【10月刊試し読み】翡翠の花嫁、王子の誓い

角川ルビー文庫

第1話



 まるでおとぎ話のワンシーンみたいだ……と、辻占晴季は他人事のように感心した。

 太陽の光に姿を与えたかのような黄金の髪。どこまでも晴れ渡った空の、澄んだ青を湛えた双眸。整った顔立ちなどというレベルではない。計算しつくされた芸術品のような、完璧な容貌。

 完全無欠の、正真正銘、本物の『王子様』。

 そんな彼が漆黒のタキシードに身を包み、目の前に跪いている。

 晴季の左手を、そっと……それでいて明確な意思をもって握り、薬指に嵌まっている翡翠の指輪を見つめて。

 永遠にも思える沈黙の後、彼はスッと視線を上げた。

晴季の目を見つめる。まっすぐに。捕らえるように。

そして美しく整った薄い唇を、ゆったりと開いた。

「偉大なる翡翠の占い師、『神秘の翠』よ。あなたの力が必要なのだ。どうか我がヤーデルブルク王国へ――私とともに、来てほしい」

 魅惑的な笑みとともに告げられた言葉に、晴季だけでなく、居合わせた家族全員が絶句した。


   *  *  *


 ――今日こそ、ひとりで占ってみせる。

 晴季は気合を入れて、左手の薬指に嵌まっている翡翠の指輪――通称『神秘の翠』に全神経を集中させた。

ここは自宅の敷地内に建っている『占いの館』。

外観はただの一軒家だが、一歩足を踏み入れると神秘的な空間が広がっている。

調度品は極端に少なく、六畳ほどの室内には占いに必要なテーブルのみ。壁を覆う白い布と色彩豊かな淡い間接照明で非日常を演出し、衣装も千夜一夜物語の踊り子を思わせるようなエキゾチックな出で立ちとなっている。

しかし艶々としたサテン地の服はともかく、ヴェールを頭からすっぽりかぶって目だけしか露出していないというこの恰好には、理由がある。

それは――。

「それでは、始めます。ご準備はよろしいでしょうか?」

 テーブル越しに依頼者と向かい合った状態で、晴季は言った。努めて落ち着いた声で、ゆっくりと。

「うむ。万全だ」

 そう答えた本日の相談者は、父の代からの顧客である代議士だ。

彼は晴季の視線を受けて、僅かに居住まいを正した。

代替わりした当初は居丈高な態度を取られていたが、少しずつ軟化し、ここ一年ほどで見違えるくらい敬意を払ってくれるようになった。おそらく先の選挙で苦戦を強いられていた時の占いが、思いがけず役に立ったためだろう。

しかし当初の態度も無理はなかったと思う。なぜなら彼は、晴季が生まれた時から知っているのだから。

それこそが、こんな格好をしている理由だ。

二十五歳になった今でこそ、それなりに大人扱いしてもらえるようになったが、晴季が家業を継いだのは十八歳の時だった。

ただでさえ未成年の上に、どちらかというと童顔。その上、赤ん坊の頃から知っているとなれば、彼の目には晴季はどうしたって「子ども」に映ってしまっていただろう。

客観的に考えて、自分の人生を左右するような相談を、「知人の子ども」に好んでしたい人はいないと思う。実際にそういう趣旨のことを吐き捨てて、二度と来なくなった人もいる。

父の代からの顧客たちは、ただ『神秘の翠』の力を求めて残ってくれているだけだと分かっていた。

彼らが晴季に占わせるのは、父がもうこの世にいないからだ。どんなに望んでも、父にはもう占ってもらえないから。

両親が事故で他界したのは、今から約十年前、晴季が十五歳の時だった。仕事以外はどこへ行くにも一緒だという本当に仲のいい夫婦で、天国まで一緒に行ってしまった。

家には晴季と、ふたりの弟だけが残された。

次男の咲とは二つ、末っ子の充希とは八つ、年が離れている。両親を亡くした時、充希はまだ小学生になったばかりだった。

自分が、弟たちを守らなければと思った。

けれど晴季自身もまだ中学生で、なんの力もなくて……無力な自分が悔しくてたまらなかった。

後見人には、叔父がなってくれた。父の弟である叔父の隆之は、ずっと占いの館のサポート業務をしていた。

 辻占家では、長子が占い、次子が補佐をすることが、代々受け継がれてきた約束ごとなのだ。

 家業である『占い師』の起こりは、江戸時代中期にまで遡る。先祖の女性が、呪術道具である翡翠の指輪――『神秘の翠』を、神の遣いである『白馬』に授けられたところから、その歴史は始まる。

