フィリップは外に出たくない

 鏡を見たときは、ショックだった。

 土気色の肌に内出血と思しき斑点が散らばり、目の周りは塗ったように黒ずんでいる。とどめに白眼の黄濁。瞳がいまだ空の色をとどめているのが悲しかった。思わず息をつくと口の中も黒っぽい紫色だった。爪や指先がものすごい色になっていたのは嫌と言うほど見ていたので覚悟はしていたつもりだったが、やっぱり駄目だ。やけくそでシャツをひきむしるように脱いだ。斑点は身体中に浮いていた。背中を鏡に映せば、一面に紫色が、地図のように広がっている。死斑だ。

「死んでるよ……」

 シャツを片手にぶら下げて、フィリップは長身を折り曲げた。洗面台に顔を突っ込まんばかりだ。死んでいた。フィリップは完膚なきまでに、完全無欠に、誰がどう見ても、死んでいた。ただ一般的に死体は我が身の不幸にうちひしがれたりはしないので、事情を知らないものが見たら特殊メイク済みの役者かなにかと思うだろう。

 フィリップはシャツを羽織って洗面所をあとにした。外側がこれなら傷みやすいとよく聞く内臓はどうなったのか恐る恐る悪魔に聞けば、「取り替えた」という身の毛もよだつような答えが返ってきたので深く考えるまいと決めたのはきのうのことだ。まだフィリップの意識がぼんやりしていた頃に白い服を着た人物が出入りしていた記憶がある。たぶんそれが医者で、どうにかしたのだろう。死体の修復が医療行為に入るのかどうかはわからないが。

 こういうときに限って、嫌なことばかり思い出すものだ。例えば、脳味噌というのはいっとう腐りやすいらしいとか。脳味噌まで「取り替えた」のか。その場合、自分は本当にフィリップだと言えるのか。持っている記憶は隅々までフィリップのもので、しかしそれが本当に自分のものなのかわからなく、彼はもう一度洗面台に頭からつっこんだ。


 悪魔はずっと寝ている。はじめは処理の手配などしてくれて疲れているのだろうと思い、礼を言ったところ「どうすりゃいいのかわからなかったから、全部他人に任せた」との返事が返ってきた。服も悪魔の知り合いのお古らしく、その人(悪魔?)たちにもフィリップは感謝の気持ちを伝えたいのだが、まだその機会がない。というか、フィリップはこの顔で人に会いたくない。悪魔はなんでもないようだが、他人はそうはいくまい。自分でも怖い。

 珍しく昼前に起きてきた悪魔がなにか欲しい物はあるかと尋ねてくれたので、顔を隠せるものが欲しいと伝えた。その結果フィリップのもとに届いたのは、ぴっかぴかのフルフェイスヘルメットだった。

 求めていたものと違う。

 何を求めていたのかと言われれば特に思いつかない。今思えば欲しいものを聞かれて顔を隠すものという返事をする自分も変だった。

 とりあえずかぶってみる。

 脱いでみる。

 ためつすがめつながめる。

(かっこいー、な)

 黒地に青と水色のファイヤパターンだ。生前のフィリップもバイクには乗っていたが移動手段としてであり、特にこだわりはなく「普通のバイク」と言ってだいたいの人が想像するようなバイクだったし、ヘルメットなども「普通のヘルメット」だった。

 そうだとしても。

 バリバリイケイケのバイク野郎に憧れないと言ったら嘘になる。

 悪魔がそんなことを知っているはずないのだから(たぶん、ギュンターも気づいていない)、きっと手近なものを適当に選んだだけなのだろう。それでも、なんだか、いいようのない、うれしさをフィリップは感じた。

 さて、今フィリップが着ているのは何の変哲もない薄手の白いセーターとジーンズだ。野暮ったいとは言わないがお洒落にも程遠い。せっかくこんなに素敵なヘルメットがあるのだから、それ以外ももっとかっこよくしたいではないか。しかしフィリップの服はもらいものであり、元の持ち主が無難な趣味嗜好だったらしくすっきりまとまっている。1枚だけ目をむくようなふりふりブラウスがあったが、見なかったことにしてたたんでよけておいた。確かもう1枚、何かすごい服があった、よう、な。

 フィリップははじかれたように立ち上がって、衣装ケースをあけた。上のほうの服をよける。よける。

 その服も、元はと言えばこのまっとうな服をくれた人のものだが経緯が違い、昔彼が悪魔の家に来た時に忘れていった着替えらしい。かなり長いことたってからお互いそれに気づき、もういらないから捨てといてと言ったものがまだ残っていたらしい。

 下からじゅんぐり、その服を着ていく。ブーツがあれば完璧なのだが、そこまで贅沢は言っていられない。あまり着なれないタイプの服なのでやや時間がかかったが、けっこう様になった、と思う。ズボンと上着の間には帽子もあったが、ヘルメットの上からは被れないのでまた次回。

 その格好でヘルメットを持ち、いそいそと洗面所へ向かう。向かう途中で、もう被る。わくわくだ。心臓が動いていたら鼓動はちょっとばかり早くなっていただろう。

 鏡の前。

 派手なフルフェイスヘルメットをかぶった、いかめしい軍服のやたらでかい男が映っている。

 そう、軍服。軍服なのだ。まわってみたり敬礼をしてみたり遊んだ後、フィリップは悪魔の部屋に向かった。

 部屋の真ん中に鎮座している丸くてでかいベッドに、やはり悪魔は埋もれていた。もぞもぞしているので、寝ているわけでもなさそうだ。本でも読んでいるのか。

「あの」

 声をかけてからしばらくして、悪魔の顔が表面に出てきた。何が起きているのかわからないとでも言いたげに、眼をぱちぱちしている。

「ヘルメット、ありがとっス」

 悪魔は「あー」と「えー」の中間くらいの声を出し、少し目を細めて「いいじゃん」と小声で言った。

「ど、どもっス……」

 もこもことベッドから這いだした悪魔は頭のてっぺんから足の先までフィリップを観察して、さっきよりも深い笑みを浮かべた。「いいじゃん。そういうカッコ、似合うね」

「え、あ」

 顔も何もかも隠れる格好をして似合うもくそもないが、フィリップはその辺のことにまるで気がつかない。ほめられて照れるフィリップを、悪魔はギュンターとは全く違うがこれはこれでいいものを拾ったと思いながら見ていた。 

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フリップは死んだほうがまし 猫田芳仁 @CatYoshihito

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