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「あのときは本気でタルヴォの頭を蹴り飛ばすんじゃないかと思って、びっくりしたよ」


 ぱちぱちとはぜる松明の下で、白い息を吐きながらタイが言った。

 今日は間違いなく今季一番の寒さだ。冬が間近に迫っていることを実感しながら、クロエは荷台を大角の山羊に繋ぐ。これらは元々野生の山羊だったが、いつからか家畜として飼育されるようになり、山を下るときは荷台を牽かせるためにと調教されていた。

 山羊とはいっても牛ほどの大きさがあり、足腰は非常に丈夫だ。崖のような岩場も軽々と登り下りをするほどで、酷く頼もしい。時には犬狼とも勇敢に戦うという。放牧をしていた頃は馬を友としていたが、山で暮らすようになってからは山羊が良き友人となってくれていた。


「本気だったよ」


 綱が解けないよう固く結びつけながら、クロエが何でもないことのように答える。するとタイは驚いたように「へっ!?」と素っ頓狂な声をあげ、松明に照らされているクロエの横顔をぎょっとして見つめた。


「タルヴォが本気だったんだ、こちらだって本気でかからないことには勝ち目はないと思ってね」

「だ、だけど、タルヴォはあえて急所を外していたように見えたし、それに――」

「あれは私が自分で避けていたから良かったようなもので、実際には間違いなく急所を狙われていた。ほら、これなんて酷い青あざになってる」


 クロエは衣裳の腕を捲り、赤黒く色の変色している肌をタイに見せてやった。棒を添え木のように用いていなければ、今頃はぽっきりと骨の折れた腕を無様に吊っていたはずだ。もちろん出立は延び延びになり、春の訪れを待つことになっていただろう。


「でもまあ、今回は運が良かっただけじゃないかな」

「おうおう、そんなの決まってるじゃねぇか!」


 かじかむ指先に息を吹き掛けながら言うクロエの背後から、まだ日の出前だというのに普段と同じどころか、一層張り切った声色のタルヴォが現れた。

 クロエなど未だ寝ぼけ眼だというのに、タルヴォの目はぎらぎらと輝いている。


「運以外で俺に勝てるものがあるとでも思ってるのか?」

「……そういうのって負け惜しみって言うんじゃないの? 恥ずかしいよ、タルヴォ」

「この俺が手加減をしてやらなきゃ、今頃こいつは起き上がれもしなかったはずだ。俺が確かめたかったのは、こいつがどれだけ本気だったかということで――」

「こら、タルヴォ! まだあたしの話は済んじゃいないよ!」


 朝のひっそりとした里中にモウラの声が響き渡る。反射的にびくりと肩を震わせてしまったらしいタルヴォは、それをクロエやタイに悟られまいとしているのが分かる。厳格そうに咳払いをして見せたかと思うと、ふたりの肩に手を置いて「足を引っ張るなよ」と言い残しモウラの元へと戻っていった。

 クロエは腹部を撫でながら去っていく背中を見て、思わず苦笑を漏らしてしまう。対してタイは呆れているようで、まったくもう、と言いながら眉を顰めていた。

 ふたりは既に旅装を纏い、身支度を整えていた。荷物は最小限に、しかし不自由をしない程度には蓄えておかなくてはならない。替えの服は一着、それは上等なものでなくて良い。どうせすぐにくたびれてしまうのだ、不潔でなければ何でも良かった。怪我や病に備えてネグロの煎じた薬を袋に忍ばせてある。小さな鍋や杓などの調理器具も場合によっては必要だ。干し肉や良く焼きしめた米粉の麺麭、山羊の乳から作った乾酪や養蜂によって収穫した檉柳梅の蜂蜜は旅には欠かせない代物だった。あとは持っている限りの路銀を懐にしまい、護身用の武器を担いでいかなくてはならない。湯冷ましも大量に運ぶ。この森にいる間は湧き水で事足りるが、町に出れば飲み水は貴重品だ。


