リーグ!

鱗青

第1話 ソル①

 🌝


 空と地。

 無窮の天蓋は、時を表す。陽に属し軽なるもの、即ち、虚空。

 不動の大地は、場を表す。陰に属し重なるもの、即ち、実物。

 空と地あまつちをつなぐのは、此岸と彼岸をむすぶのは、聖なるシンボルである。

 或いは山、或いは松、或いは柱、或いは_____

 我らのような、人間。

 すっくと立ち、何ものにも揺るがされない、確固たる意志持つ生き物。五虫の一種たる、人間。

 どこまでも続く干からびた大地。そこに根をおろす、一本の大樹を思い描く。できるだけくっきりと、細部まで鮮明に。

 幹にも梢にも無数の樹液の行き渡った枝葉が生い茂り、伸びて絡みつく蔦や、そちこちにしがみつく苔に彩られた、古めかしくも生命力に溢れた存在を。

(僕はいま、照りつけるお日さんの下にデンと構えた木だ。神殿みたいに、それそのものが世界を表すような、どこまでも成長していく木なんだ)

 目玉焼きの黄身さながらに、薄い白雲をまとわせた太陽がとろとろと僕の木肌を炙っている。

(僕は動じない。恐れない。ただあるがままに。)

 空蝉まぼろしの太鼓のが脳裏に響く。そこには無い筈の板づくりの四角い屋根舞台が輪郭をなす。




 〽︎トォラハヒィラハ

 ヨォルィヨォヨ トラァハァハ

 トラァハヒィラハ



 うたいに合わせて腕を振れば、鈴を鳴らすように空気が裂ける。

 腰を落とす。ズッ、と摺り足。前へ。横へ。

 低くなった姿勢から一気に伸び上がり、片足を掲げ、振り下ろす。ことに優美なその体さばきは、触れる空間をことごとく浄化していくように見える。

 腕や脚を直線に伸ばす、直角に曲げる、高くなり低くなり移動して軌跡を残していく。

 音はほとんど立たない。シュッ、スッ__シュッ、スッ__という、摺り足のみが…

「OH.BRAVO!!」

 無粋極まる歓声とそれに続く拍手が場の緊張をはじけさせた。

 無限に広がっていた幻影の檜舞台は消え去り、黄色いマットの敷かれた床とスタジアムの現実に戻ってしまった。

 僕もまた集中力が切れ、誇大に膨張した想像の鎧を剥がされる。

 レスリングマットの上に立っているのは、キンシコウ系猿人の男。僕、孫智武そんさとむ、もとFC式レスリングのオリンピック王者だ。

「君はダンサーだったのかい、刮目の至りだネ!!」

 かなり長身のアライグマ人の男がシンバルを叩く猿人形のように無神経に両手を打ち合わせている。

 アライグマ人の頭蓋骨の下端から両肩にかけての僧帽筋のカーブは緩やかすぎて。その肩峰の丸みをつくる三角筋はバスケットボールよりも大きく丸くて。さらに上腕も前腕もばかでかいラグビーボールを二個繋げたようで。手はまるでドンキーコングのゲームに出てくるゴリラのように大きくて。

 そして背筋の凸凹はグランドキャニオン。胸筋の盛り上がりはロッキー山脈。見事に分割統治された腹筋は、8つの膨らみそれぞれになにがしかの物語を秘めていそうな存在感。

 それに対して下半身は「ボディビルやってる人ならまぁ平均値だよね」というぐらいの筋肉量。それでも通常の成人男性よりはかなり鍛えられているのだが、この先輩を初めて目にした時に率直な感想として

(ディズニーのアニメの筋肉キャラって、実在の人物に由来するのかな)

 と思わしめる体格なのである。近くに寄れば巨人に、遠目にはむしろ低身長に映るデフォルメのきついシルエット。

「僕は踊り手ダンサーじゃありません。ちからびとれすらーですよ、ブレーズ=フェルダーさん」

「ジョーダン通じないの困るじゃーん。それにしては堂に入ってたジャーン?」

「いや、ただ実家が神社でして」

「オー、シュライン。じゃあ、いまのは?」

「神事の一環です。神慰かむなぐさみのうちで、舞踊音曲ぶようおんぎょくを神に奉じて国家安泰や子孫繁栄を願うものです。雅楽ガガク、といいます」

「へぇ、すばらしい」馴れ馴れしく腰に腕を回す。「じゃあ今夜、私のためにベッドで踊ってくれないかな。もっと激しく、もっと扇情的に」

「…それは」

 太陽のような笑顔。勘違いした相手が唇を寄せてきたところで脇の下をすくいそのまま股の下から片手を入れて担ぎ上げる。

「…謹んでお断りします」

 体重と重心移動の加速をつけてバックブリーカー。千匹のカエルをブルトーザーで踏みつけたような悲鳴とともに、相手は即身成仏を遂げた。

「死んでナーイヨ!ちょびっとだけ死ぬかと思っターヨ!」

 投げ捨てられたアライグマ人は、普通の人間なら即刻病院での受診を勧められるはずの攻撃をまるでなかったことのように、もっきりと立ち上がる。

「なんなんですその変な口調。またキャラ付けですか」

 周囲に星を飛ばしていた恵比寿顔が引っ込んだ。急にハイドンの肖像画のようにのっぺりとした仏頂面になる。

「次のマッチではできるだけ脳の情報処理の単純な印象で挑めとの仰せでね。今度の対戦は会長ボス言うところの『因縁の相手』らしいぞ」

 因縁、という単語を発するとき、アライグマ人はわざと口角の端で吹かすようなやり方をした。およそ「因縁」「復讐」「積年の」「屈辱」「挽回」「雪辱」____これらの単語はタイトルマッチでは枕詞のように大安売りで扱われるものだ。

 それをわざわざ…というところに意味深長さがあるのだと含めた言い方が陰険でいやらしい。

 がしかし、こちらの方がこのアライグマ人の本当の顔なのだろう。

「負けたら消されますか」

「たぶんな」

「理解です」

 あっさりと命のかかった試合であることの伝達と了承が済んだ。そこでまたアライグマ人はぱあっと明るい顔になる。

「だから生き残れたらご褒美おくれ!試合の後で私のベッドで待ってるヨ!いい声で啼いてくれよな!!」

 鏡で写したように同じ表情で、智武はブレーズの顔面に思い切りの良いドロップキックを突き刺した。



 🌚



 東京は青山の喫茶店は、どこもかしこも小洒落ている。

 ウッドデッキやテラス、太陽光を遮り和らげるパラソル。

 藤製の、あるいはシンプルに木製の、あえて辛口に無骨な鉄製のテーブルや椅子など、見栄えや雰囲気を支えるためにそれとなくデザインを凝らした品々。慣れ親しんだ人にとってはあって当たり前で気持ちをほぐすものであるが、人によっては鼻につくかもしれない。

 そんな青山の霊園近くにある一軒、「こおとだ・じゅうる」もまた御多分に洩れずいかにも青山めいたカフェバーである。

 インテリアショップやアンティークショップや英国式ティーショップの入居したファッションビルの一階フロアをエレベーターと通路以外独り占めにした人気店舗で、先日大手民放でも取材されたエッグベネディクトとルーマニアドーナツパパナッシュの名店である。

 そのテラス席で、まだ冬の名残の肌寒さが漂っているなか二人の獣人と一人のヒトという組み合わせの男女が、目立つど真ん中のテーブルに陣取っていた。

 3月9日水曜日。言わずもがなウィークデーであり午後の3時であっても、まだ暇をもて余した富裕層の主婦や日光浴に命をかけている外国人もいない。わずかばかりの客はテラスの三人以外、暖をとるために締め切られたガラス戸の向こうだ。

 彼らはその席の取り方もさることながら、外見もまた他の客からはやや浮いていた。

 閉じたダークチェリー色のパラソルの下、テーブルの北側には獅子人が緩やかに脚を組んで頬杖をついている。

 金のメッシュが幾筋も入る白銀のたてがみは青や緑のトンボ玉で飾られている。優美な笹型の金の眉。瞳は柑橘の果汁にレモンの粒が混じったような暖色のまだら。

 成人には至らぬであろう若さだが、身につけたものは裳裾の長い中近東でよく着られている貫頭衣で、これまた毛皮の明るさに負けず劣らず輝くような純白。

 対する南側にいるのもまた獅子人。だがこちらは昼の日中ひなかというのに周囲がくすんで見えるような暗色の毛並みだった。

 鬣は地の毛皮よりも黒く深いのでそれが鬣だと判別できる。そこに金銀の輪を幾つも付け、あちこちで房を垂らしている。

 ナイフで切ったように鋭い眉の下には、海と夜空をブレンドしたような複雑な色合いの瞳。

 こちらは中年ともいえる年齢で、狷介な含み笑いが唇にかかっている。

 全身これ最新のブランドスーツでコテコテに固め、しかし行儀悪いいたずらっ子のように胡座を組んで椅子を前後に揺らしている。

「ちょっとアンタ、しっかり座んなさいなみっともない」

 ついに残る一人のヒトの女性が口を出す。

 こちらは白いブラウスの胸元から腹までを伝統的なコルセットで締めた、東ヨーロッパの民族衣装。眉はきりりと弓形、鼻はやや鷲鼻、瞳は極北の氷が気まぐれに飛び込んだような薄い青。

 さっきから両方の獅子人の視線が集中している豊かな胸の谷間の前で腕を組んだので、2人はがっかりと嘆息した。

 ヒトの女性は小麦色に近いブルネットをなびかせて、双方に告げる。

「そろそろ刻限よ。コマの色サイドを決めましょうか」

 闇色の中年獅子人が座り直し、金毛の獅子人が外見を裏切らぬテノールで口火を切った。

「ここはオーソドックスにいこうかね。初心に返って」

「OK。じゃあこういうことね」いつの間にか2人の間に出してあるくさび形の模様のついたボードに、女性はそれぞれの使う円形のコマを並べていく。

「では。ナイトサイドノクトおれへだの」

 映画会社の音響スタッフも再現に苦労しそうな重低音の黒獅子人は、自分の毛色と同じコマをタップする。

「ということよね。サンサイドソルをあんたへ…ちょっと、聞いてる」

「聞いてるってば」金獅子人はこちらも自分の衣と同じ色のコマを摘んで弄ぶ。「ただ懐かしくてねー。あんたを相手にこのツールで遊ぶのは、前の戦争のとき以来だから」

「ああ、サムと蓮の愛好家のケンカ?」

 黒獅子が野卑な苦笑でかぶりを振る。

「違うとるよ乙女。己とこの野暮天の尺度やとそんな最近のもんは含まれんて。こいつの言うこないだっちゅうのは、スペインの髭野郎が赤肌の連中に殴り込んだ時のことだの。相違ないか?」

「そうそう!あの時はこてんぱんに負けちゃってさ、そっちはツキまくりでこっちは終始ドベだったよね」

「だの!」

 あっはっは!と話を合わせる2人の間で女性の頭が意外そうにキョロキョロする。

「もしかしてあんたたちって、仲良いの?」

「まぁ、もう憎み合う段階じゃないしねぇ」

「互いの出方も長所も短所も分かりすぎるくらい分かっとるしの。歩み寄りが大事じゃ」

 談笑が苦笑に移り変わったところで女性がスマートフォンを2つ取り出してテーブルに置く。さらに1つの小さな椀と2つのヤギの骨でできたサイコロを加える。

「では、タイムキーパー兼ルールマスターであるスターサイドステラ―が私ということで。それでは…」

 先手になった金獅子の手の椀の中で、サイコロが「かろん」と軽やかに運命の始まりを告げた。

 オーダーを取ってヒーターのきいた店内に帰ってきたコウモリ人のウェイターがしきりに窓の向こうのテラス客を気にしているので、先輩である三毛猫人のウェイトレスは注意散漫を咎めるために声をかけた。

「どうしたの秋逸しゅういち。いつものボヤけ面が余計締まらなくなってるけど」

「ひどいな美忍みお姐さん。…いやさ、さっきからテラスにいる客なんだけど、やたらアンティーク?みたいな、レトロな古めかしい感じのゲームで遊んでてさ」

「姐さんと呼ばないでって何度も言ってるじゃない。そんなに年が離れてないのにその呼び方だと一気に老け込んだ気分になっちゃうでしょ」

「それよりその、ゲームなんだけどさ、時代物っぽいから姐さんもきっと興味湧くと思うんだ。サーヴのついでに見てきなよ」

 三毛猫人のウェイトレスは薫陶を授けることをあきらめた。この歳下の新人バイトは、仕事ができるがそれ以上にマイペースなのだ。

(少し興味が出たのは確かだし、ちょっと乗ってみるか)

「ふーん、どんなゲームなの?」

 秋逸というコウモリ人が身振り手振り交えて説明した噂の品の外見で、美忍はすぐにあたりがついた。

「それ、双六ね」

「スゴロク…ってあの、マス目に沿って進んでゴールしたら上がりとか人生なんとかとかモノポリーみたいなもんのこと?」

「それらの源流よ。世界で最も古いボードゲームと言われてるわ…バックギャモンって聞いたことない?」

「ねッすわ」

「そッすか」

「あはは美忍姐さん、いまの俺ちゃんの真似っしょ?似てる似てる」

 皮肉も分からないのは愚かな美徳かはたまた珍しい欠点か。

 その会話から小一時間後、彼女はくだんのテーブルに自分で皿を片付けに行った。

「失礼致します。空いたお皿をおさげしますね」

 3人連れのうち、軽食をオーダーしたのは民族コスプレのヒトの女性、男2人はホットワインだった。

 手際よく皿とグラスを盆に移しながら横眼をボードゲームの方にスライドさせた美忍の瞼が、ひきつれを起こすほどに持ち上がり、気道が「きゅうぅっ」と音を立てるくらい息を飲んだ。


