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階段を下りていくと、重厚な扉が待ち構えていた。お店の名前を確認する。間違えなさそうだった。
まさか、「道ばた」がお店の名前だとは思わなかった。僕が「道ばた」へと向かうため玄関を出たところで、凜々子は七海さんと再会したちょうど一週間前のことを語り出した。「道ばた」とはお店の名前だったわけだが、「拾った」という表現も、あながち間違ってはいなかったのだ。
一週間前のあの日、七海さんは結構酔っぱらっていて、泣きながら凜々子との再会を喜んだそうだ。家に帰りたくないとぐずり、そのまま店で寝てしまった七海さんを仕方なくタクシーでお持ち帰りしたらしい。そして午後になっても一向に起きようとしない七海さんを置き去りにして、予定通り旅行に出かけたのだ。
つまり、僕が初めて七海さんと出会った日、朝から七海さんは凜々子の部屋にいたことになる。
これは全然気づかなかった。
もし朝の段階で二人を起こしていたら、状況は変わっていたかもしれない。おそらく、この奇妙なふたり暮らしは実現しなかったのではないか。
七海さんがあの日ずっと家に残っていたのは、一人残されて家の鍵を閉めることができなかったから、ということも少しはあるだろうけれど、一番の理由は、やはり凜々子と話をしたかったからに違いない。そしてその希望を果たせる場所が七海さんに確実に会える場所となるわけだが、それはここではないのだ。
それをわかっていて、凜々子は僕をこの場所へ向かわせたのだろう。であれば、その理由はおそらくただ一つだ。
僕がその重い扉を開くと、ちょっとした喧噪とピアノの音が入り混じり聞こえてきた。
僕は一人であることを伝えると、カウンターに通された。
僕は注文の勝手が変わらず、一人そわそわしていた。しばらくして、見かねた店員が僕にメニューを持ってきた。
僕がちびちびとビールを飲んでいると、この店のマスターを名乗る人が声をかけてきた。
「あなたも七海さんのお知り合い?」
僕は、高鳴る心臓を抑えながらうなずいた。
「あと三十分だね。スペシャルなライブになるね。私も楽しみで仕方がないんだ。たまたま居合わせた人はラッキーな人たちだね。七海さんのジャズスタイルの演奏は、私だって聴いたことがないからさ。それに、日本では最初で最後のライブになるかもしれない」
最初で最後という言葉に、僕の心の傷はうずく。
「やっぱり、アメリカに行くことにしたんですね」
「よく知ってるねえ。うーん。どうやらそのようだ」
そういうと、マスターは別のお客さんに呼ばれて、カウンターの奥へと戻っていった。
二杯目のビールを飲み始めたころ、扉が開いた。僕のことを指さして、笑顔で近づいてくる。
「あぶないあぶない。間に合わないところだったー」
「まず先に謝るべきなんじゃないの?」
僕は横に座った凜々子にそういうと、凜々子は口を膨らませて見せた。
「全然驚いてないじゃん。つまんない。旅行で疲れ果てていたけど、頑張って名演技したのにさ」
「さすがに一週間前の状況を教えられたあとは、おかしいことに気付いたよ」
「ヒントが過ぎたってことね。でもさあ、出かける前に死にそうな顔してんだもん。「道ばた」に行ったって会えるわけないじゃないかーって感じで。ほんとうに諦めてどっか別のとこ行かれてもこっちが困るし」
「でも、やっぱりショックだな」
「なにがよ?」
「だって、七海さんは凜々子には会いたいけど、僕の存在はどうでもいいってことだし」
「そんなことないって」
「え?」
凜々子は店員に飲み物を注文した。時計を見ると、あと五分でライブがスタートする時間だ。
「ちゃんと説明するとだね、わたしが帰ってきたら七海ちゃんが玄関で待ち構えていたわけよ。まあ、日曜日の夕方に帰ってくることは知ってたわけだし、確かに私を待っていたんだとは思うよ。なんたって、一週間前の七海ちゃんはベロベロでどうしようもない感じだったもんね。今日、めっちゃ謝られたんだから。でもさ、このライブをやろうと発案して実行したのは七海ちゃん本人だからね。別に私が裕也に気を利かせてやってることじゃないよ。やりようがないじゃないの。日曜日の二十二時からここでライブすることは、今日突然決められることじゃないでしょ」
その通りだ。僕は思わずつばを飲み込んだ。
「七海さんが裕也に黙って家を出たのはね、まあはっきりとは言ってなかったけど、やっぱりどこか気恥ずかしかったんだろうね。そんな感じしたなあ。あのあと実家に帰って、母親と話し合ったらしいんだけどね。その母親との話し合いが長引くことが予想されるし、ライブをするための準備も忙しくて裕也くんが戻ってくるのを待っている時間がなかった、とか言ってたけど、絶対にウソだよねえ。素直じゃないよねえ」
拍手がまばらに起きた。
すると、真っ赤なドレスを着た七海さんの姿が目に入る。おおと、思わず声をあげてしまう。準備をする七海さんを遠くから見つめながら、僕は思わずつぶやいた。
「でも、会えるのはきっと今日で最後だね」
しばらく間をおいてから、背中を強く叩かれた。もちろん凜々子だった。
「これから世界的なジャズピアニストになるんだもの。そりゃ、そうそう会える存在じゃなくなるさ」
「成功するよね」
「なんたって、私に憧れていますからね」
「ねえ、それってほんとうなの」
「うーん。世の中には知らない方がいいこともあるっていうからさ」
「え、ということは……」
「これ以上はノーコメント」
ピアノが鳴り響いた。
あのときの、お近づきのしるしにと言って弾いてくれたオリジナル曲だった。まだ一週間しか経っていないなんて、なんだか不思議だった。
僕はその音一つ一つを、しっかりと心に刻んでいった。この音楽が僕を励ましてくれるような日がくることを信じて。
[了]
道ばたで 川和真之 @kawawamasayuki
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