひょいと肩口までもたげさせると、全体に数珠玉が連なったような形のその一番先には特大の毒鈎がついている。
「
咥えた笹の葉を弄りながら、とろんとした半目でぼんやり視線を投げかけるサモエド系のトオル。他の少年たちより頭二つ抜きん出た身長の犬人に、軍人はまたも笑いかける。
「おっ、分かってるのもいるさ〜。そう、自分はレア度の高い人種だから、知り合いに一人いると自慢できていいさ〜」
虫系人の顔のあたりはヒトと変わらない。この軍人の場合はこめかみから甲殻類のような甲羅に覆われた触覚が突き出ているのがヒトと異なる点の一つだ。尻尾と同じ、いや若干尻尾よりも明るく、熟したトマトのように清冽で透明感の強い緋色。
「カッコつけても虫ケラじゃねーか。威張んなっつーわけ」
ワカは忌々しげに口を歪める。と、
「やーははは、坊主は軍人がキライさ〜?」
サソリ人は爽やかに胸を反らして笑う。まん丸く突き出た腹肉の上、ちょうど心臓の上あたりで小さな長方形のドッグタグが二枚、チタンの輝きを閃かせる。
「うんうん元気元気、
科白の途中から声音が厚く重くなり、尻尾を「ぶん」と一振りくれた。
ワカの鼻先をかすめて血玉髄の鎖のような尾(よく見ると毒針部分に黒いカバーがされている)がしなり、靴先の地面にぽっかりと刺し跡を残した。白竜人も無駄口を叩く危険を悟って押し黙り、ノゾミはこの好戦的な親友が無茶をしないかとハラハラしながら半ズボンが合わさるほどピッタリ体を寄り添わせる。
固肥りな軍人は、剣呑になった目元をまた緩め、迷彩服の脚を揃えて爽やかな敬礼を示す。
「やっははは、これは自己紹介が遅れました!自分は陸上自衛隊日本海地域治安維持部隊第17支部に配属されました、
階級は軍曹、さらにヘリから降ろされたのはたった一人、しかし地域の最高責任者たる指導管理官に選出されたと宣言した照雄に大人達は落ち着かなげだ。
ザワザワ…と疑問符を含む呟きに呼応して、さらに何割か増しの「にっこり」をかぶせて新任の管理官は胸を張る。
「やーははっ!指導管理官というといかにも偉そうですが、ま〜やることといえばこの富山第二避難所の皆さんの、最低限文化的な生活と活動における指導と管理、憲兵業務及び行政代理及び代理教員及び………以下省略。そんなあれやこれやの一切合切とにかくみなさんの当面のお世話をさせて頂くことになりましたさ〜。どうぞ宜しくさ〜!!」
やっははははは!と尻尾をひらり、自分の頭よりも高く掲げる。
「あ、自分のことは気軽にサージェントと呼んでくださいさ〜。とりあえずはドクター及びコメディカルの設置、経済拠点の創設、インフラ整備などなど、ですかね〜?もちろんそれ意外にもこれからやることは盛り沢山でありますんでね〜。えーと、この避難所の責任者とか医療関連者はどこさ〜?」
油断したのかナメてかかることに決めたのか、住人達からあまり実態を伴わない文句が出る。
「…な、なんなんだあんた。いきなり偉そうに」
「そ、そうよそうよ。なんであたし達があんたみたいな軍人の言うこと聞かなきゃなんないの?」
「ふぅん。そうですねぇ〜………」
サージェントが片肘をもう片手で支えながら黙考しているのを反論の根拠なしと取り違えた避難所の大人達は、口々に罵声と忿懣をぶつけた。制止する者もいないまま、ボリュームだけが次第に大きくなる。
中には「配給の食材が嫌いなものばかりなんですけど!」「缶詰に食当たりしたら誰が責任もってくれるの?」「年金はどうした、戦死者だけなのか出るのは」「てか彼女的な人はいるんですか?既婚未婚バツイチのどれ?」などと直接関係のないことまで叫ばれていたが…
顎髭をこじり俯いていたサージェントが、すっと頭を上げた。その背後におどろおどろしい闇のオーラがあり、顔には反対に薄っぺらい愛想笑いが輝いている。
「黙れこの薄馬鹿ども」
言うが早いか襟元に掴みかからんばかりだった自称漫画家の眼鏡の男性が、脚から掴まれスウィングでぶん投げられる。
「たっ、高田さーん!?」
名前を呼ばれて眼鏡の男性は笹薮に腰まで突き刺さりながらも手を振る。どうやら無事のようだ。
「こっちは命かけて行動してんだ。覚悟も無えくせに吠えてんじゃねぇぞ」
次に手近にいて一番ダミ声が大きく息の臭い自称小説家のハゲ親父が、空中に舞った。
「たっ、田中さーん!?」
田中
「いいか、自分は、それから自分の後から来る隊員は、それぞれが命懸けで任務にあたっているんだ。それを余計なピーチクパーチクで足引っ張りたい奴は、自分が相手してやるからかかってきやがれ!」
