ナレーター (X+14年 7月-8月)
「わたし、ひっこしたから、住所を知らせておくよ。」
「この住所は、大学と駅のあいだなんですね。」
「大学の保育所に子どもをあずけるし、だんなは電車で通勤だからね。ひろ子さんはこの近所なのかな?」
「今は大学のそばのアパートを借りていて、そこからならば、岬先生の新しいお宅まで歩いて行けます。でも、今のアパートは、子どもがいていけないことはないのですが、壁が薄くて、夜、あかんぼの泣き声がきこえたら、まわりがいやがると思うんです。それで、ひっこし先をさがしているんですが、この近くで壁の厚いアパートは家賃が高いので、ちょっと遠くでさがすしかないかな、と思っているところです。」
「それなら、うちに来たら? うちは、3人から4人になるわけだけれど、母が --だんなの母親なんだけど、わたしを養子にしてくれた人がね、退職したらいっしょに住むかもしれないし、子どもたちが大きくなると子どもべやがほしくなるだろうから、広めのところにしたんだ。でも、母は仕事をつづけるあいだは同居しないし、子どもべやもすぐには いらないから、あきべやがある。下宿人をむかえようかと思ったところだった。ひろ子さんなら、家賃なしの
「うますぎる話ですけど、ほんとなんですね。」
「だんなに了解してもらわないといけないし、あなたもうちを見てから決めたほうがいいだろうから、今度の日曜日、うちに来てくれるかな? ふだん着でいいよ。手みやげなどの心づかいも無用。」
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
「ひろ子さん、だいぶうちとけてきたね。」
「なにか、失礼なことを言ってしまったでしょうか?」
「かしこまらなくていいのよ。ここはあなたのうちでもあるのだから。ただ、あなたがはじめてわたしに会ったときの話しかたを思いだして、あのときはずいぶんあらたまった話しかたをしていたな、と思って。けっして「いんぎん無礼」というわけではなくて、感じはよかったよ。あの話しかたは、親ごさんのしつけなのかな?」
「いいえ、いなかにも敬語はあるんですけれど、わたしはならいませんでした。国語科の学生になったので、話しかたに興味がわいたんです。日本語学の授業の音声学のところのNHKのアナウンサーの標準の発音とか、演劇の授業の発声練習で息を強くしないでよく聞きとれる声をだす方法とか、おもしろくて、ふだんも、ためしてみたくなるんです。」
「若いながら専門家なんだね。まあ、そういう意味では、わたしも、大学にはいったときにはもう理科の実験の専門家だったんだけど。ほんものの専門家からみたら、とても変なこともやってたけどね。」
「教員養成課程ではあるけれど、職業としては、アナウンサーになりたいと思いました。でも、子持ちになって、たぶん留年することになって、就職の入り口にたどりつくのがむずかしくなってしまいました。」
「楽観はできないけれど、名まえの出る実績をつくっておくと、買ってくれるところもあるかもしれないね。待てよ...」
「なにを待ったらよろしいのでしょうか。」
「文字どおりの解釈による応答をされましたね。待てという命令はわたし自身にむけたものだったのですが...。ひろ子さんのその専門能力、使えるかな、と思ったのよ。
話がちょっと複雑になるけれど、こちらの事情を話すね。教育大学では、学校で使ってもらうビデオ教材をいろいろ作ってる。わたしは理科の実験の教材を担当してる。たとえば、波と波がぶつかるとどうなるか見る実験とか、ね。実験の撮影は美術教室の望月先生のお弟子さんがやってくれた。録画したあとで、ここでこういう実験をやっています、こういう現象が見えてきました、というナレーションをつける仕事がある。わたしが自分でふきこんでみたんだけど、聞きとりやすくない。劇団の人に請け負い仕事でやってもらおうという話になった。原稿を読んでもらうだけですめば、それでもいいんだけれど、画面でみえる現象にこまかくあわせるには、わたしがつきそっている必要がある。わたしが劇団の人と日程をあわせるのがむずかしくて、計画がとまってしまった。いま思ったのだけれど、ここにビデオとマイクを持ってきて、ならんですわって、ひろ子さんに読んでもらうというのはどうかな。何度も読みなおしてもらうことになるけれどね。作業時間ぶんの時給は出せるよ。」
「おもしろそうですね。産前産後はアルバイトはできそうもないな、と あきらめていたのですが、ナレーションならできます。発声練習のおかげで、おなかにあまり負荷をかけずに声を出せるのです。あかんぼが泣くと録音が進まなくなるから、おなかにいるうちに早く進めたいですね。」
「そうだ。わたしは産休中、アルバイトを雇う仕事ができないことになっているのだった。望月先生に雇い主になってもらわないといけない。いちど来てもらって、顔をあわせましょう。産休をとるべき時期のあなたを働かせるのも変なのだけれど、そこは事務ではチェックされないだろうから、実質的にあなたのからだにつらくなければいいでしょう。完成したら、ビデオの最後の製作者一覧に、ひろ子さんの名まえも出せるよ。そこを読む人はまずいないだろうから、名まえの出る実績としては、とてもささやかなものだけれど。」
岬 顕巨鏡 @macroscope
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。岬の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます