第3話 ソル ②

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 東京都下西園市の代表的な建物といえば、五つを数える。

 新興財閥が市の高台に設置した真新しい五重の塔、江戸時代には遊郭として名を馳せたという今では懐古趣味者の集う喫茶店、嘘かまことか通う学生の九割が同性愛者だという芸術大、春夏秋冬の折に触れ締め込み一丁の男たちによる様々な祭礼が催される原照野はるての大社。

 そして最後の一つが、小学生〜中学生までの年齢にあたる男子児童を預かる、公営の学生寮の存在である。

 この寮はかつては日本が世界に誇ったとあるゲームメーカーの本社であったものを、市が買い上げ公営の学生寮として生まれ変わらせた代物だ。目に付く企業時代の面影といえば、乱暴に削り取られた社名とロゴが屋上の下に微かな雨染みとなって残っているだけ。

 大きな絹ごし豆腐にさらに小さな豆腐を乗っけたような、大小二つの長方形の箱を重ねたビル。その壁面にはずらりと窓が並ぶ。敷地は広く、入り口の鉄門からは少し歩くような格好。遊具こそ置かれていないものの、小さな公園のように広い前庭は寮祭などの催事の場ともなっている。

 そして、言わずもがなであるが歴史を持つ社屋のほとんどがそうであるように、この寮もまた御多分に洩れず新築当初より大幅に古く、汚く、暗かった。…その外面に限っていえば。

 西園市の魔窟とも最後の秘境とも九龍城の再来とも呼ばれているその寮は、正式な名称を『隆央寮りゅうおうりょう』という。

 これはあくまで正式に書類に記載されている建物名ということで、そこの中で寝起きしている者、近隣住人、はては学校関係者からまでもこう呼ばれている。

竜王砦ドラゴンロック

 と。


 門限である18時を大きく回り、固く閉ざされた正門の重い鉄扉。

 黒い学生服に身を包んだ、ややずんぐりとした人影がスライド式の鉄扉に近づく。その表面をそっと撫でるようにして施錠ロックの手応えを知ると、ギロリとした四白眼を左右に振った。

(右…コンビニの明かりの方は無人か。左の交番の方も、外に立哨しちゃいない)

 いける。そう判断した人影の口あたりから白い歯並びがこぼれた。

(いっちょ、やってやるかぁ…!)

 まず携えていた学生鞄を門の向こう側へ放り込む。首を前後左右に倒してゴキゴキ鳴らし、手足をブルブルとシェイクしてほぐし、門から少し離れた地面まで退がると、ひざまずくように体勢を低く構えて。

「GO!」

 そのクラウチングスタートは正確で、地面を初めに蹴る衝撃だけが少し響く。

 後にはほとんど音も立てず、人影は一陣の黒い風のように鉄門に突進し、激突の直前でジャンプした。

 勢いを活かしたまま新体操選手のように鉄扉上部に手をついて、さらに高く飛び抜ける。空中で不安定な前傾姿勢をとるも、そこから膝を抱えてクルクルクルと前方宙返り。短い放物線を描いて地面へと落ちていく。

 スタン、という小さな着地音が寮の敷地に広がり、薄まって消えた。

 何もない土の中から樽が生えるように、しゃがんだ姿勢からゆっくりと人影は立ち上がる。トリケラトプス系の頭と手だけが夜目にも白く浮かんでいた。

 門限を過ぎて閉ざされた入り口をアクロバティックに突破した竜人は、夜空の星々に対して己を誇るように両腕を広げる。

「ぎひっ………ぶっつけ本番で、前方屈身宙返りを成功。おまけに着地まで完璧。ほとんど会心の出来なわけ。この俺ってばホント、マジでヒーロー役にピッタリ。イヤんなるほどカッコいいわけ。ああ、自分の才能が恐ろしい…ぎひっ、ぎひっ、ぎひひひひひ」

 その長台詞が終わるのを待っていたかのように、寮の窓という窓が光った。蛍光灯の光の海が眩しさの波で白竜人を翻弄する。

 よろめくワカの前に、変声期前の低めのソプラノで台詞が降ってきた。それも、威勢のいい巻き舌である。

「おぅおぅおぅおぅ!ワカよぅ、おめぇよくそこまでナぁルシスティックにひたれるよな〜?なぁ兄弟きょうでェ

 思わず「げ」と声に出して後じさるトリケラトプス…ワカこと天野若尾に、別の声がさらに追い討ちをかける。こちらは魚河岸の仲買人のような塩辛声。

「この時間帯で寮全体の照明が落ちていることへの不審を一切抱かないあたり、貴様は状況把握能力に欠けているぞ。控えめに言って三流も三流、ヒーローどころかヒールも無理。ザコキャラもいいところなんじゃないか」

 二つの人影に向かい、ワカは声を張り上げて牙をむく。

「だー!二人してあんたら、うるせぇうるせぇうるせぇわけ!分かってたんならさっさと出てくりゃいーじゃん!意地悪いわけ!!」

 でっへっへ。ふくくくくく。気っぷのいい腹笑いとザラザラとしつこい嘲弄が漏れてくるその窓を、ワカはカラメル色の目玉をひん剥いて見上げていた。

 4階建ての寮の最上階、そのど真ん中正面の窓の向こうに高低二つの姿が寄り添うようにして立っている。

 ワカから見て右のほうが、体格だけでいえば小作りな相撲取りさながらに肥満体の、赤茶に燃える髪のヒトの少年。この春卒業していった三年生に代わりドラゴンロックの寮監に就いたばかりの、市立西園第三中学二年生だ。

 幡ヶ谷はたがや与力よりき。部活でもワカの先輩にあたる赤髪の少年は、Tシャツ姿で窓枠に肘をつきながらまさしく上から目線で後輩の愚行を眺めていた。

 縦方向から圧力がかかって潰れたスイカのような頭の形で、鼻は呼吸に支障がない程度の大きさしかなく、反対にかなり大きな白目がちの眼。瞳の色はほとんどグレーに近い緑だ。

「門限破りと隠蔽工作の二本立てたぁ景気がいいや。たぁっぷりとペナルティくれてやッからな、楽しみにしてろや兄弟」

 与力は「ペナルティ」のセンテンスで首に縛り首の縄をかけるジェスチャーをする。歯切れのいい科白を吐く口がまたやたらに大きく、そこに心底サディステックな笑みが張り付いている。肥満体型のいじめっ子のイメージを拡大コピーしたような容姿はそのまま内面をも伴っているらしい。

「くっそー与力のデブトマト!陰険寮監!人権尊重!いつか倒してやるわけ!!」

「へっへっへ、やれるもんならやっつくんな」

 次に与力の隣から塩辛声を発するのは、眼鏡をかけたハイエナ人の美丈夫だ。

「若尾、貴様は遅刻の常習犯だ。いい加減学習するということを覚えようじゃないか。それと、目上の者に対する正しい礼儀というものもな」

 ワイシャツを袖捲りをして斑模様のある二の腕まで晒したハイエナ人は、与力とは反対側の窓枠に軽く腰掛けている。もちろん落下すれば死亡する高さであるが、格好をつけている風でもなく痩せ我慢の気配もない。

 このハイエナ人、その名を田幕でんまく公朱きみあけ(通称ハム)という、これまた新任のドラゴンロック副寮監である。

 その全体的に筋肉質でありながら無駄のない身体つきは、アニメに出てくるスマートな戦闘ロボットを連想させた。

 剃刀で刻みつけたような鋭い眉、わずかに閉じかけた険のある赤漆の瞳、眼鏡を引っ掛けたプライドの高そうな鼻先、秀でた頬、引き結ばれた口許。

 繊細でありながら残酷な強靭さを感じさせる横顔に、ワカも顎を引いて気を引き締める。

(ぐっ…与力は与力でムカつくけど、ハムさんはまたハムさんで圧力あるわけな…!)

 二人ともこの寮では最年長とはいえまだ中学二年生というのに、滲み出る貫禄は大学生以上いやそこらの社会人では太刀打ちできないほどのものがある。

 与力の片腕がスッと持ち上がり、教会の鐘を打つような号令がかかる。

「捕獲班、出動ぅ!」

 窓のみならず、正面玄関にも明かりがついていた。そこから鍵を開けるのももどかしく、小学校低学年ぐらいの男の子らがわらわらと団子になって湧いて出る。

「かくごして、とーこーせよ!」

「おまえはわれわれの、ホリョだ!」

なテーコーはやめろ!みんな、かかれ!!」

 あっという間にワカを取り囲み、逃げる隙も与えない。

「わっしょいわっしょいわっしょいわっしょいわっしょいのしょい!」

 えいやさこらさ、と自分よりも数段小さな子たちから担がれてワカは「くっ殺せってわけ!」

 などと喚きながら移動していく。…ように見せかけて、ちゃんと自分の足で歩いてはいるが。

 こういう小芝居にちゃんと付き合うあたり、ワカもノリがいいのである。


「へっへっへっ、いい格好じゃねェか。お似合いだぜ兄弟」

 数分後、寮監と副寮監の部屋で正座させられている白竜人がいた。

 これも小さな子たちのうちの誰の発案なのかは判らないが、なぜかトイレットペーパーでぐるぐるの簀巻きにされている。

 腰から首までミイラ男のようになり、そこから顔だけ突き出してぶすくれたワカに、与力は回転椅子の上から足を組んで「じゃあ罪状確認やっつくんねぃ」と公朱を促す。

「それでは公平に公正に、我が伝統あるドラゴンロックの寮則に照らしていこうじゃないか」

 ハイエナ人は時折尻尾を揺らしながらバインダーで綴じた寮則事項をめくる。

「ひとつ、門限に遅れたこと。二つ、その事実を隠蔽すべく閉門後に無断突入してきたこと。三つ、反抗的な顔つきであること。四つ、恥ずかしいナルシスティックな言動であること…と。ふむ、これはStage2あたりが妥当じゃないかな」

「重すぎんじゃないわけ!?てか後のほう関係なくないわけ!?」

 食ってかかったトリケラトプスの頭に間髪入れず蹴りを食らわせ、与力は自分の赤茶の髪を掻き回す。

「おめぇに自己弁護の権利なんてねぇんだよスットコドッコイ。普段の態度から改ねェ門限破りの常習犯にゃ、プラス1Stageぐれェ加算して当たり前だっつーんでェ」

 ドラゴンロックの守るべき規則はそんなに多くはない。しかし、違反者への必罰は多岐に渡っている。

 大まかには芸術競技の得点方式をとって、その点数に応じてStage1から5まで五段階の寮則違反への罰を規定している。

 Stage1。これは門限への遅刻や喧嘩やサボりなどの比較的軽い違反に対して適応される。内容は携帯電話の没収(これは先先週に遅刻してすでに適用済み)や、トイレや調理場の清掃など人の好まぬ当番を一週間行うことなどがある。

 Stage2。物品の独占や悪質ないじめ、年少者への虐待や虚偽の報告・申請(仮病やズル休み)に対して適応される。前者が口頭注意とすれば、こちらは実際に手が出てくるレベルといえるだろう。

 ちなみに罰としては1ヶ月の間の娯楽目的の端末使用禁止、遊戯室の立ち入り禁止、風呂・トイレ・エアコン・調理場の清掃、寮母の手伝いなどがある。

 ちなみにStage5に至った生徒は、今のところ一人のみである。それもどうやらこの先輩らの世代にいるというが…

 与力は屍肉をあさる獣の笑みが板についた口角を歪ませ、人差し指で空気をこねた。

「まずトイレ掃除と風呂掃除と玄関掃除を1ヶ月。これテンプレな」

「うぅわ最悪。ハゲちまえデブクソトマト」

「てめぇ今なんつったんでェ」

「ウワー♪与力センパイサイコー♪…つったわけ」

 中学校一年坊主の詰まらない反抗を鼻で笑い飛ばし、与力はまだ続ける。

「あとは四つぐれェペナルティつけてェとこだが今回に限り勘弁してやらァ」

「わーいやった!太っ腹!もといデブっ腹なわけ!!」

「その舐めた口、いい加減にしねぇと隅田川ン水でジャブジャブすすいで加算し直すぞ。…ってのもな、寮母の波瑠子はるこさん、今度の日曜日が誕生日なんだってよ。おめぇ得意だろ?料理っつーか、甘いもん作んのがよ」

 ワカはキョトンと首を傾げ、平太い尻尾をバタリと反対側へ倒した。

「…で、そのココロは?何が言いたいわけ?」

 与力が公朱に向かって頷く。ハイエナ人は自分の机の引き出しからコピー用紙の束を取り出した。

「貴様にこの資料にあるものを作ってもらおうじゃないか」

 どこかのホームページの丸写しなのだろう、プリントアウトした紙束は厚さ1センチはあろうものだった。トイレットペーパーで(一応)手も足も出ない(設定を守っている)ワカは自分の前に置かれたそれに目を丸くする。

 一番上に三角形をしたサンドイッチのような物体の粗い画像付きで、小さな文字が羅列されてある。

「えーと…これはなんなわけ?」

「シベリアというものらしい。聞いたことはないか?貴様は菓子の申し子、甘味オタクじゃないか」

「なんなわけその微妙にカッコ悪いネーミング…てことは、これはスイーツなわけな?シベリアか…」

「さしものおめぇも知らねえ代物しろもんとなると、こいつぁ厄介だぜ兄弟」

 ワカが答えあぐねていると、開け放したドアの向こうから興味津々で覗いていた小さな子たちから手が挙がる。

「はいはいはい!おれしってるー!アメリカの北のほう!」

「ちげーよなに言ってんだよ、ロシアのほうだよ!」

「なんか寒いところ!」

「つかえねーシャインがとばされるところー!」

 次から次へと飛び出すピントのずれた答えをハイエナ人がパンパンと手を叩いて黙らせ、咳払いを挟んで仕切り直す。

「まぁ色々と出てきたが、これはそっちのシベリアじゃない。ワカの言う通り、地名ではなく菓子の名前だ。だから、ひとことで言うと甘いものということになる」

 子供たちの耳がピクンと立ち上がり、今度は「あまいー?」「うまいー!?」「くいてー!!」という絶叫に変わる。そこでまた公朱の拍打。

「この菓子は小豆をペースト状にして、小麦粉でできた生地に挟んだものだ。第二次世界大戦前頃から2000年代中頃まで、東日本の都市部で作られていたらしい。おハルさんはこれが好物だ…ということまでは分かったんだがな、いくら調べても現在購入できる菓子店もパン屋も無くてな。図書館のアーカイブから見つけられた、その資料以外に現在では手がかりも無いんじゃないかな」

 ちなみに『シベリア』という命名は、「かつて誰も見たことのないお菓子だから、なんとなく珍しくて見かけない名前にしよう」という創作者のアイデアによるもので、ロシアとはなんの縁もゆかりもない。

 菓子の由来についてそう明かすハイエナ人の前でワカは正座を解いて胡座をかき、食い入るようにその資料を読み込む。

「…この材料からすると生地になるのは純粋なスポンジジェノワーズじゃねーわけな…どっちかっつーとパンケーキ…?いや、水飴ってなるとカステラのが近いか…食レポの内容からすると口当たりを良くするためになんか工夫して…この小豆ペーストってのは餡にしてあんのか…ぎひゃー、製法の順序もろくに書いてねーのかよ…どっちにしろ作業場が広くねーと…小豆炊くのに人手が…」

 ブツブツと呟いている竜人を見下ろし、寮監と副寮監は視線だけ絡めてほくそ笑む。___これならなんとかなるだろう。ワカならやってのけるはずだ、と。

「…っし。大まかなところは大体ざっくり分かったわけ!」

「頼りにならなそうな科白じゃないか。できるのか?」

 首を傾けたハイエナ人の眼鏡が胡散臭そうに白に染まる。

「普段世話んなってるおハルさんに恩返しできるかどうか、おめぇの腕にかかってるんだぜ。どうでェ兄弟、やれそうか?」

 椅子の上から見下ろしてくる与力の緑濃の瞳に、トリケラトプスのカラメル色の瞳がキラリと光を発する。

「…これやる代わりにペナルティ帳消しにして携帯返してくれるわけなら」

 白竜人にやり返されて、与力は髪と同じ赤茶の眉をピクンと上がらせる。

「肝が太ぇ事言うじゃねぇか兄弟。立場忘れてやしねぇだろぅな?」

「ぎひひっ。転んでもタダじゃ起きないって教わってきたわけ。で、どうよ?」

 与力はナマ言ってんじゃねぇや、と苦笑に顔を歪ませながら「ま、いいだろ。そん代わり絶対成功が条件だぜぃ。あと、一丁派手な誕生パーティ形式にしてくんな。人員も予算もこっちに相談すりゃぁいいぜィ」と足を組み直した。

 そしてワカが

「いやったぁ!!」

 と、トイレットペーパーのぐるぐる巻きをぶち破いて両手を突き上げ、

「あー!それ取っちゃダメー!!」

 と、子供たちがブーイングを上げながらトリケラトプスに殺到してその身体をもみくちゃにしたのだった。


 夕食の開始は大幅に遅れた。ワカの到着を待っていたために。

「寮生は朝晩全員がともに席についてから、一緒に食事を摂ること」___これもまたドラゴンロックの重要な掟、寮則には明記されていない鉄則なのである。

 寮母のおハルさんがパートのおばさん達と準備していってくれたメニューは和食で、副菜は鯵の塩焼きに味噌田楽。主菜は冬野菜のかやくご飯。これに肉のたっぷり入った豚汁がついていた。

 魚は旬でフカフカと歯触りもよく脂がのり、味噌田楽はずっしりと濃い味だが塩辛くはなく、野菜の甘さが引き立つかやくご飯と具沢山の豚汁には寮母としての深い愛情がこもっている。

 盛り付けもお代わりも後片付けの洗い物も寮生たちが自分で行う。ワカは今夜の当番ではなかったが、小さい子の中でよそう手つきの怪しい者には付き添って軽くサポートしてやった。こういった何気ないことも、一から十まで細かく教えられそれが上から下へと連綿と受け継がれていく。それがこの寮の評価の高さを呼んでいた。

 飢えずにいられること。暖かな部屋があり、温かな湯に浸かり、綿わたの布団で寝られること___創設者の理念は『災害』による孤児がほとんどのこの寮の根幹を成しているのだ。

(これがあるから、辛いこととか悲しいことがあっても頑張れるわけ!)

 甘いものをたらふく詰め込んでも、夕食は完全に別腹。

 ワカもおかわりを繰り返しながら噛みしめる。

 寮生は幾つかの学校に振り分けられるので、必ずしも同じ校舎に通学するわけではない。いつでも仲間と一緒ではいられない。

 それが時には寂しい時もあるけれど、この食事の時間が彼らに心を温める安らぎを与えてくれていることは間違いない。

 夕飯の後片付けが済むと、今度は最もやかましい風呂の時間となる。

 寮生の一番多い小学校1〜6年生がグループ別に大浴場を使う間、中学生のメンバーはシャワーを浴びて済ませてもよいことになっている。

 しかしワカはここでも小学生グループから引っ張りだこで、

「ねーワカ兄も一緒に入ろーよー!背中流してあげるからまた中学校の面白い話をしてよー!!」

 とせがまれたら断るわけにもいかず、ともすれば入浴そっちのけでふざけたり喧嘩したりする小さな子達を風呂に入れてやる羽目になるのだ。

 やっとのことで自室に戻った風呂上がりのワカは、小さく畳んだ制服を小脇に抱えたスウェット姿になっている。

 壁の両方にあるベッドのうち右側の方に鞄を置いて、ドアに背を向けている形で据えられた(これも右側の)勉強机の前に立った。

 本や教科書(それに、なぜか背表紙がキラキラした少女マンガ数冊)を並べた小さな書棚付きの机は、これまでに幾人もの寮生が触れては去っていった。しかし中古品とは思えないほど磨かれてある。

 その天板の隅から三つのフォトスタンドがワカを見返してくる。

 一番大きいものには、ワカの恩師と竹馬の友たちとの集合写真が収められている。

 写真のど真ん中に居るのは胡麻塩の髪と髭を蓄えたサソリ人の中年男。固肥りで四肢は太く、迷彩柄のズボンに軍用ブーツ、白いタンクトップの首元にチタン製のドッグタグを提げている。

 これがワカの富山時代の恩師___陸上自衛隊日本海地域治安維持部隊第17支部に所属の指導管理官にして軍曹、サージェントこと風炉眼ふろめ照雄てるおである。

 バグ系人は顔や身体はヒトとあまり変わらない。亜熱帯から砂漠まで生息する毒虫である蠍とサソリ人に共通するのは、くれないの触角と数珠玉状の尻尾。

 サージェントはその尾を、ゆるりと腕を組んだ己の肩までもたげていた。数珠玉先端の、最も太く大きくなっている毒針の部分がこちらに向いた姿勢だ。これが恩師の決めポーズなのである。

 そしてその腰元から十数名の少年たちが塊になり、思い思いのポーズをとってふざけていた。

 そんな陽気な集団の中で翳るような表情で居るのがワカ自身だ。

 サージェントの股下の真ん前で口をへの字にひん曲げ、襟状突起が囲う丸顔をした痩せっぽちのトリケラトプス系の少年…現在のむっちりと筋肉のついた身体とはかけ離れた、枯れ木のような白竜人がワカである。

 小さい頃の自分を眺めると、ワカの口許につい微苦笑が浮かんでしまう。

 あの頃はなんと無理をしていたことだろう。それも、無意味な反抗心で…

 ワカの隣にいるまん丸とした鯱人の少年もまた、明るい表情とは言いがたい。こちらはこちらで少しく元気のないおどおどとした内股と揉み手をして写っている。

 その写真の前には、二つ目のフォトフレーム。そちらにはサングラスをかけたホルスタイン系の牛人の壮年の男性と、その人物が腰掛けた車椅子を押す長髪で眼鏡の若い女性、その女性の肩を抱いて大笑するサージェント、そして男性の手前には何やら恥ずかしげにそっぽを向くワカがいる。

 これは、1枚目のしばらく後で撮られたもの。家族の写真。正確にはサージェントとその女性との婚約が決定したその日に撮られた、新たなる家族の成立記念の写真だ。

 そして三枚目。一番最近…約一年前の春先に撮られたもの。

 これにはワカと鯱人の少年だけが大写しになっている。

 しかしこの三枚目だ。先の二枚に比べ明確に、何もかもが異なっていた。

 鯱人の少年の顔立ちはもともと愛らしく、びっくりしたように開いた大きな眼に耳かき棒の梵天のような眉、ふっくらと丸い鼻先から口許、鯱人の白目模様アイパッチの烈しさがかえって純真そうな印象を強めている。

 その少年が少しバランスを崩した体勢でファインダーを見ているが、顔には集団写真の中の臆したような蒼ざめた色はなく、その代わりに濃い誇らしさと少しの照れを含ませて幸せそうだ。

 そしてワカは。

「…ぎひっ!」

 シャッターを切るタイミングに合わせて鯱人に飛びついている。自分より背の高い相手の首根っこを引き寄せているのか、しがみついているのか…ともかくそんな危なっかしい姿勢で宙に浮いた格好だ。

 その顔は、思わず自分で見ても笑ってしまうほどに、滅茶苦茶に破顔しているのだった。

 鯱人にフライングボディアタックさながら抱きつく様子も相まって、まるで大好きなこのオモチャは誰にもやるもんか、独り占めにするぞ!…と言わんばかりのポーズ。

 この鯱人とは、つい一年ほど前までは離れることなく一緒にいた。それこそ実の兄弟のように、家族のように、あるいは…本物の恋人同士以上のように…

 ワカが今一番会いたい人物。それがこの鯱人の幼馴染、今年同じく13歳になる少年、___ノゾミだった。

「お前にも早く教えてやりたいわけ。こっちでこの俺がレスリングやってることも、アキやみんなのことも……………ノゾミ…」

 互いに無二の存在であったのに、周りの都合から生木を裂くように別れ別れとならざるを得なかった。

 ワカにとって生まれて3回目に経験した痛恨の喪失。トリケラトプスの少年は、一日たりともそれを忘れたことがなかった。

 幼馴染との切ない記憶を圧縮して封じ込めたフォルダ。この三枚目の写真は、失った幸福を反芻させる再生装置なのだ…

 一呼吸置いてワカは両足の踵を揃え、「ぴしっ」という音が張り付くほどキビキビとした敬礼をとる。それはサージェントから伝授されたもののうちの一つでもあった。

「おぅい天野ぅ。寮監からお前の携帯返ってきたぞ」

 同室の象人、金城かなしろ覇王はおうが入ってくるやワカは敬礼を解いた。

 つるんとした頭部に大きな耳朶と前顎の下まで垂れた鼻。糸目が福々しい象人の金城は、着ているスウェットがサイズに合わなすぎて餅人形のラッピングみたいにパツパツになっている。相撲部員で、身長はワカより頭二つ分ほど高く、寮の古い床が一歩進むごとに抗議の呻きを上げるのだ。

 その豊満に脂肪のついた胸元に掲げられた愛しのスマフォ。ワカはまっしぐらに弾んでいった。

「ぎっひゃーお!やったわけー!!でもなんで!?」

「俺知らんぞ。なんや、おハルさんのバースデーでイベントやるさけ人手集めたり動かしたりすんのに必要やろー言うてたぞ。ラッキーやんな」

「おおラッキー、ラッキー大ラッキーなわけ!さっすがデブトマト、合理的ぃ!!」

「で一つだけ言っとくぞ…天野」

 真剣な口調にただごとならぬオーラをまとわせた糸目の象人に、生唾を飲み込むワカ。

「なんとな…そのスマフォ……………………………」

「な…なんなわけ」

 サスペンスドラマのワンシーンさながらに部屋の情景がぐるぐる回る。…という、雰囲気があった。

「……着信…きとるねん…!」

 膝下から崩れるようにコケたトリケラトプスは、「紛らわしいひっかけやめろってわけ!」とドヤ顔で肩をすくめている同室の相棒に文句をつける。

 気を取り直してスマートフォンの画面を確認する。途端に「にまぁぁっ」と顔の下半分を緩めに緩め、

「ちょっと電話するから、静かになわけ!」

 とベッドに横っ飛びに上がってアドレスに返信する。

「…あ!もしもし巫鈴プリン姉!?ぎひっ、この俺だよ若尾なわけ若尾!…え?ほんとに!?すっげーじゃん…さすがプリン姉なわけ…あ、もうDr.巫鈴って呼ばないといけねーわけかな!ぎひひひひっ!」

