八月の約束

銀葉

第1話

 白い雲の海が広がっている。太陽がいつもより近くて、力強く輝いている。口の中に含んだ飴玉がコロコロと音をたてる。ヘッドホンから流れる音楽を聞きながら故郷のことを思う。


 たった一年、帰らなかっただけで、こんなにも懐かしく思うのはなぜだろう。あと小一時間ほど経てば実家に着くというのにどこかそわそわして落ち着かない。両親は元気だろうか。友達は何をしているだろうか。


 野球のためにスポーツ留学をして、地元を離れた俺は、盆休みを利用して、飛行機に乗って故郷へ帰っていた。地元では、類を見ない実力を持つピッチャーだった。だから、都会の名門と呼ばれる学校を受験し、そこに見事合格した。


 一年生のときは、地獄のような練習を耐え抜き、二年生になった今年には、出番こそ無かったものの春の甲子園でベンチ入りを果たした。俺は、今日までずっと、野球漬けの日々を送っている。これからもきっとこんな日常が続いていくのだろう。


 だが俺には一つ。重大な悩みがあった。その原因は、まだ無邪気にボールを握っていた小学生の頃にある。小学三年生になったとき、友達に誘われて、地元の少年団に入った。監督をしていた叔父さんから肩の強さと手首の柔らかさを買われて、ピッチャーになることを勧められた。


 俺はポジションの中で、一番ピッチャーになりたかったので、喜んでそれを受け入れた。甲子園出場の経験のある叔父は、俺に英才教育を施した。


 小学五年生になる頃には、エースの証、一番を背負うようにまでなっていた。その時の俺は自信に満ち溢れていて、「俺は甲子園のマウンドにエースとして立つんだ」といつでもどこでも口にしていた。

そして、ある約束をしてしまった。俺には生まれてからずっと一緒に育ってきた幼馴染がいる。兄弟のようなものだと思っていたはずなのに、いつしかそれは全く別のものに変わっていた。その気持ちを伝えようとたまたま試合を観に来ていたアイツを呼び止めた。


 結局、想いを口に出すことなんてできなくて、「俺が甲子園のマウンドに立てたら、一つだけ願いを聞いて」なんて身勝手なことを言った。アイツは何も考えずにただ「いいよ」と、笑って答えた。それが俺にとっては大切な約束だった。


 中学になって、俺は野球の強い私立中に行った。アイツは地元の公立中。それきり顔を会わせることもなく時間だけが過ぎていった。今頃、何をしているのだろうか。彼氏はいるのだろうか。五年もの間、ろくに顔も会わせていなかったのだ。俺のことなんて記憶の奥底に埋もれてしまって、どうでもよくなってしまっているに違いない。きっと約束のことだって……。


 俺はハァっと一息溜息をついた。俺の抱えた恋の悩みは、いったいどうすれば解決するのだろうか。答えなんてどこにもない。正解がどれなのかさえもわからない。そんなことを考えていると暗闇の中でもがいているような感覚に不意に襲われる。野球しか取り柄のない俺は、窓の外に見えた故郷をぼんやりと眺めていた。


 キャリーバッグを転がしながら、オヤジの車を待つ。迎えの時間になってもなかなか来ない。じれったくなって電話をかけてみると、不機嫌そうな声が聞こえてくる。


「健介か、あぁ、今日帰って来るんやったな。わりぃ、わりぃ、忘れとったわ。バスかなんかで帰ってきぃ」


 無責任なことを言って、一方的に電話が切られる。虚しくツーツーという音だけが聞こえる。それから一時間くらいバスに揺られていた。懐かしい景色が現れては消えていく。まるで思い出のように……。

 窓に映る俺の顔には暗い影が落ちているように見えた。


 家の前のバス停のベンチは色褪せていて、かつての姿を思い起こすことはもはやできない。故郷の匂いが鼻をくすぐる。懐かしいはずなのにどこかに違和感を覚える。見たことがあるはずなのに、初めて見るような感覚。故郷を離れてから初めて、その魅力に気が付くのかもしれない。牛の鳴き声が遠くから聴こえてくる。バス停からしばらく歩くと、実家の門が見えてくる。


