エピローグ
カタカタとキーを叩く音が、狭い部屋に響いている。
たん、と最後にエンターキーを押し、ショートカットキーで文章を保存した。
腕をぐっと伸ばし、デスクワークで凝り固まった肩をほぐす。壁の時計に目をやると、短針が二つ進んでいた。
そろそろ休憩しよう。
僕はデスクを立ち、彼女の元へ向かった。
僕らはマンションの一室を借りて、そこに二人で住んでいる。
僕の収入と貯蓄(主に超過分の入院費用の払い戻し)なら、もっと大きな家にも住めるけど、僕の体力の低さではかえって不便だ。だから、あえて小さめの部屋を借りている。
「お仕事、お疲れ様」
居間には、将来僕の妻になる人がいる。年齢の壁さえなければ、今すぐ籍を入れたいくらいなのに。その日が待ち遠しい。
「紅茶淹れといたよー。ちゃんと冷めてるから安心してね」
「ありがとう。舞は気が利くね」
「えへへ。賢者に誉められた」
僕の彼女は、さっそく笑顔で僕を癒してくれる。
木製の長方形のテーブルの上に、赤い液体が入った洒落たティーカップ。……どうやら中身が少し減っているようだ。
僕は違和感に気付かない振りをして、カップにそのまま口をつける。
「そうそう。熱くないかなって確認するときに、一口飲んじゃった。だから……間接キス、だよ?」
僕の彼女は耳元で囁いた。やっぱり。
こういうお茶目なところも可愛い。
けどね、舞。僕はもう、間接じゃ満足できないんだよ。
「ん……っ!」
隣で頬笑む女神の唇に、僕は軽く、一秒にも満たない時間だけ、触れた。
「紅茶のご褒美」
「……うん。ありがと」
お茶受けを目で楽しみつつ、僕はカップを再び手に取る。
不意打ちに恥じらう舞も、可愛い。
「ねえ、賢者」
「どうしたの、舞」
「……ご褒美、もっと欲しい」
でも、これは反則。
そんな切ない声で求められたら、歯止めが利かなくなる。
カップを置き、僕は再び舞の唇に迫った。
かつん、と歯と歯がぶつかる。
「あ、ご、ごめん」
僕は咄嗟に顔を引いた。
「いいよ。賢者のしたいようにして」
言われるままに、僕はゆっくり舞に近づく。
DEXの足りない僕の不器用なキスを、舞は受け止めてくれる。愛されていると実感する。
誰にも邪魔されない、僕と舞だけの空間で、僕らは至福の時を共にした。
そっと離れると、そこには舞の、誰よりも可愛い顔がある。
「もう、がっつきすぎだよ」
「舞が可愛すぎるのが悪い」
「えへへ。もう一回、しよっか?」
僕はテーブルの上の置時計を見た。休み始めてから10分ほど経っている。
「そろそろ休憩は終わり。仕事に戻るよ」
「えー? もう少しくらいいいでしょ?」
「舞のおかげでリフレッシュ出来たからさ。タレントは不安定な職業だから、稼げるうちに稼いでおかないと。それに」
「それに?」
「仕事もしなきゃいけないのに、これ以上続けたら舞のことしか考えられなくなる」
言い終えてから、しまった、と思った。
舞は僕の頭を優しく両手で支えた。
「だったらなおさら、続きしなきゃ」
今度は舞に主導権を握られる。僕は舞のなすがままになる。
大胆で、情熱的。なのに、無理矢理されている感覚はない。病院での最後のキスと足して二で割ったような。優しく、甘く、扇情的な。
理性も本能も、あっというまに陥落した。
舞はまるで容赦なく、僕を蹂躙し続けた。
解放される頃には、すっかり熱に浮かされ、舞の魅力に酔ってしまっていた。
「賢者はずーっと、あたしのことだけ考えてればいいんだよ?」
舞の魅惑的な笑顔に心を奪われる。
どれだけ頭が良くても、舞には敵わない。
僕はもう、舞の虜だ。
「舞」
「どうしたの?」
「愛してる」
「あたしも」
僕らはぎゅっと抱き締め合う。とくん、とくんと舞の心音が聞こえてくる。
幸せだ。
ガチャリ。
「失礼しま――」
「うわっ!?」「ふえあっ!?」
ドアが開き、聞き覚えのある声。
僕らは咄嗟に離れたが、時既に遅し。
「すみません、いつもの癖で。ふふふ、昼からお盛んですねー」