実際この二人は避難所でもあれが欲しいこれが足りないそんなことはしたくない、の三拍子揃った厄介者だったので、ぽっと出の軍人から尤もな理由でのされたところで誰一人として同情も介抱もしなかった。
「血の気の多か輩やな。わがどんの都合ばかり押し付けてもどがんもならんとは、あんたも同じやぞ」
金属製の車輪がレンガをなぞるようなガラガラ声がした。
まるで十戒の伝説のシーンのように人波が真っ二つに割れ、その間の道を二つの人影が進み出る。
「ここに医者は居らん。いの一番に家族連れて首都に避難しんさったごたるけんにゃ」
一つはサングラスをかけ盲人杖を手にしたホルスタイン系牛人の壮年の男性。そっと寄り添い肩を掴ませて先導しているのは、白皙の美貌に黒髪を伸ばし、細く秀でた鼻に眼鏡を掛ける乙女、巫鈴。
目が不自由らしい牛人は、痩躯ではあるものの日本人¥にしては骨格ががっしりとしており威厳あるものだ。足元にも特に危なげな様子もない。 厚い唇にはパイプをくわえており、杖と巫鈴の先導がなければサングラスをかけたヤクザのようにも見える。
しかし。サージェントは訝しい物を試すように頭を傾けた。
ホルスタイン系なのは間違いないのに、地図のように広がる黒い模様はない。
いや、正確には、黒いはずの斑紋がベージュに近い色をして極端に薄いのだ。それだけではなく、短く刈り込んだ角刈りの
「おっしゃる通りですさ〜。できうるなら自分も無用な乱暴はしたくないですよ〜。…ところでご老体、あなたは〜?」
サージェントの肩にぴしりと杖の一撃が飛んだ。
「ワシはまだ56や。失敬か奴やな。…避難所の
ワカはジリジリと潮からリーチを取ろうとして、敏感に気配を察した本人から「喝!」と気合で止められて背すじが跳ねた。
「な、なな、なんでございましょうかなわけ」
「ワカ、貴様ワシに無断で外に出よったな」
「…あっ、巫鈴姉チクったわけ!?きったねー!!」
「質問しとるのはワシや、答えんね」
「…〜っ、そら、その、えーっと…………」
言い訳を探して、その辺に落ちていないかと首を巡らせるトリケラトプス。すかさずおつむを杖が撃つ。
「いっっっってー!!ホシイモてめぇ!!」
「サイレンの鳴りよったり、地面の揺れたり煙が見えたりしよるうちは外に出るな。何度も言いつけたつもりやったんやが、いつんなったら分かるんや?」
「…あ!…あの、ノガレホシさん!」
ワカを庇うように前に出る鯱人も、サングラスで遮られてなお鋭い潮の眼光に金縛りになる。…がそれでもワカのためにと勇気を出して告げた。
「…ワカくんは…僕のために…僕を心配して探しに来てくれたのなの…それに、そう言いつけたのはノガレホシさんなんでしょ…?なのに、なんでぶつんですか。…ひどいなの!」
「ワシはそがんこといっちょん言いつけとらん」
え、と振り返るノゾミに、余計なことを…と恨み節を訴えるワカの顔があった。
「言いつけに背いた上に友達にまで嘘を吐きくさってから。こん阿呆が!!」
「まぁまぁまぁまぁ、ご家庭の事情は後でゆっくり話し合ってくださいさ〜」
柔らかい物腰で柔らかそうな両手をかざし、サージェントが割って入る。
「ひとまず自己紹介が済んでからにしましょうさ〜。あ、これ名刺です〜。本部で急遽刷ってきました〜」
「…ワシは読めん。先に言うておくがな」
潮はサングラスを上げる。そこには空と同じ色の双眸があった。
光を反射して眩しそうに細める、アクアマリン色の瞳だった。
「青い目、金髪なんは生まれつきばい。これでも生粋の日本人や。色素欠乏言えば分かるやろ。ついでに言えば、直射日光を長時間浴びることもできん。専用のクリームのもう切らしとるけんな。文字はお前さんらにとっては薄暗いぐらいの場所で、
サージェントはさして驚いた風でもなく頷く。
「ワシらは堺の方から逃げて来た。風炉眼さん、
「前いたとこですか〜。北九州の駐屯地で、やっはははクソど田舎でしたさ〜」
えっ…と大人たちが言葉を失くす。ようやっと息を継いだ一人の鶏人のおじさんが、中部四国以西じゃ『災害』初期のあおりをもろに食らって地獄絵図ではなかったのか、と下から窺うように尋ねた。
「そうですさ〜しこたま死にましたさ〜。自分の居た隊だけでも48人ぐらいですさ〜」サージェントは昨日の晩飯を問われたように気軽に答える。「九州といえば、まー皆さんお分かりかとは思いますが〜、『災害』のせいで見事にズタボロでしてねやっははははは。
微妙に訛ったイントネーションだが文面は正しい標準語。思い出したように生まれと育ちは那覇だと付け加える。