 会話の端々が狭い室内を飛んで壁に跳ね返りやかましい。象人の金城にはさらに受話システムの向こう側の発声までが届くので、ワカの話す相手が彼の家族であることも、その内容が「プリン姉」とワカが呼ぶ、写真立ての中の長髪の美女であることも知れたものである。

 会話の内容はどうやら、「プリン姉」こと遁干巫鈴のがれほしみすずが大学に復学したあと受けた医学部への転入試験に合格したらしいというものだ。

「あ・うん、ホシイモはどーでもいいわけ。…ウソウソ!元気してる?…そーかー、まだ松葉杖取れてねーわけな…ぎひっ、こっちは大丈夫だって!でさー、そのさー、…あいつはどうしてるわけ!?どんぐらい育ってる!?」

 これも分かる。「あいつ」というのは去年ワカが入寮する前に産まれた巫鈴とサージェントの第一子で、父親の遺伝を色濃く受け継いだサソリ人の男の赤ん坊のことだ。

 ワカの上気した頬とスタッカートのきいた言葉とその文脈から、金城は赤ん坊がすくすくと育ち、誰も教えてもいないのに自分から股割りをしたり柔軟の基礎練じみた行動をしているということまで把握してしまった。

(よぅあそこまで仲良しやれるよなぁ。実の家族でもないのに…血が繋がっててもああはいかんぞ)

「…ん?どした?なんなわけ?」

 通話を切ったワカの問いかけに、自分がジッと相手を凝視していたらしいことに気がついた象人はより一層糸目を細めて首を振る。もうベッドの上でシャツとブリーフ姿になっており、就寝準備は万端整った状態だ。

「なんでもないぞ。もう先に寝るから電気頼むぞ」

「あっ、この俺ももう寝る!明かり消すわけ!」

 とワカも大急ぎで制服をハンガーにかけスウェットの内側に提げていたチタン製のドッグタグを外して机に置き___このドッグタグは軍用で、どんなに衝撃を受けても摩耗することなく強く輝く。ワカはレスリングの試合には必ずこれを持っていく___象人に続いて肌着姿でベッドに潜り込んだ。

 ワカはまだ嬉しさと興奮の冷めやらぬ調子に声をうわずらせ、フットライトだけが薄ぼんやりと浮かぶ闇の向こうへおやすみを告げた。

 象人はただ鼻を「ぶぅぅ」と鳴らすだけの返答だった。

 こうしてワカの平均的な1日は終わる。明日は朝早いうちに起き出して鞄から勉強道具を机に並べ、復習と予習と暗記の準備をするだろう。

 それから朝食の準備や小さい子たちの準備の面倒などをするのだ。

 朝の勉強をワカは欠かしたことがない。すっかり疲労の洗い流された頭でする方が捗るし、毎日の部活動と寮の役割分担に追われる中で、勉強もまた重要な仕事なのだと考えているからだ。

 ___馬鹿ではレスラーは務まらない。覚えておくさー、ワカ。

 夢に落ちる寸前、遠くで懐かしい間延びした声を聞いた気がした。

 ワカは己の未熟さを歳相応以上にっていた。

 それがワカの、自分でもそれと気づいてはいない強さの秘訣だった。


 🌚


 その晩、ワカは夢を見た。

 と言っても、ワカはほぼ毎晩何かしらの夢を見ている。しかもフル4D、色つき音つき味つき匂いつき痛みつき快感つきの、VRゲームと遜色のないものを。

 早目の段階でああこれは夢だな、と気づくこともあれば、感情移入しきって泣いたり笑ったりして目が醒める、などということもある。

 この日の夢は、前者だった。桜の舞い散る市立中学校の鉄門の前など、これまでに一度しか見たことはない。しかも門の右側に「入学式」と大書された看板が紙で作った花に囲われて立っている。

(…これ、去年の四月のことなわけだな…)

 ぼんやりと意識の片隅で振り返るワカは、次の瞬間細部まで記憶を再現した世界の中でポンとおつむりをはたかれた。

「ボヤッとしてないで…入るわよ…?」

 黒い油のように虹色の反射を放つ長髪をバレッタでたくし上げ、腕の中に赤ん坊を抱いた美女が眼鏡の奥から柔らかな視線を投げてよこす。

「ボヤッとしてたんじゃねーわけ、プリン姉。ただすげー人がいんなーと思ってさ」

「そうね…富山じゃこんな景色見たことなかったものね…」

 ワカや巫鈴達がつい先日まで暮らしていたのは富山県の避難所で、そこでは全住人をかき集めても百五十人足らずという状態だったので、ひとところにこんなに人数がひしめいているのは『災害』以来巫鈴も久しぶりで、気を抜くとお上りさんよろしくキョロキョロしてしまう。

 すやすやと母親の胸に顔をつけて眠るサソリ人の赤ん坊が、巫鈴の溜息に反応して数珠玉状の尻尾を動かす。

「でもね…これが東京の日常…。ワカ、あんたはこれから何もかもに慣れていかなきゃいけない…たくさんの人に揉まれて、苦労もするかもしれないの…不安はない?」

「ねーわけ!」

 ワカは巫鈴の問いかけを鼻で笑い飛ばし、胸を反らして即答した。

 がっちりとしたその身を包むは、黒の学生服。勢いよく反り返るその胸に、鈍色のドッグタグが一枚閃いた。

「あっといっけね」と、それを慌てて胸元にしまう。「アクセとか校則で禁止なわけだもんな、中学校。そっちのが不安っちゃー不安だよな」

「そうね…ワカは規則とかはなんでも苦手にしてるものね…寮のほうも厳しいって見学の時言われたものね…」

「ほんとそれ!さんざっぱら言われたもんなー。まー、覚悟していくわけ!この俺違反しまくる自信あるわけだし!」

「そんな自慢はしなくていいのよ…?」

「あ、てゆーかこっから別になるみてーなわけ。じゃあ巫鈴姉、あとでね!」

 体育館入口で保護者席と進路が分かれ、ワカは新入生席の方へアナウンスを聞きながら進む。

 胸の中では痛いほどに鼓動が高鳴っている。

 周りに掃いて捨てるほどいる同じ年齢ばかりの新しい仲間、中学校という大きな(物理的にも)存在、寮暮らしという環境。

 それらひっくるめた全てを早く始めたいという焦燥がチリチリと鱗を焦がす。魂までをも加熱して、大声でわめきたくなるような気持ち。

 そして何より特筆すべきなのは…

(東京ならレスリングやってる奴いーっぱいいるわけだもんなー!って闘って闘り放題。ぎっひひひ、想像しただけでヨダレ出そうなわけ!)

 富山の田舎から出てきたばかりの気後れや不安感など微塵もない。ただただ大好きなレスリングができるという期待と喜びに小鼻をピスピスと膨らましては頬を紅潮させているワカである。

 ワカがこの市立西園第三中学校を選んだのは、言うまでもなく費用が安い公立校であり、かつそこそこ成績の良いレスリング部を擁しているからだ。

 ここからインターハイや大学の第一リーグへ、さらにはプロのFC式レスラーとなって羽ばたいた選手も数名存在する。

 私立の名門校のように金を湯水のごとくつぎ込んで有名選手を養殖…もとい輩出してきたわけではないが、手堅く地道で基礎を大事にする運営方針と善意の寄付で実績を積み上げてきた、東京でも五本の指に入る名門校なのだ。

 それが気に入って、入学を希望してから苦手な勉強にも打ち込んで、この初春に受験して合格したのだ(現在、公立校でも一部の中学は受験制をとっている)。

「さーて、一年生には居ないわけかな〜レスリングやってそうな奴は〜…」

 早速手を庇にして眼上にかざし、鵜の目鷹の目。餌を狙う猛禽類ばりに体格の良い生徒を物色しながら、ワカは自分の席に向かう。

 ワカ自身は身長153、中学一年生としては高いとも低いとも言えない平均的な背の高さだが、筋肉は鍛え上げられている。少しの余分な脂肪を足したその四肢は例えていえばボンレスハムだ___サージェントの指導を遵守して、骨の成長を妨げない程度には。

 体育館に並べられたパイプイスをきしませて座り、それでもなおせっかちに頭をめぐらして

(なーんだ、ヒョロいのはちらほらいるけど育ちのよろしい奴はいねーわけな)

 と少しがっかりした。

(ま、いいか。この俺もそうだけど、身長なんかガンガン伸びてくんだし。眼つきのいい奴は、そこそこいるわけだし)

 あとは気を取り直して式の開始を待つだけ。

 と、後ろで人声が立った。非難とも呆れともつかない呟きがザワザワと空気を濁している様子だ。

「あ、すみません…通ります、すみません、通ります」

 ぎぅぎぅ、と喉を鳴らしながらの科白の後から、ズシンズシンと響く足音。

 そしてワカの背面でその気配が止まり。

「ぎぅ…よいしょ」

 という高いソプラノのあと、「バキン!」とスチールパイプが折れ負けた。

「ぎぅひゃぁっ!!」

 高い悲鳴と、それより多くの、明らかに迷惑そうなざわめきで騒然となる。

 騒音も悲鳴も富山の避難所で慣れたもの。泰然とワカは振り向く。

 それが、寺野安芸というティラノザウルス系黒竜人と天野若尾というトリケラトプス系白竜人の出逢いだった。

(なにこいつ。クソだっせーわけ)

 それが若尾の素直な第一印象。

 ひしゃげたパイプの枠にシッポが嵌ってしまった寺野は、アキは、13歳としてあまりに大きすぎた。

 ワカの目算で身長170弱、体重90以上。肩幅は仁王さんのよう。手足の長さは体格に釣り合っているものの、制服が超特大の鉄骨を突っ込んだように皺が消えている。最大サイズを注文したのだろうに、もうキツくなっているのが分かる。

 太くのたうつ尻尾までが黒曜石の輝きを放つティラノサウルスは、冗談のようにグシャリと潰れたパイプイスを見下ろしておどおどと赤面する。

「ぎぅっ、ぎぎぎぎぎぎぅぅ、学校のもの壊しちゃった、ど、どどど、どうしよう…困っちゃうよぅ…」

 甘夏のような色の瞳が羞恥に濡れている。両手を噛むようなポーズで途方に暮れた黒竜人と、もっと途方に暮れている周りの新入生の中、ワカは率先して手を挙げた。

「すんませーん!ここ椅子壊れちゃったんでー、パイプじゃない椅子持ってきてほしいわけー!できれば頑丈な…あ!あそこのピアノの椅子とか!」

 突発的な事態に誰も対処できないのを見てとるや、「しょーがないわけな」と座っていた列から離れてピアノまで椅子を取りに行き、高く担いで戻る。

「ほらお前、立てよ。そんでこいつに座れってわけ。この椅子なら多分問題ねーから」

 黒竜人は真っ赤になってベソをかきながら頷くと、パイプ椅子がどいたところへワカが据えたピアノ用の椅子に恐る恐る腰掛ける。国内メーカーが製造したその椅子は今度は大丈夫なようで、野牛のようなその尻をしっかり支えて踏ん張った…若干足をたわめながら。

「ん。よし。これならOKなわけ。あ・すんませーん!この壊れた方の持ってって下さーい!」

「あ…あの、きみ…ありがと…困ってたの…た、助かったよ…」

「あ?あー、そうだそうそう忘れるところだったわけ!」

 小さくブツ切れの早口で感謝を言う黒竜人に、ワカは口角をニマァと持ち上げる。

「お前、名前はなんつーわけ」

「え?ぎぅぅ、寺野てらの…………安芸あき

「テラノアキ。なんか童謡の歌詞みてーな感じなわけだな。あーきのゆーうーひー、にー♫みたいな。ぎひっ!まぁいーや!」

 手の甲を白く光らせて、座してもなお高い相手の両肩を、ワカは爪先立ちになり上から押さえつけて命令口調になる。

「お前、この後この俺を体育館の外で待ってるわけ。多分相撲部とか空手部とか柔道部とか勧誘にくるだろーけど、絶対について行くな。返事もすんなシカトしろ。いいわけ?」

「ぎぅ?ぎぅぅぅぅぅ?」鼻息をふりかける勢いに寺野はたじろぐ。「な…なんで?」

 そこでワカはまたずいっと顔を近づける。その野放図な磁力を秘めたカラメル色の瞳に真っ直ぐ覗き込まれ、寺野は蛇に睨まれたカエルならぬ白竜に凄まれる黒竜となった。

「今のは“貸し”だろ?だからなわけ。いいな、寺野!」

 ドタバタと列を乱したり新入生がいきなり謎の行動力を発揮してピアノ用の椅子を勝手に持って行ったりしたせいで式次第を司る中堅どころの女教師があたふたとアナウンスをかけ、それに従ってワカは席に戻った。


