甘いご褒美

阪木洋一

甘いご褒美


 今、少年は絶望の淵に立たされていた。

 死刑執行前の土壇場だとか、はたまた全世界が地獄の業火に焼き尽くされて何もかもがジ・エーンドだとか、そういう得体の知れない類のものではないのだが。

 それでも彼は、あと一押しで奈落へと真っ逆さまに落ちていきそうな心境であった。多分。

 何でそうなっているのかって。

「ミスったぁ……メチャクチャにミスったぁ……」

 しっとりとした髪をクシャクシャにしながら彼が突っ伏している机の横には、五枚のA4用紙が置かれている。

 全て――先週に行われた、二学期中間テストの答案用紙だ。

 それぞれ採点および返却済みのもので、国語・社会・英語・理科・数学の順番に、五教科が揃っている。

 無論、『三年四組 白菊英介しらぎくえいすけ』と書かれている学年クラスおよび氏名の近くには、成績を表す数字が書き込まれていた。


 国語:89点

 社会:90点

 英語:81点

 理科:75点

 数学:45点


 合計380点。平均にすると76点。

 悪くない点数である。総合的な学年順位にしてみても、平均よりは上のほうだろう。

 だがしかし……彼を深刻な状況に陥らせているのは、やはり。

「なんで……なんで、数学だけはいつもいつも……いつもーっ!」

 他の教科と比べると群を抜いて悪い、この『45』という数字から来ているのだろう。

 そう。

 彼――白菊英介は、数学が苦手であった。他の教科は良いというのに。

 国語、社会、英語はこの点数が示すとおり、得意教科だ。

 理科に関しても計算だけではなく暗記項目もあることから、高得点とはいわずともそれなりの点数を確保できる。

 だが、数学は駄目だった。数学だけは駄目なのだ。

 あの数式の陀列を見ると、すぐに混乱してしまうのだ。

 幼い頃からの苦手意識も相まって、思いっきり深みに嵌ってしまうのだ。

 苦手を克服しようと努力しても報われず、本番でもガッチガチなのだ。

 そして……今回も、そうだった。

 高校受験も近いと言うのに。

 しかも、自分が志望している高校は、最低でも五教科平均80点くらいの学力は要せられると言うのに。

「やっぱあれですかっ! あの時のあの問題か、あの問題なのですかーっ!? それが連鎖して、僕があいつで、あいつが僕でとか(中略)で(中略)なそんな負のスパイラルを繰り返したと言うのですかーっ!」

 ごろごろごろーっ、と部屋の中をのた打ち回りながら、意味不明な言葉を並べ立てる英介。

 家の人とか居たら思いっきり怒鳴られそうな光景だったが、生憎、彼の家は母子家庭であり、その母親は現在仕事で居ない。

 嗚呼お母さん。いつもいつも苦労かけています。でも、今回もなんか駄目でした。ゴメンナサイ。自分で自分が恥ずかしいです。

 もはや、頭の中は謝罪のオンパレードである。

 ……実際、他の教科も平均もいいことだしで、これくらいでは母は怒ったりしないのだが。

 やはり、自分が生まれてから十五年数ヶ月と言う歳月、彼女は女手一つでここまで育ててくれたのだから、目標を叶えて安心させるくらいしないと、思いっきり申し訳ない気持ちになる。

