小話 酒と女と男と親父

おん玉

掌編

 目の前でゆらゆらと動く桜の花びらを肴に、佐吉は空のおちょこを嘗めていた。もう随分前からそのおちょこの中には酒がない。足元に転がっている徳利の中にもすでに中身は入っていなかった。


「ねえ、聞いてる?」


 佐吉が呆けているのにようやく気付いたらしい。さくは佐吉の肩を掴むと、遠慮なしにがくがくと揺らした。淡く染められた桜柄の着物を着た彼女もかなり顔を赤くしている。いい加減に酔っているようだった。早く家に帰さないとこの態度はさらにひどくなっていくだろう。


 まったく、いきなり酒を持って家に押しかけてきたと思ったら、延々と自分の色恋の愚痴を吐き続けるとは。少しだけ乱暴におちょこを置いた佐吉は、心の中で大きくため息をついた。


「はいはい。聞いてるよ。それで? 市助がどうしたって?」


 佐吉の言葉はひどくぶっきらぼうだったが、それを待ってましたと言わんばかりにさくは何度も頷く。


「そう! そうなのよ! 市助がね、最近私の方を見ないの。この前会った時は、全然こっちの話を聞いてくれないし。それで『話聞いてよ!』って私が言ったら、『五月蝿い!』って怒鳴り返してきたのよ! おかしいと思わない?」


(……知らんがな)


 何度目か分からないその話にうんざりした佐吉は、思わずそう口に出しそうになった。だが、そのように言ったところで状況は変わらないだろうし、むしろ悪化しそうな感さえある。


 どうにかその言葉を飲み込んだ彼は、「なんでだろうねー」と体良く彼女の話に相槌を打った。内心では新しい女でもできたんじゃねえの、などと考えたりしながら。


 それからさくはまたこれまでと同じように市助の最近の振る舞いについて話し始める。


「だってさー、前は一日に一度は絶対会ってたんだよ。それで私の作った御飯、美味しい美味しいって食べてくれて。そのあとは優しく私の手を握って――」


 もうその話も五度目か六度目だ。飽き果てたお話に半分呆れたような表情を佐吉は浮かべた。しかし、さくは話すのに夢中で佐吉の様子にはまったく気がつかない。


(彼女の目は頭の後ろに付いているんだろうな)


 そんなことを考えながら、佐吉はまた空のおちょこに手を伸ばした。



 佐吉がさくに酒に誘われたのは、今日が初めてではない。


 というのも、彼女はどうも一人で酒を飲むのが嫌らしく、酒を飲みたくなった時は話し相手を求めて近くに住む知り合いを誰かれ構わず誘う。


 また佐吉とさくはかつて寺の手習いで机を並べて勉強した仲であり、古くからの知り合いであったのでさくとしては誘いやすいようであった。


 ただ、佐吉は最近彼女の誘いをいつも断っている。彼女と酒を飲むといろいろ面倒が多いと気付いたからだった。


 実は今日も一度、佐吉は彼女の誘いを断っていた。


 しかし運の悪いことに、今日に限ってさくは誰も酒飲み相手を捕まえられなかったらしい。まあ、彼女の様子からして愚痴を聞かされるだけだと皆分かったのだろう。


 そうしてそんな状況に何を思ったのか、彼女は酒の入った瓶を片手に一人で佐吉の家へ遊びに来た。不用意に戸を開けてしまった佐吉はそのぐいぐいとくる押しの強さに抵抗することができず、さくを家の中に入れてしまったのである。