「あいつ居ねーわけ!どこ行きやがったわけ!?」

 激怒するワカに、巫鈴は足払いをかける。

「保護者席で見てたわよ…なんってことしてるのあんたは…出しゃばりすぎでしょう…?恥ずかしくって顔から母乳が出そうになったわよ…?」

 すっ転ばされたワカは地面すれすれに横回り受け身をとってすぐさま立ち上がった。そして執念深く周りに索敵ビームを放つ。…実際は、集音能力の源である襟状突起をほうぼうに向けることで、あの黒竜人の行方を捜しているのだ。

 入学式が滞りなく済んで、ワカはいざあの巨体のティラノサウルスを誘って一緒にレスリング部の入部受付へ行こうと意気込んでいた。

 自分達のクラス(1-C)は名前順の後ろから出て行ったので、どうやら同じクラスになっていたらしい寺野安芸にすぐ追いつけると思っていた。約束通り、出口に待っているだろうと予想して疑わなかった。

 にも関わらず、こうして来てみればそこにはあの巨体の影も形もなく、退場までにそれほど時間差もなかったはずなのだが雲隠れしたみたいに行方がつかめない。

「くそー、もうどっかの勧誘に捕まっちまったわけなのか?それとも…」

「そんなに焦って誘わなくてもいいじゃない…?まだ学校が始まってもいないのに…?」

 巫鈴が言うことはもっともだ。だがしかしワカは、あの恵まれたボディの同級生はレスリングに来れば間違いなく怪物モンスタークラスになれると思っており、その期待と興奮のあまり一刻も、いや数秒も待てなくなっていた。

 早く。早く部活を、レスリングを始めたい。できれば今日にでも、今すぐにでも…

 そんな気分でくすぶっていたワカが、入部受付のカウンターが軒を並べる部活勧誘のブースを訪れ、そこでレスリング部が掲げるのぼりに

『飛び入り歓迎!FC式レスリング一本勝負!』

 とあるのを見逃すはずがなかった。

「なーなーセンパイさん、そこにあるのなんなわけ?」

 黒竜人のすっぽかしのせいでむしゃくしゃしていた気分も雲散霧消。ワカはすっかり気を取り直し、三年生らしい落ち着いた雰囲気のボーダーコリー系犬人にかぶりつくように尋ねた。

「ああこれ?うちの部の毎年の恒例でね。部員同士がいつもやってるみたいに試合形式でデモンストレーションをする。一本勝負で3回勝ち上がって終了!新入生のひとには挑戦者になってもらうこともできるよ、ワンピリオド勝負で。興味あるならやってみる?飛び入り参加者には賞品も出るよ」

 ワカが金釘流で書きなぐった汚い文字を解読しつつ、犬人はそれをクリアボックスに収める。ワカの前にももう幾人も入学希望者が来ているらしく、紙の束はかなり分厚い。

「もっちろん参加するわけ!で、賞品は賞品は賞品は?なんなわけ!?」

「もう勝ったつもりで?気が早いねえ」

 ジャージ姿の身体は肉付きが良く、印象としては少し老けた感じのするボーダーコリーは、太い首で左を示す。そこには長机の上にポップをつけたイーゼルがあり、ホワイトボードを立てかけて、参加賞からの賞品の内容が掲示されていた。

 ワカは参加賞努力賞をすっ飛ばして先を読む。

『三等、食堂の食券一週間分。』

「ぎひゃ!ここの食堂って値段の割にかなりレベル高ぇって聞いてるわけなんだけど!」

「そうだね、カフェテリアのメニューも含まれるしかなり魅力的でね」

『二等、高級低反発枕。』

「ぎぅおおおお〜マジなわけ!?ぐっすり眠れて翌日に疲れが残らないあの伝説の!?」

「え…これ嬉しいのかい?変わってるなぁ…まあドイツ製で、ものはいいんだけど」

 そして最後の一等賞は…

「とっ、東京新武道館でのFC式世界プロモーションレスリングWPW大会ペア観覧チケットぉぉぉお!!」

 それはビッグネームがタッグでぶつかり合うエキサイトマッチ。特に注目の選手は、日本人で初のFC式レスリングのオリンピック金メダリストの、キンシコウ系猿人の孫智武選手。五輪を二連覇したのち拠点を北米はサンフランシスコへ移しプロのFCレスラーへと転向し、躍進めざましく快進撃を続けている。

 ワカの眼から謎のビームが放射され、何も無い空間にポスターが描かれ『五輪王者、Sir・聖猿ハヌマン智武選手、凱旋参戦!!』の文字が踊った。

 あたりを根こそぎ吹き飛ばす勢いの鼻息で迫るワカに、犬人は慌てて手を振る。

「あ〜それはお飾りでウチの部員が悪ふざけで…」

「おおっと、冗談も大概にしてくんねィ」

 少年向けアニメの主人公そのままの、少しハスキーでヤンチャな喋りかた。ボードを隠すお餅のような手。

 それらの持ち主は、ラメの散ったレスリングパンツとリングブーツ以外はほぼ裸というビヤ樽体型のヒトの少年だった。

「昨日までランドセルだった一年坊主がよォ、デモ試合とはいえ三年の先輩方までいる中で他の野郎ども抑えて勝てると思ってんのかィ?」

 静かな怒りに燃えるような赤い髪は、染めたものではないという証拠に艶々としている。挑発するようでいて相手を侮っている瞳の色はグレーグリーン。小さな小さな団子鼻が唯一東洋人らしいテイストを醸した容貌だ。

法螺汐ほらしお先輩もいけませんぜィ。こんな仁義も切れねェような馬鹿野郎の言うこと聞かないで下せえよ」

「普通は仁義なんか切れないもんだよ幡ヶ谷。それにさ、彼はまだ一年生なんだしいいじゃないか。生意気な選手の方がマイクパフォーマンスを上手にやるもので」

「そのぐな性格がフェイントに引っかかりやすいモトなんですよ」

 先輩に対して礼儀を保ちつつ批判するヒトの少年は、ワカより身長は多少まさり、筋肉よりもその脂肪の鎧がいかにも荒々しくいかめしい。法螺汐と呼ばれたボーダーコリーが三年生として、こちらは二年生のようだ。

 そしてリングコスチュームでいるということは、このいわば実力お試しマッチの選手になっているわけだ。

「いいか一年坊主、耳ん中かっぽじってよーく聞いときな!」

 赤髪の少年は腰を落として膝を出す。そこに片腕を伸ばして掌を見せ、キリリと眉を吊り上げた。

「おひけえなすってくだせェやし。手前生まれも育ちも大田区蒲田、池上本門で産湯を浸かり姓は幡ヶ谷名は与力。人呼んで『千手の与力』と発します!以後お見知り置きのほどを!!」

 ワカは見たことがなかったが、それは極道ものの古い映画ではおなじみの光景だった。そういったものに造詣のある父兄が足を止め、なんとなく拍手などをくれた。

「分かったか唐変木。こいつが仁義ってもんでェ」

「もとは自分の好きな映画から持って来たマイクパフォーマンスのつもりでいたんだよね。それがすっかり板についたもんで。あ、けど幡ヶ谷はこう見えて意外と優しいし怖くはないドブッ」

「余計なことは言いっこなしでお願いしやすぜ法螺汐先輩」

 またしてもマズルを鷲掴みにされて、犬人はかたなしだ。

「__で。おめえ、参加希望なんだな?」

 ワカは力強く頷こうとして、背後の巫鈴がわざとらしくついた重いため息を聞いた。

「あー、あはっ!そーでしたね…えぇーと、あのー、巫鈴さん…」

 巫鈴は桜を舞い上げていく風を視線だけで追う。彼女に何かを頼む時こうして丁寧にへり下るのは、このワカと彼女の夫に共通していた。

「あーあ照喜てるき…ワカお兄ちゃんはこれに出たいんだって…電車の時間もあるのにね…あんたもお腹空いたわよね…我儘なお兄ちゃんね…?」

 照喜という名前を呼ばれて赤ん坊はむずがる。ワカは巫鈴の前の地面に這いつくばって頭を下げた。

「この通り!一生のお願いなわけ!この俺もこれに出たい!!」

「……………」

 巫鈴は答える代わりに息子を抱き直し、腕時計を確認して。

 くるりと踵を返した。

「み、巫鈴さん!?」

 振り返らず学生課に向かいながら背中越しに言う。

「こんな寒いところじゃこの子が風邪引くから…先にあんたの体操着とか教科書の受け取り手続きしてくるわね…?一時間はかからないでしょう…?」

 ホッと胸を撫で下ろしたトリケラトプス。

「ホイ、そんじゃ着てるもん脱げるだけ脱いでこっちきてくんな」

 唇をひん曲げて誘う幡ヶ谷に、もちろんついていくワカである。

 更衣室がわりのパテーションで囲われたスペースで腰から下を覆うタイツ様の深草色のレスラーパンツに足を通す。使い込まれた貸出品だが手入れは丁寧だ。ブーツはサイズが合うものがなかったので裸足。

 着替えが終わるのを待っていた幡ヶ谷がパテーションの隙間から覗いて口笛を鳴らす。

「ナリはまだ小せえが、みったくねぇわけでもねぇなおめえ。着慣れてる感じがするぜィ。どこで習ってたんでィ?」

 ワカは動的ダイナミックストレッチで筋肉のテンションを高めながら「富山の避難所なわけ!」と元気に答える。

「じゃあ越境入学っつーわけか。こっちには親戚でも居んのかィ?」

「プリン姉たち以外にそんなもん居ないわけ。この俺、こんなにカッコ良くても天涯孤独の孤児ってわけ!」

「…おめえがカッコいいと自分で思ってんなら荒川ん川面にツラ映して目ぇ醒ましやがれ。…となると、なるほどドラゴンロックの入寮者ってことになるのか。好都合だぜ」

 外に出たワカに「ちなみにオイラも寮生だぜィ」と告げ、握手を求めてきた。

「さっき仁義は切ったが、改めてだな。みんなにゃ与力って呼ばれてるぜィ」

「天野若尾なわけ。好きに呼んでくれ!よろしく与力!」

 ワカも右手を差し出して応じて。次の瞬間手首から肘まで駆け抜ける電流のような刺激に「ぎひゃっ」と振りほどいた。

「な、なんなわけ今のビリっときた!」

「馬鹿正直にゃ、ちょうどいい仕置きだろ。今後はちゃんと与力『先輩』って呼びやがれ。勿論三年の先輩方にもだぞ?でなきゃ次は」

 わきわきと太短い指を動かしながら手を差し上げ、その向こうで闇に眼を光らせる肉食獣さながらの不穏な表情になる。

 与力が握手と見せかけて親指を食い込ませたのは、とある経穴__俗に『ツボ』という場所だった。東洋医学における人体の治療点であり筋疲労のトリガーポイントでもある経穴を、その流れとともに与力は諳んじることができるのだ。

「そのビリビリ、たらふく食わしてやることになるぜィ」

 何をされたのか理解できないワカだったが、先程の痺れを伴う痛みを与えたのは、どうやらこの先輩の隠し技の一つらしいということにかえってやる気がみなぎってきた。

(すっっっげー!やっぱ、東京のレスラーはレベルが高いわけ!ぎひっ!)

 はるばる来た甲斐があった。それを嬉しく噛み締めながら、鼻歌交じりに背を向けて入部受付コーナーの横に設けられた簡易リングに向かうトリケラトプス。

 幡ヶ谷は物珍しいものを見たというふうにその後から歩いていく。

(これまでオイラの代でも先輩方の代でも、この技見せて動揺しねぇやつなんざ居なかったんだがよォ…悦んでやがるたァ恐れ入ったぜ。よっぽどハジけたオツムしてやがんのか、それとも真性のマゾってやつか?)