占う方法はシンプルで、『神秘の翠』を嵌めた手で相談者に触れ、相談ごとに対して『是』か『非』かを答えるというものだ。

 たとえば「目の前に分かれ道」があるとする。相談者が「左の道へ進んでいいか」と相談したら、『神秘の翠』は『是』か『非』か答えてくれる。

とはいえ、言葉が浮かんでくるわけではない。感じ取るのは『明るさ』のみだ。脳裏にある「占いの小部屋」を、ゼロから百までの段階に応じて照らしてくれるというイメージ。もちろん目盛りがついているわけではなく、明るければ明るいほど『是』が強くなるという感覚。それを言葉に置き換えるのが、占い師の仕事だった。

 ――今日こそは。

 もう一度気合を入れ直す晴季の前で、代議士が大きく深呼吸した。目を閉じて、深く、深く。これが彼の精神統一の手順だ。

 占う内容を声に出してもらう場合はここまでの集中を必要としないが、代議士という仕事柄、昔から決して声に出さずに占っていたようだ。

 深呼吸の後、代議士はテーブルの上で両手を組んだ。指と指を絡めて合わせた手の中に、相談事を閉じ込めるようなイメージを抱いているという。

 代議士が目を閉じたまま、頷いた。

 晴季の出番だ。

「占います」

 一言かけて、代議士の手に、自分の手を重ねる。

 翡翠の指輪を凝視して、その不思議な模様の中に飛び込もうとするように。

 ――感じ取れ。感じ取れ……!

 呪文のように胸中で繰り返す。脳裏にある「占いの小部屋」に光が差すのを、飢えるように待ち望んだ。

 ――お願いです。父さん……歴代の『翡翠様』……おれに力をください。ひとりで占える力をください……!

 懸命に念じた。けれど光は差さなかった。

 代議士の指がピクリと動く。時間をかけすぎた。これ以上は不審を抱かせてしまうと、断腸の思いで晴季は顔を上げた。

 壁際に視線をやる。そこには晴季とまったく同じ衣装を身に着けた、弟の咲が控えていた。

 視線が絡まる。咲の瞳は澄んだ夜空を想わせる艶やかな漆黒で、とても優しい。

 ――ごめん、咲。……今日も、ひとりで占えなかった。

 心の中で謝る晴季を、咲の瞳は微塵も責めたりしなかった。

 スッ……と音もなく、定位置に移動する。代議士の後方。そして少しだけ両手を広げた。

 その瞬間、まるで電気のスイッチを入れたみたいに、パッと脳裏に光が差す。

 翡翠の指輪が、本来の力を発揮する。

「『是』」

 言葉が唇から転がり落ちた。

「ただし、手放しでお勧めはできません。陰りがあります。他にもお考えのことはありますか?」

「うむ。では、こちらなら?」

 代議士は改めて深呼吸をして、コクリと頷いた。

 今度は間髪容れずに、ぐっと暗くなる。

「『非』。一つ目と比べものになりません。『非』です」

「……そうか。分かった。この件は一から考え直そう」

 代議士の言葉に、晴季は少し驚いた。占いの結果を信じるも信じないも、生かすも無視するも本人次第だ。以前のこの人なら、結果だけ聞いて何も言わなかったのに。

 彼に限らず、顧客からの信頼を年々肌で感じられるようになってきた。

 一般の人はもちろん、古くからの顧客には政治家や経営者、文化人や芸能人など、地位も名声も兼ね備えている人が多い。見識が広く、決断力もある彼らからの信頼は、自信へと繋がる。

