王を殺すということ。

@9mekazu

王を殺すということ。

「あぁ、もう五月蝿い。ならばこの身で慰めてやろうか」

 シビュラが肩ひもをずらして引き締まった胸を露わにする。

 アエアーシスはシビュラを睨みつけた。

 牢獄の中で、陰鬱としていたアエアーシスは、先に投獄されていたシビュラに愚痴をこぼして続けていた。

「つまり、だ。大切な妹を言葉で汚されて、復讐したというわけか」

 男娼と嘯くシビュラは、なるほど確かに美しい顔立ちをしていた。アエアーシスがもし放蕩暮らしに飽きた貴族の息子だったなら、誘いにこれ幸いとのったかもしれない。随分と古代神を冒涜した名前だが、誰もがシビュラの容姿に背徳を忘れ見惚れてしまうだろう。それだけシビュラは女性的であり、男性的であり、ゼウスに選ばれた少年のようであった。

 翻して、アエアーシスはどうか。かつては村一番の狩人だった逞しい体も長き放浪生活でとうに失い、今は葦のようにひょろりと痩せ細っていた。失踪した父を捜すために国中を歩き回って路銀も尽き、今では三日に一度の食事にありつければいい方だった。

 それでもアエアーシスは村へ帰らなかった。

 アエアーシスは妹のクレウィーニアと「必ず婚儀までに、父を連れて戻ってくる」そう約束をしていた。

「私のことを痩せ犬と馬鹿にするのも、村から逃げ出した父を罪人扱いするのも、構わない。しかしクレウィーニアのことを父と密通した汚れた女と呪うのは許せない」

「アエアーシスをからかった男は、きっと酔っていたのだろう。田舎者をからかって、気分を良くしていたのかもしれない」

「だからと言って、シビュラ。神の教えを信じ、神への祈りを絶やしたことのない妹を、こともあろうに、汚れた女と呪われたら、呪い返さずにいられようか。冥府の王に願いでても仕方あるまい」

「そして冥府の王へ聞き届くのを待てず、復讐者として相手を殺したというわけか。だが、殺した相手が、貴族の息子ということまでは見抜けなかった」

「田舎者の私にとって、金の指輪も、藁で作った指輪も、区別はつかぬ」

 アエアーシスは憮然と腕を組んで、自分を閉じ込める鉄格子へ体を持たれかけた。

 即日の裁判、即日の死刑宣告。

「男娼の私が言うのもおかしいが、この国は塩の国、倒壊の国になってもおかしくないぐらい乱れているよ。か弱き女を汚すことは貴族として名乗れないほどの、復讐されて当然の、愚かな行為だ。しかし息子の父は正道を貫く法を金で捻じ曲げ、アエアーシスを無法者として殺そうとしている。そして市民はみな当然と受け入れている。腐りきった元老院や貴族どもを黙らすことすらできない王もまた情けない。この国は愚かな国になった。正道に戻す力、新たな王の力が必要だ」

 シビュラの怖いもの知らずの言動に、当事者のアエアーシスでさえ怯えてしまう。

 されど怯えで死ぬことはない。明日、アエアーシスたちの運命は、剣闘士の戦いの前座として剣闘士の相手となる獅子と戦い死ぬこととすでに決まっているのだから、誰かが王を罵った罪を問うても無意味なことだ。

 幾人もの剣闘士を食い殺した勇猛なる獅子に、無手で立ち向かえるわけがない。

 アエアーシスがかつて村一番の狩人であっても、今までの獲物は逃げるだけの兎と、容易く罠に嵌る猪だけだったのだ。

「きっと私の亡骸で、その愚かな国の税を無駄に費やすことはないだろう。何故ならこの身は獅子に食いつくされるだろうからな」

 アエアーシスは自暴自棄に笑う。

「それでも希望はある。両手両足を拘束された公開処刑ではなく、聖なる審判という名の戦いに臨むのだから、勝てば神によって罪は許される」

「勝った奴などいるのか?」

 シビュラは何も言わず、肩を竦めてみせた。

「父を探そうとしたのが運のつきだ。母を捨て、私たち兄妹を捨て、村を捨てた父など連れ返そうとするべきではなかったのだ」

「それでも最愛の妹がそう望んだのだろう。女というやつは、いつまでも父を追い求めるものだ」

 シビュラが石のベッドに横たわる。

 シビュラも同じ処刑が待っている。

 しかしシビュラはどこか余裕で、死すら恐れていなかった。男娼ならば、そもそも神すら恐れないのだろうが、それでも死に際というのは、神の国を最もよく知る村の司祭でさえ見苦しいものだった。

