フライング・ダッシュ

今田ずんばあらず

フライング・ダッシュ

 高校の入学式が終わり、クラスで生徒手帳を手にした途端、思わず声を上げそうになった。

 僕が想像していたものよりもずっと分厚いのだ。何かの間違いじゃないのかと思いたくなる。

 ページをめくっていると、その五分の四くらいが全て校則だということに気が付いた。クラスメイト達が揃って溜息を洩らす。僕みたいに驚愕する人はいない。諦観の嘆息であった。この高校の校則は厳しい。家から近い、というメリットしか目に入ってなかった僕にとって、それは衝撃の事実だった。


 担任の先生は規則という名のおやつを好んでお茶を呑んでそうな老教師だった。はじめのHRは、七十ページにも及ぶ校則の説明だった。先生は抜粋した条項を念仏のように読みあげる。クラスは初対面の人ばかりだから、一定の緊張感はあるけど、さすがに退屈だから空気がだれてしまう。居眠りを開始する人も現れた。


 僕は後悔していた。こんなことなら、ワンランク下の学校でもよかった。だからと言って自ら退学を申請するほど馬鹿でもないし勇気もない。



 校則第十二条一項。生徒諸君の恋愛は認めないものとする。

 第二項。恋愛と見なす行為は以下の行為とする。

 一、授業目的以外で男女が一組になって活動すること。

 二、授業目的以外で男女が一組になって活動する予定を立てること。

 三……。

 四……。



 文字の羅列を読み解いていけばいくほど息が詰まってくる。高校デビューもできない。部活のあと部室でゆっくり語らうこともできない。ここだけ戦前じゃないか。三年間窮屈な生活を強いられるのだろう。


 突然、教室のドアが音を立てて開かれた。


「初っ端から遅刻しやしたあ!」


 奴はドアの前で仁王立ちになって、クラス全員の視線を浴びていた。まだ桜の季節だというのに五分刈りに剃られた頭。オランウータンを髣髴とさせるのっぺりとした丸顔。第二ボタンだけはめ忘れている学ラン。図体は大きいくせに、短足で低身長。お世辞にも女性にもてるような種族ではなく、僕らと同類の波長を持っている。


 遅刻してきた阿呆よりも、規律がんじがらめの校則のほうがまだ関心がある。

 そう思って配りたての手帳に目を移したその時、奴の背中から伸びる大きな白い翼が視界に入って、僕は彼の姿を二度見する羽目になった。


 翼。


 間違いない。それは翼か、あるいは翼を模した羽毛布団だろう。音を立てて翼は揺れ動く。雄大で荘厳で端麗なものだった。オランウータンのずんぐりむっくりには不相応極まりないけど、僕は覚えず見とれてしまっていた。


「何やっとる」

 校則第十二条四項を音読していた老担任が空咳をする。


「入学式で遅刻した者は三十一年の教師人生で初めてだ。君、名前は」

「丸山則夫っす」

「丸山、あとで生徒指導室に来なさい。生徒手帳持って、そこの空いている席に座れ」

「以後、気を付けます」


 丸山則夫ははきはきとした口調で一礼し、窓寄り後方の席に座った。すでに先生はお経のように校則第十三条一項を読み、生徒は校内刑法を黙読する作業に戻っていた。

 翼に関する言及は一切なかった。どういうことなのか、僕にはどうしても理解することができなかった。言及しないまでも、「丸山君、その付け翼は近頃の流行りなのかね?」の一言があってもよさそうな気がするのだが、それすらもない。クラスメイトだって、もっと驚いてやってもいいではないか。無関心を貫くほどこのクラスは冷たいのか?


 翼が気になって仕方がなくて、彼をずっと観察していた。僕と丸山則夫の対角線上にいる女子生徒が僕に気が付くと、あからさまに拒絶を示す反応を見せた。慌てて手帳に顔を向け、字面を追う。恋愛禁止だからといって自ら出会いを断とうとは微塵も思っていない。


 規則の厳しさにぬかりはなかった。染髪、禁止。マニキュア、禁止。スカート、膝上三センチに統一。学ラン、平常第一ボタンまで、行事の際は詰襟フックまで。違反者には、軽いもので担当教員の厳重注意。それでも収まらない場合は停学も退学も辞さない、と好戦的な活字が淡々と並んでいる。