 ただそれも、自分ひとりだけで占えるようになったら……の話だが。

「次は、三つのうち最も『是』に近いものを示してほしい」

「承知しました」

 一つずつ、確実に占っていく。

 晴季ひとりではどうしても感じ取ることのできなかった答えが、咲の協力を得ると難なく脳裏に浮かぶ。

 理由は分からないのだが、本来なら長子が単独で占えるはずの『神秘の翠』を、晴季はひとりで扱えない。そしてなぜか、咲が特定の位置に立ってくれた時だけ、能力を発揮できることが分かったのだ。まるで能力を中継してくれるアンテナのような、不思議な現象だ。

 同じ弟でも、充希では効果がなかった。叔父が辻占家の歴史を調べてくれたが、そんな現象は前例がない。

 晴季はなんとかひとりで占えないものかと試行錯誤してみたが、どうしても無理だった。

 暫定措置のつもりで始めた、このふたり体制での占いは、結局もう七年も続いている。

 咲は文句ひとつ言わないけれど、本当なら晴季が占いをしているこの時間、咲は次子としての補佐の仕事に専念できていたはずなのに。

咲には負担をかけてばかりだ。そしてそのせいで、叔父の手もいつまでも煩わせてしまう。

 家族の協力がありがたくて、それなのに同時に自分が不甲斐なくて……そんなふうに思った途端、順調に進んでいたはずの占いが、フッと途切れた。脳裏にあった『占いの小部屋』自体が消えてしまう。

 ――余計なこと考えるな。集中!

『神秘の翠』を凝視する。刻まれた模様のひとつひとつを見つめるうちに、その中へ吸い込まれていくような感覚を覚える。

 そして脳裏に、光が差した。

「『是』。三つのうちで、こちらがもっとも強い『是』です」

 答え始めると、自然と占いだけに集中できる。

 そうして時間いっぱい全力で向かい合い、終わった時にはへとへとになっていた。

 帰り支度を整えた代議士を、晴季はその場で立って見送り、咲が玄関まで案内する。

 代議士の姿が見えなくなった途端、晴季は椅子にドサッと座り込んだ。

「また……駄目だった……」

 悔しくて、情けなくて、唇を噛みしめる。自分は長子なのに。弟たちを守りたいのに。むしろ自分の方が、弟たちに支えられてばかりだ。

「なんでですか……? 翡翠様」

 指輪を見つめ、晴季は問いかけた。これまで何百回となく繰り返してきた問に、答える声はない。

 一体、どうすれば一人前になれるのだろう。方法さえ分かれば、どんな努力も惜しまないのに。ほんのわずかでも手がかりがほしい。

 ぎゅっと眉間に皺を寄せて思い詰めていたが、廊下から足音が聞こえてきて、晴季はパッと顔を上げた。

 ――変な表情するな! これ以上、咲に心配かけるな!

 開けたままのドアの向こうに、咲が戻ってくる。ヴェールはもう脱いでいた。今日は代議士で店じまいだ。

「お見送りしてきたよ」

「ありがとう。お疲れさま、咲。今日もごめんな」

 できる限り軽い口調で謝った晴季に、咲ははにかみ笑いを浮かべる。

「どうして? 僕は、兄さんの役に立てて嬉しいよ?」

 天使か。弟が可愛すぎて悶えた。

 咲は絶対に、自分の大変さを表に出さない。占っている晴季がこれだけぐったりするくらいなのだから、咲だってなんらかの負荷がかかっていておかしくないのに、疲れた顔を見せたことがない。

 ごめん、とまた呟きそうになって、晴季は誤魔化すようにヴェールを脱いだ。

「兄さん、明日の予約なんだけど、変更の希望があったから、ちょっと相談していい?」

「もちろん。咲も座りな」

 さっきまで代議士がいた椅子を示すと、「いいのかな……?」と遠慮がちに腰を下ろす。

 テーブルにタブレットを置いて、スケジュールを呼び出した。

 予約管理は、すべて補佐である咲の仕事だ。叔父に相談することもあるようだが、もうほとんど咲がひとりで行っている。それだけでもかなりのプレッシャーだと思う。

 予約は、申し込みは随時受け付けるが、確定するのは一週間先までというルールを、先代から受け継いでいる。

 しばらくそうして相談していると、廊下をバタバタ駆ける足音が聞こえてきた。

 玄関はもう施錠しているから、これは母屋から渡り廊下を渡ってきた充希の足音だろう……と思いきや。

「晴季! 咲! で、殿下が……!」

 部屋に飛び込んできたのは、叔父だった。たいていのことでは動じない叔父が、見たこともないほど狼狽している。

「殿下?」

 皇室の方々を思い浮かべる。なにかビッグニュースでもあったのだろうか。

「で、で、殿下、翡翠っ」

 あわあわと玄関の方を指さしてそんなことを口走る叔父に、まさか『神秘の翠』で占ってほしいと皇室からの遣いでも来られたのかと、おこがましいことを考えてしまった。

 が、しかし。

「うさぎ……!」

 続けられたその単語に、「へ?」と間抜けな声が漏れる。

 ――なんでうさぎ? どこからうさぎ?

 思わず咲に視線で助けを求めてしまったが、咲も小首を傾げている。

 叔父はそれ以上の言葉が出てこないようで、ドカドカと歩み寄ってくるや否や晴季の腕を掴み、ぐいっと引っ張った。

 なんだかよく分からないが、玄関の方に何かあるようだ。

 咲とともに、叔父の後に続いた。

 廊下の途中で、咲のケータイが鳴り始める。

「あ、充ちゃんだ。――はい。……うん、仕事はもう終わったよ、大丈夫。兄さんも隣にいる。あと叔父さんも……え?」

 困惑したような声に、どうしたのかと思ったら。

「兄さん、充ちゃんから。玄関の外にいるみたいなんだけど……」

 それを聞いた途端、叔父がダッシュし始めた。

 びっくりして、晴季たちも追いかける。走りながらケータイを受け取り、耳に当てる。

「充希!? どうした!?」

『あ、兄ちゃーん。なんかね、……』

 聞いているうちに玄関に到着する。

 先に着いていた叔父が鍵を開け、勢いよくドアを開くと。

「『王子様、拾っちゃった』」

 耳元と、目の前に現れた充希から、ステレオで声が聞こえた。

 高校の制服である学ラン姿の充希の向こうに、人が立っている。

 太陽の光に姿を与えたかのような、輝く黄金の髪。どこまでも晴れ渡った空の、澄んだ青を湛えた双眸。光沢のある漆黒のタキシードに身を包み、満腹になった猛獣のように余裕たっぷりの笑みを浮かべながら、その佇まいは気品に満ち溢れている。

 圧倒的な存在感。

彼は、ただそこに存在するだけで『王者』だった。

こんな人、見たことない。職業柄、著名な人と接する機会は多くあるが、視線が合っただけで身動き一つ取れなくなるなんて、初めての経験だった。

「きみが、翡翠の占い師か?」

 彼の唇から零れ落ちた声に、なぜか背筋がゾクッとした。

普通に話しただけなのに、オペラ歌手のように朗々と、艶やかに響くバリトン。声質のせいだけではなく、その発声も、抑揚も、すべてが縒り合わさって彼の存在感を強調している。

「……は、はい」

「その指輪が、『神秘の翠』?」

 彼の視線が、スッ……と下方へ流れる。

 そこでようやくハッとした。いつもならすぐ箱に仕舞う大事な『神秘の翠』を、晴季はまだ嵌めたままだった。初対面の人に見せていいような軽いものではないのに。

「あ、その……えっ!? ていうか、日本語!?」

 ぎょっとした晴季に、「今!?」と充希が笑う。

誰とでもすぐに打ち解けられるのが充希の特技だが、この場で屈託なく笑えるなんてすごすぎる。

「で、殿下、このようなところまで、申しわけありません。お車の中でお待ちくださっているとばかり……」

 叔父が恐縮しきって頭を下げる。

 なるほど、この人の来訪を報せようとしてくれていたのか。

おそらく母屋を先に訪ねたのだろう。『占いの館』へ来るには、母屋の前を通り抜けて奥まで進まなければならない。……というか、殿下? 充希もさっき、王子様がどうのと言っていた気がするのだが。

「いや、私の方こそ、突然すまない。『神秘の翠』の噂を聞いて、いてもたってもいられなくなってしまったのだ」

 本当に流暢な日本語だ。彼は一体、何者なのか。

「あの、失礼ですが……お名前をうかがっても、よろしいですか?」

 遠慮しつつも尋ねたら、彼は晴季をまっすぐ見つめて、不敵に笑った。

 ドキッと鼓動が跳ねる。

「私の名は、ヴォルグルフ・ジャッド・フォーンス・ヤーデルブルク。ヤーデルブルク王国の王太子だ」

 息を呑んだ。

 それは確か、ヨーロッパの中央に位置する小さな王国だ。周囲を列強国に囲まれているにも関わらず、独立した豊かな国。

 その王国の、王太子だというのか。目の前のこの人が。

「兄ちゃん、王太子さんって、次の王様っていう意味なんだって。でも呼び方は王太子でも王子でも殿下でもなんでも好きに呼んでいいっていうから、王子様がピッタリじゃない?」

 得意げに説明してくれる充希の、あまりにも普段通りの態度に、晴季もだんだん落ち着いてきた。

「『ヤーデルブルク』って、確か……古代ヤーデルブルク語で『翡翠の砦』という意味でしたよね?」

 晴季が言うと、王子は少し驚いたように目を瞠った。

「そのことを知っていた東洋人に会うのは、初めてだ。我が王国に興味が?」

「あ、すみません。翡翠の産地について勉強した時に偶然知っただけなので、あまり詳しいことは……」

 ヤーデルブルク王国は、かつて良質な翡翠を産出していた。しかし今はもう採れないはずだ。

「偶然? この世に偶然などというものはない。必然、あるいは――運命だと、私は思う」

 何を言っているのだろう、この人は。

 思わず固まった晴季の前で、彼はすらりと身を屈めた。左手を取られる。あまりにも優雅な所作に呑まれて、拒むことなどできなかった。

晴季の胸の高さまで持ち上げた手には、『神秘の翠』。青い眸がスッと細められ、食い入るようにそれを見つめる。

そこに、王子は顔を寄せた。さらりと金髪が零れ落ちる。そして――くちづけた。

「っ!」

 バンッ! と雷に打たれたような衝撃を受ける。

頭が真っ白になり、見たこともないほど美しい輝きが瞼の裏に広がった。

 圧倒的な明るさ。

一点の陰りもない、まるで雲の上にいるような純白の輝き。

「『是』」

 凛と響いたその声が、自分が発したものだと、晴季は気づかなかった。

「『是』です。あなたが今なさろうとしていることを遂行すると、それに関わるすべての人々が幸福を得られます」

「……それは、『神秘の翠』のお告げか?」

 顔を上げた王子のまなざしが、鋭く切り込んでくる。

その青い眸に捕らえられた瞬間、晴季の脳裏からフッと輝かしい光の景色が消えた。

 眠りから覚めた瞬間のように、瞬きを繰り返す。

「え? あれ? ……今、おれ……何か言った?」

 家族の顔を見回すと、咲と叔父は驚いていて、充希は感激したように瞳をキラキラさせていた。

 咲は、晴季の斜め後方にいる。占いの定位置とはまったく違う場所。

「兄さん、今のって……」

「すごいじゃないか、晴季! いつの間に!?」

 ――まさか、おれ……ひとりで占えた!?