「……もしかして、逃げだすのか?」

 そう言ったアエアーシスの手首を、シビュラが強く掴んでアエアーシスの体を石のベッドへ引き込んだ。

「もっと私の耳へ近づいて、睦言のように喋れ。牢番に聞かれる」

 アエアーシスもシビュラと愛し合うように、狭い石のベッド上で、シビュラの細くしまった腰を抱きしめた。

 やはりシビュラの体はまるで女のようにしっとりとして甘かった。しかし……とアエアーシスは首を傾げる。シビュラはやわ肌の下に、大理石の像のように固い筋肉を秘めていた。

「私の体を忘れられない男たちが、明日、私を救いだしてくれることになっている。そのあとは、都市を抜け出し、海を越えてエジプトへ渡り、さらに新大陸まで逃げればいい」

 シビュラはアエアーシスの耳たぶを舐めながら囁いた。

「ダメだ!」

 アエアーシスは耳を手で押さえながら叫ぶ。

「何がだい? 突然、神の言葉を思い出したのかい? 私の体の前では、神すら消え去るのに」

 シビュラは艶めかしくアエアーシスへ囁く。しかしその顔は厳しい。よけいな事を言って、計画を潰せば、お前を殺す。青玉色に輝く瞳が、そう告げていた。

「ダメなものはダメなんだ」

「どうしてなんだい?」

 シビュラが胸の中で震えるアエアーシスの頭を撫でる。

「逃げればクレウィーニアの婚儀に出られない。……それはいい。それはあきらめることだ。しかしクレウィーニアが罪人の兄を持った花嫁として、一生、苦しむか、もしくは婚儀すら取り消されては死んでも死にきれない」

 だからこそ、裁判官は情状酌量で、獅子との戦いをアエアーシスに宣告したのだ。生きていれば罪は許され、死しても獅子と戦った者として人の欲望を満足させ、罪は人の口から消えていくだろうから。

 妹のためにも、死ぬしかない。

 アエアーシスはいよいよ覚悟をきめようとした。

「どちらにしても、妹は泣き続け、そのまま体の水を失って、死ぬだろう」

「……どうすればいいと言うのだ」

 アエアーシスはシビュラの細い首に手をかける。

「ならば、森へ逃げればいい」

 シビュラは自分の首にかかったアエアーシスの手を払いのけると、あきれたように大きく息を吐いた。

「森?」

「そうだ、ネミの森へ行けば、罪は許され、さらに、妹は神からも祝福されるだろう。女が祝福される。とても憎々しいことだがな」

 シビュラは言葉と裏腹に微笑みを浮かべる。

「そんなことが……」

 アエアーシスは虚実の怪しいシビュラの提案に飛びついた。騙されて、殺されたとしても、どうせ死刑の決まった罪人なのだ。掴む藁が、触った瞬間にもろく崩れる藁であっても、アエアーシスは掴むしかなかった。

「ただし森に行っただけではだめだ」

「なにかしなければならないのか?」

 苦行か、生死をかけた審判を受ける。神々の時代の過酷な審判の様子が、アエアーシスの脳裏に浮かんでは消えていく。

「残りの生命が山を支え続けるためだけに費やされるのか、岩礁で縛られ満潮に怯え続けるのか、それとも鳥の群れに目を奪われ、唇を毟り取られるのか……」

「普通の人間なら難しいことだが、いや、お前ならもう簡単なことだろう」

 シビュラはアエアーシスの胸にその細くて白い指を這わせる。

「森の王を殺せば、お前は救われる」

 シビュラはアエアーシスの胴体に手を回して抱きついた。

「……殺す」

 アエアーシスは呆然と言葉を繰り返した。

「一人も、二人も、同じことさ」

 シビュラの囁き。悪魔を退ける司祭でさえ、その声に打ち勝つのは不可能だろう。アエアーシスは生唾を飲み込みながら、そう考えていた。




「行け! アエアーシス。森の王を倒して、お前の自由と妹の純潔を勝ち取れ」

 兵士と戦いながらシビュラはアエアーシスを逃した。同じ牢で一夜を共にしただけのアエアーシスのために、シビュラは血路を開く。シビュラの仲間たちが兵士たちと重なりあうように倒れた上を、アエアーシスは見ないようにして走り抜ける。

「お前はいいのか!」

 シビュラは血で汚れた顔で微笑み返す。

「私は偽物の罪人だ。本当の資格を持たない。いっそこの身を罪に汚そうとも覚悟したが……。優しく、信仰あつきアエアーシスよ、新たな王となり、この国を変えてくれ」

 シビュラの言葉が、アエアーシスに重く圧し掛かる。田舎者の自分の両肩に、この国の新しい未来が託された。

「この恩に報いるために、誓おう」

 シビュラは男娼なのではなく、罪を偽り、罪人となって、森の王に戦いを挑もうとしていたのだ。




 森の王は、この国の王の上に立つ、神と等しい存在であった。

 王となるためには、現王を倒し、取って代わるしかない。

 ただし王との戦いは様々なきまりがあった。

 王と一騎打ちで戦い、武器はネミの森に自生する合歓の木のヤドリギしか許されない。

 そしてその聖なるヤドリギ(金枝)を持つことを許される存在は、死刑を宣告された罪人だけだった。

「神となる人間は、罪人から生まれる」

 アエアーシスは弾む息とともに、シビュラが教えてくれた言葉を口ずさむ。

 村にも掟があった。その年の最初の野兎の皮は村長に献上し、その幸運の腕は、村の司祭へ供える。都市の人間からすれば《幸運を自ら他人へ譲渡する》愚かな行為と嘲笑されても、アエアーシスにとっては守るべき掟だ。掟とはそういうものだ。何故と考えることすら許されない。しかしそのような掟でさえ当然と考えるアエアーシスであっても、ネミの森の掟は、信じられなかった。

 罪人しか神になれない。ならば神の名を絶やさないほど深い信仰心を持つ市民の立場はない。神へ近づくために供物を捧げ、身を清めた人間より、神の名を汚す罪人が神となる。そんな悲しい事実があっていいのか。

 ではシビュラが嘘をついたのか。

 いや、それもありえない。

 シビュラは命をかけて、王殺しの役を、私に譲ってくれたのだ。

「今は考えまい。私は王となって愛しい妹クレウィーニアを助けるのだ。それだけでいい」

 三日三晩、走りつづけ、アエアーシスは森へと到達した。

 初めに、ヤドリギを手折り、刺突剣とする。

 そしてシビュラの教えてくれた通り、午前中はじっとして、昼を過ぎてから、太陽を追いかけるように森の奥へと入った。

「ここかっ」しばらく歩き続け、シビュラによって約束されていた聖なる湖に出たとき、思わず叫んだ。

「ここまではシビュラの言うとおり……」

 湖は不思議なことに青く光っていた。

 アエアーシスは周囲を見渡す。

 ここから先は、シビュラも知らない。

 王を殺したものが、新たな王となる。

 王殺しの祭祀の段取りを知っているのは、戦いに勝った今の王しかいないことになる。

「私は、死刑を宣告された罪人のアエアーシス。森の王よ、掟に従い、私と戦え」

 高らかなアエアーシスの声が、深い森に吸い込まれた。

 どこかで鳥が鳴いている。

 ここは冥府か。

 死んだことのないアエアーシスは冥府を見たことない。しかし村の司祭が教えてくれた死後、魂が穏やかに神と共に生きる世界とは、ここではないかと思えた。

 それほど静寂でありながら、濃緑の緑も、白い太陽も、木立ちの影も、そしてどこからともなく吹きつける暖かい風も、アエアーシスがどうしてここに立っているのか忘れさせてしまいそうなほど穏やかだった。

