十月一日のアジフライ

RAY

十月一日のアジフライ


 堅固で重厚な造りの製鉄所や造船所が立ち並ぶ、とある臨海部の工業地帯。

 明治時代の大規模な埋め立てにより産声を上げた、このエリアは第一次世界対戦の軍需により急速に発展する。その後、関東大震災や東京大空襲によりダメージを受けたものの着実に復興を遂げ、高度経済成長の立役者としての役割を果たした。

 穏やかな海をバックに真っ黒な煙を吐き出す煙突群は「要塞」といった形容がピッタリで、その景色を目の当たりにした者はひと昔前にタイムスリップしたような錯覚に陥る。


 そんなエリアにひっそりとたたずむ、一軒の定食屋。

 昭和の時代を彷彿ほうふつさせる、木造の外観にカウンター席が十二席のみのこじんまりとした店内。タイムスリップを思わせる風景としては申し分ない。

 メニューは珍しくもない揚げ物の定食が三種類あるだけ。それでも、昼どきになるといつも店内は満席となり、外には順番待ちの行列ができる。


 チャンネルが付いた、骨董品のような小型テレビから国営放送の昼のニュースが流れ、今にも寿命を全うしそうな、年代物の扇風機がぎこちない音を立てて首を振る。

 そんな中、カウンター内では、六十を過ぎた寡黙な店主が禿げかかった頭にタオルを乗せ、玉のような汗をきながら揚げ物と格闘している。

 狭い店内を盆を持って行ったり来たりしている、小太りの女は店主の連れ合いで、屈託のない笑顔から人の良さがうかがえる。


 店を始めたのはかれこれ三十年前。店内の様子は長い時間ときを経ても何ら変わっていない。常連客の多くは、そんなに惹かれてしげく足を運ぶ。

  

★★


「オヤジ! アジフライ二つだ!」


 時刻が十二時を回った頃、店内に高圧的な声が響く。

 声の主はダブルのスーツを着た、初老の男。カウンターの隅の席で身体を斜めにして足を組んでいる。

 オールバックの髪には白いものが目立ち、目の下の黒いくまと右側に曲がった口元を見る限り、お世辞にも人相が良いとは言えない。

 隣の席には、紺色の真新しいスーツに身を包んだ、若い男が、緊張した面持ちで背筋をピンと伸ばして座っている。まさに「対照的な二人」という表現がぴったりだ。


 女が二人の前に麦茶の入った湯飲みを差し出しながら注文を確認する。忙しさがピークを迎えている時間帯でもあり、口調も自然と早口になる。


「相変わらず、愛想の欠片かけらも無い店だ」


 男は首を左右に振りながらヤレヤレといった表情を浮かべる。

 そんな男の態度に迎合するように、若い男が相槌あいづちを打つ。


「でもな、ここのアジフライはいけるぞ! 店員は食えないが、アジフライはしっかり食える店ってわけだ!」


 男は麦茶で喉をうるおすと、店中に聞こえるような大きな声で笑う。

 揚げ物をする店主の目がギョロリと男をにらむ。


「か、課長代理、入社初日からそんなに美味しいものが食べられるなんて、自分は幸せ者です。連れて来ていただきありがとうございます」


 若い男は店主の顔色を気にしながら控えめに言うと、何か珍しいものでも見るかのように店内をぐるっと見渡す。

 店内にいるのは作業服姿の労働者ばかりで、スーツを着た自分たちは明らかに浮いている気がした。


 真新しい紺色のスーツに身を包んだ彼は、十月一日その日に入社したばかりの新入社員フレッシュマン


 最近は秋入社を導入する企業が増えている――理由は、国外の大学を秋に卒業した学生や能力はあるものの春にほとんど就職活動ができなかった学生を確保するため。

 公務員試験の勉強をしていたことで就活に乗り遅れた彼はまさにそのたぐいで、十月一日その日は配属先の上司に連れられて、得意先への挨拶回りを行っていた。


「いいか? 物事は見た目じゃない。中身が大事だ。要は、本質を見抜く目を養えってことだ。ただ、本質ってやつはなかなか見えてこない。営業一筋三十年の俺でさえ、最近になってようやく見えてきたものがある。いきなり俺みたいになれとは言わん。ただ、俺を目標に日々努力する姿勢は怠るな」


 酒やけしたようなが狭い店内を席巻する。テレビから流れる音声をさえぎは、他の客にとっては雑音以外の何物でもない。


「おーい! お茶のお代わりだ! お客様のお茶が無くなったぞ!」


 男は、忙しそうに動き回る女に向かって、空になった湯呑をこれ見よがしに掲げる。その態度が気になったフレッシュマンだったが、黙って作り笑いを浮かべる。


 他の客は男の横柄な振舞いを良く思わなかった――が、それ以上にフレッシュマンのことが気の毒に思えてならなかった。

 希望に胸を膨らませて社会人としての一歩を踏み出した矢先、配属されたのは、反面教師を絵に描いたような上司のいる職場。「自分を成長させるための試練」などと言えば聞こえはいいが、苦労の割に得るものがほとんどないのは明らかだった。


