第2話 ノクト①

第2話 もたらされる炎(Flame from Hēphaistos)


 🌚


 きみのまっすぐさに惹かれていた。

 おたがいの越えがたい違いを感じていた。

 だれよりも近くに居たかった。たとえ、嘘をついてでも。

 希望のぞみを叶え続けたかった。

 きっと___きみを傷つけたとしても。



 泥だらけの瓦礫の中からサッカーボールを掘り出した時は、なんていい日なんだと少年は神様に感謝した。

 先日来の長雨が止んで晴れ間がのぞくと、遠くに見える里山と田んぼを繋ぐようにして大きな虹がかかる。

 ディズニーの「オーバーザレインボウ」を聴きたくなるような光景であったが、牧歌的とは程遠い。

 里山は焼け落ちてしまっており、消し炭と化した森林の焦げ茶色とえぐられた地肌の赤土が見えていて、田んぼは石灰らしきものの白と雑草の緑のぐちゃぐちゃ。

 人家にはかつて煮炊きのかぐわしい匂いが立ち、交差した道々にはタクシーからトラックまで様々な車両の往来があり、商店街には威勢のいいにぎわいといかがわしいネオンがあり、町は生きていた。ほんの数年前までは、そこには平和という日常の息吹きがあった。

 北には日本海が、そして南には立山連山がよく見える___市のテーマにも唄われた___それ自体はいくつもの近隣市町村に共通しているのだが、加えて果樹の栽培に力を入れているのがこの富山県豊沼市の特色だった。

 いまはあちこちに穴の開いた道路が横たわる。曼珠沙華の咲き誇った寸断された街道を、這うような春の風が冷たい舌でなめていく。人家を囲った生垣も、道路で人々を守った標識も、建物をつなぐ高いアーケードも、もはやどこを向いても面影はない。

 均されていない地面のところどころで足を取られそうになりながら、少年はそのサッカーボールを落とすまいと、宝物のようにTシャツの中に入れて持ち運んでいる。…このボールの柄は、少し持ち主に似ていた。

 シャチ人の少年、友達からは「ノゾミ」と呼ばれる[[rb:陸望>・・]]は、まん丸い頭にまん丸い胴体にまん丸い尻に円柱状の手足と、全体的に凸ばかり。凹みの少ない体型をしている。

 身体の部品のなかでシャープなのは、喜びと興奮でひっきりなしに空気をあおいでいる、尾鰭おひれの双葉の形に割れた先端部分だけ。

 服の下に入れたボールのせいで、遠目から見ると、滑稽にお腹の膨らんだ子供がふらふらと歩いているとしか見えない。

「ワカくん、喜んでくれるかな、なの…くれたなら、嬉しいなの」

 そうひとりごちては、フフフッと罪のない含み笑いをこぼしている。

 白い隈どりアイパッチのある黒い顔の上半分は、まるで黒いレスラーマスクをかぶっているかのよう。ちょうどパンダの柄と反転したかのようなモノトーン模様は、さながら鋭く切れ上がる大きい四白眼のようだ。

 素顔にかぶさった迫力のある面相とは裏腹に、顔の造作自体にはノゾミの内面が正しく滲み出ている。

 アイパッチの柄に完全に隠れて、耳かきの棒の梵天のようにふわふわとした丸い白眉がポンポンと二つ乗り、「お前なにびっくりしてるわけ?」と初対面で言われたこともあるつぶらなダークブルーの瞳がその下から支える。

 円形古墳のように盛り上がった顔の下半分には鼻腔がちょんちょんと開き、大きな大きな口が耳まで裂け上がる___耳介と呼ぶにはささやかすぎる、海棲人の耳たぶへまっすぐに___のだ。

 にこにこと全く邪気も覇気もまとわせない笑顔で、ノゾミはボールを服の上からなぞる。それくらい、嬉しかった。

 小さな胸の中に描くのは、いつも怒ったような顔をしているとても親切な友達のこと。

(警報のサイレンも無視して外に出たのは成功やったな。ほんまはこんなことしてもうたら、大人の人たちによってたかって大目玉を食らうんやけど…)