「………ん?」

 回転扉を回して戻ってきた三毛猫人が、片肘に載せた盆を波打出せるくらいに慌てふためいているのでコウモリ人は勘違いをした。

「どしたんすか姐さん。あのガイジンらになんかされたんですか。じゃあとりあえずそこの椅子の角であのふざけた野郎どもの頭をスイカ割りしてきます」

「いい、いい、いえ、違うの!」

「だってその顔色、ただごとじゃないっすよ。なんか言われたかされたかでなけりゃなんなんです?」

「…あれは、本物よ」

 首をかしげる後輩に、あのバックギャモンボードのことだ、と耳打ちをする。

「…?そりゃゲームボードだから」

「そういう意味じゃないの!」

 言ってしまってから三毛猫人は口を押さえる。そしてもっと慎重に、今度は低声で囁いた。

「あれはオリエント博物館に置いてあるものとほとんど同じ様式なの。しかも、模造品レプリカなんかじゃない。私も目を疑ったけど…」

 世界最古のバックギャモン盤は、一昨年リニューアルした東京都オリエント博物館の目玉展示品だ。美忍はそこの学芸員に採用されることを目指しており、既に二浪を経験済み。だから収蔵品の数も品目も詳細に至るまで把握している。

 もしあの品がサザビーズあたりのオークションに出ることがあれば、それは東京都の予算に限りなく近い値段になるだろう。中近東の首長クラスならもっと高額を提示するかもしれない。それだけの価値がある骨董品なのだから。

「…てことは、あのテーブルで、とんでもない値打ちもん使って遊んでるってことですか…」

 美忍が首肯すると、その重大さに理解は及ばないもののコウモリ人にも緊張が伝染する。

 そして2人のセリフがユニゾン。

「あいつら、何者?」



 🌝



 一方その頃、同じ関東を東京の西に大きく外れた、とある市の片隅では。

「ねぇ、どうしてこんなことするの?大人の人たちが来ちゃうよ。困るよ…」

 と、身体の大きな鱗の黒いティラノサウルス系の竜人が、学生鞄を盾にするようにして震え上がり、雨風のシミや飲食店の油煙や酔っ払いの数々の粗相で汚れた裏通りのビル壁に追い詰められていた。

「あらヤダ困っちゃう〜♬」

「…だって!てめぇ恥ずかしくねえのかよ!」

「マジでマジでぇ〜!そんなでっけぇ図体してんのにさぁ!」

 と、今時ドラマでも見かけないような改造学ランの不良の犬人猫人熊人虎人狼人が、 それを取り囲んでいる。そして「バッカじゃねーの、ぎゃははははは!」と、涙ぐむ黒竜人へ口々に罵声と嘲弄のシャワーを浴びせていた。

「ぎぅ〜困っちゃう困っちゃう困っちゃうよ…」

 どうやらそれが口癖になっているらしい竜人は、体格だけならば居並ぶ五人の誰よりもまさっていた。

 しかしながら内股になって小刻みなダンスを踊る切り株のような脚も、頭から丸まり小さくなって消えようとしているかのような巨きな胴体も、何より恐怖のためにくしゃくしゃになっている幼顔おさながおが、戦意の不在をわざとらしいほどわかりやすく示していた。

 良いガタイをしてるのに勿体無い…憐れみさえ浮かべながら、リーダー格の不良少年の犬人αが人差し指で相手の頬をはじく。

「ってゆーか男として恥ずかしくないんか?なぁ?おいてめぇら、こいつ裸にひん剥いてみねぇ?もしかしたらんじゃね?」

 マシュマロを木製のフォークで突き刺すような、ひぇぇぇぇん、という情けない悲鳴が薄汚れたビルの隙間から都会の浅い空へ上った。

 その、悲鳴がカーブを描いて落ちてきたあたり、路地の入り口に学ランの人影が立ちはだかった。

「お前の泣き声は5キロメートル先からでもわかるわけ。ぎひっ」

 快活な笑い混じりの呟きだった。

 不良がタイミングを合わせたように一斉に振り返ると、そこには黒竜人と同じ学ランに身を包んだトリケラトプス系の竜人が脚を4の字に曲げて立っている。

「この俺が、校門で待ってろって二重に三重に、そりゃもう口酸っぱくして言っといたよな。それなのにその約束ブッチして、お前、良い度胸してるわけ。ホントに、ぎひひっ」

 こちらも童子のようにやたら大きくそのくせキラキラした目と、丸っこい容貌をしていた。そしてそのふてぶてしい笑いの張り付いた顔もさることながら、体表の色が衆目を集める。

 その竜人の体は、少なくとも制服から覗く太い首やごつごつした手首から先は月光を集めたような乳白色の鱗に覆われていたのだ。

「___で、改めて聞こっかな。ここで何やってるわけ?アキ」

 トリケラトプス系の少年からアキと呼ばれたティラノサウルス系の少年は、スイッチが切り替わったように表情を輝かせた。

「ワッくん!」

「ま、大方のところは予想がつくわけ。それは後にするとして…携帯寮監に没収されてるからしばらく使えねえって言っといたのにお前、それも忘れてたわけ?」

「あ、そ、そうだったっけ。先にお店に行くってメールで連絡したから大丈夫かと…」

「人の話をよく聞けバカアキ。小学校で教わんなかったわけ」

 ずかずかと包囲網を割って入り二人の世界で話を進めている白竜人に、猫人の不良βが

「こっち無視してんじゃねえぞゴラァ!」

 と突っかかってきて。

 そのまま白竜人の尻尾で足元を掬われ、ぐるん、と空中で派手に一回転した。

「それにしたってなんでまたこんな雑魚どもと遊んでんだよ。お前、俺との約束と道草とどっちが大事なわけ?」

「そ、そりゃあワっくんとの約束が一番だよ!だけど、この人達…っていうかあの人が困ってたから」

 指をさされた不良βが、地面に這いつくばったまま額に青筋を立てて歯嚙みをした。暗に「黙りやがれ!」と絶叫している。

 のだが。

「小銭が自販機の下に転がって入っちゃったんだよ。それで腕をね、こう伸ばして突っ込んでたんだけどね、それでこう…でもどうしても届かないから僕が自販機持ち上げてあげましょうかってきいて…そしたらなんかうるさいとか怒られて…」

 律儀に黒竜が再現して見せたその格好は、うずくまって右腕を下方に伸ばし、尻を突きあげるというお世辞にも見栄えが良いとは言えないものだった。おまけに小鼻を膨らまして力み、片方の鼻腔から鼻水を出すという顔面模写までオプションについている。