「いや、これは罠だ」

 アエアーシスはヤドリギの剣でふとももを打ち付けた。痛みが脳天まで立ち上り、戦いの気迫が戻ってくる。

 平和の気持ちでは、剣が鈍る。

 春先の狩猟では、どうしても春の女神の息吹を感じてしまって、弓を振り絞る指に手心が入ってしまう。今、まさに、アエアーシスはそんな気持ちに陥っていた。

「殺さなければ、妹が落ちてしまう」

 罪人の一族に連なるものが、村で平和で暮らせるわけがない。

 汚れを祓うと称して、司祭と村長によって、奴隷商人に売られるかもしれない。

 妹を守るためにも、そしてシビュラの恩に報いるためにも、必ず森の王を殺さなければならなかった。

「出てこい、森の王よ! 神なれば戦いから逃げることは許されないはず」

 神が掟を違えることは許されない。

 アエアーシスの声が青い湖のさざ波となる。

 すると、湖の向こうから、小舟に乗った森の王が現れた。

 森の王は、豊穣祭で皆が被る獅子の仮面で、鼻より上を隠していた。

 そして森の王は一言も声を発することなく、波打ち際に乗り上げた小舟から降りて、アエアーシスの前に立った。

「いざ……」

 顔もなく、声もなく、これからどこの誰と殺しあうのかわからない。

 しかしアエアーシスにとったら、その方が良かった。

 狩ってはならないと決められている子兎が大きくなってから狩ると胸が痛むように、殺す相手を知れば知るほど剣は鈍り、殺したあとの気持ちの悪さは筆舌に尽くしがたい。

 実際に、だ。アエアーシスは妹を言葉で汚した男へ詫びを入れるつもりはないものの、やはり死に際の顔がちらついて、アエアーシスの心を今も苦しめている。

 アエアーシスもこれから死にゆく古き王に名乗りをあげず、剣を構えた。

 見届け人は誰もいない。

 無言の森の王から、ヤドリギの剣を振りかざす。

 それをアエアーシスは受けて、さらに返す刀で森の王の肩を打ち付ける。

 二合、三合と剣が互いの体を打ち付けるが、木剣ゆえに致命傷にならない。

 それでも若さに任せたアエアーシスの剣が、確実に森の王の体を紫色へ染め上げていく。

「古き王よ、新たな王に殺されよ」

 動きの鈍った森の王の喉に、アエアーシスはヤドリギを突き立てた。

 森の王は避けたものの、首が切れ、そこから鮮血が吹き出す。

 王は慌てて、手で押さえるが、血の流れを止めることができない。

 濃緑の地面へ折れた大木のように倒れた。

「古き王よ、この世に残す言葉を……」

 せめて遺言を聞くことしか、アエアーシスはできない。

 王が死ななければ、アエアーシスが新しき王と認められ罪を許されないからだ。

「……私も罪人だった」

 ひゅーひゅーと、まるで寒風が土壁の割れた隙間を流れるような息の音が、王の口から漏れる。

 もうすぐ死ぬ。死ぬときは、野兎も、司祭も、神となった森の王も同じだった。

「私の村の司祭は、神託を偽り、妻を凌辱するだけでは飽き足らず、息子と娘を奴隷商人に売ろうとした。私は村の掟を破り、神託を得ることなく、神の代理人である司祭を殺めた。それは子孫のまた子孫、七代先にまで及ぶ、大罪だった」

 森の王が血を吐く。

 森の王を抱きかかえるアエアーシスの手と、唇が瞬く間に震えはじめる。

「私は家族を守るために、罪を雪ぐしかなかった。それには、このネミの森で王となるしかなかった。しかし、森の王となってしまった私は、次の誰かに殺されるまで、この森から出ることを許されなかった。若者よ、ありがとう。いまやっと人に戻れた。私の体は家族の元へ帰れずとも……。若者よ、知っているか? 冥府ではこの世のどこも見えるらしいぞ。娘の幸せな結婚と、村一番の狩人へと成長しただろう息子の姿を見られるのなら、冥府も楽しみだ」

 アエアーシスは下唇を噛みしめて、一気に古き王の仮面を剥いだ。

「父さん! あなたの息子アエアーシスはここにいます。あなたの娘クレウィーニアはもうすぐ幸せな結婚をします。母さんは毎日、父さんの好きだった干し芋を食卓に並べ、父さんの帰りを信じて待っています」

 森の王は口元を綻ばせ、ゆっくりと首を横へ振った。

「勘違いするな、若者よ。その父は、きっと私のような浅はかな父ではない。しかし、若者よ。最後を看取ってくれて、ありがとう……」

 森の王は最後まで、アエアーシスの父と名乗らなかった。

 アエアーシスは慟哭する。

 とうとう父殺しにまで身を落としてしまった。

 掟と法と神が、アエアーシスの罪を赦しても、アエアーシスが己の罪を許せない。

「この汚れた身で、どうして家族の元へ帰れようか。アエアーシスはここで死んだ」

 アエアーシスは父の仮面を被り、父の亡骸を、父の乗ってきた小舟に乗せた。

 これからはアエアーシスが森の王として、生きていかねばならない。

「罪人よ、早くこの身を殺しにこい」

 アエアーシスは森の王として、これから毎日、殺されることを夢見た。

 しかし森を育てる白い太陽はアエアーシスの体を暖め、風はアエアーシスの頬を優しく撫で、森の鳥たちはアエアーシスの耳へ歓喜を届ける。森が新たな王アエアーシスを讃えていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

王を殺すということ。 @9mekazu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