 ノゾミが声に出すものと内側にこだまさせるものとでは言葉が違う。これが外見以外の特徴と言えば特徴であった。

 言いつけにそむいて大人たちの怒りを買うのは、怖い。だがそんなことより鯱人の少年には、ただ一人の友達のためにこのボールを手に入れられたことのほうが重大な成果。

『災害』の被害を逃れるために町の住人が集まった山肌の避難所には、数は多くはないが未だ残っている子供たちがいる。彼らを集めてサッカーをすることが友達の唯一の楽しみになっているのだ。

 野球や他のゲームは道具が多すぎるとのことで。電気を使うゲームの類は節電のためと、大人数では遊べないとのことで。この二つを理由に遊戯を模索した結果、流れ着いたのがサッカーという選択肢。

 着のみ着のままとは言わないまでもそれに近い状態で集まったなかで、都合よくボールも携えてきた者はいない。

 現在使用しているのはお世辞を最大限に駆使してようやく「ボール、と言えなくもない」程度に球形をなした段ボールとガムテープの集合体だ。小学生の工夫と知恵ではそのぐらいしかできなかった。

 それでもなんとかかんとかゲームを楽しみ、ともすれば砂利を噛むように味気ない缶詰の食事や、狭いところに大人も子供も一緒くたに入れられた共同生活のストレスのはけ口にしていたのだが。


 昨夜、トイレに起きて食堂兼会議室兼作業室になっている大部屋の前を通りかかった時、ノゾミはLEDの常夜灯(住人の一人が持参したキャンプ用のランプのひとつを供出させ転用したもの。闇の恐怖は明かりをつける危険性にまさったため)にぼんやり浮かび上がるこの地域の地図をお化けと見間違えて「くゃっ」と飛び上がった。

 自分の臆病さに恥じ入りつつ、そそくさとトイレへ足を進めかけてはたと立ち止まる。

 鯱人の縦鰭タテヒレの生えた頭の中の記憶装置が音を立てて回りだす。再生されたのは数ヶ月前、『災害』が始まる前のできごと。

 山の中腹にある気候観測所と隣接する保養施設に避難するほんの数日前、ノゾミも通っていた地域の小学校の体育の時間に普段通りサッカーをしていた。…あの頃はまさかボールすら使えなくなるとは思わなかった。

 ゲーム3回目、そろそろ6限目も終わりという頃にクラス1お馬鹿な冠者かじゃ太郎たろうくんが放ったボレーシュートが、ゴールポストの角に当たって変に勢いがついて跳ね返って、校庭の隅にある焼却炉の根元辺りに飛んで行って見えなくなってしまったのだ。

 先生が体育の嫌いなノビタ(あだ名)であったこと、折悪しく夕立が降ってきてしまい、 みんなで校舎に駆け込んだところで授業の終鈴が鳴ってしまったことが重なって、そのボールの回収はうやむやにされた。おまけに「クラブ活動や生活指導やPTAで忙しいんですよ」というノビタのめんどくさがりがはじまって、その後もしばらくそのままにされていた。

 そして『災害』である。泰平の夢を享受していた一般市民の世界が一瞬のうちに壊されて、誰も彼もが生き残ることに懸命にならざるを得なかった。

 それからほどなくして、地方自治体主導の一斉避難が始まる。そんな渦中にたかだかボールの行方などに気を払う余裕はなかった。ノゾミにも、誰にも。

 そして小学校の同級生も先生も、上級生下級生もてんでバラバラになった。あるいは避難所に振り分けられ、あるいは東北以北にまたは外国に避難し、そうでなければ…命を落としていったのだ。

 鯱人は食堂に張り出された地図を眺めるうちにそこに学校を示す地図記号があることを認め、その情報と「もしかしたら、倉庫とか体育館は無事かもしれへんな。それでなくても、あの失くしたボールが見つかれば…」という淡い期待のもと、ノートの切れ端に地図を手早く書き写して、朝食後に一人でこっそり電車で二駅ぶんもの道程みちのりを踏破してきたのだ。