 後者ならゾッとしないぞと、のっそりのっそりと歩きながら果敢な一年生の背中をなんの気なく眺めて、与力の顔が「んおぅ?」と驚きに平べったくなる。

 更衣の際も前からだった与力は、ワカの裸の背中をそのとき初めて見た。

 そこにはひと枝の桜花が咲き誇っている。

 …かの如く、白い表鱗に覆われたその肩甲骨の間の部分がほんのりとした桃色に変じていた。

 それは生まれつきのものなのか。それとも成長するにつれて生じたものなのか。一瞥しただけではそこまで判別できない。ただ、グラデーションといい花の塊のような部分といい散りゆく花弁のようなところといい本当に桜の刺青でもしているんじゃないかと思わせる。「おい若尾、おめえ富山に居たっつってたか。日本海側の避難所っていやそういえば…」

 与力は問いかけをそのままに噛み砕く。自分を含め、それぞれが背負う因縁や過去はそれぞれのものだ。『災害』がもたらしたものは千差万別なのだから。

 これについては今聞くべきものではない___与力の勘がそう告げていた。そしてそのお告げは正しかったのだが、また後のお話にとっておこう。

 数分後、与力は顔筋を引きつらせながらリングの外で仁王立ちになっていた。

『災害』後しばらくして設定されたルールにより、FCフルコンタクト式レスリングの試合は、周囲を土俵にも似た盛り上がりに囲まれた直径10mの円の上で行われることになっている。

 いま、マットレスの円の上に転がされているのは、これまで公式戦で先鋒を務めてきた二年生の亀人だった。勿論、それなりの実力者である。

 通常であれば5分を1ピリオドとし(アマチュアレスリングでは4分で1ピリオドである)、2ピリオドまでの間にテンカウントをとるかギブアップを受けるか気絶させれば勝ちとなるFC式のレスリングは、『災害』前のアマチュアレスリングとプロモーションレスリングの良いところを混ぜたものといえる。

 ワカはそのうち三つ目の条件を満たしてしまったのだ。

 しかも、ゴングが鳴ってものの5秒で。

「なんっつぅ有様でィ…」

 不甲斐ない同輩に驚き、生意気な後輩の実力に呆れ返る与力。

 内容は単純そのものだった。亀人が突っかかって来たのをワカは軽くいなし、そのまま腰をがっちり捕まえて「いよぃしょお!」と持ち上げ、スープレックスに持ち込んだのだ。

 頭からマットレスに刺さった亀人は目を回してしまい、ワカは誰の目にも明らかな勝利を手にしたのである。

 一年生が、しかも身長差があった上で上級生を瞬殺した___あまりの出来事に、ワカより先に挑戦して負けた入部希望の一年生も、部員の二年生はもとより三年生まで凍りついていた。

「えーと、これでこの俺は何等賞になるわけ?」

 ワカはパコンパコンと両腕を開いたり閉じたりして有り余る闘争意欲を示している。

 様子を見ていた法螺汐がやや焦りを見せながら「そうだね、飛び入った時点で参加賞、善戦で残念賞、勝ち星一つで三等賞で…」と律儀に教えようとする。

「てことは、あっ!この俺、もう食券ゲットしたわけな、やっりー!」

「ええと、うん、そういうことで…そうなるかな」

「じゃ次!次は誰なわけ?早く早く早く!!」

 自分で肩を抑えてもう片方の腕をブンブン振り回す白竜人に、ボーダーコリーは部員の割り当て表を指でなぞっていく。

「うん、うん、そうだね次は順当にいって中重量級の主水もんどで…」

 そして主水という名のシマウマ人も、トリケラトプスの4の字固めであっさりとギブアップをした。

「うーん、うーん、そうなると三回戦目は…」

「あーいいでさァ法螺汐先輩。…こいつ、この天野って野郎はどうやら厳しくいかにゃならんようですぜ」

「幡ヶ谷?」

 コーナーのない円状のシンプルな闘技エリア。そこに片足を乗り上げて、ずいっと与力が肥満体をねじ込んだ。

「おぅ天野。三回戦目はタッグマッチだ。一年同士二人になってこっちで用意した面子メンツと闘う。二人組でなけりゃぁ受付らんねェなぁ」

「なにそれ!?なに急にルール変更してるわけ!?ずっりーわけ!!」

「そうだよ幡ヶ谷、確かに彼は強いけどはじめに決めたやり方だと戦績ランクの低い選手から一人ずつを当てて…」

 与力は犬人のマズルを掌で塞ぐ。もがふが、と相手が目を白黒させても何事もなかったかのように笑顔。

「法螺汐先輩は、どうか黙っつくんませんかィ」

(なんだよこのデブ、この俺には先輩に敬意を払え的なこと言ったわけなのに、自分は結構自由じゃんか!)

 ワカが反抗心を通り越して敵愾心に燃えていると、与力は今度は媚びるように鷹揚に手を振る。

「あー悪かった悪かった、確かにダブルマッチになるたァどこにも書いてねぇわなぁ、こりゃァしくった。こっちのミスだ。…だがなぁ」

 さらに表情が睨め上げるように変化して、

「こいつはワザとじゃねぇんだ。それがイヤだってんなら諦めな。せっかくこのオイラと相棒が揉んでやるつもりだったのになァ」

 と、やや離れた場所で同じくレスリングパンツになっている背の高いハイエナ人を親指で示した。相棒という単語を聞きつけたその部員は、軽く会釈してくる。いかにも紳士然として。

 こちらは与力とは対照的に、脂肪のしの字も見えないギュッと凝縮されたような体型だ。質も量も充実して非の打ち所のないレスラーの身体つき。

 何より目を引くのは腰に回されたベルト。それを持つということは、何かの大会で優勝を経験しているという証だ。

 ワカは胸の内側で盛大に舌打ちする。三回戦からタッグマッチであるなどとは大嘘だ。明らかに賞品が惜しくて、アドリブでルールを改変したのだ。

大人気おとなげえー!おまけにいきなりグレードアップとか卑怯なわけ!…でも負けねー!!この俺、こーゆー奴は絶対許せねーわけ!)

「さてどうする?棄権するか?棄権するなら二等の商品くれてやるぞ。あとはまぁ、このオイラが直々に一回闘ってもんでやる。入部前にこんだけ丁重にもてなすなんてな、破格の扱いなんだぜ。それでいいかァ」

「勝手に話を進めんじゃねーわけ!!」

「んじゃ諦めるか?いっそなんもかんも白紙に戻しちまうか?それでもいいぜ」

 せっかく目の前にぶら下げられた垂涎のプロレスのチケット。ここで手に入れられなければもう他所では望みもないだろう。ネットでは発売前からプレミアがついており、現在は額面の50倍は値が跳ね上がっているのだから。ワカにとって諦められるものではない。

 とはいえ、これでは四面楚歌だ。一人で吠えても打開策はない。

 与力は校門に続く人の流れを背にしていた。

 与力を睨みつけていたワカだが、その向こうから、大きな大きな黒山が「す、すいません、すいません、通ります通りますよ、通ります」

 と気弱に声をかけながら、重なる人影を裂いて近づいてくるのを見て破顔する。

「あっ、いた!」

 高い声。黒い鱗に覆われた、控えめながら人懐こい笑顔。

「…アキ!」

 名前を呼ばれたティラノサウルス系の竜人は、ぎぅっ!と叱られたように首をすくめた。

「お前今までどこでなにしてたわけ!?てゆーか、なんで待ち合わせのとこにいないわけ!!」

「あっ、そっ、それはね…」

 両手の人差し指の先を合わせながら、黒竜人はトイレに行っていたのだと漏らした。

「そ、それでね、周りの人に聞いて探して回ってたら遅くなっちゃったの…えと…これは何してるの?きみはなんでそんな格好になってるの?」

「いいから来いってわけ!」

 状況が把握できず「ぎぅっ?ぎぅぅっ!?」と面食らっているティラノサウルスをワカは更衣場所に連れ込み、さっさと制服を脱がしにかかる。

「ぎぅっ、ぎぅっ、なんでっ?なんできみは僕を裸にしようとするの!?一体何をするつもりなの!?困っちゃうよぅ!やだぁっ!!」

 スカートをめくられた可憐な乙女もかくやという反応をされると、ワカの方も妖しげな行為をしているわけでもないのに赤面してしまう。

「男のくせにおかしな表現すんな!パンツまでは脱がしてねーだろ!さっさとこれ穿けよ」

 ブリーフ一丁にひん剥かれたアキは、股間を精一杯隠して内股になり、盛大に恥ずかしがる。

 ワカはそんなティラノサウルスを「ふーん」と鼻から息を抜きながら値踏みした。

(あんま運動はしてなさそうな性格だけど、体はムッキムキで[[rb:背丈>タッパ]]すげーあるわけ。先輩二人はキツいけど、手持ちのカードはこいつぐらいなわけだし…)

「じ、じっと見ないでよ恥ずかしいから…困っちゃうよ…」

 ワカの言うことを素直に聞いて、膝上までかかる青のレスラーパンツ姿になると、アキはそれなりに強そうに見えてきた。やはり自分の見る目は正しかったのだとワカはほくそ笑む。

(あとは勝つためのおまじないなわけ!)

 アキは自分の格好はおかしくはないのか、そしてこれはもしかして何かやらされるのだろうかとしきりに喉を鳴らしている。今更にすぎる疑問だが、彼にしてみれば状況は五里霧中なのだ。

 ワカはそんな相手に近づくと、見上げるほどの威容でありながら肝っ玉はハムスターのような小ささの竜人の黒い顔を、両手で挟んで下向かせた。

 体育館の出来事に引き続き、また泣きそうになっている童顔は、何処かの誰かに似ているようで。

「…ぎぅ?」

 アキの弱々しい表情が、ワカの胸の内に温かく甘い気持ちを思い出させる。同時に、そのすぐ近くにある古傷に懐かしい痛みを呼び起こす。

 あの時、彼はなんと言って自分を勇気づけてくれたのだったか。思い出さなければいけないが、それはワカにとって…

(…いや、辛いとかなんとか情けねーこと言ってる場合じゃねーわけ!)

 襟状突起で風を切るようにかぶりを振り、ワカは太陽のような満面の笑みを点灯させた。

「だぁーいじょうぶだってわけ!この俺がついてるから!お前は立ってるだけでいいわけ!…怖い時は…」

 ___ワカくん。怖かったらね、もし、怖い時にはね…

 自分の方こそ怯えているくせに、あの時の彼はこっちの顔をしっかり挟んで真正面から覗き込んでくれた。隣で慰めるでもなく、背を向けて逃げるでもなく、向かい合ってくれていた。

 …向かい合うことを選んでくれていた。

 ワカはあの時の幼馴染の鯱人と、自分が重なっているような気がして嬉しかった。

「お前にはこの若尾がついてる。お前は一人じゃない。そう思ってればいいわけ!!」

 ティラノサウルスの黒い顔がぱあっとほどけた。そして頬に血潮がさして紅くなる。

「…若尾、っていうんだね」

「へ?」

 黒竜人は微苦笑した。

「僕、いま初めてきみの名前を教えてもらったんだよ。きみはせっかちなんだねえ。そうか…若尾っていうんだね。ぎぅ、じゃあ…」

 アキの両手がワカの肩にかかる。反対に元気づけるように指先が肉の中まで力強くめり込んで、ワカを驚かせる。

「………ワッくんて、呼んでいい…?ぎぅ……」

 そっと触れるようなお願いに、ワカの脊髄を走る幾千もの神経束が不思議な泡立ちかたをする。未知の香りを嗅いだように、鼻がツンとした。

 ワカは去来する予兆を抑え、ガッと右腕を突き上げた。

「おう!俺もアキって呼ぶわけ!!あの横暴な先輩たちに一泡吹かせてやろうぜ!!」


「ほお、そっちのデカブツもサマになってんじゃねェか」

 与力は既にリングのセンターに入って手足をブラブラと振りつつ、リラックスした調子で声をかけてきた。

「だろー?こいつは寺野安芸!今日からこの俺の相棒!んで、この俺と同じくレス部の有望選手になるわけ!」

「ぎっ、ぎぅぅぅぅ!?いつの間にそんな話になってるの!?ワッくん!?」

「いーじゃねーわけアキ!もうお前はこの俺に捕まえられたんだから!同じクラスだし、逃げらんねぇぞぉ〜♩ぎひっ、ぎひひひひひっ!」

 わたわたとするアキの顎に指を突きつけるワカは、悪役というより完全に変質者の表情になっている。対するアキは「ひっ、ひぇぇぇぇぇん」と後悔の面持ちも甚だしい。

 ストップウォッチを握ったボーダーコリーの咳払いで場の空気が引き締まる。

「もう分かってるだろうけども、ルールはFC式だから、ゴングが鳴ってゴングで終わるよ…えーと、天野君の連れて来たそっちの子は経験とかあるんで?」

 ワカは「ねーわけだろ?」とアキに問いかけ、アキは頷きかたが激しすぎてヘッドバンギングになる。

 リングの外でベルトを着けたハイエナ人が腕をこまぬきながら「じゃあティラノサウルスが後に出る方がいいんじゃないか」と言い、ワカはその提案を呑んだ。経験者の戦いかたを見て、それに倣う…結果がどうなろうとその方がまだ無理が少ない。

「ぎ、ぎぅぎぅぎぅ、んと、えーと、つまり先にワッ君があのヒトと試合して、その次にボクがハイエナ人の先輩と戦うってことでいいの?」

「そーゆーこと。んで、この俺が勝ってお前が負けたら、も一回る。その場合はシャッフルしてもいいわけ」

「初めのお前が負ければもう決まっちまうだろうがな」

 与力の茶々に、ワカはガンを飛ばす。二人の視線の衝突で、空間にプラズマが飛び交う。

「先鋒はあんたなわけだよな?与力…センパイ」

「おう。怖気付いたかトカゲちゃん?」

「吐かせ。あんたのその紅い髪の毛、ツルッと丸刈マルガリータに剃ってやる」

 与力のこめかみに静脈が浮いた。舌戦のファーストラウンドはワカに軍配が上がったらしい。

 円形の仕切りの中央には「=」の線が引かれている。それがセンターラインとなる。その二本の線のそれぞれの上に、ワカと与力、トリケラトプスとヒトの踵が置かれる。

「クソ生意気な白ンボ野郎。てめえの尻尾ぶっこ抜いてその口に咥えさせてやるぜィ」

「二枚舌のデブトマト野郎、この俺様が畑に帰してやるわけ。堆肥もたっぷりつけてやる!」

 互いに毒づき、構えを取るヒトと竜人。

 そしてそれを眺めつつ、

(…なんかとんでもないことに巻き込まれちゃったよう…ぎぅぅぅ…)

 と、顎を下げるティラノサウルス。

 それぞれの思惑をまとめて、ゴングが鳴った。先に飛び出したのはトリケラトプス。

「先手必勝!死ぬぇぇぇ!!」

 スポーツマンにあるまじき科白だが、これもまたレスリングならではのものである。

 スピアタックルに見せかけて、ドロップキック。二本の足を綺麗に揃えた蹴りの衝撃は相当なものだ。

 だが。

「オイラの寿命は閻魔様に預けてあるんでね。てめえごときに縮められるもんじゃねぇやい」

 不敵に吐き捨てた与力の腕が閃いた。次の瞬間、ワカはマットに頭から沈む。

「〜ッ!?」

 何が起きたのかと首を振りながら起きる白竜。

 ギャラリーの方からは、体を躱した与力がワカのキックの力を利用してその白い身体をグルンと投げ降ろしたのがよく見えていた。

(ノータッチだったら反則…けどっ、ギリギリ触って、足首掴んで方向変えてきたわけっ!?)

