フリップは死んだほうがまし

猫田芳仁

フィリップは死んだほうがまし

フィリップ。

 20歳、学生。

 金髪碧眼、むやみに背が高い。

 やや内向的、お人よし。


 3日前に、事故で死んだ。


 ***


 彼が目を覚ますと、あたりは地獄絵図と言って差し支えなかった。20歳前後と思しい男女数人が耳や鼻、口から血を流して倒れている。気のせいだとは思うが、全員、死んでいるように見えた。見える範囲ではほとんど苦悶の表情を呈しているが、ただひとり、幸せそうな顔で(ただし、やはり血まみれで)大の字に横たわっている男がいる。

(ギュンター)

 名前を呼ぼうとしたが、声が出ない。

 倒れている人間の中で、唯一見知った顔だ。幼馴染。中学を出るくらいから、浮世離れしている、むしろ頭がおかしいと噂されてはいたが、フィリップは大したことではないと思っていた。たまにわけのわからないことを言いだすことはあったが、フィリップは気にしなかった。ちょっとばかりとんがった個性の持ち主だとは思っていたが。

 神経質で妖精じみた、愛すべき奇矯な男は満足げな笑みを浮かべて微動だにせずにいる。鼻と口のまわりに残る血の跡が冗談のようで滑稽ですらあった。

 確認しなければ――死んでいるのかどうか。

 フィリップは何とか体を起こそうとするのだが、声の出ない喉と一緒でどうにもうまく動かせない。手足が鉛のように重たいというのはこういうことか。指先は動かせる、ような気もするが、凍えたように感覚が曖昧でよくわからない。

「不幸せ」

 唐突に、ひどくだるそうな声がした。

「きみはまったく、不幸せだ」

 きみ、というのは、誰のことだろうか。ギュンターだろうか、自分だろうか。それとも、他の誰かだろうか。

 こん、こん、と、かたい音がした。すぐ傍らに男が立っている。彼はしゃがみこんで、フィリップを覗き込んだ。

「きみだよ、きみ」

 けったいな配色の仰々しい、服と言うより衣装を着た壮年の男が、寝ぼけたような目でフィリップを見ている。少なくとも、フィリップの知り合いではなさそうだった。

「もし、世界の不幸せな人間でランクづけをしたら、きみは今月、かなり上位に食い込むとみたよ」

 フィリップは漠然と、彼はギュンターの知り合いだろうと思った。周囲の言葉を借りるなら、「浮世離れした」雰囲気を着ている。表情や声音の端々から、ギュンターに似たものを感じる。

「ギュンターは、独学で学んだにしてはよい魔法使いだった」

 彼は、面倒くさそうに変な杖で床をかんかん叩いた。いままで変な柄の床だと思っていたがそれは間違いで、面白みのない灰色の床にみっちりと文字だか図形だかわからないものが書きこまれているのだ。

「だが、うっかりやだった。ここと、ここ」杖で2か所、ぐるりと円を描く。その軌跡はぽやっと光って見えた。「順番を逆にしてしまったから、自分まで贄になっちゃった」

 ギュンターが魔法使いだという荒唐無稽な話は、すとんとフィリップの腑に落ちた。魔法使いでなく妖精だったら、きっともっと腑に落ちた。

 だが、彼が魔法使いであることと、この惨状、そして自分に何の接点があるのか、フィリップにはわからなかった。

「しかも、ここ」彼はまた杖で円を描く。単語と思しき数個の記号がひとかたまり、乾きかけの血のようなマルで囲まれた。「綴りが間違っている。だからきみは、ひどく不幸せだ」

 彼はだるそうにため息をつき、どピンクの瞳にあわれっぽい蔭をのせてフィリップを見降ろした。

「ギュンター、彼がここをたったひと文字書き間違えたそのために、フィリップ、きみは生きることも死ぬことも許されない」

 自分が幽霊なのだろうか、とフィリップは思った。そういえば、目を覚ます前、何か大変な出来事があったような気がする。詳しくは思い出せない。でも、もしかしたら、死んだのかも。

 幽霊ってどう暮らせばいいのかなぁという思案を、続く彼の言葉がぶちくだいた。

「きみは腐りかけている」

 つまり、幽霊ではなく死体だということ。

「ギュンターも虫よけは頑張ったらしいが、腐敗はどうしようもないね。このままだときみは何日かかけて、ぐずぐずのどろどろになる。でも、多分死なない」

 フィリップは、戦慄した。

 要するに、映画のゾンビだ。

 連中はおそらく飯のことしか考えていなかろうが、いまのフィリップは掛け算も割り算も連立方程式だっていけそうだ。家族全員の誕生日も思い出せるし、チェスのルールも知っている。口が動けばはやりの歌を何曲か歌えそうだった。嫌味を言われたらむっとするだろうし、ほめられれば照れくさくなるだろう。

 そんな状態で、身体だけ腐っていく。

 たしかにそれは、ひどく、不幸せだ。

 この変な男の言う通り、世界の不幸せな人間でランクづけをしたら、フィリップがかなり上位に食い込むのは疑いようがなかった。そもそもこんないかれた不幸は、普通、おっこちてこないのだ。

 身体が動けば両手で頭をかきむしるくらいの恐慌状態にあるフィリップを覗き込んで、男はなつかしそうにのんびりと言った。

「ギュンターとは、いい友達だった。きみ、フィリップは、ギュンターが生き返らせようとするくらいの大事な友達だった。われわれも、仲良くできるとは、思わないかね」

 あのギュンターの友達とあらば、平素であればフィリップは、控え目な笑顔を浮かべてコーヒーの1杯でも飲もうと誘ったことであろう。夕方以降で気分によってはビールだったかもしれない。

 だが今はそれどころではなかった。男の真意も測りかねた。

「きみを腐るに任せるのはしのびないなぁ」

 フィリップの混乱をよそに男はゆるく笑った。こちらが焦っているときに限ってゆったり構えているあたりもギュンターに似ていると、沸騰しそうな頭の冷えた一角でフィリップは思った。

「うち、くる?」

 それはフィリップのアルバイトが終わったあとなどに、酒の瓶や缶が入ったスーパーの袋をさげてふらりとあらわれるギュンターそのものの声音だった。小柄で声もやや高く少年じみたギュンターとけったいな怪物を思わせるこの男には声と言う点では一切の共通点がないのだが、ギュンターに話しかけられているような気が、フィリップはした。

 ギュンターの誘いなら断る理由などない。明日は祝日のはずだし。

 フィリップはそういえば瞬きもせず開きっぱなしだった瞼を震わせて、肯定の意を示そうと努力した。

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