「ただいまー」


 間延びした低い声が、庭に響く。返事が帰ってくる前に、玄関のドアを開けて、家の中に入る。靴を脱ぎ散らかして、リビングへ向かう。俺が、部屋に入った瞬間、破裂音が響き渡る。色とりどりの紙吹雪が舞い散って、俺の頭の上に積もる。


「ケンちゃん、おかえりー!」


 大きな声が部屋に響く。そこには母と父、叔父さん。そして、アイツが、幼馴染がクラッカーを持って、嬉しそうに立っていた。


「健介、去年は帰って来んかったから、寂しかったんよ?」


 母が喋りながら、ハンディ掃除機を取り出して、床に落ちた紙くずたちを吸い取っていく。オヤジは用意してあったご馳走を、台所からテーブルまで運んでくる。叔父さんは、コップにジュースやお酒を注いでいる。そして、アイツは俺のことをじっと見つめている。


「あ、えっと、梨花、久しぶりやね」


 口篭りながら、もごもごと呟くように言う。


「そーやよ。ケンちゃんと中学も離れ離れやったんし、ちょーつまらんかったんよ」


 少し拗ねたような顔をして、梨花はそう言う。口を尖らせているように見えるのは気のせいだろうか。


「健介、梨花ちゃんに言わずに都会へスポーツ留学したやろ。高校になったら健介と会えるって楽しみにしちょったらしいが」


 母も怒ったような口調で俺を咎めてくる。それは俺のせいじゃないだろう、なんてぼやきながら、小皿をテーブルに並べる。


「あ、そやそや、ケンちゃん、あっちにはいつ帰るん?」


 梨花は、テレビのリモコンをいじりながら、俺に訊ねてくる。


「あー、来週末かな。監督の先生がその日まで海外出張やから部活がねーんだわ」


「おー、やったら、いっぱい遊べるやん。ラッキーやわ」


 テレビを見ていた彼女がこちらに振り迎える。梨花の短い髪が揺れる。楽しそうに笑う彼女はあの日笑っていた少女と全く変わっていないように思えた。


『打ったー。先制のホームランです!』


 テレビから甲子園の実況中継が聞こえてくる。


「ケンちゃんのとこ、負けちゃったん?」


 マウンドの上で打球を見送った哀れなピッチャーの姿が映し出される。


「まぁ、地区大会の決勝で一点差で負けた」


 席に着きながらそう答える。先輩が投げた最後の一球がスタンドまで運び込まれる光景。自分の全身全霊を込めたボールが頭上を抜けていくとき、いったいどんな気持ちなのだろうか。


 テレビの向こうの彼は、今どんな気持ちなのだろうか。俺らのチームは、サヨナラ負けだった。先輩はマウンドに泣き崩れて、その周りにチームメンバーが駆け寄ってくる。審判の号令で、整列をするけれど、先輩たちは泣きじゃくるだけで、声なんて出ていない。


 夢の舞台へ上がれなかった役者たちはいったいどんな気持ちなのだろうか。それが俺だったら、考えるだけでゾッとする。たった一回の投球でチームの運命が決まる。その過酷な責任を負わされたのがピッチャーというポジションなのだ。だからこそ俺はそれを誇りに思う。


 チームのみんなの想いを託されている存在。チームの中心となる絶対的存在。俺はその存在に強く憧れた。そして、来年はその役を全うしたい。最後の夏なのだ。今年は出番すら与えられなかった。ギュッと拳を握り締める。