 子供の移動距離を大人のそれと同じ感覚でとらえてはいけない。子供の距離感覚は、大人の通常の距離感覚を数十倍のものとして感じる。

 ましてや地形がすっかり変わってしまっており、目印となるべき地域の警察署や消防署、薬局、モールは崩れるか形を変えていた。

 地図記号のほとんどが頼りにならなかった。むしろそれがなんの建物やらモニュメントやら判別できず、かえって時間を取られる有様である。

 それでもノゾミは期待を持ち続けた。希望を捨てることをよしとしなかった。諦めたく、なかった。

 もたもたとコンパスと地図の写しを頼りに歩きながら、自分は希望峰を回ってインド洋に到達した船乗りヴァスコ=ダ=ガマや、世界を初めて一周したマゼランのように大冒険をこなしているのだと勇を鼓して。

 もしボールを手に入れて避難所に戻ったら、普段は冷たい他の子たちも自分のことを英雄…とは言わないまでも平等に扱うようになってくれるかもしれない。

 ダンボールとガムテープを固めて作った代替品ではなく、ちゃんと空気が詰まっててよく跳ねる本物のボールを使ってゲームすることができたら…それは口に出せば無いものねだりのワガママになると子供達自身が分かっていた望みだった。

 だから、みんなのためにその希望が叶えられて誇らしい。

 もっといえば…生粋のキッカーである天野若尾が喜んでくれるだろうことが、何より嬉しかったのだ。

「絶対…残ってると思ってたなの。よかった…ほんとにあって。だめになって…なくて嬉しいなの」

 こうして思っていることを胸の中とでは違うにして口にする。そんな独り言が、少年の癖になってしまっていた。

 実際、体育館の中にあった体育倉庫も火災で焼けてしまっていた。むしろそのおかげで、崩れてしまった校舎にはなかったおかげで、こうして難を避けられたのだ。

 なにしろ校舎全体が校庭よりひどく被害を受け、半分がた焼け落ちて残る半分は裂けた大地のあぎとに飲まれてしまっているのだから。

 たった一個残った、ノゾミが焼却炉の残骸の下から何時間もかけて掘り出したこれこそが、正真正銘最後のサッカーボールということになる。

「こういうの…どういうんだっけなの…ナガノ、コーメイ、…だっけなの」

 サッカーボールを愛おしみながら、少年は大幅にアクセントのズレた単語を口にする。『怪我の功名』という諺を、おそらく地名か人名だろうという程度に誤解しているのだ。客観的に見て、まだ小学校の2年生というところを加味すれば仕方のない間違いではある。

 ノゾミ自身は身体が縦横比にして横に大きい点と、足が遅い点、それに声が大きくなかったのがあって、キーパーにされることが多い…というよりほぼいつでもそのポジションにいる。

 このご時世、自己を主張できないということは意志を通せないということに直結しているのだ。全員が平等に、不公平がないようにと気をつけ合うことは忘れ去られた。

 かつて存在していた察しを奨励する文化も謙虚の美徳も、『災害』の始まりとともに消え果てているのだ。

(僕かて、ほんまはフォワードがやりたいんや。そんでワカくんと、一緒にパスとかしたいねんな)

 口に出すのが難しい文章は、胸の中で慣れ親しんだ言葉で組み立てる。表面と裏面のダブルスタンダード。いつの頃からかそれが彼の癖になってしまっていた。

(僕がもっと早よう、ようけ走れるようになって、誰にでも追いつけるようになったらキーパー以外もやらせてもらえるかな?そしたらワカくんも僕のこと、もっと見直してくれるやろか?)