「ですから自分は〜、わりかし癒し系なナリをしてますが〜、恐らくこの辺りにいる隊員の誰よりも人を殺してますさ〜。ですから皆さんには〜、どうか自分の機嫌を損ねないで頂きたいさ〜。でないとどうなるか自分でも分かりませんさ〜。なにしろ状況が盛り返しているとはいえ、未だ『災害』下なんですしね〜。やらなければならないことは腐るほどあるさ〜。ですのでこれ以上つまらないことでガタガタ言いやがったら貴様らの命で償わせんぞこのクソども」
最後の数フレーズは大人達を震え上がらせるのに十分だった。子供たちは自分たち以上に子供っぽく喚いて醜態を晒す愚かな大人をサソリ人がいともたやすくやっつけたこと、膂力に物を言わせた力技を見せつけられて尊敬の眼差しを向けている。
無論それはノゾミも同じであった。だがノゾミとしっかり手を繋いでいたワカは、周りの子供たちとは違った目をしていた。
「…ん。なんだ坊主〜?何かもの言いたげさ〜。吐き出してごらん〜」
風炉眼は___サージェントはのっそりとワカの前にしゃがみ込んで目線を合わせる。そこには相手が歳下であろうとも変わらない態度があった。
「…サージェント、あんた、強いわけ」
「うん、まあそうさ〜」
「どれくらい強いわけ」
「そうさね〜、熊には勝てないけど人類なら負け知らずかなってとこさ〜」
「ふーん」
ワカは自分の靴先を見ている。サージェントは口角を上げてその肩に手を乗せた。
「強くなりたいさ〜?」
「別に」
僅かの間もなくワカは首を振り、その手を払いのける。しかし胸の裡では正反対の答えを持っていた。
(強くなりたいに決まってるわけ。強くなれば守れる。強くなれば勝てる。強いやつは偉い、強いやつは他人に命令できる、強いやつはなんでも好きにできるから……それに……)
遠のくサージェントの気配に表情を苦くしながら、さらに一つ心の舌で言葉にした。
(…強いやつは、生き残れる)
それを頭でわかっていても、差し出されたものを素直に受け取れない性分のワカなのだった。
そんな雰囲気をぶち壊すように、犀人の少年が一番はじめにハイハイハーイ!と手を挙げる。
「俺っちは強くなりたいね!いっちばん強くなりたいね!」
サージェントはニヤリと笑う。
「じゃあ、まずこれだけ約束さ〜。強くなるには責任が伴うもんさ〜。闇雲になって力を振るえばそれはただの暴力さ〜。君には、守りたいものがあるさ〜?」
一瞬大人達の頭上に「二人も問答無用で投げ飛ばしたお前がそれを言うか」というテロップが浮かんだが一瞬で消えた。
「あるね!みんなにルールを守らせる!ワカみたいなイジメっ子がいなくなるようにするね!」
シャモは得意げに鼻を鳴らし、ワカはシャモを鬼さながらの形相で睨みつけた。「やんのかお前コラ」と目つきで語っている。そして、ノゾミの指を再び強く握り返す。
「働か
シャモの場合、そこには避難所の仲間たち、とくにある特定の一人を守りたいという思いが多分に占めているのだが、本人は己自身の想いをそれと自覚してはいなかった。避難所の外にいて作物を奪ったり悪いことをする連中から持ち物を守る、そのために強くなる…それくらいの単純な気持ちだった。
「じゃあまずは合格さ〜。でも先に国語を教えなきゃいけないかもさ〜。…よし、今いる子たち、明日から早速授業を始めるから、
子供達の顔から、えええやだぁ〜!と文句が溢れるがサージェントの
「文句言うやつ逆らうやつブッチするやつ、まとめて投げ飛ばすぞクソバエどもが」
と笑顔を利かせたドスで口をつぐむ。
「よーしみんな良い子さあ〜。自分が来たからには勉強も体育もしっかりきっちり執り行うからさ〜、覚悟することだなククク地獄はこれからだ」
腕を組んで睥睨し、腹の底から割れ鐘のような笑いを含ませる。科白の最後の部分がどうにも悪役にハマる、サージェントであった。
ここで巫鈴が自分の肩に乗せている父親の手を軽くトントンと指で叩いて促す。
「おお、そうやったな。こっちの巫鈴はワシの娘や。手伝いと注射やら点滴やら、まぁ
巫鈴は父親に従い控え目に頭を下げる。そしてかぶりを持ち上げたとき、その容貌をまじまじと観察していたサージェントと目が合った。
サージェントはさして驚いた風でもなく…
「…やっは!」
と、スライドするように巫鈴の正面に移動し、登場以来初めて真剣な眼差しになった。
「自分、呼吸が止まるかと思いました。何も言えなくなるかと」
「…は…?」
黙って真面目な顔つきになると、サージェントはそこそこ男前の渋さを持ち合わせていた。その姿勢と表情を崩さぬまま、紳士的に巫鈴の豊かな胸に手を差し伸べる。