「どしたの、ケンちゃん。顔が怖いよ?」


 梨花が俺の目を覗き込むように見てくる。ハッと我に返って、慌ててて顔をあげる。


「いや、ちょっとね……」


 そう言って、誤魔化しながら、目の前にある料理を食べ始めた。

 もっと練習しなくちゃ、約束も果たせない。たとえ梨花が約束を覚えていなくたって、俺はマウンドに立ちたい。テレビに映る甲子園のマウンドを見つめながら、そう心の中で誓った。


 それから、親たちとだらだらと過ごし、涼しい夕方になった。


「オヤジ、俺ちょっと公園に行ってくる」


 グローブとボールを持って、近くの公園に行く。コンクリートの壁に向かって、何球かボールを投げ込む。まだ球速が足りない。これではまだ甲子園では通用しない。自分の中での焦りがどんどん大きなっていく。


 まだ足りない。もっともっと練習しなければ。しばらく投げ込んだあと、体を痛めないようにストレッチを入念に行う。そして、ボールなどを片付けて、そのまま走り込みを始める。グラウンドを二十周くらいしたら、今度は体幹トレーニングをする。


 少し疲労感が溜まって、休憩をしていると、チャイムが流れ始めた。もう七時か。そろそろ家に帰ろう。軽く整理運動をしてから、家に向かう。空にぼんやりと浮かぶ月はなんだか幻想的だった。


 家に着くと、庭の縁側に梨花が座っていた。すぐそばで蚊取り線香を焚いている。独特の匂いが辺りを漂っていて、鼻をツンとつく。


「ケンちゃん。お疲れさま。そーいえば、うちのお父さんがね、今日はケンちゃん家に泊まってけって……。子供じゃないんだから、やめてほしいわ」


 ショートパンツに薄いTシャツを着た彼女が、少し不機嫌そうにそう呟く。でも少しだけ、笑っているような気もして、なんだかよくわからない表情だった。


「部屋は俺の使ってたところが空いてるやろ。俺はリビングのソファで寝るわ」


 そう言って、玄関に荷物を置く。そして、縁側の方に行って、彼女のちょっと離れた場所に座る。


「何年ぶりけ。こうやって話すの」


 梨花の声が庭に静かに透き通っていく。


「五年かそこらやな。ごめんな、勝手に留学とか決めて」


 今日の昼のことを思い出して、少し苦しくなる。俺は自分勝手に約束をして、それを叶えるために、彼女に寂しい想いをさせた。自分のことばっかりで、結局誰も思いやることができない。俺は、自分のことが嫌いになった。憂鬱な気分になる。視線が地面へと落ちる。


「別にええよ。ケンちゃんから野球取ったら何が残るん?」


 俺は「はは、なんも残んねぇや」なんて言って笑うしかなかった。彼女もクスクス笑っている。


「あー、空が綺麗やー。星がたくさん見えるわ。都会は光が多すぎてなんも見えんでよ」


 俺は無理やり視線を上に向けて、空を眺める。まだ空の端は少しオレンジ色で明るい。だけど、もうすぐ夕方も終わる。消えていく光を補うように、星と月の明かりが一層際立つ。


「ええなー。うちも高校出たら都会に行きたいわ。あ、流れ星や。ほら、あそこ!」


 梨花も空を見上げてはしゃぎ始める。止まっていたふたりの時間がゆっくりと動き始めたような気がした。


「ケンちゃん、そいえばさ、来週祭りあるんやけど、一緒行かん? 小学校の同級生たちも来るから、息抜きがてらに」


 梨花がこっちに近づいてくる。


「あぁ、ええよ。別にすることもないし」


「わかったー。じゃあ、約束よ?」


 約束、という言葉がチクリと俺の心を刺した。覚えているか聞いてみたい。でも、あの頃のように、やっぱり勇気がでなくて、そのことを聞きそびれてしまう。


 俺は、彼女にとってはただの幼馴染なのだから。彼女は、俺のことを異性として見ていないのだから。俺がそうだったように、兄弟みたいな、家族みたいなものだと思っているから。だから、その関係を崩してしまいそうなその言葉を、想いを告げることはできなかった。


 そして、約束の日。親からいくらかお金を貰って、祭り会場まで足を運ぶ。

 時計塔の下に、浴衣を着た梨花が立っている。


「もう遅いわ。普通女の子が遅れてくるのが普通や」


 少しだけ唇を尖らせて、そう抗議してくる。少女漫画の読みすぎだろう、なんて思いながら、「ごめん、ごめん」と謝る。


「もう、しっかりしぃ。じゃ、いこうか」


 そう言って、俺の左手を握って、歩き出す。俺は顔を真っ赤に染めながら、祭りの群衆に紛れていった。



 しばらく、出店を見て回った。射的、金魚すくい、くじ、ヨーヨー釣り、定番のモノはだいたい回った。お面屋で昔の懐かしいキャラクターのものを買って、互いに付け合う。たこ焼きを頬張っている彼女を眺めて、今というこの一瞬が思い出となって風化していくことを悲しく思った。昔のことなんてハッキリと覚えていられない。肝心なこと、大切なことだけが抜け落ちていく。そのくせどうでもいいことだけは残っていて……。


「梨花、今年も花火ってやるん?」


 俺は、少しだけ唇を噛んで、言葉を紡ぐ。


「うん。今年は去年より、うんとでかいやつが上がるって。うち、楽しみやわ」


「じゃ、場所取り行かん?」


「えー、まだ食べたいわ。ほらあそこにまだポテト売ってるやん」


 強ばった表情の俺と、楽しそうで柔らかな表情の梨花。彼女は屋台を指差してそちらにグイグイ進んでいく。


「わかったよ。じゃあ、それで最後な」


「はいはい。あ、りんご飴や、あれも食べたいなぁ」


「キリがないやろ……」


 マイペースな梨花を見ていると、緊張している自分が急にバカらしく思えた。彼女なら俺が何を言おうと、告げようと受け取めてくれるに違いない。あとは俺が勇気を出すだけだ。



 もうすぐ花火が上がる。俺は小学校の頃、よく使っていた球場の近くに来ていた。そこで、梨花と約束したのだ。思い出となって風化したその場所に再び彼女と訪れていた。


「どしたん? ここ、祭り会場から離れてるやん」


「まぁ、気にすんなよ。てか、梨花、ここでお前に言ったこと覚えてるか?」


 彼女は首を傾げて、考え込む。


「えーと、小学校のころ、やっけ? なんか甲子園がなんとかーってやつ」


 覚えていてくれた。いや、正確には覚えていないのだろう。そういうことがあったという認識だけだ。彼女にとってはどうでも良くって、俺にとっては大切なもの。


「いや、それでさ。来年の甲子園、観に来てくれんか? 甲子園のマウンド、絶対に上がるから」


 俺は真っ直ぐに彼女を見つめる。


「ええよ。そのかわり、カッコ悪いとこ見せたらただじゃ済まさんよ」


 俺の雰囲気から察したのか、少しだけ真面目な顔になって、こくんと頷く。


「じゃあ、もう一回約束な」


「わかった」


 俺の小指と彼女の小指が結ばれたとき、大きな花火が一つ、打ち上がった。次々に夜空に花が咲いていく。色とりどりの花々は、咲いてはすぐに消えていく。まるで、思い出のように。きっと、この約束だって、思い出となって消えてゆくに違いない。


 思い出が消える度に、心のどこかに寂しさが残る。悲しみや喜び、怒り、それらが全部忘れられても、寂しさだけがずっと心に残る。消えない染み跡になって、ただぼんやりとそこに残る。いったいそれがなんだったのかさえも、わからなくなって、それでもそこに何かがあったことだけを教えてくれる。きっと、そんな風に今日のことも消えていくのだろう。俺は、散りゆく花火を見つめながら、そっと涙を零した。