「忘れ物はなさそうか?」


 タルヴォを筆頭とする若い衆も、町に下りて売り歩く品々の最終確認を行っていた。

 日持ちのする根菜は女たちの縫った大きな麻袋に入れ、その上から更に覆いをかけている。それが二台と、今年早めに収穫を済ませ良く乾燥させておいた新米も同じだけ運び出す予定だ。羊の毛を縒って編んだ衣服や膝掛け、毛布なども高値で売れる。木工細工、陶器や磁器、漆塗りの椀なども一年をかけて準備してきたものだった。

 これらすべてを売ることができれば、それなりの大金が手に入る。その金でここでは手に入らないものを購入し、帰路に着くのだ。各々が欲しいものはタルヴォに伝えてあるだろう。一年に一度のことだ、少しくらい我儘を口にしたところで誰もなにも言わない。


「うん、サカリと何度も確認したから大丈夫だよ」


 結局、サカリはタイを送り出すことで納得したようだった。

 タルヴォとの手合わせ後に再び寄ってきたかと思うと、クロエにも「気をつけて」と言って旅守りの札をくれた。それと同じものを、タイとタルヴォも首から下げている。


「サカリが一緒に確認したなら安心だな」

「なにそれ。僕ひとりだったら不安だっていうの?」

「違うのか?」

「……まあ、違わないけどさ」


 タイはしっかりしているようで、妙にせっかちなところがある。気持ちばかりが急いて、一番大切なものを見失ってしまうのだ。しかし、サカリが出発までの面倒を見ていたのであれば心配する必要はないだろう。


「よろしくな」


 そう言って鼻筋を撫でてやると、山羊は気持ちが良さそうに目を細めた。腹を空かせればその辺りで道草を食う山羊が相手だと気が楽だった。

 周辺には旅立を控えた男たちと、それを見送る家族が集まりつつあった。空も少しずつ白んできている。幸運なことに風もあまり吹いておらず、雲ひとつない良い天気だった。


「クロエ」


 一際煌めく星を見上げていたクロエの耳に、いつもと変わらない朗らかな声が聞こえてきた。視線を地上に戻せば、そこには紺色の外套を身にまとったセラトラが立っている。その隣には、セラトラが若い頃に着ていた衣裳を譲り受け、まるで着せられているような格好のロランがいた。


「準備は良いようだね」

「うん」

「タイも平気かい?」

「僕も大丈夫だよ」


 私は殿下と話があるから先に出ていてくれと言われ、結構な時間が過ぎていた。ロランの表情を見ると、僅かに強張っているようにも感じられる。目が合うと曖昧に微笑まれたが、それもかなり不自然だった。


「何の話をしていたんだ?」


 セラトラが他の荷台の確認へ向かうと、クロエはロランに問いかける。

 けれど、ロランは困ったように苦笑いを浮かべるだけで、たいしたことはありません、と言うだけだった。セラトラに口止めをされているとは考えにくいが、本人が言いたくないというのを無理矢理聞き出すのも、この先の旅路でぎすぎすとする原因となりかねない。

 クロエはふたりだけで交わされた話の内容が気になったが、そう考えて思考を別の場所へ持っていくことにした。


「そういえば、ネグロは? 昨日はかんかんに怒っていたし、見送りにも来てくれないのかな」


 タイが言うのを聞いて、そういえばそうだとクロエも視線を巡らせる。

 クロエがタルヴォの後頭部に回り蹴りを食らわせようとしたその瞬間、水を差したのは他ならぬネグロだった。よそ者だからこその横槍だろう。いつの間にか息を飲んで手合わせを見届けていた者たちのなかで、ある意味ネグロだけが冷静だったのだ。

 鉛の仕込まれた靴の踵で勢いをつけた蹴りなどを食らわせれば、相当な石頭で通っているタルヴォでもただではすまされなかったと、少し考えれば分かることだった。


「お前は馬鹿か!? 旦那を殺すつもりなのか!?」

「ああ、やっぱり見に来ていたのか」


 クロエの的外れな言い様にネグロは話にならないという怒れる顔をし、片膝をついて腹を押さえているタルヴォに駆け寄っていった。いつもながらその手を振り払おうとするが、ネグロは食い下がらなかった。

 診察の結果、クロエもタルヴォも打撲程度で大きな怪我などはなかったものの、ネグロの怒り様は里の者たちを心底驚かせた。これほど感情を露にしたところを見たことがなかった上に、大人しい人柄であると信じていたからだろう。その本質を知っていたクロエやタイは顔を見合わせ、いつものことだと思いながらも神妙な面持ちで怒りが過ぎ去るのを待っていた。


「案外そうかもしれないな」


 誰が見送りになんぞ出ていくか、と怒鳴り散らしながら薬を煎じる姿を想像して、クロエは笑う。だが、まるでその話を影で聞いていたかのような仏頂面で現れたネグロの格好を見て、目を丸くした。


「ネグロ、お前その格好……」

「なんだ、悪いのか?」


 そう言ったネグロの格好は、明らかにこれから旅に出る者のそれだった。

 クロエは思わず絶句してしまい、それ以上の言葉が続かない。そのクロエの様子を見てふんと鼻で笑ったネグロは、肩に担いでいた大きな荷物を、クロエが任されている荷台に乗せた。


「勘違いするな、お前らが心配でついていくわけではないからな。ロランの怪我の具合が気掛かりなだけだ」

「良かった。僕はてっきり昨日のことでこの里が嫌になったから、荷物をまとめて出ていっちゃうのかと思ったよ」


 あながち冗談とも言えないことをタイが真顔で口にすると、ネグロは漸く少しだけ表情を和らげた。


「ここは居心地が良くて好きだ。それに、俺のような薬師には楽園のような場所だからな。今の時代になって、こうも薬草や香草の類いが豊富に群生している森は少ない。今回ついていくのは、叔父上殿に頼まれたからだ」

「セラトラに?」


 クロエが咄嗟にそう問うと、ネグロは軽く肩を竦める。


「詳しく話してはくれなかったが、何か思うところがあるんだろう。異能の考えることは俺には分からんよ」


 だが、ロランが表情を動かしていないのを見ると、この話は既にセラトラ本人から聞かされていたようだ。

 もちろん、タルヴォにはくどくどと文句を言われるだろうが、ネグロが同行することは一向に構わないとクロエは思う。しかし大きな懸念事項があった。まるでそれを察知したように、ネグロが口を開いた。


「叔父上殿が飲んでいる薬の配合は、モウラの姐さんにも教えておいた。もしものときは看てくれるさ。それに、今のままの生活を続けていれば発作の心配もそうはない」

「それに、ほら、半月もすれば僕はここに戻ってくるし。薬の煎じ方ならネグロから教わってるから大丈夫だよ。クロエがいない間は、僕がセラトラの面倒を見るから心配しないで」

「おやおや、それは嬉しいね」


 すべての荷台を確認し終えて戻ってきたセラトラが、くすくすと笑いながら言った。そして傍らにいたネグロを見上げると、少しだけ肩越しに振り返った。


「クロエが面倒を見るという約束で、タルヴォには話をつけてきたよ」

「面倒って?」

「いざというときは自分の命と荷台を守るだけで精一杯だから、ネグロのことはクロエに任せるということだろうね」

「あらら」


 タイはそう言いながらクロエを見上げ、苦笑いを見せた。


「大変だね、クロエ。僕のことまで押し付けられちゃったのに」

「まあ、なんとかするよ」

「だけど、賑やかで良いかもしれないね。交代で休めるし」


 ね、とタイに同意を求められ、ロランがそうですねと頷く。

 この隊は六頭の山羊に一台ずつの荷台を牽かせて進む。一台の荷台に二人から三人の人間がつき、太陽のある間は延々と歩き続けるのだ。夜は物陰で息をひそめてやり過ごし、朝になったら再び歩き出す。予定通りならば、丸三日ほどで山を下り、森を抜けることができる。