「初めまして、諸事情により当避難所地域の指導管理官と相成りました風炉眼です。よろしく、デカ乳プリンなおねいちゃん…いやもうプリンちゃん。今晩一緒に楽しい時間を過ごしませんか。ぶっちゃけ、どうかな、一発!!」
サージェントの指先のわきわきが、アルファベットの後ろの方のサイズを誇る胸の盛り上がりに達する前に、背中まで届いた髪を振り乱して巫鈴の身体が沈み、見事な回し蹴りがサソリ人の側頭部にヒットした。
「誰が豊満な胸の清楚で謙虚で知的な面を覆い隠せないほどの美貌を持つ大和撫子ですって…!?」
誰がそこまで言ったのだろう、というツッコミはどこからも入らなかった。
「言うのが遅れたばってんな、ワシは居合道免許皆伝、巫鈴はワシに感化されて物心ついたときから合気道やらなんやらやっとるけんにゃ。こがん痩せとる
潮の説明の正しさを証明するかのように、巫鈴は格闘技に転向したディズニーのお姫様キャラクターばりのアクションで自分より倍以上の体重のサージェントを投げ、ちぎり、もいで、ひねった。
「どごっ」「がすっ」という生々しい連続音のあと、ボコボコにされたサージェントは地面から蘇るヒキガエルのような姿勢で片手を挙げ
「のちほど…各ご家庭ごとに…マイナンバーによる…世帯主確認をしますさー…ので…呼ばれたら発令所まできて下さいさー…あ、やっぱ自分が出向きます…そ……そんでは本日はこれで解散…」
と言い残して息絶えた。
「大丈夫かな、あんなに殴られて蹴られて投げられて」
直哉は半分心配、半分呆れて呟く。
「めっちゃ蹴られたわけ。もうこてんぱんなわけだな」
とはワカ。警戒心はすっかり裏返って侮蔑に変わり、もはやその目つきは叩き潰された害虫に対するものである。こんな相手から強さなど習えるのだろうかという疑問符もおまけについている。
「…なんかエッチなひとなの。…あんなこと巫鈴さんに言うなんて、…失礼なの!」
ノゾミは剥き出しの雄の性欲を示したサージェントを汚物のように見下ろす。
「あんなにまともに受けて、はんかくせーね!がっせーね!」
道州訛りの言葉でポンポンと馬鹿にするシャモ。
「うふふ。鼻血も出してる。
ユキはいつも通り胸や腹の肉を揺らしつつ、他人の不幸を楽しんでいる。
「ただの助平野郎か、それとも意外にやれるのかな。さっきのオッサン二人を軽くやっつけたところを見ると、そう馬鹿にしたもんでもないのかもな」
笹を噛みながら思案深いため息をついて踵を返すサモエド系の透。いつも興味が失せるとフッと前触れなくいなくなるのがこの少年の癖なのだ。
「怖くはないけど、こんな弱いのか強いのかわかんないオトナが、僕たちに何をしてくれるのかな〜…やっぱり、怖い!」
元気に怖がるユウイチ。その肩を笑いながら抱くユキ。
こうした案配で子供達の中でのサージェントの株は、あの驚異の着地をピークにストップ安となったのである。
タタタタタ…
ドアを挟んで微かなミシンの針のタップが聞こえてくる。
内側には数人がいるようで、部屋の中の談笑が外まで響いてくる。
鯱人のノゾミは、ドアから離れて壁にもたれかかり、天井を仰ぎ見て時間が過ぎるのを待つ。
大きな尻尾は根元からの盛り上がりが壁に当たって、ずっとそうしていると痛くなるので少しずつ体勢をずらしながら…
(…サージェントやらいうあの人、ほんまはごっつ強いんやろな…)
軍隊の中での階級など関係ない。社会的な立場や偉さなど、それこそこの『災害』下ではなんの意味もなさない。実力本位の状況で、指導管理官といういわば全権を任せられるような人物の持つオーラのようなものを、ノゾミは本能で感じ取っていた。
(…エッチなのはあかんことや。けど、巫鈴さんに一方的にやられとったとき、サージェントの目がずっと笑っとった。あれはきっと平気やからや。余裕があるってことや。なんか、そういうことができるのって…えらいことやないんか。実は強いのにわざと相手に勝たせるなんて、ほんまに強いか自信がないとできひんことやないか)
前脛のあたりをスニーカーのかかとでこすりながら、ノゾミはひたすらに考えていた。ワカのように申し出たら、あの軍人は自分にも強くなる方法を教えてくれるだろうか。そうしたら、自分にもワカやシャモ達にひけをとらないだけの力が身につくのだろうか。
…いや、ワカを守れるだけの強さが得られるのだとしたら。
ドアが勢いよく開いて、ドヤドヤと内側から数人のおばさんが溢れ出てきた。
「オカさん、洋裁の続きまた明日ねー」