 彼は先ほどからずっとそのことを後悔していたが、もちろんすでに後の祭りであった。


「――だからね。私は佐吉に言ってほしいの。市助に、『お前はさくをどうする気なんだ!』って」

「嫌だよ。なんで俺が人の惚れた腫れたに口を出さないといけないんだ」


 顔をあげた佐吉は、少し怒った表情でさくの顔を見つめる。しかしすぐに彼は横を向いてその視線を外した。


 着物がはだけて、彼女の白い肌が見え隠れしていたからだった。


「だって私たち、古い友達でしょう? 当然じゃない!」


 それに気付いているのかいないのか、さくは体を前に出すと前のめりになって佐吉に体を寄せる。


「お前は……アホか。どんな言い草だよ。頼むから俺を面倒に巻き込まないでくれ」 

「もう、そんな事言わないでよ。私とあんたの仲じゃない。いいでしょ? お・ね・が・い」


 そうして下から見上げるような形でさくは佐吉の顔を見つめた。そのとろんと濡れた目に加え、彼女の着物の隙間からは形の良い鎖骨が覗いている。


 一瞬佐吉はそちらに目をやってしまったが、すぐに視線を逸らして硬い声で言った。


「無理。絶対に無理」


 実際、さくが何をしてこようとも彼に手を貸してやるつもりはなかった。呂律が回っているかどうかすら怪しい時の頼みごとなど、聞いてもろくな目にあうはずがない。


「えー、じゃあどうしたら言うこと聞いてくれるの?」


 佐吉が再度目を逸らしたのを見て、さくは残念そうに尋ねる。


「何をしても聞かない。もう諦めろって」


 ついに面倒になった佐吉が言い捨てるように告げると、彼女はひどくつまらなそうな顔をした。 


「そんなこと言うんだ? ……じゃあいい。もう諦めるから」


 そう言って、さくは体を引いた。


 意外と素直に応じたことに少し驚いて佐吉はさくの顔を改めて見てみる。すると顔を赤くしたままのさくは突如投げやりな様子で大きな声を上げた。


「あー、もういいよ!」

「え?」

「やめるやめる! もう市助なんかどうでもいい!」


 自棄やけになったようなさくの言葉に、佐吉はつい口を開けてぽかんとしてしまった。いったいさくは何を言い出したというのか。


「……諦める、って市助の方を?」

「そう。せっかくいいとこの息子捕まえたと思ったけど、なんか遊ばれてるだけの気がしてきた。だからもう、いい。次の探すから」 

「いや、え、ちょっと、次って。そんな急に……」

「だって、佐吉はなんにもしてくれないんでしょ? どうでもいいんでしょ? なのになんでそんな事言うの? それにもう、市助とは無理かなーと思ってたし。いいよ、もう」


 いきなり話が飛んだので、佐吉はさくにどう声をかけていいか分からなかった。いや、彼としてはさくが市助とどうなろうとどうでもいいのだが、今ここで彼女の機嫌を損ねてしまうのもちょっと困るのだ。


 その結果、彼はあわあわとしながら彼女の味方であるような発言をする。


「えーと、だってほら。市助ってあの名の知れた内藤家の一門だろ。それなりに将来も約束されてると思うし、そんな簡単に諦めなくても」

「いや、だってさ。よく考えてみたら、そんな風に偉い立場になる人がそこら辺の町娘を自分の奥さんにしたりしないでしょ。普通、自分と身分の釣り合う人と結婚するんじゃない?」

「あ……。いや、でも、そうとも限らないんじゃないか? よっぽど好かれてたら、ほら」

「だから、今もうその状態じゃないって言ってるんだけど」


 なんだかよくわからない状況になってきたと、佐吉は下を向いて酔った頭を押さえた。


(なんで関係ないことで俺がこんなに悩まないといけないんだ) 


 そんな困った様子の佐吉を尻目に、さくは「あーあ」と後ろに倒れこむようにして手をつく。


「今度は市助じゃなくて、誰にしようかな。初治郎とか、伊久とかもいいよね」


 初治郎はやはり名の知れた高木家の一門。伊久は板倉家の一門だった。そして今の発言に、佐吉は少し怪訝な顔をして彼女の顔を見つめる。


「元信様も今のところ戦を起こす気ないみたいだし、今小さい武家に嫁いでも意味ないと思うんだ。やっぱり最初から身分の高いところ狙っていかないと」


 それを聞いて、佐吉はもう一切彼女の味方になってやろうとは思わなくなった。さくの変わり身の速さに、あとは勝手にしろという心境になったからだ。そしてつい堪え切れず、彼はさくに向かって嫌味ったらしく言った。