 並んでドリブル、パスをかわしながら敵のチームの防御を破り、シュート、そしてゴール…肘と肘をぶち当てて爽やかに笑顔を交わし合う友達と自分の姿を、ぽややんと想像のスクリーンに映写しては目尻を下げるノゾミ。

 ヒビ割れ、砂塵や泥土にデコレーションされたアスファルトをさくさくと鳴らしていたが、鯱人はハタと立ち止まった。

 まだ低い陽を受けて、眩しいほどに照り返す鱗の体表が目の端に映ったせいだ。気のせいだろうか。そうかも知れない。

 しかし首を巡らすと、すきっ歯になった建物を挟んで1つ隣の通りを進むトリケラトプス系白竜人の半ズボン姿があった。

 白竜というのは白化した表鱗が定着した種というもので、色素を作る遺伝子の欠損によって起こるアルビノと呼ばれるものとは別になる。

 その証拠にキョトキョトと右へ左へ勢いよく転がるドングリのような瞳は、アルビノによくある薄い青や赤色ではなく濃い茶色をしている。への字に結んだ口元で怒ったようになっている表情のせいで、もとから丸い顔がもっとぷくぷくとして見えている。

 もっとも、この顔以外のワカの表情をノゾミは知らない。

 彼こそノゾミがなけなしの勇気を振り絞ってサッカーボール探索に踏み切った原因であるところのたった一人の同い年の友達、天野若尾あまのわかおである。

 そして彼は他の地域から避難に合わせて富山に転居してきたため、ノゾミ以上にこの土地には慣れていない。真昼間だが、それこそ真の暗闇に閉ざされた中を手探りで歩くような心細さのはずだ。

 吹けば飛ばされそうなほど痩せ細った手脚を威勢ばかりよく振って、まるで苦虫を噛み潰した金剛力士像のような凶暴そのものの顔で歩いているのも、たぶんノゾミが事前に知らせず勝手に外に出たことに加えて、不案内なエリアに立ち入っての不安があるのだろう。

 はっきり言って近寄りがたい。遠回しに言って触らぬ神に祟りなし。

 だけど、これより落ち着く顔をノゾミは知らない。

 思わずボールごと心臓が跳ね上がる。

「ワカくん…わざわざ…探しにきてくれたなの!」

 そして。やっぱり先に見つけたのは自分の方だ。それが嬉しい。

 勝手に脚が騒ぎ出して、気がついたらワカへと、まっしぐらに走っていた。

 太陽に指先が届くぐらい腕を振り上げて知らせる。

「おーい、ワカくん…!サッカーの…ボール…見つけたなの…!」

 ワカの白い顔が呼び声を浴びて角度を変えて。一瞬少し和らいだ表情が、たちまち焦燥で燃え上がった。

 えっ?と拍子抜けしたノゾミが速度を緩めると同時に、ワカが猛烈なダッシュをする。

 まず地面が揺れた。

 次いで、大気そのものが拷問器具になったように荒れ狂った。

 残骸になりかけていた建物が残骸も残さず崩れ去る。土と煙が見えない大きな手でブレンドされ、それだけでなく大地を激しく殴打して震えさせる。

 ノゾミはもろに衝撃を受けた。子供の体の柔らかさと重心の低さがなかったなら、たちどころに飛ばされて打ちつけられ、骨身がバラバラになっていたかもしれない。

 またそれだけではなかった。「かふっかふっ」と咳で喉を掃除しながら目を開くと、上から覆いかぶさるようにワカが地面にノゾミを押さえつけていた。

「…ワカくん…すごい…揺れてるなの…」

「まだ動くななんもすんなノゾミ!じっとしてろってわけ!」

 ころころした鯱人のノゾミの頬と、ごつごつした襟状突起カラーのあるトリケラトプス系のワカの頬がくっつく。ノゾミに比べなくても手足の細いワカの、しかし意外にも力強い押さえつけになぜかしらの疼きを感じながら、ノゾミはただしっかりと言われた通りにしていた。

 やがて地面が鎮まり、視界を覆っていた土煙が晴れて眩しいほどの青空が広がってくる。静まり返った空気に鼓膜が緊張して耳がキーンとなって、抱き合うように重なった二人の忍ぶような呼吸だけが残る。