★★★


「アジフライ定食二つ、お待ちどおさま」


 男の独演会が続く中、女がアジフライ定食を運んで来る。

 その瞬間、フレッシュマンは、まるで呪縛から解放されたように、ホッとした表情を浮かべる。


「ここのアジフライは銚子で水揚げされた活きのいいアジを使ってる。料理の腕を素材がカバーしてるってヤツだ。腕はともかく味は保証できる!」


 男は店主を小馬鹿にしたような言葉を吐きながら声を上げて笑う。

 不意にフライを揚げる手を止めると、店主は男の顔をじっと見つめる。

 男は「我関せず」と言った様子で、アジフライにドボドボとソースをかけている。上司の様子を目で追っていたフレッシュマンは、おもむろに手を合わせて「いただきます」を言うと、アジフライにかぶりつく。


「どうだ? 結構いけるだろ?」


「はい! すごく美味しいです。こんなに美味しいアジフライを食べたのは生まれて初めてです。課長代理には感謝しています。ありがとうございます」


 フレッシュマンの言葉は大袈裟おおげさに聞こえたかもしれないが、それはお世辞でも何でもなかった。彼はアジフライを純粋に「美味しい」と感じた。素材が新鮮なのはもちろん、素材と一体となった衣の味や触感が絶妙だった。


 フレッシュマンの様子にどこか得意気な表情を浮かべながら、男はソース漬けになった、自分のアジフライをつまんで口の中へと放り込む――しかし、次の瞬間、口の動きが止まり顔に怪訝けげんな表情が浮かぶ。

 男はクチャクチャと汚らしい音を立てながら、壁に貼られた、手書きの貼り紙を食い入るように見つめる。


『小麦の高騰により材料を一部変更させて頂きます。味が変わることがあるかもしれませんが、ご了承頂ける方のみお召し上がりください 店主』


「課長代理……どうかなさいましたか?」


 恐る恐る尋ねるフラッシュマンを後目しりめに、男は湯呑を手にとると口の中のアジフライを麦茶で流し込む。そして、ゲホゲホと咳き込むような音を立てる。


「オヤジ、どういうことだ? 材料の質を落としたって……道理で不味いはずだ! 前に来たときとは味が全く違う! 客にこんなもの出して恥ずかいとは思わないのかよ!?」


 男はこれ見よがしに大声で怒鳴り散らす。

 実を言うと、貼り紙を見るまで材料が変わったことに気づかなかった。

 ただ、フレッシュマンに対し「本質を見極める目」について豪語した手前、ここで自分がを示しておく必要があった。


 店主はコンロの火を消して、頭に乗せていたタオルで汗をぬぐうと、男の顔をじっと見つめた。


「お客さん、前回アジフライを食べられたのはいつですか?」


「あぁん? 前回? 確か桜が咲く前だったな……三月の中旬頃だ。客がいつ来たのかぐらい憶えておけよ!」


 男は「呆れた」といった様子で、店主のことを鼻で笑う。


「失礼しました。この年になると、物忘れが酷くて……ただ、材料を変更した時期は憶えています。ちょうど一年前の十月一日です。前回お客さんが食べられたときにはすでに今の材料に変わっていました」


 店主の簡潔で明瞭な説明に、男は苦虫を噛み潰したような顔をする。フレッシュマンが見ている手前、振り上げたこぶしを下ろすことができずにいる。


「……そ、そうだ! 勘違いだ! 前回来たのは九月……九月三十日だ! そのときと味が全く違う! 不味くて食えたもんじゃない!」


「そうですか」


 店主は小さくため息をつく。自分の保身のために嘘八百を並べ立て、屁理屈をねる男の態度は、哀れにさえ思えた。


「確かに小麦の質は落としましたが、味は工夫してきたつもりです。ただ、お客さんにとってはNGだと言うことですか?」


「そのとおりだ! いくらフレッシュな素材を使ったところで、肝心の衣が不味けりゃ話にならない! 素材を生かすも殺すも衣次第ってことだ!」


 店主が下手に出ているのを良いことに、男は上から目線でまくし立てる。


 材料の値段が上がれば、一般的にはそれを価格に転嫁する。ただ、この土地で長年商売を続けてきた店主は「価格据置き」にこだわり、材料の価格ではなく質を落とすことを選択した。

 この一年、客足が全く衰えていないのは、店主の考えに常連客が賛同していることを意味する。


「勉強させてもらいました。お代は結構です。今すぐお引取り下さい」


 店主はため息をつきながらポツリと呟く。


「なに!? もう一度言ってみろ! それが客に対する態度……」


 男は言いかけた言葉を飲み込んだ――なぜなら、店内の空気が明らかに変わっていたから。

 カウンターに座っている客だけでなく、外で順番待ちをしている客の視線も男に集まっている。食べるのを中断して立ち上がろうとしている者、店の外から足を踏み入れようとしている者――三十人近い、屈強な男たちが敵意をあらわにしているのが伝わって来る。


「ば、馬鹿にしやがって! こんな店、二度と来ないからな!」


 顔を強張こわばらせて二言三言捨て台詞を吐くと、男は足早に店を後にする。

 申し訳無さそうに頭を下げながら、フレッシュマンが後に続く。


 二人の後ろ姿を眺めていた店主だったが、姿が見えなくなると、その日三度目のため息をついた。


「フレッシュな素材を生かすも殺すも衣次第か……上手いこと言ってたな。それにしても、あの子、大丈夫かな?」


 店主の言葉に、間髪を容れず、常連客が相槌あいづちを打つ。

 タオルを頭の上に乗せると、店主は再びコンロに火を入れた。

 

「十月一日、世間ではか……うちには関係ないけどね」



 RAY

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