第二十六話 嘘吐き
この一年で、僕の身長は少しだけ伸びた。でも、篠宮さんにはまだ届かない。
僕は上目遣いで篠宮さんの顔色を窺う。篠宮さんは、ずっと右下を向いていて、僕と目を合わせようとはしない。
「篠宮さん、言いたいことはいろいろあるけど……まずは、ありがとう。今の僕がいるのは、間違いなく、篠宮さんのおかげだよ」
「……あたしの?」
「そうだよ。篠宮さんがいなかったら、僕はずっと、あの病室に引き籠ったままだった。僕が今テレビに出られてるのも、こうして外に出られてるのも、全部、元を辿れば篠宮さんのおかげなんだ。本当に、ありがとう」
返事はない。
きっと心には届いていると、信じたい。
「僕が名前で呼ばれても平気になったのだって、篠宮さんのおかげなんだよ」
――四条……賢者。それが、僕の名前。
――ありがとう。賢者、いい名前――
――名前で呼ぶな!!
「あの時は、遮っちゃったけど……篠宮さんが、良い名前だって言ってくれたから、僕はこうやって本名で活動できてる。僕のINTばっかりなステータスは、賢者って名前とセットみたいなものだし、外せないからさ。さっきみたいに、様付けで呼ばれるのはちょっと照れるけどね。知らないうちに愛称みたいになっちゃって」
まだ、目に光は戻らない。
大丈夫。どれだけ時間をかけても構わない。むしろ、いくら感謝を述べても足りないくらいだ。
きっと嫌われてはいない。篠宮さんは、自分に自信を持てないだけ。
だから、僕が諦めなければ、また以前と同じように笑ってくれるはずだ。
「そうだ、僕のプレート見てよ。13歳のレベルアップで、ついにVITが――」
「あのね、四条君」
「うん。なに?」
よし。まずは返事をしてもらえそうだ。
さて、第一声はどうくるかな?
「あたしね。退院してすぐに、新しい彼氏探したんだ」
…………なんだって?
新しい、彼氏……?
聞き間違いじゃないか?脳裏に浮かんだ希望的観測は、一蹴された。
「キミがいなくなって、心にぽっかり穴が開いたみたいになって……だから、あたし、埋めようとしたの。別の人で」
寒気がした。心がぐらぐらと不安定になるのを自覚した。
……考えて、なかった。
嫌われていないとは思っていた。制服から学校を割り出して、卒業式の日に押し掛けるなんて勝手な真似をしたのは、絶対に上手くいくという、半ば自惚れのような自信があったからだ。
けど、その可能性は、頭からすっぽり抜け落ちていた。
既に、篠宮さんが他の人と付き合っている可能性なんて。
どうして……どうして、今まで一度たりとも思い至らなかったんだ。
篠宮さんが魅力的な女性だってことは、世界中の誰よりも、僕が一番よく分かってたはずなのに……!
「あの日の夜の会話、覚えてる……よね。賢いキミが、忘れるはずないもんね」
あの日の夜。つまり、篠宮さんと会った日の夜。事件前日の夜。
――篠宮さんって、彼氏いるの?
――……へ?な、なんなの?どうして、今そんなこと?
――いないの?
――…………うん。
――告白は?
――ないよ。するのも、されるのも。
――そっか。
その次の、僕の言葉。
「キミが言ったんだよ? 『篠宮さんなら、いい人見つけられるよ』……って」
自責と後悔で心臓が押し潰されそうになる。
だって……だって、仕方ないじゃないか!あの時の僕はまだ、一生INTしか伸びないって思い込んでいたんだ。僕より他の人と付き合った方が、篠宮さんにとっても幸せだと、あの時は本当に思っていたんだ。だから、だから…………
今更どんな言い訳をしても、意味がない。
どう取り繕ったところで、過去は変わらない。
僕が取り返しのつかないことを言ってしまった過去も。
篠宮さんが彼氏を探し始めた過去も。
「…………篠宮さんも、覚えて、たんだ」
「誰のせいで、忘れられなくなったと思ってるの?」
――あたしもう、四条君のこと、忘れられなくなっちゃったよおおおっ!!!