「なら、奥平家の圭之助なんかいいんじゃないか。身分も十分高くなるだろうし」

「変なこと言わないでよ。あの子、まだ三歳くらいでしょう? 小さすぎるわよ」

「だからさ。好き勝手できるよう、いまから唾つけておけばいいだろう?」

「ちょっと! ふざけないで!」


 これは怒ったかとも思ったが、声を上げたさくは意外にもその冗談が気に入ったようだった。怒り顔の後で彼女は小さく笑ってみせる。酔っ払いだから、あまり深く考えられなかったのかもしれない。


 しかしそれを好機と佐吉は無理やり笑顔を浮かべ、場の雰囲気をどうにかなごませた。そして一気に話を変えていく。


「しかし、領主様もどうするんだろうな。確かしばらく前に尾張を手に入れたのが最後の戦働きだろう? まだ美濃とかその向こうに相手は残ってるのに。早くほかを潰して、こんな物騒な世の中は終わらせてくれないかな」

「私は戦なんかないほうがいいから、今のままでもいいけどね。それより、佐吉は城主になりたいとかないの?」

「一切ない。俺はどこにでもいるような大工として生きるさ。もう少しで仕事をひとつ任せてもらえそうだしな。……それより、さく。明日も俺早いから、そろそろ帰ってくれないか? もう随分前に酒も尽きたし」


 弛緩した空気の中でようやく佐吉はさくに告げた。しかし、さくは大きく頭を横に振る。


「いーや。今から家まで歩いて行くの面倒になっちゃった。今日は……泊めて?」

「ふ・ざ・け・る・な。お前の家なんかこのすぐ近くだろう? ほら、立って」

「あ、ちょっと」


 佐吉は座布団から腰を上げるとさくの両腕を掴み、彼女をどうにか立ち上がらせようとした。するとその拍子に思わぬところに力が入ってしまったらしく、さくが短く声を上げる。


「痛っ!」


 思わず佐吉は彼女を掴んだ手を離してしまった。すると、半分立ったところで支えを失ったさくは足元がおぼつかず、佐吉に寄りかかるようにして倒れてしまう。


 もちろん佐吉は彼女の体を支えようとした。しかし、彼自身もかなり酔っていたのを忘れていたのである。腕に力が入らず、二人は重なりあうようにして板敷の床に横倒しになった。


 その時、ちょうど佐吉がさくの背中に手を回して抱きしめるような形になったのは、本当に、まったくの、偶然だった。佐吉にそんな下心はなかった。そしておそらく、さくにもそんなつもりはなかった。


 ただ佐吉はさくのとろんと濡れた瞳をすぐ間近で見てしまったし、さくはさくで久しぶりに男に抱きしめられたのだ。さらにお互いそこまで悪い印象を持っているわけでもなく、まして彼らは若かった。歯止めは効かなかった。


 見つめ合う二人のうち、どちらが先に手を出したのかは分からない。唯一分かっているのは、その後の彼らを突き動かしたのが何の力というより、単なる場の勢い、ただの場の流れということだけである。


 結局、さくはその日佐吉の家に泊まっていった。



 そして次の日。


 案の定、佐吉は仕事に遅刻していった。もちろん師匠には手酷く叱られ、さらには頬まで張り飛ばされてしまう。酒臭い弟子を顔を真っ赤にして怒る師匠は、まさに鬼の形相であった。


「この野郎! 半人前なおめぇが何を一丁前に酒だ、馬鹿!」


 佐吉はがんがんとする頭を抑えながら、しばらくの間師匠に謝り続けていた。ただ内心、こう怒られるのも仕方ないかなと思っている。やっぱり面倒なことになってしまったと。


 師匠は昨日の夜、自分の娘が帰って来なかったことでひどく機嫌が悪いのだ。彼の師匠は、権助という名のさくの父親であった。

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