「え…βお前…」

 眉根をひそめる熊人の不良αの前で必死に首を振るβ。

「いやっ違う違う違う違う!俺は、俺はこんなことやっちゃいねぇ!こんなちっけぇことで」

「なるほぉど、そーゆーわけね。人助けなんてアキらしいや」

 ぎっひひひひひ!とバンバン腹鼓を打って、白竜人は破顔した。

「せっこぉ!めちゃセコなんですけど」

 βの首より上に恥辱の赤みが差していく。

「なぁあんた、さっきアキのこと男として恥ずかしくないかとか随分面白えこと吐かしてたけどさ。あんたこそ人間として恥ずかしくないわけ?」

 完全に面子を潰されたβのこめかみから「ぷつん」という音がした。

 それなりに仲のよろしいらしい不良ズは、

「ざっけんなテメェコラなっめんなクソがオラ二人とも全身の鱗削いでやんよゴラァ!」

 …と合唱し、みんな勢揃いで押し寄せてくる。

「へへぇーえ、それができるんなら面白えわけ、ぎひひっ」

 白竜人は学生鞄をアキに放り渡すと一歩も退かず、それどころか前進した。

 まず一番初めに襲いかかる熊人をジャーマンスープレックス。そしてそのままフォール。

 殴りかかってくる猫人の腕を絡め取っての、流れるような一本背負い。

 犬人を腰投げで2階ぐらいまでぶん投げる。

 仲間のやられっぷりに戸惑う虎人には、容赦のない延髄斬り。

 狼人はあっさりとパイルドライバー。

 終盤、ゾンビになりたての死体のように立ち上がろうとする一人一人には、手近の廃材やパイプを蹴って高くジャンプし、「んばっ」という音とともに手足尻尾を伸ばした*の体文字を作っての垂直落下。

 喜々として「美技!隕石メテオプレス!!」といちいち技名を叫ぶ念の入りよう。

 アキは腕時計でついタイムをとってしまっていた。それによるとほぼ全ての不良が投げられ殴られ叩きつけられ押し潰されるまでに要した時間は4分と20秒だった。

「ぎっひっひー、圧勝圧勝!アキ、タイムどうだったわけ?」

「悪くないと思う…ツーピリオド以内に根こそぎだもん…すごいねワッくん」

「んー、つったところでこいつら格下だしなー。素人だし運動不足だし軽かったし。やっぱダメなわけだわ、コーチんとこの教え子さんたちぐらいじゃないと」

「全然余裕だねワッくん!カッコいいなあ困っちゃうなぁ」

「ぎひっ、ま、スターの宿命ってやつ?俺も困っちまうわけ、強すぎて!」

 肩をすくめてプピーと鼻を鳴らすトリケラトプス系の少年を尊敬の眼差しで焼き焦がさんばかりにしながらティラノサウルス系の少年は鞄を返し、甲斐甲斐しく制服の埃を払ってやる。

 おかに打ち上げられた海棲動物さながら転がる不良グループのうち、最も体力のあった虎人が悔し紛れの最後っ屁とばかり黒竜人の太長い尻尾の先を掴んだ。

「み」

「どうしたわけ、アキ?」

 ビクンと背中を仰け反らすアキ。その尻尾を確保して、もう片方の手には懐に呑んでいたカッターをきらめかせる虎人に気づいたワカが叫ぶ。

「アキ振りほどけ!ヤバいわけ!!」

「みみみみみ?」

 切羽詰まった白竜人が止めに入る前に、虎人はカッターの刃を伸ばして突き立てた。

 かに、思えた。

 ティラノサウルス系竜人の、制服の学ランも黒目がちな瞳も闇色のシルエットに沈む中、尻尾の先端が紅く輝いた___ように見えた。

 次に虎人が我に返った時、自分が見えない何かにのしかかられているように必死にもがいているのを知って「あれ?」と呟いた。

 他のメンバーはなんとかかんとか回復してうずくまることができるまでになっているというのに、虎人だけは改造学ランの上から下から毛皮からぼろぼろに引きちぎられていた。

 黒竜人はなぜかビールケースに腰掛けて白竜人に肩を抑えられており、何やら小言を受けている。

「…から、我慢しねーとな。分かったわけアキ?」

「うん。もう平気。ちょっと、困っちゃってた」覗き込んでくるワカに、今度は違った意味で顔色を変えて「ワッくんがいないとやっぱり僕、ダメだね」と頬を掻く。

「んなことねーわけ。前よりマシにはなってるぜ」

 穏やかな雰囲気の二人に対し、やっつけられた方は当然のことながらばら撒かれた復讐の気概を育てているようだ。

「へ…へへへっ…へへ………いい気になんなよお前ら…」

「…やらかしちまったな…βの兄貴の従兄弟の友達の先輩はヤーさんなんだぜ…」

「そうだそうだ…もう終わりだぜ…」

 五人のうち誰が言い始めたのか判然としないが、こんなテンプレートな捨て台詞もリアルで聞くと逆に新鮮でもある。

「あ、ごめんなさい、いい気にはなってません。むしろ、ちっとも気分良くないんです。ごめんなさい、救急車を呼びましょうか、困っちゃったな」

「黙ってろアキ。___なに?まだなんか用なわけ?」

 口の中を切ったのか、血の混じる唾を勢いよくビルの壁に吐いて、不良αが吠えた。

「いいか、先輩が仕切ってるこのあたりの高校のグループはゆうに150人はいるんだ。そいつらにお前らの高校に行かせてやったら…面白いだろうなぁ」

「なんだ、そういうわけ」

 関係ないねと言わんばかりに鼻をほじるワカに、さらにαは食い下がる。

「余裕がってんのも今のうちだ。どこ高かすぐに調べがつくぜ」

「あ。僕ら市立です。市立西園の第三」

 こらアキこんな奴らにペラペラ喋んな!とワカは黒い頭を叩く。

「もう遅いっての。覚えたぜ…市立西園第三… …待てよ、西園第三だと?」

 改造学ランの集団にざわ……ざわ……と動揺が走る。

「おい、いまお前、市立西園第三っつったのか?」

「はい」

「だからアキ、もう喋んなって!」

 べしり。さっきよりも強い張り手。

「西園第三って、おい…ウソだろ」

「ウソじゃありません。西園第三中学校一年C組です僕たち」

 西園には市立の高校と中学校があり、高校は1つ、中学校は第一から第三まである。つまり彼らははじめ中学校一年生のアキのことを高校の一年生と勘違いしていたのだ。

「あ、制服もほとんど同じですし、判りにくくて困っちゃいますよね。僕たちほんとよく、高校生に間違われて」

「だから、もー、しゃべんなってのに!」

 白竜人のツッコミがチョークスリーパーに形を変えて黒竜人の喉元を締め上げる。

「マジかよ」「中坊に負けたんかよ俺ら」「マジでクッソダセェぞ」「こんなん先輩にも誰にも言えねーよ…」

 じゃっそゆことで、さいならっ!…と台詞の尾を残しながら、ワカはアキを引っ張るようにして表街道に走り去った。

 二人の竜人にダウンさせられた倦怠と、相手が大幅に歳下であった屈辱とに打ちひしがれてのろのろ立ち上がる不良たちである。

 その一人がふと口にした。

「…なぁβ…さっきあの黒い竜人、小銭を自販機の下から取るのを手伝おうとした、つってたよな」

「…もぅいいって。やめろよα」

「いや。気になるんだけどよ。あいつ、を持ち上げるつもりだった、ってことなんだよな」

 五人の前には、そびえる自動販売機。成人指定の書籍を専門に販売するそれは、居並ぶ不良の誰の頭よりも高く、横幅はゆうに三人分はあった。

「もし本気なんだったら…あいつ、正真正銘の化け物だぜ…」



 🌝



「待っ、ま、っ、て、ワッくん…早っ……息がっ、苦しヒっ……」

 寺野安芸___てらの、あき。黒竜人の本名である。親友からは「名前の中に『オンナ』がいるから女々しいんだ」とからかい半分に言われるが、つけてくれた母は「安全に、楽しい人生になりますよう。そのためにも一芸に秀でるように」という願いを込めたと教えてくれた。