「また直伝の美味しい野菜料理のレシピ教えてね!」
「今度はタクミさんところにも、うちで作った野菜持ってくるわね」
「あらノゾミちゃん。外で待ってたの?遠慮しないで入ってくればいいのに」
ノゾミはぺこりと頭を下げて、おばさん達が去った後に素早く部屋に入って鍵をかけた。
「あぁ疲れた。おかえりノゾミ、外の様子はどうだったの?」
首筋に手をやりながら簾をくぐって現れたのは、ノゾミの母親のタクミである。
息子と同じく鯱人のタクミは、ダイニングのテーブルにつくなり「ん」と首を片方に倒した。肩がしんどいから揉んでくれ、とのサインである。
ノゾミは素直にテタテタテタ、とフローリングに裸足の音を立てながら横切って、母親の背中に回り、椅子の背に負けないよう爪先立ちになって一生懸命その凝り固まった肩すじを掴む。
タクミは長く伸ばした前髪を顔の右側へ編んで垂らし、同じく長い後れ毛をいくつもの三つ編みにしてある。ワカなどはそのヘアスタイルを例えて「でんでん太鼓なわけ」などとよく言っていた。
「えっらい大騒ぎやったんやよ、マーマ。シドーカンリカンやらいうおじさんの軍人さんがね、飛行機?ヘリ?からシュタタターッて降りてきよってな、ほんで」
「その喋り方はやめなさい」
「くゃ…」
ピシリと叱られ口ごもるノゾミ。タクミは腕が抜け落ちるようなため息をついて、息子の言葉を矯正するのをいっとき諦めた。語調を緩め、同じ言葉で尋ねる。
「憶えとったら、いつかは役立つかも知れへんもんね。少しぐらいはええかな…で?望、そのシドーカンリカンはんがどないしたん」
ノゾミはサージェントの立ち居振る舞い、その強さを滔々と語り、巫鈴のことはちょっとだけにして、降ろされた施設の数々について思い出しながら表現する。
「へぇ、大きいお風呂ねぇ。そないなものをありがたがるなんて、やっぱり
「あっちの習慣ってどうなん?パーパとマーマのいたところは?」
「ほうねぇ…水浴びとかシャワーはするけど、ようけ使えるほど水は多うないねえ。せやからはじめ、マーマやパーパはこっちきてびっくりしてたんよ。じゃぶじゃぶアホみたいに水使うてから、もったいないなぁ、って」
「じゃあ今みたく水不足でも全然辛うないのん?」
「ほうよー。へっちゃらよー」
へぇ、そうなんやと、アイパッチの中でつぶらな瞳をぱちぱちさせながらノゾミは思う。自分はこっちで育っているからか、この言葉以外にはほとんどこっちの人達と変わらないなと。生まれた時から毎日風呂に入ってきたし(『災害』が中断したのだが)、今だって飲み水には雨の濾過水や地下水が循環浄水器で利用できるため不自由はしていない。
「マーマ、今日もずっとお仕事してたん?」
「ほうよー。あー、そこそこ。そこんとこ右の方の骨のキワんとこグリッと頼むわ。あー効く〜」
「…近所のおばさんにお教室して、毎日畑仕事もしてるのに、身体壊しちゃうんやない?」
「望は優しいねぇ〜。ウチんことなら大丈夫よ。媚び売っとかんと、いざっちゅう時困るかも知れへんからねえ」
「いざという時って?コビって何?あ、このコリすごいね、背骨の横」
「あ゛ー、ええ腕しとるわぁ!さすがうちとあん人の子供やなぁ〜。将来は漢方でもやらへん?」
「それよりも、さっきの続き。ママは美人やし優しいし、もうこれ以上無理に気張ってどないすんの?それより僕な、もっとのんびりしてほしいねん」
「…顔の美しさが仇になることもあるし、大人には大人の事情があるんよ」
ノゾミはまた、そんなものかと考える間ができた。タクミはダイニングの隅に目につかないように置いてある二人分のナップザックをチラと確認する。その中には、三日分の食料と衣類と最低限の医薬品が常備してあった。
もしかの時には、ここを出て行く。…そんなことは考えたくなかったのだけれど、ノゾミは母親から寄ると触るとそう言い聞かされていた。
「それより望、あんたまたあのワカオやらいうお子と遊びに行っとったん?」ノゾミの首肯を感じるとタクミは少し顔をしかめる。「あんなぁ、あんまり仲良うせんとき。いざっちゅうとき辛うなるわよ」
「ワカくんは僕のこと探しに来てくれたんよ。危なかったのを体を張って助けてもくれたんやよ。それに…僕、ワカくんとだけは離れるのイヤや」
「あんたまさか、あのお子の前でその喋りやらしとらんやろね?」
タクミの肩の上で、トントントンとリズムを刻んでいた拳が止まりそうになったのをノゾミは意志の力でねじ伏せる。
「ううん?そないなことしとらんよ?」
「ほうけ」
だがタクミは見ていた。備え付けの小さな冷蔵庫の白い扉に映る息子の