 ワカは素早く計算する。FC式のレスリングにおいて、技を受けることが当然のこととされており、もし相手に触れずに攻撃をただ避けたのであればペナルティポイントが課される。体捌きしながらでもなんでも、それを受ける限りはルールに抵触しない。

 そしてそれは、相手の力そのものを利用して攻撃に転化させた場合も同様である。

「っ痛ててて…まだまだぁっ!」

 投げ技が上手な選手なら、絞め技でいってやる。そう考えて取り組みにいくワカを、ハイエナ人が「…これは、与力の思う壺じゃないか」と血のような色の瞳を細めて嗤った。

 事実その通りで、両手を前に出してがぷり四つになろうとしたワカの腹を、ゆったりと腰を低くした与力の放つ掌底が貫いた。

 その打ちかた自体は力みもスピードもなかった。だが与力の掌が真白な腹肉に触れた瞬間、トリケラトプスは身体を二つ折りにして宙に浮いた。

「ぐぶぉっ!」

 吐息と唾液と胃液の霧を噴射してリングに転がるワカを、腰に手をやり冷たく見下ろす与力。

発勁はっけいよい。なんつってな」

 型は相撲の張り手に似てもいるが、実情は非なるもの。東洋拳法の精髄の一つ、丹田で練った『気』をうねりを利用して相手に叩き込む技である。

 腹の内側をえぐり、内臓の位置を丸ごと変えるような衝撃に、白竜人は嘔吐のような呻きを上げながらのたうった。

「ワ、ワッくん!?大丈夫!?」

 リングの外に膝をつく黒竜人。その心配の頂点に達する声に、白竜人はなんとかこらえて立ち上がる。

「…大丈夫なわけっ!心配すんなこれくらいで!」

 と言いつつも、クラリと視界が揺れる。やはり足元が覚束ない。

 投げ技で頭がクラクラしている。そして先ほどの一撃で腹筋からひび割れたように体全体が軋む。それでもワカは、自分のことを心配する仲間の…いまはアキ一人の…声援を受けて、気合だけはゲージを完全に回復している。

「へェ。だらしなくお寝んねしないだけ褒めてやらァ」

「ぎひっ。あんたのことも見直したぜ先輩。ただの口先八丁の卑怯野郎じゃねーわけな」

 打撃技の威力は意外だったが、まだ勝負はついていない。こちらがギブアップをしたりしなければ、場外になっても何度でもやり直せる。

 それよりも、故意に場外に逃げたとか戦意喪失と見られたりしてのペナルティポイント負けの方が怖い。

 そう、「嫌だ」でも「避けたい」でもなく…「怖い」。

 やられるなら、前からやられろ。

 敵を倒すなら、後ろへ倒せ。

 そう教わってきたワカは、どんなに苦境にあっても前のめりに突っ込んでやるぞという両眼の炎は失わない。

 与力の表情も後輩に対する嘲弄は剥がれていないが、ワカの気合いと根性に応えて全身の脂肪の鎧の下からうっすらと筋肉の陰影が浮かび上がってきた。

 対峙する白竜人とヒトのレスラーは、ぶつかり合うオーラを周囲に発散する。遠巻きに眺めていた観衆がその輪を縮め、試合の最初から立ち会っている部員も新入生も固唾を飲んで拳を握るほどに。

「寺野安芸といったかな。貴様は与力とあの若尾とかいう新人のどちらが勝つと思う?」

 ハイエナ人から何気なく質問を投げられたティラノサウルスは、全身全霊を集中させてワカのことを見ておりそれを聞いていない風だった。

 もう一度同じ質問を舌に乗せかけた公朱に、アキはポソリと言った。

「すごい…ワッくんの身体が透明に燃えてるみたい…エネルギーが見えるみたい」

「……………」

 アキの口調はすっかりレスラー同士の戦いに魅せられた者のそれだった。加えて、ワカが動くたびにその背中に舞い踊る桜模様にも心を奪われている。

「与力先輩さんは……なんか…どっしりしてるけど、そんなにエネルギー感がなくて……まるでやる気がないみたくて………エネルギーだけで言うならワッくんが勝つ」

「へぇ」

 隣にいるのが上級生だと思い出したアキは「ひぁうっ!すいませぇん!!」と、両手でバタバタと空気をかき混ぜる。

 公朱はしかし、生意気だと思ったわけでも呆れたわけでもなかった。立ち合う二人をそんな風に評するアキの観察眼に、正直驚いていたのである。

(与力は…彼奴は本気を出してはいない。スロースターターなのはもとより、相手のレベルを完全に見切っているからな)

 与力と同じ部活で汗を流し、一年間を共に過ごしてきたハイエナ人にはその出方も性根も知れていた。

 与力は他人をぞんざいに扱い態度は悪たれそのものではあるものの、部活では裏腹に上下関係と礼儀と面子を何より重んじる。それは無論実力を伴ってこそのものなのだが、特に理由なくそれを欠いた者には容赦がない。

 ハイエナ人は、与力というレスラーがそういった気に入らない相手を猫がネズミをいたぶるように「可愛がる」性格であることも熟知しているのだ。たとえばこの、白い鱗のトリケラトプスのような相手に対しては。

(ワカという新人はガッツや伸びしろに見所があるが、与力にはまだ遠く及ばない。だからいなして虐めるあいつの餌食になっているじゃないか。それをこんな短時間で見抜くとは。この黒竜、なかなか見所があるのか、それともただの偶然か…?)

 何事につけつらつらと思索する癖のあるハイエナ人の前で、与力はワカと組み合った勢いで足が滑ったと見せかけて股間に膝蹴りを入れた。

 これこそ大の男も悶絶する手段(勿論のこと反則技であるので審判に見破られたら即退場)だが、ワカは軽く股間を抑えて後じさるだけである。

「あぁぁあっぶねー!何すんだもう少しで女の子になっちゃうとこなわけ!!」

「そうか、おめえ竜人か…」

 与力は同じ寮に暮らす竜人や海棲系人のこと、おもに彼らと風呂を使った時のことを思い出した。

 竜人や鯱人、サメ人、海豚人などは男でも股間に割れ目スリットがある。睾丸も陰茎も普段はそこに仕舞われており、小用を足すときしかそこから出てくることはない。

 女性の陰部とよく似た造りのその部分は、時に他の種の寮生のからかいの元になったりもしていた。だが与力は常々つねづね金的攻撃を喰らっても直接には響かない構造のその恥部を、羨ましく思っていた。

「あのなぁ!こんな大事なとこ攻撃してくんな!!卑怯すぎるわけ!!」

「偶然だ偶然。それに確かチンポも金玉もそン割れ目ん中にあって平気なんだろ?」

「それは、お子ちゃまのときの話!もうこの俺は外に出て来てんの!!…まだちょっとだけど」

 どうやら成長につれて男の子の部分が割れ目の外に顔を出すらしい。確かにいちいち引っ張り出していたのでは性交の際に手間暇がかかりすぎるのだろう。与力はよくできたもんだと素直に感心する。

「次はこっちの番なわけ!くらえ尻尾ラリアットシルバーブレードテール!!」

 腰を軸に回転し、尻から生えた尾を相手の胸や首すじへ叩きつける大技。ワカは足腰のバネを活かした左回りに柔軟な尻尾のしなりを利かせ、更に尻尾それ自体の筋力を上乗せする。

(…まともに受けたら、杉の木だって倒すこの俺の必殺技なわけ!)

 横ざまに振られる白いまさかり。竜人の竜人たる所以でもある部分が凶器となって与力を襲う。

 がしかし。

「…こいつァ最後の花持たせ、ってやつだ」

 与力が体の前で両腕を交差して待っているところへ、ワカの尾は吸い込まれるように収まった。

 すっぱぁん!!

 並み居る人間の鼓膜を打ち、空間そのものを白く塗りつぶすような破裂音。

 アキは見た。与力が、完全に勢いを殺したワカの尻尾を抱きかかえるように持っている姿と、そのニッと唇を上げた表情を。

 さすがのワカも、渾身の必殺技をなんなく真正面から受け止められては愕然とする。

(なんなわけこいつ…正々堂々とやりあうこともできるのかぁ…!)

 入魂の一撃が挫かれても、ワカの精神は折れない。むしろ却って燃え上がった。

(っっっげぇ!すっっっっっげぇわけ東京!やっぱり出てきて正解!!)

 好物の甘いものを食卓に並べられるよりも嬉しげなワカに、与力は四白眼を細めて酷薄なせせら笑いを浮かべる。

「もう4分になる。仕上げにダチの前で気持ちよくイッちまいな!」

 言うが早いか与力の腕がワカの胴体を引き寄せ、くるっと後ろ向きにし、その顎の下をスリーパーホールドに固めてしまう。

「あっ、ぐぁっ!」

「暴れんじゃねぇぜィ。余計苦しいぞ」

 冗談じゃない。このまま落とされてたまるか!…と、ワカは苦し紛れに暴れに暴れた。だが与力は、そんなもので振りほどけるほど甘いかけかたはしていない。

「ワッくん!!」

 アキが、黒い鱗の面いっぱいで叫んでいる。

 ワカは無意識に手を伸ばしていた。タッグマッチでタッチを請うように。交代などできるはずもないのに。

 自分自身でもよくわからない行為だった。相手を安心させるためなのか、助けを求めているのか、それとも…

 息苦しさが一瞬で薄れて、逆に魂ごと引き抜かれるほど魔的な気持ち良さに満たされた。



「どうでェ一年坊主。宣言通り気持ち良くイかせてやったぜげっふ!」

 ボーダーコリーの拳骨が与力の首をヘソまで叩き落とす。

「何やっとんじゃ与力!こん、馬鹿ったれ!」

 先ほどまでとは打って変わって後輩に強く出た法螺汐は、表情までも鬼瓦の如く剣ヶ峰をなす。そしてワカの体を抱え上げ意識回復術を試みる。

「命に別状ねぇですって法螺汐先輩。大袈裟すぎやすよ」

「そなぁな問題じゃねえ!こがぁなことすると評判落ちるがよ!?そなぁなことも分からんでどないするんじゃぁ!?こん、馬鹿ったれが!!」

「あー。部の評判が、でやすね。そいつぁ算盤ソロバンに入れてなかったです。すんませんね」

 ボーダーコリーの怒声がさらに大きな雷をまとって与力の紅い頭に落ちた。

「違うちゅうとんじゃ!与力、お前ん評判んこと言うとるんじゃオラぁ。自分の評判自分で落としよってどがぁすんじゃ!?お前はほんっっっに、考えの無い奴っちゃ、こん大馬鹿ったれ!!」

 与力の斜に構えた瞳が太く見開かれる。そして居心地悪そうに脇腹を掻きながら、やや紅潮した面持ちで明後日の方へ向いた。それから

「別にオイラ…自分てめぇのことなんざどうでもいいんでさァ…」

 などと嘯いている。

 ワカは、そんな風景を俯瞰する位置から眺めている自分に違和感を覚えた。おや?このあたりの出来事は気絶していたせいで自分は知らないはずのことなんだが…と。

「その通り。ここから先は、そなたが知らぬうちの出来事」

 洞窟の水溜りにしたたる水滴のような声。

 ワカの右隣に、青い髪のヒトの少女が浮いていた。それもただの少女ではなく接頭語に『美』が付くタイプの。

 ワカの知識には含まれてはいなかったが、その少女のまとうものはうすものと呼ばれるものだった。それを幾重にも巻きつけることで白桃のような裸身を隠し、より鮮烈な印象を与える。

 髪の青さと肌の白さ、そして両耳の先がアニメや映画のエルフのように尖っているのがおよそ現実離れした特徴になっている。

 そして少女は瞳を星のように瞬かせ、上品な鐘のごとく告げた。

「我は刻と夢をつかさどる古きもの。そなたの猛き魂に感応してここに招ばれた。見るがよい。そなたの望み、知りたい過去ものを」

(この俺が今知りたい過去…?)