 結果、体格はとりあえずクラスで一番に秀でているとなんとか自負できている。

「ぎひっ、こんなん、でっ、音をっ、あげる、なんてっ、まだまだっ、なわけっ!」

 天野若尾___あまの、わかお。クラスメイトにはワカで通っている。

 覚えやすくて書きやすい、おまけにちょっと芸名みたいで自慢の名前だが、親友は縮めて「ワッくん」と呼ぶ。はじめはこそばゆく感じたものだったが、慣れた今となっては日に一度はアキの呼び声を聞かないとなんだか落ち着かなくなってしまったワカである。

 トリケラトプス系の体躯はアキよりはやや締まってはいるものの、肘や膝などの関節以外の膨らみのメリハリはアキ以上だ。脂肪ではなく筋肉で太って見える、いわゆるミニタンクのタイプなのだ。

 不良に絡まれたアキをワカが平和的な暴力行為で救出してから、ずっと二人は走り通していた。

 やがて市内の繁華街、大通りに面した5階建てのシックに色落ちした赤煉瓦ビルにたどり着いた。

「とおちゃーく!あそこから大体3㎞ってとこってわけ?」

「……だっ、だぶん…そのぐらい…ぎぅ……」

 両膝に上半身を預けて息切れを整えているアキの頭の上には『大陸小菜陽京飯店』という金縁の看板がかかっている。

 さらにビルの最上階には建物の風采にそぐわない時計櫓があり、大時計が三時半を示していた。

「あヤッベ!アキ、試合の中継が始まってるわけ!とっとと中入ろーぜ!!」

 二人の約束の場所であり行きつけの安食堂である中華料理店はまだすいていた。暖簾を吹き飛ばすように「こっんちゃーっす!ぎひひっ」と入店するワカと静かについてくるアキに

「いらっしゃーい!二階のほうがあいてるわよ」

 という黄色い声と

「こんにちは…二人とも…若尾くんはいつものセットですね…安芸くんは…いい鶏肉が入ってますから油淋鶏にしましょうかね…」

 という洋画の吹き替えのような渋く分厚い声が応えた。

 いそいそと二人は二階に上がり、勝手知ったるなんとやらで席を見下ろす角度で天井に吊り下げられたスクリーンテレビのリモコンをいじくって衛星のスポーツ番組を流す。

 画面には上半身と下半身のバランスの異常に悪いアライグマ人のレスラーと、敵クラブの甲殻類のように手足の長い牛人のレスラーの対戦が固定される。

 ワカとアキはそれを肴に勉強の愚痴やクラスメイトの間抜けな失敗や洒落にならないコーチの厳しさをくっちゃべる。

 やがてパトパトと体重を感じさせない足音がして、黄色い声の主であるクリーム色の毛皮の兎人が上がってきた。両腕いっぱいに皿を積み重ねているが、どうやってそれをなし得ているのかは不明である。

「お待たせー!はいアッちゃん」

 まず先にアキの鼻面の前に大皿が降ろされる。そこには山盛りにされた山吹色の唐揚げが、至福のオーラともいうべき湯気を立てていた。

「わぉ。やったぁ!これサービス盛りなんじゃないです?だってメニュー写真にあるやつより多いもんね!困っちゃうなぁ〜」

 兎人はふんわりと腰を折って大盛りご飯を置く。

「スポーツやってる学生さんには身体づくりのためにしっかり食べてもらうのが、ウチみたいな食べ物屋の義務だからね。サービスのうちには入らないわよこんなもん」

「マリさん、いつも思ってるんだけどさ、フードエレベーターもこの店あるのに、なんで使わないわけ?」

「宴会とか、あんまり忙しかったら使うけどね。なるだけお客さんの顔を見て仕事したいのよ。そうしないと料理も給仕も上達しないでしょ?」

 百合の花のように微笑む化粧っ気のない素顔、店名の大きくプリントされたエプロンをつけているにもかかわらず、兎人はそこらの美女さえ霞んでしまうような色気を醸していた。

 妖艶な、という言葉がパズルのピースのようにしっくり当てはまるこの兎人のウエイトレスは、しかしウェイターなのであった。

 説明が混乱しているわけではない。つまりこのマリさん、茂島真理もしままさみちは、れっきとした男なのだ。

「…マリさん、相変わらずキレーだよね。芸能界引退したの、もったいなかったんじゃないかな…」

 外国の彫刻のような優美な背すじに思わず触れて見たくなるほど形の良い尻が、シュシュのような丸い尻尾を揺らして消えるとアキは素直に声に出した。

「本人のやりたいことがあったんだから仕方ねーだろ。それに完全引退じゃないぜ。時々アニメの声あてたりしてるわけだし」

「そーなの?」

「おう。それよりとっとと食い始めちまえよ。食うの遅ーわけだから」

 ご馳走を前におあずけを食らった状態で躊躇していたアキは、親友より先に箸をつけることを申し訳なさそうに合掌して「頂きます」をした。

 ワカは、唐揚げを1つ1つ頬張るアキを胸の奥がほころぶような想いで眺める。

 ___本当にこいつは、幸せそうに美味そうに喰ってくれるよなぁ。こいつに喰われるなら、鳥も幸せってもんなわけ…

「アフタヌーンティーセット、お待たせ致しました…」

 まるで洋画の中から抜け出てきたような渋くまろやかなヴェルヴェットヴォイスとともに、我に返る。そこには、渋い声に相応しく渋い魅力の兎人が、灰色の長身をコックコートに包んで立っていた。

 茂島恭平、紳士的な中年俳優のような顔立ちと物腰だが、真理の弟である。

「兄さんが…お得意さんの接客で手が離せないので…まだすいていたから…僕が運びました…」

「あ、ありがとうキョウさん、あとはテキトーにやるわけ!」

 灰色の兎人は現れた時と同じく気配なく消える。

 恭平が持ってきたのは二人分の中国茶と、鳥籠のような鋳鉄製の大きな什器で、軽食や甘味を乗せた皿が三段、 上から下へと大きなものになるように乗っている。

「キョウさんも不思議だよね〜。気配が濃いような薄いような……カッコいいけどモテてる感じしないし…」

「キョウさん男前だけど幸薄い感じなわけだもんなー」

 ずばり言い切って、ワカはアキ言うところの

 西洋おかもち(ワカは「アフタヌーンティーのケーキスタンドって言えってわけ」と毎回訂正する)を自分の前に引き寄せる。この店は中華料理店の枠を超えて客のニーズに応えることを旨としており、こんな西洋風のメニューもオーダー可なのである。