……そう、か。
全部…………全部、僕のせいなんだ。
「あたしとキミはもう赤の他人で、二度と会えなくて……忘れなきゃいけないって思ったから。誰か別の人を好きになったら、きっとその人に夢中になって、キミの事、忘れられると思ったから」
篠宮さんは、退院してからも、僕の事を考えてくれていたんだ。
その結果が、これ?
――相思相愛であることは、必ずしも二人を幸せにはしませんからね。ロミオとジュリエットのように、悲劇を生むこともあります。
嘘だろ?
ようやく、僕は病院という狭い檻から自由になれたのに。
こんな結末が、許されるわけ……
「あたしバカだから、そうでもしないと忘れられそうになかったんだよ。……忘れよう、っていくら頑張っても、テレビの番組表見たら、キミの名前があるんだもん。あんなの、ずるいよ」
……それも、裏目だったってことか?
僕の声を篠宮さんに届けたい一心で踏み出した、テレビに出演することさえも、逆効果だったってことか?
僕がやってきたことは、何もかも、無駄だったってことか?
僕は咄嗟に、ぐっと目を瞑った。
一年半ぶりに、涙が溢れそうになった。
けど、今泣いたら駄目だ。
僕は、篠宮さんを元気づけなきゃいけないんだ。
篠宮さんが悲しい顔をしてるのは、全部僕のせいなんだから。
彼氏じゃなくても、友達としてだって、出来ることはあるはずだ。
例え、彼氏に……なれ、なくても…………。
「四条君の嘘吐き!」
「ごめん……」
駄目だ。声が震える。
これ以上の言葉を受けたら、心が耐えられない。
でも、聞くしかない。自分で蒔いた種だ。僕の行動の責任から、逃げるなんて、許されない。
僕は、篠宮さんの次の言葉を待った。
「いくら探しても、キミよりいい人なんてどこにもいなかった!!」
…………………………。
………………………………?
…………待って。
ちょっと待って。
それって、どういうことだ?
……えっと。
…………つまり、要するに。
僕が、篠宮さんにとって…………一番ってこと?
「他のクラスメートとか、歌手とか、芸能人とか、いっぱいいっぱい探したのに、誰もいなかったの! それどころか、男の人を見る度に、キミと比べて、キミのこと思い出して、キミが恋しくなって……今まで、辛かった」
冷え切った身体に熱い血潮が巡る。
嬉しい。13年間生きてきた中で、一番嬉しい。
いや、駄目だろ。ちゃんと聞いてたのかよ。篠宮さんに、今日までずっと辛い思いをさせてきたんだぞ。勝手に一人で喜んでちゃ、駄目だろ。
けど、理屈では分かってても、抑えられないんだ。
せき止めようとしても、際限なく溢れ出して、止まらないんだ。
大好きな人に、誰よりもいいなんて言われたら、もう、制御できるはずがないじゃないか。
「うっぐ……うう、ぐすっ……」
気付けば、僕は泣いていた。
悲しみで貯め込んだ涙が、喜びの感情に押し出された。
なんだよ。僕の独り相撲だったんじゃないか。篠宮さんの態度を僕が勝手に取り違えただけだったんじゃないか。
僕は……なんて、幸せ者なんだ。
神様は不平等だ思ってたけど、今までの不幸なんてちっぽけに思えるほど、僕は今、生まれて初めて、幸せというものを心の底から噛みしめている。
「あ……だめ、だよ。ごめん! ごめんね。今の話、忘れて。四条君が泣いたら、発作が起きちゃうから……。ごめんね。最低な女の子で、ごめんね……」
――こんな最低な女の子のことは、さっさと嫌いになって、忘れちゃえばいいんだよ。…………あたしは、キミに大好きなんて言われていい女じゃ、ない。
「じゃあ、抵抗しないでね」
「え……?」
「病院で、お別れの日に勝手にキスしたこと、最低だって思ってるなら……その時のお返し、だよ」
僕は、篠宮さんの肩に手を乗せて、少し背伸びをして。
篠宮さんの唇を塞いだ。
「んむっ!? ん、んっ……」
懐かしさすら感じる匂いとぷるぷるの唇に、思わずくらりとバランスを崩して篠宮さんに寄りかかった。胸もお腹も腰も全部が、制服と病院服、二人分の布越しに篠宮さんと密着する。首を抱え込むように腕を回して、篠宮さんに体重を預けた。