スーツ姿の女性は、高木さくらさん。
僕のマネージャーだ。
僕がリハビリを終え、退院してから少し後。
神原さんと高木さんは、共に病院を去った。
高木さんは、以前の職権濫用の件もあり、自主退職という形をとっている。神原さんの手引きで、今は僕のスケジュール管理や車での移動のサポートなどをしている。
「そんなに熱いところを見せられると、嫉妬してしまいますね」
「い、いつもじゃないよ!? いつもは、賢者、忙しくて家にいなかったりするし」
「それより、高木さん! 神原さんとは上手くいってるんですか?」
「その件ですが……四条さん。一言いいでしょうか」
そして、神原さんは……
「医者をやめて研究に専念するとか言っておきながら、あの人テレビに出ずっぱりじゃないですか!! 一体いくら稼げば気が済むんですか!? せっかく正式にお付き合いすることになったのに、全然会えてないですよ!!」
そう。神原さんも、芸能界デビューを果たしている。
例の論文を含む数多くの研究成果が世界的に高い評価を受け、神原さんは一躍時の人となった。そして、『四条賢者をINTの呪いから救った男』として自分をメディアに売り出した。要するに、僕はまたもや神原さんに利用されたってことだ。……なんというか、まあ、もう慣れたけど。
対する僕は、レギュラーを三本に増やした。ちなみにどれもニュース番組。たまにゲストで他の番組にも出るようになったけど、まだ一日一番組が精一杯だ。声だけの出演に比べ、カメラの前に立つのは、精神的にも肉体的にも疲労度が違う。
神原さんにはそういった制約が一切ないので、連日多種多様な番組に出ている。INTの高さのインパクトと持ち前の頭の回転の速さで、今日もお茶の間を賑わせている。
「四条さんもよく共演してますよね! 私より四条さんと会っている時間の方が長いんじゃないですか!?」
「ええっ!? いや、そうかもしれないですけど、僕に言われても……」
「さくらちゃん、賢者をいじめちゃ駄目だよ!」
「大丈夫だよ、舞。仕事の話だから、舞は気にしないで」
「だって、毎日お仕事大変でしょ。あたしは賢者が頑張ってるの、知ってるから」
「ありがとう。舞は優しいね」
「ナチュラルにのろけないでください!!」
高木さんに一喝されても、怖くはない。
僕には、舞がついてるから。
舞と一緒なら、恐れるものは何もない。
「……いいでしょう。私はこの気持ちをバネにして、次こそは先輩に一矢報いて見せます。感情に正負はあっても善悪はありません。この嫉妬心さえも、私はエネルギーにできるのですから」
一矢報いる、って、恋人に対する表現じゃないような。相変わらず、高木さんの恋心はいまいち僕には理解できない。
「……で、高木さん? 急に家に寄ったのは、何か要件があるからでは?」
「ああ、すみません。本題をすっかり忘れていましたね」
そういうと、高木さんはスーツのポケットから小さな封筒を取り出した。
「以前、泥沼ラプソディエの作者さんと会談したのは覚えていますか?」
「はい。もちろん。あ、もしかして、実写映画の?」
「そうです。先行上映試写会のチケットが届きました」
泥沼ラプソディエは名作だから、元々ファンは多かったけど、僕のブログを読んで初めて買った人も結構いたらしい。それが作者さんの耳にも届いたらしく、いろいろと縁ができた。
そんなこんなでさらに人気が出た結果、なんと実写映画化が決まったのだ。
「すごーい! いいないいなー。賢者ばっかりずるいよー」
「チケット、何枚ですか?」
「もちろん二枚ありますよ」
「えっ!? ほんとに!?」
「はい。『僕のパートナーもファンなんです』なんてこれ見よがしに言っておいた甲斐がありましたね」
「だって本当の事ですから」
「わーい! 賢者大好きー!!」
舞が僕にぎゅっと抱き着いた。高木さんの顔が引きつったけど、僕は気付かない振りをした。ポーカーフェイスは、少し上達した……かな?