 でも、「背中に翼を生やすもの、及び翼に準ずるものを着用する者は二週間の停学処分とする」という条目は、五回読み返してもなお見つけることができなかった。


 クラスのみんなは彼を珍しがったりしなければ、異質な存在だと忌避することもなかった。ごくごく普通の同級生として、特に深入らないあっさりとした付き合いをしている。

 気味悪いほど自然な振舞いをみんなしているから、もしかしたら翼の生えた人間はどこにでもいるような存在なのかもしれない。いや、僕だけにしか見えない存在なのだろうか。でも翼がぶつかりそうになるとみんな反射的に顔を逸らしているから、とりあえず認知はしているらしい。でもそれは取り上げるまでもない当たり前のものなんだ、と思うことにした。




 丸山則夫と話すようになったのは、野球部の見学で彼の姿を見つけたのがきっかけだった。第二ボタンをはめ忘れているのは相変わらずで、肩肘を張って先輩のノックを見ていた。やはり他の見学者も先輩も存在感のある彼のことを気に留めていない。僕は生唾を呑み、彼に声をかけた。同じクラスの誰それだと名乗ると、丸山則夫は凝り固まった顔をはじけとばすようにふっくらとした笑顔を咲かせた。


「よかった、知り合いが誰もいねえから心細かったんだ」


 口振りと図体に似合わない台詞を吐く。言われてみれば、見学に来た他の一年生たちの中には友人と喋りながらノックを眺めている人もいる。こういうのを見せつけられると、どうも不安になってしまうのが、人付き合いの苦手な僕みたいな生物の性なのだ。


「お前、中学でも野球やってたのか?」


 丸山則夫が訊いてきた。


「まあね。六番サードだったよ」

「サード! 花形じゃねえか、カッコいい」


 彼は目を輝かせ、うっとりと翼をはためかせる。土埃が舞った。翼と筋肉質の背中は、細胞単位で繋がっていた。


「俺は二番レフトだったぜ。スライディングキャッチで右に出る者はいねえって断言してもいい」


 フライングキャッチはしないのだろうか、と心の隅で思ったけど、さすがにそれは訊きたくても訊けない。


「行くぞ、ファーストォ!」


 ノッカーが一塁手を指さす。ファーストは雄叫びでそれに応じた。キイン、と金属バットの心地よい音がする。中学の軟式ボールの音とはまるで違う。僕は震えた。

 でも、打球はファーストではなく、セカンド方面へ突っ走っている。それでもファーストは捕れるわけないのに全力でダイビングする。ボールは選手の一メートル先を抜けた。


「とりあえず捕れない球でも飛び込んで、俺ホンキっすからアピールするよな」


 丸山則夫がぽつりと言った。不意を突かれて吹き出した。


「ああ、やるやる! とりあえずユニフォーム汚しとけってね。あとさ、来訪者にはとりあえず挨拶しちゃったり、帽子かぶってないのに帽子とる仕草しちゃったりな」

「帽子は体の一部だな」

「その定義、どこに行っても変わらないんだなあ」




 気付けば、丸山則夫と僕は腹を割って話せる友になっていた。

 一ヶ月が経つと、高校生活の基本方針、クラスや部内での自分の立ち位置が粗方決まる。誰がいじりやすく、誰がボケをかますのか。中心となる人物も決まりだす。

 則夫は活き活きしてる人だった。校則に縛り付けられていながら、自然とその中で楽しみを見出せるような才能を持っていて、特別規則を苦に思ってないようであった。彼の傍にいることで、僕は中の上あたりの穏便な位置を占めることに成功した。


「マルちゃん、バースのマネしてー」


 昼休み、僕と則夫と男子バドミントン部の二人と男くさい弁当を食べていると、女子の一グループが馬鹿げた要求をしてきた。マルちゃんとは則夫の愛称だ。どこから則夫がバースのマネができることを嗅ぎつけたんだろう。


「よっしゃ、任せとけ」


 則夫は翼を大きく広げ、バースがバッターボックスに入ってから空振りするまでの動作を忠実に再現した。彼のマネするバースはダイナミックなスウィングと特有のシャープなフォームを兼ね揃えていて、涙が出るくらい神々しいものであった。

 でも野球なんて球と棍棒を振り回すだけのスポーツだと思ってる彼女たちには、則夫の計算されつくしたシンクロだってサルのハードル越えや道化師の玉乗り程度の価値しか有していないのだ。それを知っていてもなお僕みたいに嫌な顔をするでもなく、彼は頼みを快諾して完璧なパフォーマンスを提供する懐を持っていた。


 則夫は穏やかな人気者だ。翼のあるないの問題じゃない。人々は則夫という人間に魅入られているのだ。僕はその尻にぶら下がる金魚のフンだった。無駄に脚光を浴びるよりかはマシだけど、でもやっぱり羨ましい。