「……あ」

 ノゾミの濃紺の瞳が山の端のほうに向いた。思わず少し違う言葉で叫ぶ。

「天使様や!山の方の空に天使様のおらしゃる。ほらワカくんには見えへん?」

 それを聞いたトリケラトプス人の尻尾が突然跳ね上がり、今度は叩きつけるようにワカが叫ぶ。

「ああ!?なんだってわけ!?」

「て…天使…て…言ったなの」

「あんなのが天使なもんか!お前バカなわけ!?」

「…でも」

「でも、じゃ、ねえわけ!!」

 シャツの襟を掴まれ首ももげよとばかりブンブン振られる鯱人。

「サイレン鳴ったわけなのに!この俺になんも知らせないで!だから、だから俺っ!!」

 ノゾミはワカにされるがままにガクガクと頭を揺らされて目玉を渦巻きにしながら「あわ、わ、わ、わ」と呻くのみ。

「ホシイモに頼まれたから、来ることになったわけ!イヤだったのに!死ぬかもしんねえし死ぬのヤなわけ!ほんっと、お前どうしようもないヤツなわけ!」

 最後に思い切りボディブローを入れられた。胃のあたりに溜まっていた空気が鯱人の口腔から「こぶぅ」という字になって吐き出され、ノゾミの両目に涙がたまる。

「メソメソしてんじゃねぇわけ!置いてくぞ!」

 形ばかりは助ける側だったワカだが、これではノゾミへの扱いが乱暴すぎるだろう。暴力を振るっておいて泣くな、とはいささか理不尽というものだ。

「…だって……僕…サッカーのボール…見つけたなの…ワカくんに…喜んでもらえるって…思ったなの…」

「はぁ?ボールぅ?んなもんどこにあるってわけ?」

 ここに。服の腹をまさぐって、そこに己の腹肉しかないのだと気づくまで数秒かかった。

「あれ…ないなの?」

「おいノゾミ。サッカーボールってもしかして、道路のあっち側にへばりついてる、あのボロ切れのことなわけか」

 白い指先がさしたもの。一枚のゴムのように地面の上に割れ広がったボールだったもの。

「うそ…」

 受け入れがたい絶望が胸を満たすと、さらに涙が押し出された。

「あ…あ……うぁ…………いぁぁぁぁぁ!」

 建物の破片とガラス片と砂利ばかりの地面を引っかきながらノゾミはサッカーボールの成れの果てをひっぺがす。

「そんなもんのためにわざわざこんなとこまで来たわけ?バッカじゃねぇの、ノゾミ」

「ふっ、ふっ、ふぁぁぁぁぁん!」

「揺れはおさまったみたいだし、早く戻るわけ。ホラ、行くぞ」

「ふぁぁぁぁぁ、うぁぁぁぁぁぁぁぁマァァァァァァ」

「聞けよおいこらまたぶつぞ!」

「い、いぁぁぁぁぁ、うぇい、ほぁい…ぷー◯×◯×」

 顔の上からはボロボロと涙が、下の方では鼻水とヨダレが、嗚咽にシェイクされて流れ落ちた。

 自分の成功がたちまちのうちに失敗へと変わる。落胆と悲しさでやり切れず、ノゾミの顔は沼に突き落とされたようにグシャグシャだ。

 ワカは溜息をこぼす。

「たく、わけわかんねえこと言いやがって…分かったわけ。それを探しにきたわけな。けど、そうなっちまったらしょうがないだろ。大人も子供もみんな集まれって言われてるから、帰ろうぜ…まだ『サイガイ』は終わってねえわけなんだから」

 ぐずって泣き崩れているノゾミの腕を取り、自分より重い相手を後ろに体重をかけることでようやく立たせるワカ。

 先程ノゾミがそれをさしていた山の端のほうには、白い飛行機雲のようなものがいくつもの筋を刻んでいる。

 何が天使だ、とワカは地面に唾を吐いた。子供らしからぬ剣呑な表情である。

「ここの避難所に移る途中に何回か見たけどな、あれが出ると死体の山だったわけ」

「っく……ふぇ……ぜっがぐ…ボール…みづげだ…のにい……」

「あーはいはい、ボールね分かったわけ分かったわけ。けどパンクしたからもう意味ねーわけ」

 まだハンカチ程度の大きさに千切れたボールを掴む未練がましいノゾミの手を払いのけ、そこにワカは自分の指を絡める。鼻水やヨダレや涙が、爪の中まで濡らしてからみつくのも気にせずに。