 最終日、バス停までの道のりを梨花とともに歩いた。またあの野球漬けの日々に戻っていくのだろう。今日は左手が空いている。自分から繋ぐことも、彼女から繋ぐこともない。一方通行のこの気持ちが届くこともない。


 この日のことも、いつか色褪せて、次第に思い出せなくなってしまうのだろうか。遠くにバス停が見えてくる。この時間ももうすぐ終わる。俺は結局、何も言えなかった。花火の時も、あの試合のあとも、俺はあと少しの勇気が出なかった。あと一歩踏み込めば、手に入れられたかもしれないのに、その関係が壊れることを臆病に恐れている。


 何か話そうと思って、口を開けては閉じる。言葉が何一つ思い浮かばない。また彼女と会えなくなるというのに、無言のまま時間だけが過ぎていく。バス停に着くと、すぐにバスがやって来た。


 これで彼女ともお別れだ。これっきり会えないかもしれない。それを知っていながら、それでもなお、俺の口から出たのはくだらない一言だった。


「じゃあ、元気でな」


「うん。ケンちゃんもね」


 彼女は少しだけ寂しそうに、でも笑って、小さく手を振った。胸のどこかが小さく疼く。何か言いたいけれど、やはり口は開かない。俺も小さく手を振り返して、バスに乗り込んだ。窓側の席に座って、バス停で俺を見送っている梨花を見る。


 プシューっと音をたてて、バスの扉が閉まる。ゆっくりと景色がずれていく。梨花の口が小さく動いた。窓に遮られて、声は届かない。それでも、彼女の唇が伝えたその言葉は、俺の胸に深く刻み込まれる。


『いかないで』


 後ろを振り向かえれば、バス停に一人佇む彼女がいる。うつむいているせいでいったいどのような表情をしているのかわからない。ただどうしても俺は前を向きなおすことはできなかった。梨花はなんであんなことを言ったのだろうか。それだけが気になって、ずっと後ろを向いている。彼女が見えなくなってしまっても、ずっと。


 なんだかよくわからない違和感が胸を締め付ける。気分を紛らわすために、鞄からスマホを取り出そうとする。ゴソゴソと中身を探っていると、見慣れない一枚の紙が、はらりと床に落ちた。気になって、俺はそれを拾い上げる。広げてみると、見慣れた文字が丁寧に綴られている。


『ケンちゃんへ

  うちは素直に自分の気持ちを言うのが苦手やから、こうやって手紙に書いて、伝えるね。うち、ずっと寂しかったんよ。いつも一緒にいたケンちゃんが急にいなくなって、初めて気づいたんや。恋してるって。兄弟みたいに思ってたはずやのに、いつの間にか、違う気持ちに変わってた。伝えたくてもな、この気持ち、伝えてしまったら、ケンちゃんとうちの関係が壊れてしまうような気がして言い出せんかったんや。でも、そんな弱虫なうちは今日で終わりや。ケンちゃんの夢が叶ったら、うちのお願い一つだけ聞いてな。あと、夏祭り、一緒に手を繋げて良かった。うち、頑張った甲斐があったわ。ケンちゃんはいつも、うちのワガママに付き合ってくれて、いつも優しくしてくれて、そして、いつも自分の夢に向かって頑張っとる世界一カッコイイ男の子や。だから、約束、守ってな

                梨花』


 胸の奥底がじんと熱くなる。彼女の気持ちが心の中に溶け込んでくる。痛いくらいによくわかる。俺もずっと同じだったから。近すぎるから、その感情を伝える言葉の意味が、とても恐ろしく感じた。一言で、俺たちの関係を壊してしまうその言葉が。


 本当は、甘美で、崇高な言葉に違いないけれど、その言葉が、俺らを幼馴染というものに縛り続けていた。でもやっとわかった。俺が何をして、どの答えを選べばいいのか、やっとわかったのだ。「いかないで」と言った梨花の気持ちも、全部。