 トリケラトプス系の特徴である額の二本角の下で、ワカのカラメル色の瞳が照明が入ったように輝く。そして白い顔を紅潮させて両手をすり合わせた。

「来た来た〜ん♡ぎっひっひ♡これのために練習してるわけ!」

「なにこれ。なんか…すごいね、わけがわからないね。困っちゃう」

「わけが分からなくなるわけねーわけ!いいか?」

 ワカは上に乗っているものから順番に解説してくれる。…別にアキは頼んでもいないのだが。

「これが本日のサンドイッチで、おおクロワッサンに生ハムとラクレットチーズかぁ、それにサーモンとブロッコリーのキッシュ!ここのは結構甘めなんだけど美味いんだよな。で二段目がスコーンとクッキー!ジャムは、あれ?木苺じゃねーな…これイチゴじゃん。仕入れができなかったんかな?

 特筆すべき三段目!本日のケーキなわけだがぁ…」

 ワカの眉根が真剣の色を強め、レーザー照射さながらの視線が皿の奥まで注がれる。

「…………ほぉ〜なるほどねぇ…攻めてきたねぇキョウさん……」

「…?」

 一番下の大皿には、マカロンの盛り合わせに、見た目パッとしない丸いチョレートケーキになんの変哲もないチーズケーキが鎮座ましましている。普通どこでも見かける品に見えた。どこか変わっているのを強いて挙げるとするなら、サイズが大きめに作ってあることぐらいか。

 これがどうかしたの?と小首を傾げるアキに、ワカは後でのお楽しみってわけだ、と意味ありげに頷いた。

 ___本当にワッくんはすごいなあ。あれだけの練習と、不良のひとたちとのケンカと、走った後で、こんな甘ったるいものをこんな大量に食べられるんだから。僕だったらマカロン一つでお腹の甘いものエリアが一杯になっちゃうよ…。

 というわけで、この二人の親友は互いに互いの食べ物の嗜好について尊敬を抱いているのであった。



 🌝



「ぅぇ〜い食った食った満腹じゃ〜余は満足なわけじゃ〜」

 ぽっこり突き出た腹をなぜながら、ワカはニンマリと口の周りを舐めている。

 三段重ねのアフタヌーンティーセットを、マカロン一つだけ残してぺろりと平らげたワカの前では、まだアキがもごもごと箸を運んでいる。

「ゆっくり食えよ〜この俺のことは気にしないでいいわけ〜」

「…でも、待たせたら、困っちゃうでしょ…」

 どうやら精一杯急いで食べているつもり、らしい。

 しかし贔屓目に見ても、夕刻になって混んできた周りのテーブルにいる親子連れの赤ん坊たちの方がまだ早く咀嚼している。ようするに、「ちゃんと30回は噛む」ことを律儀に実践していることと、きちんと唐揚げの味を確認するべきだという謎の使命感により遅れが生じているのだ。

「俺はぁ別にぃ?困りゃしねーからぁ。吹いたり喉に詰まらせたりしねぇよう気をつけろってわけ」

 スクリーンでは試合が終了して久しく、勝者へのインタビューに応じるアライグマ人が決め手となった新技について語っている。その腕は包帯が巻かれ、右の眉あたりに大きなコブができていた。

「やっぱプロはすげぇよなぁ。この俺ももっと技増やしたいわけ」

「そういうの、どうやって勉強するの?コーチとかが凄いといいのかな?」

「勉強とは違うだろ。そういうとこは、まだ解ってねぇわけなー、アキ」

「うん…僕なんてまだまだだしね…」

「………」

「ワッくんも小学生からだし、先輩も同じ学年の人も、中学生になってから始めた僕みたいな人、いないもんね…困らせちゃってるんだよね…」

「………」

「…ワッくんどうしたの?なんか困った?」

 白竜人は反応がなく、代わりに指を自分の口の中に突っ込んでいる。

「ん。歯の間にサーモンの身が挟まったわけ…」

 舌を使ってせせろうとするが上手くいかない。爪を使っても取れない。些細なことだが真剣に困っていた。

「待って、ワっくん。僕が」

「へ」

 ぐい、と、ティラノサウルス系のアキの黒い顔がワカの真正面にきた。ほとんどワカの鼻の角と唇がくっつくぐらい、しかし少しだけ下の位置でアキはワカの口の中を覗き込み、鉤爪を出した手の指を器用に使ってその挟まったものをなんなくほじり出した。

「ほらできた。ティラノ系ってこういうの得意なんだよ。なんか昔のご先祖様がね…どうかした?」

  そして唾液で光る爪の先に引っかかる魚の身を、ぱくりと飲み込んだ。

「お前、それ、かかかっ、間接…」

「ん?なに?」

 顔から頭から吹き出した狼狽の雫をそこらに飛ばし、ワカは激しくかぶりを振って

「ち、ちげーわけ知らねーわけそんなんじゃねえわけ!」

 と否定した。何がどう違うのかアキの方は分からず、親友のうろたえ方に「ぎぅぅぅぅ?」と、ただ困ってしまっていた。

「そ、それよりほら!食い終わったんならこれ、やるから!」

 いつも近くにいる親友ですら分からないほどに表皮の色の変化を隠した白竜人は、相手の口に取っておいた最後のマカロンをねじ込んだ。

「ど、どーよ、美味いわけだろ?」

「う、うん。ありがと。チョコ味だね」

「お前も早くこの俺ぐらい甘いもん食えるようになれよな。デザートまでいけるようになれば、いっちょまえなわけ」

 アキは素直に感心した。いつかプロになって互いにコース料理を食えるようになること。ワカは常々それを目標に練習に励んでいるのだ。

「しかしあのマッチなわけ!あの技のやり方どーなってんのかなー、他のニュースに動画上がってるかな?」

「あ、僕も調べてみるよ」

 スマフォを取り出そうとして「そーだったまだ寮監が預かってるわけ!取り返してこなきゃな!」と嘆くワカにつられて、アキは限界ギリギリに引き伸ばされた自分のズボンのポケットを探ろうと苦心する。