僕の頭を、後ろから篠宮さんの左手が支えた。右腕は僕の背に。
病院でのファーストキスのような、本能を揺さぶられるような刺激や、無理やり奪う強引さはどこにもない。
優しさを感じる。篠宮さんの愛が伝わってくる。
まるで親鳥に温められる雛になったような、安らかな心地よさに包まれる。
心が満たされていく。
きっと、これが本物のキスなんだ。
ずっと、このままでいたい。
ずっと、このままでいよう。
もう絶対に間違えない。別の誰かじゃなくて、僕が、篠宮さんを幸せにするんだ。
この幸せを、二人で分かち合おう。
永遠に。
「ぷはっ……」
数秒のようでも、数時間のようでもあった。
僕らはどちらともなく、そっと抱擁を解いた。時間の感覚が狂うほどの多幸感に包まれながら、僕は篠宮さんとのキスの余韻に浸る。
「四条、くん? ……発作、大丈夫なの?」
「言ったでしょ? リハビリした、って。まだ普通の人よりは弱いけど、体力も前よりはついたし、2時間くらいまでならなんとか歩けるようになったんだ。発作も、無理して激しい運動さえしなければ平気だよ」
「……そっか、よかった」
「VITが伸びたら、やりたいことがいっぱいあったんだ。自分の足で外の世界を歩いたり、ニュース番組のスタジオを自分の目で見に行ったりさ」
それらは昨日までで、大体実現できた。二番目以降のやりたいことは。
「でも、一番は……篠宮さんと、キスすること」
僕らの出会いは、頬へのキスと、発作から始まった。
その後、僕が催眠術にかかっている篠宮さんにキスをした時も、別れの時に篠宮さんから官能的なキスをされた時も……いつも僕らは、苦しんでいた。
だから、発作が治ったら、もっと普通のキスがしたかった。
会うことさえ叶わなかった日々の中では、到底手が届かない目標だった。
それを、今、実現できたんだ。
「ありがとう」
何度言っても足りない。
足りない分は、これからの人生で埋めていくんだ。
「今まで、ごめんね。辛い思いをさせた分、目一杯幸せにする。だから」
一度、言葉を区切る。
大きく息を吸って、吐いた。
「僕と、付き合ってください」
気取らない、飾らない、オーソドックスな言葉。
きっとこれが、一番僕らしいと思ったから。
きっとこれが、一番篠宮さんに伝わると思ったから。
「……本当に、あたしでいいの?」
「篠宮さんじゃなきゃ駄目なんだ。篠宮さんよりいい人なんて、どこにもいない」
「本当だね? 今度は、嘘じゃないよね? あたしがバカだからって騙そうとしてない?」
「本当だよ。絶対に幸せにするって、約束する」
「…………分かった。信じるよ。四条君のことも……四条君が信じてくれた、あたしのことも」
篠宮さんの笑顔に、見惚れる。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
この笑顔を見られるなら。
この笑顔を守れるなら。
僕は、何だってできる。
篠宮さんの為なら。
そして、僕の為なら。
そう思ったのも束の間。
篠宮さんはむっとして口をすぼめた。
「今だから言うけどさ。あの夜のこと、結構ショックだったんだよ? だって、あれじゃまるで、四条君があたしに興味ないみたいじゃん」
「あ、えと……ごめん。そんなつもりじゃなかったんだけど」
「エレベーターの中でもそう。あたしと二人だったら最強じゃない? って言っても、四条君、冷たかった。あたしはとっくにキミにメロメロだったのに」
「あ、あれ。そうだったんだ。結構、気付かないものだね」
「恋愛モノの男主人公みたい」
「あはは、かもね。篠宮さんがあまりにも魅力的過ぎて、頭が上手く回らなかったんだよ」
「名前で呼んで。篠宮さんじゃなくって、舞、って呼んで欲しい」
「分かった。舞。大好きだよ」
「あたしも、下の名前で呼んでいい?」
「うん。どうぞ」
「じゃあ………賢者。あたしも愛してる」
僕らは、もう一度。
恋人になってから初めての、キスをした。
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