 帰り道、だんだん遠くなっていく故郷をずっと眺めていた。


 そして、一年後。俺にとって最初で最後の夏を、約束の夏を迎えた。先発のピッチャーが疲れを見せて、立て続けにヒットを打たれる。


 リリーフとして、黒い土を踏みしめて、太陽の輝くマウンドへ上がる。夏の甲子園、決勝戦。六回裏。三対二でまだ俺たちのチームは勝っている。背負っている一番という文字が俺を奮い立たせる。


 たくさんの観客の声が球場を盛り上げている。相手バッターは四番。いきなり強敵との戦いだ。そっとグラブの上から左手を撫でて、ボールを握り、そして、右腕を大きく振るう。ノビのあるストレートがキャッチャーミットに吸い込まれていく。審判の「ストライク」と言う声がグラウンドに響いた。


 そのあとも、ヒットこそ打たれたものの、順調に虎の子の一点を守り抜き、迎えた九回裏。二人を三振に抑えて、迎える二回目の四番バッター。


 額から汗が吹き出る。これで泣いても笑っても最後だ。全身全霊を込めて、一球目を投げる。唸りをあげた右腕から放たれたボールは、キャッチャーミットへ真っ直ぐに向かっていく。時速150㎞程のストレート。相手もバットを力強く振り抜いた。


 カキーンと痛烈な打撃音が響いて、俺の頭の上を白球が通過していくのが見えた。








「ケンちゃん、お疲れさま。かっこよかったよ」


 前に会ったときよりも、随分と髪の伸びた梨花が球場の外で待っていた。


「ありがと。今日は見に来てくれてありがとな。優勝できたのは、お前のおかげや」


 あのあと、ボールはセンター真正面に飛んでいき、無事アウトになった。チームからは大歓声が起きて、整列して挨拶をしたあと、監督を胴上げしたり、部員同士で、甲子園球場の前で記念写真を撮ったりした。そして、今、ホテルへと帰るまでの少しの間、待ち合わせしていた場所で梨花と二人きりだ。


「約束、守ってくれてありがと。じゃあ、うちのお願いを言うな。えっと……」


 梨花は恥ずかしそうに身をよじっている。俺も心臓がバクバク音を立てている。俺も覚悟を決めよう。さぁ、言葉を言おう。約束が忘れられてしまっていたとしても、今なら大丈夫だ。きっと、届く。


「「俺と(うちと)付き合って」」


 自然とその言葉は口から出てきた。俺と彼女の視線がぶつかり合う。でも、すぐに気まずくなって逸らしてしまう。どちらも、恥ずかしさのあまり、モジモジとしていると、俺の両親と梨花の両親がやってきた。


「おぉ、おった、おった。梨花ちゃん、ちゃんと言えたんか?」


 オヤジがデリカシーのないことを聞いてくる。俺は溜息をついて、キッとオヤジを睨みつける。


「悪い、悪い。オッサン達は退場するわ。あとは二人で仲ようしてや」


 下品な笑い声を上げながらオヤジ達はどこかへ行ってしまう。たぶん、駅かどこかだろう。オヤジ達のおかげで、緊張の解けた俺は、梨花にまっすぐ向き合う。


「俺から言わせてや。梨花、ずっと好きやった。俺と付き合ってくれ。幼馴染っていう関係じゃなくて、俺はお前と恋人になりたい」


 梨花は、目の端に涙を浮かべながら、小さく頷いた。


「うちもずっと好きやったよ。うち、今日だけは絶対忘れん。忘れられんわ」


 そう言って、微かに笑った。思い出はいつか消えてしまうものだ。でも、君が思い出とならずに、ずっと隣にいてくれたら、たぶん俺は一生忘れない。今日の日のこと。今日の日の嬉しさ。今日の日の喜びを。そして、大好きな彼女の笑顔を。


「俺も忘れんよ。忘れたくない」


 そう言って、彼女の唇にそっと自分の唇を重ねた。

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八月の約束 銀葉 @YuNON1999

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