 そして「あ。」と頭を上げてワカの後ろを見やった。

「ん?」

 外壁の大時計とは比ぶべくもないが、二階の壁にも時計がかかっている。その時刻はもうすぐ午後5時半になることを教えていた。

 それ伝えるや、ワカも鱗を立てて焦りだした。

「いつもの調子でいたけど、そっか、今日は寄り道してたんだもんな…てことは、ここから寮まで走れば15分てわけだから…もう出るぞ、アキ!」

 二人の竜人は中国茶を慌ただしく口にする。ゴクゴクと喉を鳴らしてぬるくなったポットの中身を綺麗に飲み干し、ほとんど駆け抜けるように会計を済ませて表に出た。

 せかせかと足を動かしながらワカは隣のアキに忠告する。

「とにかくもう、あんなことはごめんだからな。てか困る前に俺に連絡しろよ。…ま、今回は俺も自分の携帯持ってなかったけど。警察呼ぶとかもできただろうし。なんのために携帯を持たされてんのかよく考えろってわけ」

 アキは走るよりは楽なものの、それでも必死に競歩でついていく。

「持たせてくれてるのは、買ってくれたお母さんだし、困っている人がいるのを見過ごしたら…その人が困っちゃうよ」

「こ・の・馬・鹿・た・れ」

 白竜人が、黒竜人のプニプニとした頬を歩きながら器用に両手で潰す。

「だから・門限破って寮監に怒られんのは・誰だって・言ってるわけ!!」

「…ワッひゅん…」

 かなり苦しいこじつけだが、とにかく念を押しておくに越したことはないとワカは思っている。

「そ。だからアキもな、お人好しは大概にしとけってわけ。自販機の下の小銭とか、管理会社に連絡すればいいだろ」

 本当はそんなことをしても管理会社は困るだけで何もしてはくれないだろう。ワカはそう胸の中でひとりごちる。

 しかしこうでも言わないと、この親友は絶対に同じ状況で同じことを繰り返す。絶対にだ。

 今も目の前でこれだけしつこく訴求しているにもかかわらず、

「んぎぅぅぅ、んぎぅぅぅー」

 と容量の小さいというか、お幸せワールドのお花畑の肥やしになっている脳味噌をさかんにひねくっている。

 ようやく「分かったよ」という返答が大きく裂けた口から聞けたのは、たっぷり5分後だった。

「一人で先に行ったのだって、どうせまた先輩にいびられてショボくれた顔を直す時間が欲しかったわけなんだろ」

「図星…!どうして?解るの?テレパシー!?困っちゃう」

「分からいでか。アキの性格上それしかないわけ!」

 目を「の」の字にして度肝を抜かれる黒竜人を見返す白竜人は、半ば以上馬鹿にした半目をしている。

「とにかくまた明日も部活こいよ。せっかく少しずつスタミナできてきたんだし、休みやがったらぶっ殺すわけ!!」

 アキは俯いて記憶の痛みを反芻する。

 レスリング部の練習の後、ロッカールームで先輩から散々にいびられたこと。同輩の誰も助けてくれなかったこと。シャワールームで独り、嗚咽を殺すために最大に開いた湯と水の滝に打たれていたこと。泣き腫らしてションボリした顔を見せたくなくて、顔が元に戻るまで時間を稼ごうと、勝手に先に帰ったこと。

 この親友は、そのことごとくを見抜いていたのだ。寮生活者への割り当てでコーチから申しつけられる雑用をこなしてから、身勝手に先に行った自分を心配して、早く追いつこうとしてくれたんだ。

「…ワッくんて凄いね。色んなこと分かるんだね」

「まぁな。なんか前からこんなことばっかりしてたわけもあるぜ」

 往来する車のライトが二人の急ぐ影を揺らす。

「そういやぁ、あいつもどうしてっかな…」

「あいつって?」

「だからいま話したろ。この俺が昔つるんでた幼馴染」ぎひひっと、意地悪の笑顔を張り付かせてアキを指差す。「やっぱお前みたく臆病でさ、泣き虫小虫だったわけ」

 白竜人の声の中に、懐かしさ以上のものをしっかりと感じて、黒竜人は自分の胸に涌き出でる嫉妬を隠した。

「…いいなぁ…そのひと」

「ん?なんか言ったか?」

「…ううん、なんでも…………ねぇワッくん、そのひとって、今でも連絡しあったりして」

 遠くで寺院の鐘が鳴った。雷に撃たれたようにワカは色を失う。

「うわマッジ?もう6時かよ!寮監に殺される!!」

「あっ、あのワッくん、そのひとのこと」

「悪いなまた明日!」

 アキよりもややしなやかで平べったい尾をもろともに翻して走り出そうとして、ワカは「アキお前、マカロンの屑くっついてるわけ」と呻いた。

「えっ、どこ?」

 思わずこそげ落とそうと袖を上げるアキ。

「わっバカこすんなよ勿体無い!俺がもらう!」

 言うが早いか白竜人は相手の黒い頬にむしゃぶりつく。その勢いがつきすぎていたのと唐突な行動に驚かされたのとで、黒竜人は街路樹に倒れ掛かってしまい押し付けられた。

 いわゆる壁ドン、ならぬ木ドンである。

「ひゃ…やめてよワっくん、こんなことしてんの、おかしいよ」

「うるせぇ暴れんな取りこぼしちまう。いいか、ショコラの中には百万人の神様がいるんだぞヒョコラほひゃかひひゃひゃふひゃんひんひょひゃひひゃひゃひゃひふんひゃひょ

「そ、そんなことどこの人が言ったの…あぅっ」

 敏感な顎関節のあたりを生温かく湿った舌で執拗に舐められて、悶える黒竜人。

「いま俺が言った。で、綺麗になったわけ」

 ほんの数秒の出来事だったが、アキの腰が砕けるのには十分すぎた。

「じゃなアキ!また明日な!絶対来いよ!!」

 ばいびー、ぎひひ!と豪快に人波とぶつかりながら離れていくワカ。

「もう…言わせてもくれないんだから…困っちゃうなぁ…」

 トリケラトプス系の白い頭を、アキはいつまでも見送る。右の拳を当てたその厚い胸板の奥では、小さな猛獣のような心臓がいつまでもタンゴのリズムを打っていた。



 🌝



 帰宅したアキが投げつけられた言葉は、玄関先に仁王立ちで腕組みをしている母からの

「どこへ行っていたの」

 という詰問だった。

「えとね、揚々酒家…今日は唐揚げ食べてきたの。美味しかったよ」

「そう。で、誰と一緒に」

 オレンジジュース色の常夜灯が闇をすっかり払拭しているというのに表情が読めない顔の奥から、凶々しい眼光が射かけられる。

 端正な顔立ちのアキの母、寺野テテは、ウミヘビ系の竜人の縞模様が美しい顔に白粉ではなく冷徹をまぶしていた。

「えと、ワッくんと。…部活でね!落ち込んじゃうことがあって、それで僕を慰めてくれたんだと…思うよ」

 アキは、この母の前ではなぜか口癖が出ない。背を伸ばした水仙のように華奢で可憐な母親を、おずおずと窺う息子は、大柄な体躯なのに彼女の膝下までしかないように見えた。

「そう。ただ寄り道してたわけじゃあないのね」

 こくん、とアキが頷く。

「天野くんと、お茶してたのね」

 また頷く。

「メールの一本も打たずにね」

 メールで知らせておくのをすっかり忘れてしまっていたことに気がついて、アキは心中蒼ざめる。理由が分からず帰りが遅くなることがないように、用事が出来た時にはお互いにメールを打つ。それが寺野家のルールだったのではないか。