 小さな水鳥のくちばしのような指を差された眼下、空中に浮かんでいるワカの意識の下方では、回復術が上手くいってワカが意識を取り戻し、離れたところで寝かされている。

 そしてリングでは、二試合目が始まろうとしているところだった。

「先ほどの実戦、実に見事だったじゃないか。貴様はそうは思わないか、寺野」

「そ…そう言われても…ぎぅ…そうですね…………」

 小気味良く爽やかに評価するハイエナ人と、対面して歯切れの悪いティラノサウルス。前者のレスラーパンツは鬣と同じダークイエローの地にオフホワイトのマーブル模様が入ったもの。後者は練習用の色せた青。

 ハイエナ人の黄色いたてがみよりも上にアキの頭がある。完全に見下ろしている立場だというのに、すっかり相手に飲み込まれて萎縮してしまっている黒竜人は、太い尾を貧乏ゆすりしていた。

「とはいえ、キレも練度もまだまだ拙いというか、大味だな。基礎はしっかりしているようだが…あの最後の技などは『銀の刃シルバーブレード』とは呼びがたいしろものだ。せいぜい『白いムチホワイトウィップ』じゃないか」

 軽く馬鹿にした言い方で、ワカの意識体がカチンとくる。

 しかし意外なことに、ウジウジもぞもぞしていた巨体のティラノサウルスがこの科白でハタと動きを止めた。

「…ワッくんのこと、馬鹿にしてるです…?」

 大きく見開かれた弱々しい瞳。小春日和の木漏れ日のようなその内側に、迫力なんて塵ほどもない。脅しているつもりも毛頭ない。

「…ワッくんを馬鹿にするのは…困っちゃう…」

 それは本当にかすかな呟きだった。

 メインで挑戦してきたワカが負け、残ったのは明らかに頭数合わせに連れてこられた互いに面識の薄そうな一年生。正直公朱には何故自分がこんな首までどっぷり初心者のど素人と対戦することになっているのかわけが分からない。与力のお得意のやり方で煙に巻かれて流されただけなのだ。

 当然やる気も湧いてこない。早く終わらそうと思っていたのだが、気弱そうな一年生が意外にも見せた反骨の気性を、ハイエナ人の敏感な耳が

「なんだ貴様、あの白ンボともうそんなに親しくしているのか」

「そういうわけじゃないです…」

「ではあいつのことはまだ何も知らないのだろう。ひょっとして、賞品に釣られただけのさもしい奴かも知れないじゃないか」

「…僕はまだワッくんのことを、全然知りません…けど」

 アキは辞書の中にその言葉をちゃんと持っていた。それは汚い言葉。使ってはいけない言葉。少なくとも、人品を表すときには避けるべき言葉。

 さもしいとは、いやらしくて浅ましい、エゴイストにこそふさわしい言葉だ。

 あの白竜には、似つかわしくない。

「…ワッくんが、優しくていい人だってことはよく分かってます。だって、困ってた僕を助けてくれたんだもの!初対面ですよ!?」

「へぇ」

 どうやら着火に成功したらしい。公朱は内心ほくそ笑んで、ゆるりと対戦の構えを取る。

「それなら力で示してみるがいい。ここはリングじゃないか。そして貴様が身につけているものは、レスラーの戦闘服なのだから」

 アキは自分が挑戦者なのだということに考えが至り、改めてぎぅぎぅと唸って後じさった。

 が、それが半歩のところで止まる。

 ギュッと握りしめるように目を瞑り、頭を下げ、背中を曲げて低くして、黒竜は突進してきた。

「わーぁぁぁぁぁぁぁぁ、ぁ」

 大根役者が辻芝居を打つような、闘争の匂いのしない雄叫び(声が小さくてもそう表現して差し支えない。何しろアキは真剣そのものなのだから)に、ハイエナ人もリング外から眺めていた与力も観衆もずっこける。

 ティラノサウルスのそれは、破れかぶれな行動だった。

 タックルのつもりらしい前進は、ハイエナ人にわけなく止められる。それも、正真正銘本物のタックルで。

 下半身を抑えられて身動きが取れなくなったアキはキョトンとした。そしてその顔のまま担ぎ上げられ、スープレックスで後ろへ沈められる。

「ぎぃぅぁぁぁっ!!」

 耳をつんざく高い悲鳴。だがそんなものが上げられるほど、公朱はちゃんと手加減をしていた。

 そのまま相手が負けるまで数秒ホールドをしようとしていたハイエナ人を、アキはバイブレーションをする人形のように身体を細かく痙攣させてなんとか振りほどく。

「へぇ、やるじゃないか初心者なのに。やっぱり才能あるぞ、うん。レス部に大歓迎だな」

 公朱の真っ直ぐな褒め言葉は気持ちよく決まったストライク。それに返す余裕もない黒竜は、頭をブルンッとシェイクして混乱を鎮めると、またしても突っ込んできた。

「…て、聞いていないのか貴様」

 それをいなして腹に膝蹴りを、背中に肘打ちキドニーキルを与える公朱。

(頼りないが、仲間を守ろうという気概があるし、瞬発力もある。これでスタミナと素早さと繊細さとケレン味が身についていけば、ランクの高いレスラーになれるだろう。もしかしたら、うちの学校の一次リーグ昇格も射程範囲内になるかも…)

 反撃に次ぐ反撃を迎え討つも、思考の速度は低下しない。正確に正しいフォームで繰り出される技の数々は、レスリングの激しさ楽しさ美しさを体現しているようだ。

 次第に観衆も熱狂のうねりを伴って、やられ役のヒール(鈍重な巨体のティラノサウルス)と見栄えのするヒーロー(チャンピオンベルトを巻いたハイエナ人)を固唾を呑んで見守る。

(これがハムの魅力だぜィ。いつ見ても惚れ惚れすらァ!)

 自分が失神させたワカのことなどすっかり忘れ、同輩の闘いに熱中する与力である。

 与力の戦い方は変則的で、ともすれば邪道そのものである。体格に恵まれず、五感においても中途半端な与力はその器用さをたのみにして幾通りもの戦法と技能を習得して利用している。

 反対に公朱は恵まれた四肢の長さに勘の鋭さを持ち合わせており、教科書通りの理想的な技と戦い方ができる。その上にハナがあるため、その試合の運び方は自然と「盛り上がるマッチ」を演出してしまう。

(おいらにゃァ逆立ちしたって無理だからな。ハムの野郎の華舞台をとっくりごろうじろ、ってもんでェ)

 この二人の対照的で歴然とした違いを、与力は妬ましいという想いを交えることなく率直に憧れ、好いている。自分にないからこそ、むしろその輝きを得難い大切なものと捉えている。

 そしてその先の展開は、与力にとって予想だにしないものになった。…いや、誰も予想もし得ないことだった。

 それはもう最後の大技フィニッシュが決まると皆が思い、実際ハイエナ人がバスターをかけようとした時に起こった。

 公朱の右手がアキの尻尾を力強く掴んだ。

「っ…み!」

 既にバテがきていたティラノサウルスがビクンと背筋をうねらせた。

「みっ…みっ…みみみみみみみみみみみ」

 何を頓狂な声を上げているのだろう、ウケ狙いなのか?…とリングの外に固まる頭の上に無数の「?」マークが浮かんだ次の瞬間。

「っ……………み__________っ!!」

 一年生の竜人の黒い鱗が掴まれた尻尾の先から燃え上がった。

 正確には、アキの身体中の鱗がその尾の先端から翻り、ギラッと全身で太陽光を反射したのだ。それもなぜか闇夜の鬼火のような赤味を伴って。

 それまでの戦いが嘘であったかのように素早く公朱の腕を掴むと、ティラノサウルスは人の形をした袋を振り回すように相手を地面に叩きつける。

 どよっ、と、群衆が揺れる。

 与力も思わず乗り出した。

「みみっ…みみみみみっ…みみみっ…」

 アキの顔には表情が無かった。いや、そこにあるのはまるで鋳型から取り出したように固定された笑い顔だった。無機質な仮面を連想させるそれに感情が伴っていないことは誰の目にも明らか。

(なんだこいつ…気味が悪ィぞ…ってそんなこと考えてる場合じゃねぇ!)

 完全に形成が逆転していた。なんとか身を起こそうとした公朱の身体をアキは踏んづけスタンピングで狙う。それがあまりに速いため、さしもの公朱も避けるのに精一杯で立ち上がれない。しかも、勢いをつけた足下に踏まれた部分の反発ウレタンマットが地面深くまでえぐられていた。

 頭や太腿あたりに当たれば大ダメージ。だが、もしこれが頸椎や上腕にヒットしたらどうなるか…与力の聡い頭脳の中で人体模型の立体透過が展開される。

 頸椎ならほぼ全身不随で最悪死亡。腕なら脱臼は確実。膝から下で粉砕骨折…いずれにせよレスラーにとって致命的なことに変わりはない。

「ストップ!ストップだ一年!…やめやがれってんだこン畜生!!」

 起きている事態の異様さにぼうっとしていた二年生三年生が、珍しく取り乱している与力の声で我に返った。

 与力と他のレスリング部員が止めに入ろうとしたまさにその時、リング外からつるりと細長い影が飛び込んだ。

「危ない!」

 澄んだ鈴の声。あおぐろい濃い部分と陶器のように白い部分で縞がたゆたう表鱗。

 ウミヘビ人の妙齢の…よりも若干若い女性だった。しなやかでスレンダーな身体をスーツで包んでいるが、それと信じがたい自由な動きでティラノサウルスの前に回り込み、

「安芸、そこまでよ!!」

 と相手の顎先に軽くスクラッチするようなパンチを効かせた。

 カコン…そんな気の抜けた音がした後で、アキの巨体がガクンと膝から崩れる。

 ティラノサウルスが脳を揺らされ意識を失いドウと倒れてくる前から軽く肩で支え、ウミヘビ人の女性は照れ臭そうに周囲に頭を下げる。

「大事な勝負のところ、邪魔をしてしまいまして大変不躾で申し訳ありません。私は寺野テテと申します。この安芸の…」

 すっ、と与力が前に出た。小狡そうな顔が赤い髪の下でもっと赤くなっている。

「いきなりですいやせんが、オイラのお嫁さんになっつくれませんかィ」

 片膝をマットについて、右手を差し出す。中世絵画に見られる、貴婦人に純なる愛を乞う騎士シュバリエのポーズ。

「はが。」

 と、ハイエナ人が顎を落とす。

「お前何ぬかしとるがよ⁉」

 と、目を丸くするボーダーコリー。

「いやだってほら、目ん玉の飛び出るよな美人じゃねぇですかィ?それになんつっても、強ぇし。オイラぁ強え女が好きなんで」

 ウミヘビ人…テテも申し出に困惑していたが、フッと口角を歪めて微笑む。大人の、それも自分の強さと美しさに自信のある者だけが醸せるピリリと辛い色気で。

「ありがとうね、きみ。けど御免なさい、私は夫帯者なの。重婚は犯罪だし夫が泣いちゃうからできないわ」

「な…そうなんですかィ…」

 落胆する赤髪の肥満児を右からハイエナ人が左から犬人が責める。

「おっまっえっは〜!こなぁな時に変なこと言い出すんじゃない!!」

「貴っ様!見損なったぞこの、ど助平!!」

 怒声に挟まれた与力は、これまた「男だったら魅力ある女に声かけぐれェすんだろうが!?」と息巻いている。

(…そうだ。確かこの辺でこの俺は…)

 ワカの意識体がぼんやりと記憶していたように、二年生の肩を借りてトリケラトプスがリングの円に戻って来る。

 そして、どうやら負けたらしいアキと、それを軽々担いでいるウミヘビ人の母親を眺めて首を傾げ…

 そこから先はもう知っている。アキの母親だと自己紹介したテテは、勝負の最初からこっそり立ち会っていたことを明かし、自分が割って入ってしまったことをワカにも謝った。

 そしてアキは自分が心配していたように尾を弄られると逆上してしまう癖が抜けていない、だからレスリング部には入れられないと言ったのだが。

「んなこと、レスリングするのに何も関係ねーわけ!そんな癖なんかこの俺が治してやるわけ!だからおばさん、アキをこの俺にくれよ!!」

 とワカは頼み込んだ。

 テテは何やら困っている風に見えたが、母親の背中の上で気がついたアキが「僕も…ワッくんとなら…一緒にやってもいいな…」と漏らすと、不承不承入部を認めたのだった。

 それから巫鈴と合流し(なぜか巫鈴はこのウミヘビ人のアキの母親と意気投合した)、ワカは学習教材と体操着柔道着と当面の着替えという荷物を抱えてアキと別れ、ドラゴンロックへ向かったのだった。

(この俺が知りたかったのは…アキの癖を治す方法なわけだけど…それのヒントがここにあったのかな…)

 冬の眠りは深く沈みがちだ。意識の浅層に展開された夢が薄れて消えていく刹那、もう一度ワカはあの青い髪が遠くを横切るような気がしていた。



 🌞


“_____あーぁっとォ!ここでリング上に弾丸の乱射ダァーッ!相手選手の毒針の連続攻撃ィー!これでは手が出ないぞどうする『Mont rouilleモン・ルイユブレーズゥー!!』”

 まるでこれは拷問だ。

 狭いイエローキャブの車内に響くレスリングの中継音声。運転手には後部座席にゆったりと足を組む金色猿人の発する騒音に対するサジェスチョンが届いていないらしい。

「運転手さん、もう少しボリュームをしぼってくれるとありがたいんですが」

「えー!?なんですかぁー!?」

 到底典雅とは言いがたいシンハラ語訛りの米語に辟易しつつも、猿人は紳士的に同じ内容を繰り返す。

「ですからね、ラジオの放送の音を少々下げてもらえたら助かるのですが」

 しかし彼の願いは実況者の興奮にたぎる声にかき消された。

“こーっれはすごいぞブレーズゥー!なんとリング外にはみ出しての回避だぁー!今回のマッチがロープつきの特設リングなのが幸いしたぁー!そのまま遠心力を利用してロケットアローだー!これでは対戦相手もたまらず吹っ飛ぶぅー!”

 サンフランシスコの12月の朝は、時として日本の東京の小春日和のように柔らかい。

 海から吹き寄せてきた水蒸気が靄となり、その湿気が過保護な守護霊のようにまとわりついて体温を保つ助けをしてくれるからだ。

 キンシコウ系猿人の孫智武は、フィッシャーマンズワーフの自宅前で拾ったイエローキャブから降りて、料金よりチップの方が多い紙幣を運転手につかませる。

「ぃへへっ、まいど、Sir・聖猿ハヌマン

 愛嬌と卑屈の複雑に組み合わさるバーニーズマウンテン系の犬人の運転手に形ばかり手を挙げて、猿人はサンフランシスコ総合病院の敷地へと入っていく。そのもう片方の手にはひと束の花を握りしめて…

 それを見送る抜け目ない犬人が

「また後で、なSir・ハヌマン。愛してるぜ!あんたのチップの気前よさ!」

 と目尻を下げて柳の下のドジョウを目論んでいるのにも気づかずに。

 今期も引き続いてFC式レスラー孫智武の連勝は止まらない。というか、オリンピック出場以来勝ち星続きで負けたことがない。

 筋肉の発達した身体は、白いスーツを内側から押し拡げるようにあちこちに突っ張っている。だが仕立てがきちんとしてある一点ものなので、たとえこの服で走っても跳んでも四股を踏んだとしても、縫い目が不満の軋みを漏らすことはない。…突拍子もないたとえと思うなかれ。ときとして彼はそんな事態に遭遇するのだ。

 長身ながら背筋は竹のようにそそり立ち、若者にありがちな背の高さゆえのうつむきもなく、力まずたゆまず締めた脇にひとかたの隙もない。

 腰の後ろから宙を撫でる猿人の尻尾さえも凛として、一振りの黄金造りの日本刀を思わせた。

 色の濃いサングラスを装着し目元の表情は伺わせないものの、その足取りで急いでいることが判る。

 インフォメーションで目的の相手のフルネームを問い合わせているところへ運良く担当医が通りかかった。

「お見舞いですか。それはそれは…彼とはどう言ったご関係で?」

 いかにも当直明けという老境の医師の下瞼には黒々とした隈がぶら下がっている。歩きながら案内していこうという申し出をありがたく受け取って、智武は包み隠さず打ち明ける。

「実は僕は、先日彼と対戦したのです」

 ピクリと片頬が攣ったように見えた。が、それは一瞬ですぐにまた愛想良く「そうですか、あの患者の対戦相手の方でしたか」と医師は頷いた。

 チベットの怪物こと、重量級レスラーのマスティフ系犬人ター・ドージェと智武は3日前に対戦した。試合が行われたのはサンフランシスコで、フットボウルのスタジアムがそのまま試合会場とされた。それも、満員御礼となったのである。

 そんな大観衆に見守られ、新しく独立国となった母国の熱い期待を一身に背負う巨躯のター・ドージェは連戦の勝者である格上の智武に果敢に組み合ってきた。智武のほうとてもジムの所属する米国の威信がかかっており、会長から必勝の厳命を下されていた(毎度のことであるが)。

 打撃と投げ技を得意とする犬人との激しい闘いはツーピリオドを超えて延長戦となり、そして…

「運び込まれた時、まだ意識はあったんですわ。だがその後がいけなかった。回復がどうにも思わしくなくて」

 なんだかやけに早足だな。智武は眉を寄せる。

 マスティフはつよかった。手加減無用が常ではあるが、それにしても経験が浅い部分をカバーして余りある気迫で格上の猿人に挑む気概が素晴らしく、そして好ましく思えた。

 そういう選手だからこそ、深手を負わせてしまった見舞いに来たのである。

 とある角を曲がる時、方向表示板の記述に智武はおやと小首を傾げた。

「あの、先生」

「なんでしょうか、Sir・ハヌマン」

「道ですが、間違えていませんか。ター・ドージェ選手がいる再生医療病棟は、反対側のはずでは?」

 医師の自分への接し方が変わっていることに既に気づいている智武ではあったが、態度には出さない。

「あっ、これで良いんですわ。あなたは、Sir・ハヌマン、あのレスラーさんにお見舞いに来られたんでしょう?それなら行き先は…」

 日当たりの悪い、しかし清潔な建物の北側。こういう場所は温度の変化が少ないので、品質を保つため薬品の貯蔵などに使用される。…それ以外といえば…

 胃壁を指で押されるような嫌な予感。

 そしてもう一つ廊下を曲がったその先で、智武は己の勘の鋭さを苦々しく味わった。

 『Mortuary』と記されたドアを見るのはこれが初めてではなかったから。

「行き先はこちらで合っておりますよ」

 老医師の手により、霊安室モルグの扉は存外軽い音を立てて開かれた。

 キンシコウ系猿人の抱えた花束が、冷気に当てられて「かさり」と鳴く。

 台の上に寝かせられたマスティフは、どこか仏の涅槃像のようだった。

 口許には穏やかな微笑すら認められるようで、その顔の脇に花束を備えながら智武はしばし瞑目する。

「容態の急変はよくあることなんですがね、この人のようなものは珍しい。念のため司法解剖もして徹夜ですわ」

 レスラーとは、過酷なもの。智武もそれは熟知していた。その上でプロの世界に飛び込んだ。

 ジムや国家のお抱えともなれば、ときに暗殺の危険すらつきまとう。自分やこの犬人のように、試合に国家の面子がかかっていれば尚のこと。

 あまり考えたくなくとも、チベットという国の地政学上の立場や苦渋の歴史、独立へ至った経緯が智武をしてそれを言わせた。

「…毒物の可能性はありますか。遅効性のものなんかは」

「採取した組織にはその痕跡は見られないんですよ。我々の検査にひっかからない、未知のもの以外はですがね」医師は手近なデスクからビーカーを振って答える。「こちらのレスラーさん自分が死んだりした場合の移植提供の同意書も持ってらしたんですが、毒物の可能性が排除しきれなかったんでそれは叶わなかったんです。残念ながら」

「…優しい人でしたから」

 面識はこれまでに何度かあった。タッグマッチで当たったこともある。休憩の合間に仲間の怪我の具合を見たり、対戦相手の智武に試合後に挨拶をきちんとしにくる義理堅い選手。そんな相手だから記憶もはっきりと残っていた。

 自分より早く、こんなにも早く戦列を離れることは心底残念だった。

 キンシコウは再び瞼を閉じて両方の掌を胸の前で合わせる。胸の内で死者を送る祝詞を上げ、しめやかな沈黙を手向けた。

「…自分で殺しておいて、優しいも何もあったもんじゃないだろうが」

 猿人が去った後、病院の裏手ではどっかりと座り込んだ老医師が煙草の紫煙を盛大に吐き出している。

 自分が担当した患者がこの世を去ってしまったあと、彼はよくこの場所で隠れるようにして煙草を喫う。別に家でそうしても良いのだが、不思議なことにここ以外の場所では喫う気が起きないのである。

 それは彼なりの悼みの儀式でもあった。

 鼻歌とともに裏口を開けたインパラ系の女性看護師が足元に座る彼に気づいて「きゃっ」と声を立てる。

「Dr.ダニエル!びっくりさせないでくださいよもう」

 その胸に、あのキンシコウのレスラーが持ってきた花束を見咎めて医師の眉根が険しくなった。

「どうすんだそれ。持って帰るのか?」

「いいえ?」

 ER勤めとは違って比較的のんびりした病棟勤務とはいえ、まさに白衣の天使と呼ぶにふさわしい柔和な調子でインパラ人は答えた。

「この子達にピッタリ合いそうな花瓶が確か別棟の方にあったと思うんで、そっちに活けにいくんです」

「別棟の…って小児科にか」

 頷く看護師に医師は鼻を鳴らす。

「捨てっちまえそんなもん。辛気臭ぇし、置いときゃ腐る」

 インパラ人の年若い看護師は、まるで赤ん坊を抱き上げるように花束を腕に持って微笑んだ。

「まだ綺麗じゃないですか。茎も葉もしっかりしてるし、きっといい花屋さんで大枚はたいて買われたんですよ」

「…お嬢ちゃん、そーゆーの分かんの?」

「女の子の嗜みです、これくらい。先生も医学だけじゃなくて、人と人のあたたかい気持ちを学んだ方がいいんじゃないですか?」

 言ってくれるね、お育ちのいいお嬢ちゃんが。それができたらレスラー専門の課になんか勤めてねぇんだよ…

 そうぼやいているような老医師の横顔へ、淡雪の先兵がほとりと落ちてきた。少し眉を上げ、医師はそのままの姿勢で口許に新しいタバコを差し込む。

「___涙を見せるどころか一瞬の動揺もなかったな、あの野郎」

 自分はレスリングというものがよく分からない。そんなものに名誉をかけて身体を壊す。生命を捨てる。それを是とする世論も世間も薄気味が悪いとしか思えないのだ。

 人は、生きてこそ。生かしてこそ。そう信じて医術を施してきた彼には、あの犬人や猿人のような存在は医学の根底を侮辱しているようにさえ感じている。

「___…くたばりたくなきゃ、レスリングなんかしなけりゃいいんだ。…せっかく平和を取り戻したってのによ」

「またそんなに吸って。奥様に叱られますよ…って、あー!それ麻薬成分入りのやつじゃないですか!破棄されたはずなのにどうして!?」

「君こそ忘れてるんだろ。俺は一応『災害』の生還者なんだぜ?あの頃の現場で手に入れた支給品の一つや二つや三つや百個ぐらいは、記念に残してあるのさ…とくに、こういう時のためにな」

 医師から国章の刻印の入ったマリファナタバコを奪おうとして失敗し、インパラ人はぶぅっと頬を膨らませた。

「もう、それ一本きりですからね!こんなところ院長先生にでも見られたら減俸どころじゃ済まされないんですから!」

「へーいへい。さ、良い子は仕事に戻った戻った」

 看護師は「もう、信じらんない!」と、ぷりぷりしながら花束を持って去っていく。

 医師は暗い昼空を見上げながら、このまま雪に埋もれてしまうのも悪くはないかもしれないと深く紫煙を吸い込んだ。

「ったく……『災害』は終わったってのに…レスラーって奴らは業が深ぇぜ…」

 ふわりと特大の雪粒が舞い降りてきた。お静かに、とたしなめるようにそっとタバコの火先に着地。

 雪片はわずかの熱を啜るような音を立て、医師のタバコの火が消えた。

「…神様ってやつがもしいるんなら聞かしてみてぇや。毎日毎日、こちとらあんたがたの代わりに怨嗟や呪詛を垂れ流される[[rb:痰壷>タンツボ]]にされてるんだからな」

「否。神は、いる」

 ナイフのようなハイソプラノのセリフが医師の背中を刺した。

 振り返ると、美しい小麦の穂の結晶さながらのブルネットが、霊安室に通じる通路の角へまさに消えていくところだった。

 何かに背骨を推されて医師は追いかける。しかしその東ヨーロッパの民族衣装のようなものを着た女性の背中を確かに見たのに、霊安室に駆け込んでも誰も居なかった。

「昼と夜を統べる者は、天からも地からもそなたらを見そなわす。しかし求めに応じるとは限らん」

 医師の耳には先のセリフに続いてさらなる声が響いた。

「人が忘れようと時の砂に研がれようと変わらない。終わらず変わらず其処にる」

 日常を死の隣人として過ごす精神的な疲労。そこから来る幻覚・幻聴…

「人が神を見るのではない。神が、人を発見たのだ」

 それではない証拠に、遺体にはまるで一振りの短剣、守り刀のようにひと枝の林檎の花が置かれてあった。

 芽吹いたばかりの、白々とした蕾の美しい花が。



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