 そのままワカはノゾミを引っ張って、ずんずんと坂道へ。小高い森の奥にある避難所に戻るためには、ここからさらに30分は歩かねばならない。

「たく…なんだってこんな高いところに避難所なんか作ったわけ?」

 とワカは文句たらたらだが、もとは気候観測所である。それに低地の避難指定区域は軒並みやられているので八つ当たりもいいとこだ。

 鯱人のつるりとした表皮にも竜人の体表の鱗にも、じっとりとテカりが出てくる。ノゾミの瞳は既に泉を枯らして、もうワカの表鱗に夢中だ。

 濡れたワカの体表はところどころに虹が張ったように玉虫色になっている。ハイライトの部分は銀より眩しい純白で、全身が真珠で飾ってあるかのように豪奢ごうしゃに輝く。

 すっかり機嫌を直してノゾミはワカについて速度を上げる。

「…あの…ワカくん」

「なんなわけ」

「…僕のこと…探しに、きてくれて…嬉しいなの。ありがとう…なの」

「はぁ?バカ、ドジで甘えん坊のお前が一人で出てったから」

 ワカは目付きを一層きつくして握った手に力を入れる。

「…だからこの俺が」

 言いかけて、言い淀んで、素早く切り替える。

「先生だ!新しい先生が来るわけだってさ、避難所に」

「先生…いまさらなの…?」

「ああ。なんか大人たちみんなスッゲーテンション上がってるわけ。なんつってたかな、シドーカンリカンっつってた!」

 シドーカンリカンが何を指すものなのか、ノゾミにははっきりと想像できなかった。しかしそれはワカも同じである。『災害』に関わる単語や用語はぱっと聞いても意味がつかめるものではなく、首を傾げてしまうものばかりだ。

「じゃあ…避難で…遅れてた勉強も…できるなの!」

「俺は勉強とかヤだけどなー。ノゾミは嬉しいわけ?」

 強く頷く鯱人の頭鰭を竜人は横からなぎ払う。

「痛い…なんでなの?」

「知るか。なんとなくなわけ。えーと、生意気?そ、ノゾミのくせに生意気なわけ!」

「…ふぇ」

「だーから泣くなっての、ホラもう着いたぞ!」

 雑木林を縫うような道がずん止まりになり、すこし開けたらそこはノゾミたちがサッカーをしている広場だ。地面をヒビ割れたコンクリが覆い、かつては観光や遠足や社会科見学の客達のバスが乗り付けたあかしに車止めが端に並んでいる。

 亀裂を押し拡げるように雑草が茂りはじめているその広場の向こうには、天候観測所と保養所の建物が肩を寄せ合う。それがこの地域の避難所である。

 鯱人と、その手を引くトリケラトプス人の姿を見るや、二人の周りにわらわらと少年たちが集まってくる。

「さっきまた揺れてたりしてたけど、大丈夫だった?なんか煙もひどかったけど!」

 やたらに興奮しているのは不揃いなおかっぱ頭の四ノ玉直哉しのたまなおや。軽佻浮薄に情緒不安定を掛け算して、更に慎重性を減産したところに残るのが彼である。学年は二つ上の四年生、身長も体格も人並みのヒトの男子だ。

「あー、ノゾミちゃんまた泣いてたんー。おっかしーのー。うっふっふふふー」

 あれ見よとばかりに指をさして近づいてきたのは、意地の悪そうな目尻の吊り上がった三白眼に時代錯誤の瓶底のような眼鏡をかけたセントバーナード系犬人、瀬戸せとゆき

 年齢はワカやノゾミと同じ小学校二年生でありながら、既に70kgはあろうかという太りじしの犬人である。その指先で鯱人はたぷたぷした頬肉をつつかれて「ひぃぃぃぃん」と、また涙目になる。

「天野も陸も無事でなによりだな。こっちの揺れもひどかったんでな。松代マツシロさんとこの畠にも水が出たしな」

 とは、仙人のようなトロンとした半眼をしたサモエド系犬人の奇岩くしいわとおる。まだ幼い顔立ちを分解し、人を食ったような諧謔シニカルを加えて再構成した表情で、詰まらなさそうに笹の葉を左寄りにくわえている。三年生の中では一番背が高いのも相まって、子供の群れの中に背の低い大人がいるような錯覚を覚えさせる。

「あー、あーあーあー!!若尾っちまーたノゾミっちのこと泣かせたんだね!あずましくねぇな、そーゆーのはね!」

 やや訛りのある標準語でたどたどしく非難するのは、サイ人の荒川あらかわ和人しゃも

 北海道から方々の避難所を転々としてきた彼は、この避難所に暮らしている子供たちの中でも突出した闘争心と平和維持観念の持ち主だ。

 他者への擁護心と己をも焼き尽くす勢いの闘争心と行動力を兼ね備えた、生まれついての風紀委員会といえる。二年生組の中では身長は一番低いが、一旦暴れだすと手がつけられない凶暴さはワカとどっこいどっこいなのだ。

「黙れうるせぇこの駄サイ!ノゾミを泣かそうがどーしよーがこの俺の勝手なわけ!」

「お前こそ勝手なことゆーなよね!ノゾミっちはお前のもんかね!?」

「俺のもんなわけ!だって子分なわけだからな!!」

 ワカは乱暴にノゾミを引っ張ると、その首っ玉に片腕を引っ掛けた。ノゾミがポッと赤くなり、ワカはヘヘンと鼻で笑い、嘲弄を受けた和人は背中の毛溜りを逆立てる。

「そんなんおかしいね!ニンゲンは一人一人ドクリツシタケンリってのを持ってるね!お前の考え方、おかしい!!…言ってダメならね〜」

「お?実力行使か?やれんならやってみるわけ?」

 文字通り犀とトリケラトプスが角突き合わせ、しばしにらみ合った挙句「ふんっ!」とお互いに背を向ける。あわや流血は避けられたかと子供らはホッとした。離れていく二人の鉄砲玉。

 …かと思いきや、次の瞬間お互いに飛びかかっていた。

「きったないんだね若尾っち!不意打ちとか根性が腐ってるんだね!」

「ぃやっかましいわけこの駄サイヤ人!てめぇこそ人のこと言えんのか!!」

「知らないねナニそれ!?お前なんか、お前なんかえーと、…その変な襟鰭エリヒレ!シャンプーハットかよね!」

「図書室のアーカイブに出てくるアニメなわけ!おめーが駄サイヤでこの俺はフリーザなわけ!!」

 右へゴロゴロ左へゴロゴロ、ローリングローリング。しまいに広場の隅の段になっているところから本当に下へ落ちてローリングストーンズ。ノゾミが慌てて追いかけるが、下の方を覗くと台のような出っ張りのところで元気に取っ組み合いの真っ最中。

「わわわ…ワカくんもシャモくんも…なんでケンカ…」

「これで怪我人がまた増えるわね…?」

「くゃっ!?」

 サラリとした黒いオリーブオイルのような美しい長髪がノゾミの肩に流れた。

「…うちのワカの相手をしてるのは…また荒川くんか…まったく、3日とあけずによく喧嘩できるわね…飽きないのかしら…?」

 ワカの隣にしゃがみ込んだウィスパーボイスのジャズ歌手のように気だるい発声のぬしは、フォックス型の眼鏡をかけたヒトの美人だった。

 細身の上半身をタートルネックのセーターに、美しい円錐状の下半身をジーンズに包んでいる。そこまでの彼女をファインダー越しに眺めたらさながら無印良品のモデルのようだが、いかんせん履物がトイレのサンダルという点がたまきずである。

 年頃は少女と大人の女のちょうど中間に位置するあたりで、スタイルはカモシカのよう、胸について言及するとアルファベットの後ろの方なのは間違いない。

「…巫鈴みすずさん…あの…」

「うん…見てたから分かってる…うちのワカがまた迷惑かけたね…泣かされたんでしょう…?」

 巫鈴___遁干のがれほし巫鈴は、現在ワカと生活を共にしており、便宜上の家族といえる。『災害』当時医大に通う大学生で、看護師の資格を持っている彼女は日中のほとんどを避難所の医務室に詰めており、そこで父親とともに人々の治療や細々とした予防対策に明け暮れていた。

 発したセリフの後に巫鈴はヘレニズム時代の女神像のように東洋的とも西洋的ともとれる均整のとれた顔を傾げる。大きな優しい瞳に映されて、ノゾミはなんだかちょっと居心地が悪くなる。

「…ワカくん…ホシイモ…じゃなくて…、ノガレホシさんに言われて…僕を…助けに…来てくれたなの」

「…あらそう…?」

 眼下でもつれる白竜と犀。二匹の猛獣の生態を淡々と観察する目つきで、巫鈴は呟く。

「…父っちゃは木ノ下さんのバイタル見て治療してたから…そんな暇なかったはずなんだけどね…?」

 ノゾミが巫鈴の言葉を理解し思考し推察するには時間が必要で、しかし二人の間にいきなり平べったい頭を突っ込んできたペンギン系鳥人の悲嘆に邪魔される。

「あぁぁぁぁぁ〜またケンカしてる〜なーかーよーくーしーてーよーぅぅぅ!」

 これもまた小学校ニ年生のキングペンギン人の後鳥羽ごとば勇一ゆういちは頭を抱えてのたうっている。

「ねーぇワカー、シャモー、もうすぐ始まるんだよー、みんなの集まりー。けんかをやめてー、ふたりをとめてー!」

 取っ組み合いながら血走った目でワカとシャモは鳥人を見上げ、

「すっこんでろ!」

 と叫ぶ。

「そんなぁぁ。キミたちがまた血だらけになるのぅ、見たくないんだよぉぉ僕でもぅぅ」

 じゃあ見なきゃいい放っておけばいい。そう誰もが思うところで、勇一は小脇に抱えていたペットボトルのキャップをひねって中身を「えいっえいっ」と下の二人に振り落とした。

 半透明の黄色な液体が突然トリケラトプス人と犀人にかかる。さしもの二人も手や足を止めて離れた。

「うわっち!くせっ!」

「なんなわけこれ!?ネロネロしてるわけ!!」

 謎の液体に濡れた手を顔に近づけたり服を嗅いだりしている二人へ勇一が教える。

「食用油。多分オリーブかなぁ。火をつけると結構よく燃えるんだよぅ、これでもぅ」

「ふーんそっかー」

「なわけかー」

 のほほんと言ってからシャモとワカとは「どっぇえええええ!?」と奇妙なダンスを踊る。

「そんな勢いで喧嘩してたらぁ、二人とも怪我しちゃうよぅ。そしたら傷口からバイ菌が入って破傷風だよぅ。こここ怖いよぅ」

 怖いのはお前だ。そこにいる誰もがそう心の字幕に浮かべた。

「だからケンカをやめてほしかったんだよぅ」

 カキン、とライターの火打ち石のロックを外すペンギン人の親指が、下から見上げる二人には「逝ってこい!」の、ゴーサインに思えた。

 竜人と犀人は協調して手を振ってアピール。

「だっ、大丈夫だ大丈夫だよ勇っち!このバカと俺っちはもう仲直りしたからね!」

「そうだぞ!こっちのクズカスボケはこの俺に降参したわけだから!」

「…おいワカっち。誰がお前に降参なんかしたんだよね。何時何分何秒何フレーム?月が何回まわった時?」

「てめえこそこの俺をバカって言ったか?バカっていうそっちがバカだからこの俺にバカって言われたお前はウルトラミラクルシャッフルバカなわけ!」

「なんにおぅ!?」

「なんなわけ!?」

 またしてもいきり立つ少年二人の間に、巫鈴が手を打つ音が割って落ちる。

「もうその辺にしといたら…?でないと勇一くんが構えてるライターの火が、あんたたちを燃やしちゃうわよ…?」

 んなバカな…と見上げた二人の眼前で、慈悲深く残忍な哀惜を瞳にたたえた勇一は火のついたライターを手放したのだった。

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