「えらい強引なお子やいうけど、まぁええかね。はじめはイジメか思たんやけどね」
これにはノゾミも苦笑する。出会ったはじめの頃は、ワカの行動原理が全く理解できず、ワガママなイジメっ子だと勘違いしていたのだ。
でももうとっくに分かっている。本当は、構っているだけなのだと。良い意味で不器用なだけなんだ、と。
「あ、そうや。マーマ、さっきの話なんやけど、サージェントが家ごとにマイナンバー確認する言うとったよ」
「そう。分かった」
タクミの静かな返事。しかし表情が沈んでいる。もしヘルスチェックのための計器類に繋がれていたなら、心拍数と血圧はここまでの会話の中で最も高い値をつけたことだろう。
ノゾミはそんなことには露とも気付かずに、今日の出来事を楽しく語って聞かせていた。
母親の表情に、緊張と覚悟の暗い色が上書きされていることに気を回すには、ノゾミはまだまだ子供だったのである。
「やは〜、やっと最後の扉に辿り着いたさ〜」
何やらシミュレーションゲームの主人公みたいな声を上げて、中年肥りも甚だしい小結体型のサソリ人が避難所7階の、とあるドアの前に立つ。
避難所は宿泊施設を転用したものなので、当然のことエレベーターも設置されているのだが、電力の供給がソーラー発電に頼りっぱなしなため住民には階段移動が義務付けられている。それに律儀に従うのは、のべ40を越す世帯を回る人間にとっては過酷な試練と呼べるものだった。
サージェントはその各戸総てを回りきった。時間にして5時間。建物の外は夕暮どきで、さすがに腹具合も空っぽになる頃合である。
耳に届けられたのは、やはりというか予想通りというか、配給や医療教育に関わる不平不満がほとんどだった。
わけても避難所にたまに配給になるもの、嗜好品、甘物などは、親のいない子(みなしご)から優先的に選ぶことができるのだが、これが贔屓だ気にくわないとごねる保護者の多いこと多いこと。
よっぽどお得意のプロレス技でやかましい
(大体、文房具しかり子供服しかり本やおもちゃしかり、貸し借りできるもんなのさ〜。必要な時に使っていらない時は渡すか貸すかあげればいいだけのことなのさ〜。それこそ個人の持ち物管理に厳しい軍隊ならともかく、一般人なんだからどうして仲良くしないのさ〜?)
むしゃくしゃを振り払うように尻尾で空気を打ち、頬をパンと張って気合いを入れる。
ドアの上には気の弱い人間ならば尻込みしてしまいそうな闊達な墨書で
『遁干 潮 巫鈴 天野若尾』
と書きつけられている。表札などにではなく、壁紙に直接、だ。
こここそ悪の砦、ならぬ避難所の元・統括者、ホルスタイン系牛人のあんま鍼灸師こと遁干潮氏の居住する部屋なのである。
自衛隊幕僚により公式に任命された現・統括者サージェントと違い、『災害』が開かれてこのかた半年以上この避難所を仕切ってきたのだ。
先の配給における管理から住民の治療、いざこざの解決を一手に担ってきた実力者だ。一筋縄ではいくまい。…子供らからは苗字をもじって「ホシイモ」と呼ばれているのが唯一の和みどころだ。
サージェントは呼吸を整え、軽くひたいの汗を袖で拭うとドアをノックした。
「どうぞ…?お待ちしていました…?」
あの声だ。これは、自分がナンパして盛大に失敗したあの美女の…
サージェントがノブに手をかける前にドアが大きく開かれた。そこには服装は変わらないものの、エプロンを巻きつけた巫鈴が立っていた。そしてなぜか、片手にトンカチを握っている。
「どうぞお早く…暖気が逃げてもったいないですよ…?」
「いや〜へへへ…もうしばらくこうしていたいさ〜。をとめのすがたしばしとどめむ、なんつって〜」
エプロンを被せられ窮屈な思いをしてもなお、巫鈴の豊かな胸の揺らめきはおさまっていない。隠すことなく鼻の下を数十センチ伸ばしてやに下がるサージェントの顎髭の下に、巫鈴の膝がぶち当たる。
「なんしよっとか。さっさと入ってこんか」
潰された顔面をおさえ、ふひゃい、としまらない鼻声で戸口を狭くしながらサージェントは遁干家に上がった。玄関は靴や数本の盲人杖の他は片付けられており、写真や額縁も飾られてはいない素っ気なさ。
ふと目を先にやると、ダイニングに入っていく巫鈴の陰からあの生意気そうなトリケラトプスの少年がこちらをじっと見ていた。
「やはっ、若尾だったさ〜?いいなぁお前、プリンちゃんと一緒に暮らせて〜」
「うるせえわけ、このスケベ」
頭に乗せてやろうとした手を振り払い、ワカは猫のように外に飛び出していく。と思いきや、玄関とダイニングを繋ぐ廊下にあったドアから自室に籠もってしまった。どうやら信頼関係を築くには手強い相手らしい。