「ごっ、ごめんなさい、お母さ」

「心配かけるねえあんたは!」

 テテは早速涙ぐむアキを思い切り抱きしめた。170センチはあろう相手にぶら下がるような形ではあったが。

 どぎまぎする息子の黒い鱗に覆われた頭を男親がするように乱暴にこすり、熱を持たせてからかう。

「そうか、部活帰りに悩み事の相談会ね!いいねいいね、青春だね〜!」

「せ、せーしゅん?なんかよく分かんない…ごめんなさい…」

「いーのいーの。若いうちは分かんないもんよ。あんたが私ぐらいに大人になったときに振り返ってこう言うの。『ああ〜あの時は俺も若かったなぁ〜」って、ね!」

「そうかなあ、言うのかなあ、僕……あといつから自分のこと『俺』って言うようになるの?」

「そうね、とりあえず大事なところに毛が生えたらなんじゃない?」

 母親の返事に赤くなる息子の背中を叩き、テテは暖かな光に照らされた玄関をくぐらせて、もっと温もりのある家の中に迎え入れる。

 良かった。今日も何事もなく一日が終わろうとしている。テテはアキがドアを通ってから表を一度見て、玄関の照明を落とす。

 明かりをともしておくこと。そうすれば、愛しい者は帰ってきてくれる。彼女はそう信じている。

「あ、いっけない、お父さんに挨拶しなきゃだね」

「あ、ごめんなさいまた忘れてた」

「怒られちゃうね、私達」

 そしてウミヘビ人と黒竜人は並んで頭を下げた。

「ただいま、お父さん!」

 靴箱の上の写真立てからは、コーンパイプを咥えてパイロット帽のひさしをさしあげる、まだ若いといえる壮年の男性がにこやかに見返している。テテの夫にしてアキの父。

 それはラテン系の陽気な血を感じさせるイルカ人の特徴を持つ顔。一滴たりともティラノ系の、ましてや竜人種の血を感じさせない寺野ペレその人だった。

 この日、寺野安芸は通算715回目のテテの出迎えを受けた。それは『災害』のあとこの家にやってきてからほぼ毎日行われており、家長のペレなきいま、ほとんど親子のスキンシップの儀式となっているのだった。



 🌚



 一方その頃、青山の「こおとだ・じゅうる」のテラス席では。

「くぁ〜負けたぁ〜!悔じいのう〜」

 歳不相応に身も世もなく嘆く黒紺の鬣の獅子人に対し、辛くも勝ち星をつけた白銀の鬣の獅子人は喉から胸をなぜ下ろしつつ椅子の背にもたれた。

「今回は私が前に受け持ったのよりずっと面白かった。接戦だったのがミソね」

 民族衣装の乙女が盤面に乱れたコマを几帳面に並べ直し、ボード上を整理する。

「あーあ。次の対戦はいつになるのかのう」

「それは人のみぞ知る、だよ。僕たちの都合にはお構いなしなんだから」

「やれやれ、仕方ない…とりあえず引き継ぎ役に声かけてこんとならんな」

 黒獅子人は、立ち上がった。白獅子人も両手を頭の上まで伸ばして上半身をほぐす。

「次は誰を呼び出すんだい?そろそろ愛ちゃんの番かな?」

「あんなおつむの軽いのは向かん、お断りだの。第一今日はもうこれ以上疲れたくはない…イシュタルあたりになろうて。久方ぶりの一戦を誘うついでに一献酌み交わしてこよう」

「へえ!これは珍しい。青き門も男日照りなのかい?じゃあ僕はなるたけ見目麗しいのを選んでおこう。乙女、今度の場所はどこになりそう?」

 小麦色の髪の女性は、涼しげな眉の下のコバルトブルーの瞳をまつげの下に沈めた。少し、困り顔をしているらしい。

 それで答えを悟った黒玉の鬣の壮年は、深海のように黝い内に翠の散ったまだらの瞳を輝かせた。こちらはまごうことなき満面の笑みだ。

「波乱だの。手が必要か?」

「いや、結構_____まったくあの阿呆どもは、余程大地に血を恵んでやるのが好きらしいわよ」

「うまく収めてくれんとな。一応はまだ、乙女の土地なのだしの」

 女性は言われるまでもないとばかりに、ひらりと手を振る。三人がそれぞれに席を立つ雰囲気につられてコウモリ人のウェイター、秋逸が清算チャージに寄ってきた。

 財布持ちは白獅子人だった。袖の中からやけにキラキラした札入れを出し指に挟んでひらめかす。

「領収書を頼むね。宛名は………あれっ、この国だとどう書けば良いのかな」

耄碌モーロクしてきたのかの?」

 いやらしく茶化す黒獅子人に唇を尖らす。

「やっかましいってば。だって最近の言葉って馴染まなくってさ」

「いいわけいいわけ。若者がそんなことでは未来は暗いぞい。ならばこう。これはダメなのかな、青年?」

 黒獅子人はスーツの胸に挿したペンでさらりと紙ナプキンに「上」と記した。ウェイターは、それは現在では正しい書き方とはされていない、お客様のお名前か法人名でなければ…と困惑する。

「ほお、そうなっとるのか。日本語の読み方だとこれでぴったり、怪しくもないと思っておったのに」

「…あんた、これの読み方は判るの?」

 やりとりに参加してきた乙女に対し、黒獅子人は「ああ無論のう」と自信たっぷりに頷き「…サマであろ」とかなり単純にして明快な間違いを口にした。

 ここでウェイター青年、激しくむせる。外国人にありがちの激しいボケだと思ったのだ。

「あんたもあんたで生半可な知識じゃないの…これはウエサマと読むの」

「あぁもう、真剣勝負の後でグダグダするのはかったるいよ。乙女、君に任せる。詳しいんでしょこの国の言葉に」

「しょうがないわね、分かったわよ。これも仕事のついでだから任されてあげる」

 女性が黒獅子人のペン(羽ペン型だが内部からちゃんとインクが分泌される構造らしく、インク壺につけなくても自然と書けた…少なくとも秋逸はそうあたりをつけた)で丁寧に名前を綴る。

 今度は秋逸もOKを出した。領収書が白獅子人の白衣にしまわれると足早に三人は散っていく。

 ウェイターは誰もゲーム道具を入れるようなものを持って行かなかったので慌てて引き留める。

「あ、お客さーん!ちょっと忘れ物ですよ!このボード…」

 たった今までテーブルに出されていたバックギャモンの盤は、まるで机に吸い込まれたか空気に溶けたように跡形も残っていなかった。

 店の前に横たわる一本道にも、三人の姿は既にない。地下鉄の出入り口も他のビルも脇道もないのに、あまりにも早い退場。

 そして彼の手には領収書の宛名の転写が残された。そこにはこう書かれていた。

『松田』と。

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