 クロエが任された荷台には、売るにしても他に比べれば安価な根菜の類い多くが積まれている。別の荷台から漏れた日持ちのする果実の加工品や葡萄酒、蜂蜜酒も乗せられているため、誘惑に負けないよう互いを十分に見張り合わなくてはならないだろう。ほんの少しだけとつまみ食いをしようものなら、タルヴォに殴られるどころでは済まされない。そういうところは、非常に細かい男なのだ。


「後方の餓鬼ども、そろそろ出発だからな!」


 先頭に立っているタルヴォがたくましい腕を掲げながら叫んでいる。タイは比較にならないほど細い腕を大きく振り、返事を送った。


「町までは皆のことをよろしく頼むよ、クロエ」

「分かってる」


 クロエは他の三人を荷台に乗せると、そう言ってセラトラに向き直った。


「セラトラは体に気をつけて」

「春がやって来るまでは、君とタイが割ってくれた薪で部屋を暖めながら冬眠でもしていることにするよ。幸い、モウラやサカリが世話を焼いてくれるみたいだからね」

「うん、私からもお願いしておいた。代わりにタルヴォやタイをしっかり見ておくように言われてしまったけど」

「町についたら、少しくらいなら羽目を外させておあげ。年の一度の楽しみなのだから」

「少しの間だけど、タルヴォがいないと寂しくなるんじゃない?」

「まさか」


 クロエが悪戯っぽく言うと、セラトラはくつくつと笑いながら首を横に振った。


「静かになって清々するよ。私も少しの間は羽を伸ばすことができる」


 いつもの旅立ちと同じ別れなのに、クロエはいつも以上に後ろ髪を引かれるような物悲しさを感じていた。ただ一言だけ、いってきます、と言えば良いだけだ。それなのに、この会話を終わらせたくないと思ってしまい、とりとめのないことばかりを口にする。

 その心情を知ってか知らずか、セラトラは眉根を寄せるクロエを見て困惑げに微笑んだ。そして仕方なさそうに息を吐いたかと思うと、クロエの腕を引き寄せ、まるで子供をあやすように柔らかく抱擁する。


「気をつけていっておいで。そして自分を信じて前へ進みなさい。でも、時々は寄り道をしてみるのも良いことだよ。目的ばかりを追い求め続けていると、自分の道を見失ってしまう。これは君の人生だ、他の誰のものでもないのだから」

「……うん」


 温もりに抱かれながら聞こえてきた心臓の鼓動はどこまでも穏やかで、クロエを懐かしい気持ちにさせる。幼い頃、あの夜の悪夢に魘されたときにはいつも、こうして抱いていてくれたことを不意に思い出した。


「ありがとう」


 クロエは、いっておいで、という言葉が好きだった。

 行って帰っておいでという響きは優しい呪いになり、心に刻み込まれる。もう一度おかえりと言ってもらえる日までは、生きていたいと思わせるのだ。


「いってきます」


 セラトラの胸を自ら押し返し、クロエは不思議なほど暗い色の目を見て言った。

 行って帰ってきますという言葉には無限に広がる可能性と、誰かを待たせているという背徳感が混在している。しかし、これもまたひとつの呪いの言葉だとクロエは思った。

 約束もまた、呪いの内なのだ。

 十五年前、幼かった少女は父親が生きていることを信じた。

 十年前、父親を探す旅に出るのだと決意を固める。

 七年前、旅に出たいと養い親に告げ、そして五年前、ついにその日がやって来た。必ず父親を見つけ出すという約束の元に、呪われた旅に繰り出したのだ。そしてそれは、五年後の今も続いている。

 この美しく残酷な世界で、父親を見つけ出すその日までは決して終わりの来ない、呪われた旅が。

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この美しく残酷な世界で -第1部- 一色一葉 @shiki-666

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