 そして今、実際に申し訳ない気持ちになっている。

「すいませんごめんなさい申し訳ありません誠に遺憾と思う所存でありますいやマジ御免お許しくださいいやホント許して――」

 未だに部屋の床に転がって悶々としつつ、英介が頭の中で謝罪の言葉を幾千も並べ立てていたところで、


 ガチャリ


「やっほー、英ちゃん。鍵開いてたから、勝手に入っちゃったよ?」

 部屋の戸が開き、長身ともいえる一人の少女が入ってきた。

 髪はロングのポニーテール。朗らかでどこか大人びた綺麗な顔立ち。スタイルもほどほどに良く、白のブラウスにチェックのスカートと、近くの女子高の制服姿。

 英介にとってはよく知る人物であり、憧れであり、元は中学時代の一つ上の先輩であり、そして自分が男女のお付き合いするには実に勿体無いとも言える女性だ。

 転がる自分の頭がドアの方に向いていたためか、彼女の顔が逆さに映っているのが悔やまれる。

「い、伊吹先輩……?」

「うん、伊吹いぶきかなたちゃん、ただいま参上」

 ともあれ。

 少女、伊吹かなたは、朗らかで明るい笑顔のままで、こちらに向かってビシッとVサインを決めて見せる。

 だが……生憎、床を転がったまま英介にはそのVサインが見えていない。

 Vサインの奥――その、わずか下、未知の領域に、英介の視線は釘付けになっていた。

 これは言うべきか、言わざるべきか。

 でも、愛する先輩の前で、隠し事はご法度だ。

 正直に言おう。 

「先輩。登場シーンがバッチリ決まったところ悪いのですが、一つ言いたいことが」

「ん、どしたの、英ちゃん」

「パンツ見えてます」

「…………」

 刹那、英介の顔面にかなたのスタンピングが炸裂した。



「駄目だよ、英ちゃん。小母さん居ないときは、きちんと鍵かけとかないと。あと、あたしのパンツを無許可でのぞいたりすることも」

「申し訳ないです、いやもう、ホント……」

 部屋備え付けのちゃぶ台の向かい側に座って(無論座布団付き)、かなたがやんわりと注意してくるのに、英介はほとほと恐縮してしまい、小柄な身を更に萎縮させていた。

 普段ややエロい英介なら、『無許可では駄目ってことは、許可があったらのぞいたりしてもいいんですかっ!』とツッコミを入れそうなものなのだが、そこまで思考が行かないほどに、彼のテンションはデフレーションの限りを尽くしている。

「で……英ちゃんが無様に転がっていた理由はと言うと、この数学のテストにあるわけだ」

「はい……」

 なんか今、思いっきり毒なことを言われたような気がするが、やはり突っ込めるテンションがない。  

 英介はガックリ肩を落としながら、ただただ彼女の言葉に頷くのみである。

 そんな自分のことをどのように感じたのか、かなたも一つ大きく息をつき、『んー』と眉をひそめて見せた。

「確かに、気持ちはわからないまでもないよねぇ。あたしも中学の頃はわりと得点良くなかったし、高校の選択でも文系選ぶつもりだし」

「はぁ、そうなんですか」

「やっぱアレなのかな。こう、バストサイズと数学の成績は反比例するという」

「へぇ……って、どこからそんな不文律がっ!?」

「実際、木葉もあたしと同じく数学は芳しくないそうだよ。由梨は結構良かったっぽいけど」

「……なるほど」

 実例を用いられると、結構納得できるようになる。人間とは単純なものだ。

 と言うことは、自分が数学苦手なのも、胸のサイズが――

「って、男の僕には関係ないじゃないですかっ」

「ゑー? 英ちゃん、小柄に見えて鍛えてるから、ホラ、胸板の辺りが逞しいというか」

「それって結構無茶ありますよねっ」

「あたし、その胸に抱き締められたらホッとしそうな感じになるかもしれない」

「……たった今、無茶に聴こえないようになってきましたっ」

「だからといって、数学苦手のままっていうのもいけないしねぇ」

「ヴァーーーーーーーーーッ!」

 結局、頭を抱えてゴロゴロと床を転がる羽目になった。

 かなたはそんな英介の様子をカラカラと笑いながら見守っている。

 嗚呼、先輩、ヒドイじゃないっすか。確信犯ですか、確信犯ですよね。でも、今の僕は結構無様なんで、そうやって笑われて当然なのかも知れないです。思う存分笑ってやってください。いやもうホント、生まれてきてゴメンなさい――

 と、そこまで考えていたところで、ふと、英介は気づいた。

 いつしか、かなたが、転がる英介の傍らに正座して、こちらに向かってシリアスな視線を向けていることに。

「先輩……?」

「さて、ここで問題です、白菊英介くん」

「……問題、ですか」

「キミはこれから、どうするべきでしょう?」

「え……ど、どうって、どういうことですか?」

「わからないかなぁ。じゃあ二択問題にするね。


 1.ここで苦手は苦手と諦めて悶々としたままでいる

 2.どんなにカッコ悪くても最後まで足掻いてみる


 さあどっち?」

「――――」

 どっち、と訊かれると、もはや答えるまでもない。

 どんな時でも、絶対に諦めないこと。

 それが、伊吹かなたの信条であり……その強い意志に、英介は憧れた。尊敬した。一発で惚れてしまった。

 あの日。かなたの中学卒業の日。

 結局、英介はその日まで長年抱いていたこの気持ちを彼女に伝えることが出来ず、この想いが叶うことはないと諦めかけたときも……この意志を思い出し、諦めず、勇気を振り絞って、校門を去ろうとする彼女に声をかけた。