 放課後になると僕らは早足で部室に向かう。ベースやボールを準備するのは一年の役目だからだ。だらだらしていると先輩に怒られる。また、正式に入部した部員はユニフォームでないとグラウンドに入ってはいけない。第二十二条、グラウンド使用について、の欄にそう書かれていた。これを破ると一週間の放課後グラウンド使用停止の刑に処される。だから大慌てで白地のユニフォームに着替えていた。


「わりい、ちょっと手伝えるか」


 スパイクの紐を結んでいるときに則夫から声をかけられる。


「なんだよ」

「羽が出てこねえんだ。テキトーに穴から引っ張ってくれねえか?」


 瞬間心臓が飛び跳ねそうになった。思わぬ人から禁忌の単語が顔を覗かせた。彼は何も気にしていないのか、背を向けると、翼用と思われる穴がユニフォームとアンダーシャツに開けられていた。自分で切ったのか、波型の楕円になっている。息を呑んだ。

 茫然自失としていると催促されたので、結わえてない靴紐を引きずりながら近付いた。


 誰からも興味を抱かれない翼に触れる。生温かな感触の奥に、弾力のある鈍さを感じた。猫と蛙を足して二で割ったような生命体に接しているような気分だ。それはアンダーシャツの内側で詰まって丸まっていた。羽を抜かないよう、慎重に、丁重に引き出す。壺の中に入って出られなくなった猫蛙を救出する感覚だ。でもそれはミャアともゲコリとも鳴かず、胸肉の切身のように沈黙している。


 何十秒か何分かのち、ようやく羽毛だらけの猫蛙の救助に成功した。二歩下がると、則夫は翼を二回はためかした。鶴のそれと大差ない舞だった。


「サンキュー。助かった」


 ユニフォーム姿の則夫は日焼けした真っ黒い顔を綻ばせた。歯の真っ白いのが際立って見える。いつも通りの表情を見てようやく幻覚から醒めたんだと認識した。

 部活中、一年は球拾いやその他雑用に従事させられる。どうせ三年生が引退したら消滅してしまうこの役職に存在意義があるのかどうか定かでないけど、それでも則夫はこの単純労働に専念して汗を流していた。則夫がその気なら、僕も頑張らないわけにはいかない。


 結局この日もバットに触らせてもらえなかった。先輩たちもこの学校の規律電波に洗脳されているんだ。意味ないことなのに、伝統だからと形骸な理由づけをして何も考えちゃいない。則夫が平然としているから僕も平然としているけど、多分彼がいなかったら一ヶ月も満たないうちに辞めていたと思う。


 先輩たちが帰宅してもボール磨きは続く。終わったときにはもう日は西に隠れてしまっていた。もうくたくたで、家に帰って熱い風呂に入りたかった。


「海まで走りに行こうぜ」


 一方則夫はまだ元気を持て余している模様だった。学ランを羽織って、溜息を吐いた。


「やだよ。早く風呂入って寝ようよ」

「何言ってんだ。お前は歩いてすぐのところに家があるからいいけど、俺は電車通いだぞ。風呂入って寝たいのは電車に揺られる俺の心情だ」


 パンツ一丁の則夫はやけに強気なことを言う。


「いいか、このまま延々と球拾いしてたらマジで体力なくなっちまう。ちょっと前まで受験生やってたんだからなおさらだ。それに――」


 片手を腰に当て、もう片方の手は僕に指し向けられた。


「どうせ風呂に入るんだ。もう一汗掻いてからの方がお得だぜ」


 ケチな奴だと思った矢先、ふと彼が風呂に入る姿を想像した。お湯につかった則夫と、そして背中の白毛の猫蛙。水でぴったりと肉に張り付いた羽はどれほどの重量を持つんだろう。さぞかし乾かすのが面倒臭そうだ。


「なるほど、一理ある」


 いたずらに便乗する小学生みたいに、僕はほくそ笑んだ。彼といるといつでも少年時代に戻れるような気がした。なんだってできるんだと思っていた、あの頃に。

 自宅に僕と則夫の荷物を置き、ユニフォームに着替えなおす。軽くストレッチをして、住宅街に出た。茜色の空から藍色の空へと旅鳥が群れをなして飛んでいる。

 翼を上下左右にしながら走る則夫を横目で見る。翼が生えている、という感覚が気になった。リュックサックを常時身に着けている状態と似たものがあるのではないか。でも僕の想像力はそれ以上の広がりが期待できないくらい乏しいものだった。