八畳ほどのダイニングは玄関と打って変わって家庭的にしつらえられていた。壁際には背の高い観葉植物の鉢があり、誰の手によるものか抽象的な絵画が架かっている。床は絨毯を剥いでむき出しの打ちっ放しだが、釘や鋲に靴下などを引っかけないよう丁寧に処理されてある。
玄関からと奥の部屋からの出入り口には貝殻の簾と木の玉の簾とが垂れ、テーブルには花瓶に野で摘んできたらしいケシが挿さっている。
そして可憐な花のむこうに、可憐とは程遠い殺しても死ななそうな頑強な牛人が腕を組んでどっかと腰を下ろしていた。
「よう
「やーはは、夕食の時間まで遅くなって申し訳ないですさ〜」
「構わん。どうせこん階の輪番やったしな。炊事に使える電力も限られとるけん、各階に事前通達して電気消費を集中させんごとしとる」
「なるほど〜。少ない資源の有効活用の基本は無駄をなくすことと共用と譲り合いですさ〜」
そのまま簡単に話は済むので手間はとらせないと言うサージェントに、潮は「なんば言いよっとか、夕飯はあんたさんのぶんも用意しとる。話は皿の来てからばい」と憤然となった。
視力の弱い牛人の青い眼は、ぼんやりとサソリ人輪郭を掴んではいるらしい。だがほとんどブレることのないその視線が居心地の悪さや緊張感をやたらに高めるので、サージェントはもみあげを何度もいじった。
やがてホクホクと白い湯気を昇らせた皿が運ばれて来た。内容を覗き込み、サージェントは思わず
「うぉぅっ!?」
と感嘆を示す。
彼の前に置かれた大皿には、避難所の菜園から採れたての野菜を付け合わせに、キツネ色に揚がった大ぶりのカツレツが存在を主張していた。
「にっ、にににににに肉じゃないですか〜!しかもこれは大きいさ〜!?」
「大きく見えますが…実際は鶏肉を叩いて薄く引き延ばしたシュニッツェルというオーストリアのカツレツです…本場は豚肉などを使うのですが…ここの家畜にはいないので鶏で代用しました…?」
巫鈴の解説にウンウンと頷くサージェントの口髭は鼻息で揺れ、だらしなく開いた口からよだれが糸を引く。
「巫鈴と若尾は先に夕食を済ませとる。こいつはあんたとワシのツマミごたるもんやな」
巫鈴の細い腕が茶碗に白飯をよそい、差し出す。サージェントはそれを受け、「やは、どもども!」と頭を下げる。テーブルの下から潮が一升瓶の焼酎を引っ張り上げ、
「まぁまずは一献いきんさい」
といつの間にか用意されていた猪口に中身を注ぐ。
「ときにサージェント、配属されたのはこの避難所が初めてかな?」
「やはっ、そうですさ〜」サソリ人はすっかり鼻の頭を赤くしてチキンカツを頬張る。「これまではよほど大きな避難所とか基地の一般人収容施設でもなければ、指導管理官は置かなかったんですがね〜。『災害』の局面が大幅に変わってきたんで、そろそろ復興を視野に入れるって話になってきたみたいですさ〜」
「うんむ」
潮の厳しい顔は盃を重ねてもいっかな緩んではいない。
「そいでどかんやった?ほかの家は。聞き取りやら戸別確認やらは済んだとか?」
サージェントは一心不乱に白米をかっこみながら首肯する。マイナンバー提出を渋ったのは一軒のみで、それも「忘れました」というあり得ない理由からだったが。
あれは若尾と一緒にいた鯱人の家を訪問した時のこと。息子と同じく鯱人の母親のその答えに、サージェントは目を丸くしてテーブルに乗り出してしまった。
「マイナンバーを!?子供から大人まで交付されてるもんを、しかもことあるごとに記入するもんを?忘れますかさ〜」
「憶えていないのです。焼け出された時夫を亡くしたもので、ショックが強くありまして」
親族の死。それを持ち出されたら言われるがまま戸籍確認書類の「紛失」にチェックするしかなかった。
母親は終始俯いたままで視線を合わそうとはしなかったが、息子のノゾミは母親とは違って何度もチラチラとサージェントを見上げ、その度に目を合わせてやると赤くなってまた下を向いて…を繰り返していた。
立ち去る際、鯱人の少年はサージェントに附いてほんの一瞬だけ外に出た。
「…サージェントさん。僕でも、強く、なれるなの?」
裾を引っ張り、いじましく問いかけるノゾミの
「大丈夫さ〜。大事なのは気持ちさー、気持ち!」
見上げてくるノゾミの黒目がちなどんぐり眼は、睫毛のふちまでいっぱいに夢と希望とをたたえていた。
それは、明日の見えない暮らしをしてきたとはとても思えないものだった。
「うちを最後にしてくれたんは配慮しんさったとか」
サージェントは潮の科白で我に返る。
「いや〜はっはっは、たんに部屋番号が後ろの方だったからですさ〜。まぁ、お陰さまで他の皆さんからの意見とか不満とか遁干さんに直接言いにくいようなことも聞けましたし、結果的には良かったさ〜」
「そがんか。とにもかくにも今日からはサージェント、あんたがここの最高責任者や。
「はい〜、ぜひそうさせてもらいますさ〜」
にこやかでささやかな酒宴だった。
だしぬけに潮が脇に置いてあった盲人杖をサージェントの脳天に振り下ろすまでは。
杖が白刃のごとき光を放つ、それは居合の一撃。
「…何の真似ですかコラこのジジイ殺すぞ」
「…そいがあんたさんの本気の眼やな」
杖の先端は頑丈な特殊ゴムがついている。それが、サージェントの頭上わずかのところで大きな掌に阻まれている。
サソリ人の顔も温厚なエビス顔から剣呑な不動尊のそれに変わり、目付きは既に和やかな糸目でなく見開いた双眸だ。
潮は鼻先から満足げな息を漏らすと、武器として唐突に繰り出した杖を引っ込めた。
「日本人は致命的に人情に脆く危機管理に疎い。一般市民に限らずどいつもこいつもや。軍属でさえもそがん腑抜けのおりよるに、サージェント、あんたは気の抜くっごとなかな」
空になった猪口に焼酎を注ぎ足し、「とはいえ試すような真似で無礼ばしてしもうたにゃ。許してくれ」と頭を下げる。
サージェントもまた緊張を解き、そこからは完全に普通の酒盛りとなった。
「やは〜、いくら訓練されてるとはいえ、あれは真に迫ってましたさ〜。あのままなら危うく本気で反撃するとこでしたさ〜」
「今夜はとことん酔うがよか。…おっ。おーい巫鈴!酒の無うなったぞー!」
そして盃を交わす中、潮は若尾がつれないことをこぼしたサージェントにとあるアドバイスを授けたのだった。
その深夜。もはや早朝といえる時間帯。
自動組み立て式の発令所の奥、指導管理官専用に充てられた個室でサージェントは端末に報告書を打ち込んでいる。
各施設投下の際、サージェントの糧食及び装備品も同じく届けられていた。この端末もその一つで、見かけはキーボードつきのタブレットPCだが、衛星通信も可能な高性能品なのである。
事務仕事をするためのデスクは壁から直接生えており、そこで作業をするのだが、既に右手側には紙の書類が束となっていくつも重なっていた。
“到着以前にフォーリング・エンジュによるフレイム確認。デイジーカッター、およびグランドスラムの痕跡アリ。該当地区に死傷者ナシ。なおエンジュはクラッシュ成功の模様。
投下施設の全てにおいて外装パネル損傷ほぼナシ。
ソーラー発電機能、微弱光源発電機能、ステルス迷彩正常作動確認。内部環境ユニット問題ナシ。明日、作業班到着より水源との導入・排出のための設定開始可能ナリ…”
サージェントのタイピングは正確無比で、昼間に避難者に披露した剛力さからは想像しづらいほどのスピードである。
投下された建物群の落下による[[rb:瑕疵>かし]]についての報告書もやがて上がり、最後に避難者についてのマイナンバーや傷病、家族構成などについての打ち込みで締めくくる。
“…特記事項:上記避難者に加え、GAIK”
記述内容に対する迷いが指運びをおろそかにさせ、CAPSロックをかけてしまった。
滑らかにローマ字入力のひらがな変換に設定し直すが、しかし単語を打ち込む手前でサージェントの膨れたような太い指が浮いて戸惑う。
“身元不m”
それでも違う。サージェントは迅速さと正確さが軍人に委ねられた情報作成の本懐と理解しながらも、数秒迷わざるを得なかった。
脳裏に浮かぶは二人の親子。彼らにはなんの罪もない。ほかの避難者と変わらず『災害』に怯え、孤独を恐れているだけの普通の人間だ。悪意や敵意のある存在などではない。
黙考しばし、やっと落ち着いたのは
“…マイナンバー遺失者2名あり。”
の最後の一行だった。
「やーは〜…自分もまだまだ甘いさ〜」
サージェントは頭の後ろに腕を組んで椅子に仰け反った。
自分のそういった甘さを許してはいない。しかし人間性としては気に入っている。
席を立ち、サージェントは寝る前の一服をしに外へと出た。
自衛隊と連合を組むことになった北米の少尉から貰った麻薬物資(ごく僅かだが)入りのタバコを唇で弄びながら、夜空に高く流れる天の川を眺めていると、一筋の星が流れた。
つづく
リーグ! 鱗青 @ringsei
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