 その結果。

 なんと、彼女の方から、告白の言葉を頂いた。

 彼女もまた、あの時は諦める寸前だったらしい。

 でも、英介に声をかけられたた瞬間に、かなたの中で、この意志が強く強く働いて、言葉を出すことが出来たのだ。

 今、こうやって二人が男女として付き合えているのは。

 お互いが、お互いのことを最後まで諦めなかった結果だった。

「先輩。僕は――」

 だから、英介は立ち上がる。

 二人の共通事項を、なくさないためにも。

「諦めません。絶対に、この負けを取り戻して見せます!」

 ちゃぶ台に足を乗せ、目には情熱の炎をめらめらと燃え上がらせる英介。

 元の朗らかな笑顔に戻ったかなたは、そんな自分にパチパチと拍手を送ってくれる。

「おお、よく言いました。偉いぞ英ちゃん」

「はいっ、先輩!」

「でも、結果が伴わなくて、また落ち込みモードになるのはナシだよ?」

「……が、頑張ります」

「あ、どもった。まだそんなに自信回復してないっぽいね」

「…………」

 図星だった。

 実のことを言うと、気合は充分に戻ったものの、それによって実力が付加されるのかというと現実はそうは行かない。

 気合だけで成績が良くなるなら、東大だって受かれる。

 気合が入るに越したことはないが、やはり限度ってものがある。

 だから、英介はこれからこの苦手分野をどのようにして克服するかを考えねばならない。

「英ちゃん英ちゃん」

「……あ、はい、なんでしょうか先輩」

「また重たい感じに考えてたでしょ。どうすればいいのかー、なんて」

「…………」

 もはや何とも言えまい。

 当たったのに満足だったのか、かなたは特に怒っている様子もなく、むしろ柔和な微笑すら見せてくれた。

「もうちょっと楽に考えなよ。それじゃ、折角入った気合も空回りしちゃうよ」

「うう……でも、今度は二学期の期末と言う位置づけですし、ほとんど後がないですから、どうにもプレッシャーが……」

「二学期の期末と言う時期まで来るとね、どうするかを考えるなんてもう遅いんだよ。兎に角、頑張るものなの。おっけー?」

「兎に角、頑張るですか……はい、それなら何とかできそうな気もしますが」

「まだ、余計なこと考えそうな感じだね」

「面目ありません……」

 うなだれる英介に、かなたは『んー』と考えこむ仕草を見せたようだが。

 あまり時間をかけずに、何かを思いついたようだった。

「英ちゃん。あたしから一つ提案」

「? なんでしょう」

「今度の期末で、数学70点以上取って、なおかつ他の教科も今の成績をキープできれば、あたしからご褒美が出ます」

「ご褒美?」

「うん。――チューしてあげよう」

「はぁ、チューですか……って、チューですかっ!」

 一瞬、マジで焦った。

 実は付き合い始めて半年経っているが、英介とかなたにはいまだにキス経験はない。

 甲斐性ナシとか言われそうだが、自分は今現在受験生であることから、そう言う機会や過程とかがあまり生まれてなかったのだ。

 それだというのに、きちんと待ってくれている先輩には、もう感謝やら有難さやら申し訳なさやらで一杯である。

 だが、やはり。

 素直に喜ぶべきなのだろう、これは。

 彼女の言うとおり、とにかく頑張るべきなのだろう、今は。

「やる気出た?」

「……ええ、出ました。僕にもう迷いはありません。何が何でもやってやります」

「よし、その意気その意気。じゃあ……」


 ちゅっ……


「――――!?」

 その時を迎えた瞬間。

 無論、英介の思考は太陽の輝きよりも真っ白になった。

 先輩、今、何をしました、何をしましたかーっと後で思考の絶叫を付け足そうとしても、脳の容量が足りてない。

 ただただ、唇の感触だけが、リアルに、かつ鮮明に、残っている。

「ふふ……ま・え・ば・ら・い♪」

 そして、そんな、人差し指を唇に当てつつ。

 いつもは大人びているのに、今は愛らしい悪戯っ子のような、彼女の赤面顔なんて見ると。

 もはや、ヒートを通り越すしかない。

「さ、これで、なにがなんでも英ちゃんは良い成績を取らないといけないね~」

「…………」

「退路ナシだよ! 頑張ってね、英ちゃん!」

 ポンポンと肩を叩いて激励の言葉を贈り、部屋から退出する我が先輩。

 英介は、未だにショートしている。

 されど。

「……よ」

 されど。

「……よ……」

 されど……!

「よーーーーっしゃああああああああああああああああああああああっ!」

 されど、我は戦意高揚!

 決意と、歓喜と、覚悟と、情熱と、そして彼女への想いの全てを込めて。

 白菊英介は、前へ進むための絶叫を上げるのだった。

 ……その絶叫を耳にしつつ、閉めた戸の裏で、かなたが『うわー、やっちゃった、つい勢いに任せてやっちゃった……!』と顔を真っ赤っかにしてへたりこんでいたのは余談。



 一ヵ月半後。

 二学期末テストにて、英介は、五科平均90点オーバーという驚異的な伸びをたたき出した。

 よく頑張りましたと言うことで、かなたからは追加のご褒美が与えられたのだが。

 その内容については、ここでは割愛させていただくものとする。

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甘いご褒美 阪木洋一 @sakaki41

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