「翼、いつから生やしているんだい?」


 小さな公園の入り口を過ぎた辺りで、僕はそんなことを口走っていた。訊いちゃいけないことだ、と今になって頭の中で警告が鳴り響く。無神経なことを質問してしまった。カラスがどこかの電柱の上からカアと啼いた。


「お前……本気で言ってんのか?」


 想像以上に後方から則夫の声がする。振り返ると、公園の出入り口にあるリスの石像の前で彼は立ち止まっていた。

 まずい、と思った。

 則夫が一歩、二歩と足を前に動かす。でも僕は後ずさりできなかった。猛禽の眼に串刺しになった鼠の気分だった。


「お前が初めてだよ。羽のこと訊いてくれたのは!」


 彼はまるで十数年ぶりの同胞に出会ったときのような喜びを全身で表現していた。それから僕の両肩を叩いて音を鳴らす。


「初めてって、親も何も言ってくれないの?」


 今度こそしまった、と思った。則夫は誤って羽虫を噛み潰してしまったときのように顔をしかめた。


「……よくぞ気が付いた。なあなあ、俺の愚痴を聞いてくれよ」


 でも彼はすぐにしかめっ面をやめて喋り出した。いや、ほんと、ずっと言いたくてたまらなかったんだ、と続く。忘れたい思い出を掘り起こしてしまった、というよりかは、積年の鬱憤をついに爆発させることのできる相手を見つけた、と形容するのが正しいだろう。実に晴れやかな表情だった。


「俺もさ、気になってたわけ。物心つく前からあってよ、だーれもみーんな気にしねえの。俺だけに付いてて、みんなにはないんだもんな。いくらアホな俺でも違和感くらいあったさ。とにかく、こいつのことが見えるのは俺だけなんじゃないかって思って、母ちゃんに訊いてみたんだ。そしたらなんて答えたと思う?

 それがどうした、だぜ! 信じられるか? 可愛い息子の一生抱える悩みの相談にしちゃあ軽すぎだろうが。まるで、あって当然道端の石ころみたいに言いやがる。これは疑問に至るまでもない平凡なもんだって、みんな感じてるみたいなんだ」


 自問自答を口からそのまま放流していた。僕はどうすることもできず、ただ必死に言葉の理解に努めていた。冷静に考えてみると。小石だと見なされてる彼の翼は地中深くに埋もれているダイヤモンドの原石みたいに貴重なものなのではないだろうか。


「鳥の羽は大抵空を飛ぶためか求愛のために使うもんだ。でもこいつがあっても俺は飛べねえし、関心を寄せてくれる女もいないんだぜ? ただのお荷物、障害! ……そう思ってた頃もあったさ」


「あった?」

「おう。でも今は違う。俺なりに答えを考えて、こいつを背負ってる意義を――ちょっと待った」


 則夫の視線が公園の一点に釘付けになった。演説の続きが気になったけど、仕方なく彼の視線を辿る。

 目を疑った。


 翼の生えた少女が、そこにいた。


 則夫と同じ、純白で、堂々とした翼だ。

 年齢は小学の中学年だろうか。街路灯に照らされて途方に暮れているようにも見てとれる。その手には、紐のような……いや、縄跳びだ。縄跳びを持った翼の生えた少女がいる。

 丸山則夫以外にも存在するのだ。彼が特別なのではない。ただ知らないだけで、ちょっと見まわしてみると、案外則夫や少女のような人はすぐ見つかるのかもしれない。


「嬢ちゃん、どうした」


 暗闇からの男の声に、少女は一気に警戒心を強めた。けれどもその声の主が自分と『同種』であることに気が付くと、遠くからでもわかるくらい、目をまん丸くさせて坊主頭の男を見た。それから緊張をほぐすまでそう時間はかからなかった。


「どうしても縄跳びができないの。何度やっても背中で引っかかっちゃって。クラスで一回も跳べないの、私だけなんだ」


 だから誰もいないところで練習してるの、どうせムダな努力なんだろうけど、と少女は言った。僕なんかよりもずっと大人っぽい口調で、現実的な「しょうがない精神」を宿した子だった。それとは裏腹に、小さな手にはラメ入りで桃色の縄跳びを握ってるし、髪はキティちゃんの髪留めでサイドポニーテールにしてまとめられていた。


「ちと、貸してみ」


 妙案が浮かんだのか、則夫は少女の縄を手にした。一度それを広げ、まじまじと眺める。久々だからどうだろうかなあ、と独り言をするなり縄を跨いで構えた。そして、勢いをつけることなく平然と前跳びをしてみせた。ボクサートレーニングのように片足ずつリズムよく踊る。風を切る音と土を叩く音が日暮れの公園に寂々と響き渡る。少女はじっとその様子を見守っていた。


「どうよ?」


 十数秒跳び続けていた則夫は、誇らしげな笑みを洩らして縄跳びを返却する。受け取った少女はいまだに上の空だった。


「どうして跳べるの? あなただって……」


 「だって」の続きは、言わずとも理解できた。


「簡単さ。身を縮ませて……そうだな、自分を抱きしめるようにしながら手首をうまく使って優しく回してやればいいんだ。あとはタイミングよくジャンプすりゃいい。やってみ」

「そんなこと言ったって、どうしても引っかかっちゃうんだもん」

「コツ知らねえだけだっての。ほら、教えてやっから」


 少女はまだ言い足りていないのか、それとも思った通りの返答でなかったのか、不満をあらわにしていたけど、しぶしぶ前まわり跳びの姿勢をとった。その時のフォームをあれこれ指導する則夫は、クセだらけのバッティングフォームを矯正する少年野球部のコーチみたいだった。


「これで、力を抜いた状態を保ちながらくるっと回せば万事オーケーだな」

「そんな、ムチャなこと言わないでよ」

「平気平気。案外楽勝だから」


 ぶつぶつとぼやきながら縄を回転させる。縄は背を越えた。どこにも引っかかることはない。それから頭上を越え、少女の前方を通過した。少女は大地を蹴り小さなステップを切った。


「跳べた……」


 それは一秒にも満たない刹那のことだった。でも少女にとって一万秒の価値があったんじゃないかと思う。僕にもそれに近い価値があった。


「なんだって挑戦してみるのが一番なんだよ」


 則夫はあまりの衝撃に黙り込んでしまった少女に囁きかけた。


「工夫してみるとな、実は不自由なことなんて何一つねえもんなんだぜ? 縄跳びだって、野球だって、なんだってな」

「……それでも、どうしてもできないことだってあるんじゃない?」


 少女は少し意地悪なことを質問した。


「そうだな、ユニフォームん中で詰まって出せなくなっちまうと、誰かに手伝ってもらった方が手っ取り早いもんな」


 と、彼は一笑で意地悪をはねのけてしまった。


「そういうときは、誰かに助けてもらえばいいだけの話だ。ほら、なんだってできる」

「それを『できない』って言うのよ」


 少女にもあっただろう過去の衝撃は、きっとそんなあっさりと消去できるもんじゃないだろう。僕もそういう記憶は胸の中に植わってしまって、なかなか摘み取ることが難しい。

 きっとそれは、則夫も変わらない。


「そう悲観すんなって。俺たちが背負ってるのは鎖じゃねえんだからよ。今はそうとしか思えないかもしれんが、そのうち大切なものだってわかる日が来る。そう思ってる」

「本当かな?」

「きっとな」

「なにそれ」


 少女は胡散臭そうに則夫を睨んだ。それでも彼は明るく輝いて見えた。


「まあ、一度お母さんに縄跳び見せてみるわ。褒められるかどうかなんて期待してないけどね」


 翼の生えた少女は、やはり僕より大人っぽい神妙な物言いでお礼を述べた。

 少女の去った公園は、完全に夜の空気に覆われていた。


「ランニングしに来てよかったろ?」

「まあね」


 嬉々とする則夫に、僕は冷静な調子を意識して答えた。


「ま、こんなもんはよ、関心もたれるような代物じゃねえけど、少なくとも俺に考えさせる機会を与えてくれたんだ。お前も疑問に思ってくれたし、俺みたいに悩んでる人が他にもいるってこともわかった。それだけで俺は充分なんだ」


 やはり、彼が羨ましいと思えるときがある。丸刈りでオランウータンで短足で低身長だけど、僕にはないものを持っている。背中から伸びているそれではない。それに象徴されるものを、それを手に入れる術を、則夫はちゃんと知っているんだ。


「よっしゃ、もうひとっ走り行くか! 海まで競争な!」


 彼は翼を大きく羽ばたかせ、いきなり全力で走り始めた。


「おい、フライング!」


 放漫な則夫に、僕の強靭な体力を見せつけてやろう。そう心に決めて、僕も走り出した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

フライング・ダッシュ 今田ずんばあらず @ZumbaUtamaro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