「……私だって、たまに二人っきりになれた日は、あれくらい…………いっそのこと、先に既成事実を…………」
高木さんが何やらぶつぶつ呟いているが、聞こえない振りをした。
「こほん! では、私はこれで。お邪魔してすみませんでした」
言い方に棘があるような気がするけど、気にしないでおこう。
高木さんはドアを開け、帰って行った。にしても、急だったな……合鍵を持たせたのは間違いだったかもしれない。
そして僕らは、また二人っきりになった。
「……それじゃ、続きしよっか?」
「仕事の?」
「キスの!」
「また後でね」
「むー」
「舞もそろそろ夕飯の支度しなきゃいけないでしょ?」
「にゃふっ!? もうこんな時間!?」
「舞の料理、いつも楽しみにしてるんだから。舞のDEXが高くて良かったよ」
「うん。分かった。じゃあ、また後でね。約束だからね!」
「分かってるよ。仕事さえなければ、僕だってずっと舞と一緒に居たいんだから」
「それは言われなくても分かってる。あたしも同じだから」
「……じゃあ、また後で」
「うん。……待ってる」
僕はドアノブに手を掛けた。
「あのさ、賢者?」
「ん? どしたの?」
「……いや、なんでも」
「そう?」
「…………あ、そうだ! 仕事! 仕事って、今パソコンで何してるの? ブログ書いてる時間より、最近もっと長くなったよね?」
ほんの短い時間でも、離れたくないんだろう。だから無理やりにでも、話題を作ろうとしてるんだ。
言われなくたって分かる。僕だって一緒だから。
「本を出すことになったんだ。その執筆作業」
「へー。頑張ってね! 泥ラプを越えるのは難しいと思うけど、賢者ならできるよ!」
「ああ、小説じゃないよ。僕の自伝みたいなもの。僕の生い立ちにもまだまだ需要がありそうだから。こういうのは、賞味期限が切れる前に出さないと」
「そうなんだ。あたしとか、さくらちゃんとかの話?」
「うん。神原さんと高木さんにも話を聞いておかないとね。僕は、まだまだ知らないことが多すぎるから。退院した今なら、当時隠してた事でも、何か新しく聞けるかもしれないし」
「そうだね。………………頑張ってね!」
舞は少しの間考えてから、僕を激励した。
きっと、これ以上会話を広げられる言葉が思いつかなかったのだろう。
「……舞、ちょっといい?」
「んむ? どうしたの?」
一緒に居たいのは、僕も同じだ。
だから、もう少しだけ。
「自伝のタイトル、まだ決まってないんだ。一緒に考えてくれない?」
「あたしはいいけど、仕事はどうするの?」
「自分の本のタイトルを考えるのって、立派な仕事じゃない?」
「そうかな? ……そうだね。そうだよ! 一緒に考えようね!」
「うん。一緒にね」
会話のバトンは、どうやら繋がった。
「まず、1005は絶対に入れなきゃいけないと思うんだ。あとは、年齢がなんとなくイメージできる言葉と、病院の要素も」
「数字だけ? INTまで入れないと、あたしみたいにバカな子には分からないかも」
「ん……そうだね。他のステータスだけ伸びることもありえるか。じゃあ、INT1005で一纏めにしよう」
「でもさ、神原さん、だっけ? あの人のINTはもっと高いけど、どうするの?」
「確かに。なら、僕と舞との対比にしようか。その方が分かりやすいし、僕と舞の話がメインなわけだし」
「いいねいいね! じゃあ、例えば…………INT1005の僕と、INT……あの時のあたし、いくつだっけ?」
「252だね」
「INT1005の僕とINT252のあたし。みたいな感じ?」
「そうだね。シンプルな方が分かりやすい。年齢差が分かるように、あたしをお姉さんにして、僕との対比にしようか」
「INT1005の僕とINT252のお姉さん。うん! 決まり! ……じゃないね。他にも何か言ってたよね?」
「病院の要素、だね。……よし、それじゃあこうしよう――」
「……でも、ちょっと嫌かも」
「嫌? どうして?」
「みんなが本を買ったら、賢者がみんなのものになっちゃうような気がして」
「大丈夫」
僕は、舞にそっと近づいた。
そして――
「今のは、二人だけの秘密。本には書かない」
「……あ……う、うん。……嬉しい。けど、ちょっと、恥ずかしいかも」
「恥ずかしがってるところも、可愛い」
「う……い、いじわる……」
誰にも邪魔はさせない。
舞を一生かけて幸せにするって、僕は誓ったんだから。
INTも、それ以外も。全部、僕の武器にして。
物語はここでおしまい。
でも、僕らの日常は、むしろこれからが始まりだ。
その話は、きっとまた、別の機会に。
INT1005の僕とINT252のお姉さんの入院生活
了
INT1005の僕とINT252のお姉さんの入院生活 井戸 @GrumpyKitten
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます