火事と喧嘩と江戸の華
春永永春
火事と喧嘩と江戸の華
陰気、陰湿、陰鬱。そんな梅雨のようにじとりと重くて暗い印象は、全くない。からりと晴れた暑い夏の青く澄んだ空。そこに白く浮かんで見える、真昼の月という印象だった。
「すごいと噂の『火事』と『喧嘩』が見たくって、成仏できねェんだ」
トキチと名乗る半透明の町民風の男は、微塵も恐怖を感じさせなかった。
「江戸の華って言うじゃねェか。そういや喧嘩の『嘩』は華って字が使われてらァな」
「うるさい」
「おう上等だ。やかましかまし、やまかがし。うるさい小蝿も蚊帳の内」
「どういう意味ですか?」
「意味なんてねェよ」
トキチはよく喋る。まるで喋っていないと消えてしまうかのように。
「お前はずっと家ン中でよく暇しねェな、ハナ」
「好きでいるんじゃありません」
「どっか出かけようぜ」
「一人で行けば良いでしょう。あなたは私と違って身軽そうだわ」
生来、体が弱かった。風吹けば折れ、日照れば枯れる。外を自由に歩き回ることなどできず、当然のごとく友人と呼べる人間はいなかった。
大きな商家に生まれ、食うには困らないのが救いだった。親が言うには見目は悪くはないらしい。そのうちどこかの金持ちが娶ってくれるだろう。子を産めるかはわからないが、ぼちぼち安泰な人生だ。
「ったく、つれねェなァ」
はるばる上総の辺りから来たらしいトキチの姿は、どういうわけか私にしか見えなかった。だから彼は私の傍から離れない。こんなことなら見えない振りをすれば良かった、と悔やんでも後の祭。
他の人にはトキチの話はしなかった。幽霊憑きの娘なんて噂が広まってしまえば、嫁の貰い手はなくなるだろう。
「早く成仏なさいよ」
「江戸で火事と喧嘩を見たらな」
「縁起でもない。人の不幸を見て何が楽しいのです?」
「知らねェよ。見たことねェんだから。でもすげェんだろ?」
私はため息をつく。絶望的だ。私に憑いて引き籠っていたら、それを見ることは到底叶わない。
「窓から見えないものかしら」
二階に上れば、眼前に川が流れているのが見える。海はほど近く、水の流れは穏やかだ。対岸には、こちら側と同じように商店が軒を連ねていた。立派な大橋の上をせわしなく人が行き交い、その下を舟がくぐって抜けてゆく。夏の日差しと蝉の声。風にそよげる柳の葉。元気な民の笑い声。
「……平和ね」
トキチには早く成仏してもらいたかった。もう声が掛かってもおかしくない歳だ。嫁いでしまえば、こうして独り言を呟く場所も時間もなくなるだろう。
「仕方ないですね」
「お、何かやんのか?」
「十日後、この辺りで大きな『喧嘩』があります。ついでに今年は『火事』も起こしてもらうよう、父上にお願いしてみましょう」
「……は? 自分で言っといて何だけどよ、大丈夫か、それ」
「まあ、楽しみにしていてください」
かくして十日後。
暑さも夕刻を過ぎれば引いてゆき、心地よい夜風が川上から流れてくる。いつもなら暮れれば巣穴に帰る人々は、今日に限ってそわそわと肩を揺すり、火照った顔でそれを待っていた。
やがて遠くから、音が近づいてきた。
どんどんがらが、どんがらが。ぴらぴらぴろり、ちんちろり。
太鼓の響き、笛の旋律、鐘の鳴り。そしてひとつの巨大な神輿を中心に、全裸に近い格好の男たちが荒れ狂っている。
「これが……江戸の喧嘩?」
「はい、それから――」
高く細く、笛のような音で昇っていく一筋の光。ドンと爆発し、夜空に大輪を咲かせた。
「うおおおお!」
トキチは思わず叫び声を上げる。私の心臓も開花の衝撃を浴びてびりびりと震えた。
「これが江戸の火事です。華があるでしょう?」
噂に聞いただけなら――「江戸の喧嘩は祭ごと、火事というのは大花火」。そういうことにしてしまえば、いい。騙すようで申し訳ないが、火事や喧嘩など「江戸の」と冠したところで見るほど価値のあるものではない。
「すげえ! こんなの、見たことねェよ!」
火は次々と空へ打ち上がる。トキチは我慢できないというように身を乗り出した。
「もっと近くで見ねェと!」
「行ってらっしゃい」
「馬鹿言ってンじゃねェ、おめえもだよ!」
「えっ、ちょっ――」
あろうことか、トキチは背後から私に憑りついた。意思に反して勝手に足が動き始める。
「ちょっと!? 嘘でしょ!」
二階の窓から飛び降りようとするので、慌てて窓枠をつかんだ。
「ま、待ってください! 私は外には――」
「死にゃしねェよ。おめえの体は自分で思ってるより丈夫だ」
「というより、成仏するんじゃなかったんですか!?」
「さあて、何のことだか」
抵抗むなしく、私は大声で叫びながら窓から飛び出した。
道行く人々の怪訝な視線が刺さる。どうやら婚期は、まだしばらく先になりそうだ。
火事と喧嘩と江戸の華 春永永春 @eishun
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