 勢いよく王子を見上げる。どこまでも澄んだ青空のような眸が、不思議そうに晴季を見つめる。

「っ、殿下、失礼します」

 有無を言わせず、王子の手を握った。指輪を彼に押しつける。

 またしても雷に打たれたような衝撃を受け、脳裏にあの光景が広がった。それと同時に意識が薄れそうになったが、なんとか踏ん張る。

 これまで『神秘の翠』で占いをしてきて、こんな光景は見たことがなかった。けれどこれが『是』を表すものであると、晴季にははっきり分かる。いつも脳裏に用意する「占いの小部屋」など必要としない、果てしなく、見渡す限りの輝かしさ。

 なぜこんなにも鮮明に読み取れるのか分からない。

「……っ」

 今度は自分の意思で手を離せた。

 不思議なことに体が軽い。いつも、占った後は体力を奪われてぐったりするものなのに。

「殿下、今、何を考えていらっしゃいましたか?」

「今?『神秘の翠』のことだが?」

「あ、いえ、そうではなくて……」

 なんと尋ねればいいのだろう。

 まずは占いの手順を説明して、断りもなく占ってしまった非礼を詫びて……と考えたが、それは違う、とふと気づいた。

 王子は、占いのために特別に何かを念じたわけではなかった。

自然体でいたところに、偶然『神秘の翠』で触れてしまっただけだ。

 つまり、もっと大きな行動――ここを訪ねてきた理由自体に、『神秘の翠』は『是』と答えたのではないか。

 そうでなければ、あれほど壮大な光景が見えるはずがないと思った。

「なぜ『神秘の翠』をご覧になりたかったのですか? 噂を聞いたとおっしゃいましたが、我々の館を特定するには、よほど確かな情報がなければ不可能だったと思います。一体、どなたに聞かれたのですか?」

「情報源は明かせない。ただ、きみの顧客の誰かが軽々しくしゃべったわけではないということだけは断言しておこう」

「だったら、どうやって……」

「現在の我が王国の主要産業は『情報』だ。国内には世界トップレベルの情報機関やIT系企業がひしめき合っている」

 つまり彼らにとっては、民間の一占い師の所在を割り出すくらい朝飯前ということか。

「そして私は噂の翡翠を見せてもらいに来たのではない。迎えに来たのだ」

「……え?」

 突然、王子はその場で、スッと膝を折った。

 見上げる長身だった彼を、なぜか今は見下ろしていて……また、左手を取られる。とっさに指を浮かせて翡翠は触れずに済んだが、離してはもらえなかった。

 ――なっ、なにこれ!?

 まるでおとぎ話のワンシーンみたいだ……などと、煌々しさに感心している場合ではなくて。

「偉大なる翡翠の占い師、『神秘の翠』よ。あなたの力が必要なのだ。どうか我がヤーデルブルク王国へ――私とともに、来てほしい」

魅惑的な笑みとともに告げられた言葉に絶句した。

晴季だけでなく、家族全員が。

頭の中が真っ白になって……それは先ほど脳裏に広がった輝かしい白さとはまったく違う、いわゆる思考停止で……けれど、それはあの輝きを連想させて……閃いてしまった。

――この人を占えた理由が分かったら、ひとりで占えるようになるんじゃないか……!?

そう気が付いた瞬間、晴季は衝動的に口走っていた。

「おれ、行ってもいい!?」

 咲に向かって、許可を求めるみたいに。

 咲の艶々な黒い瞳が、まんまるに見開かれた。

 ――あ、おれのバカ! なんて考えなしなことを……!

 スケジュール管理は咲の仕事だ。そして自分はできそこないとはいえ、ここで占い師という役目がある。弟たちを守るべき立場でもある。それなのにこんな無責任なことを言うなんて、自分が恥ずかしい。

 王子に握られていた手を勢いよく奪い返し、咲に向き合った。

「ごめんっ……撤回、」

「僕も行く」

 晴季の言葉を遮って、咲がきっぱりと口にした。

「……え?」

「兄さんが行くなら、僕も行く」

 見たこともないくらい、真剣な目だと思った。

 たとえ反対されても譲らないと、そのまなざしが語っている。

「何言ってるんだよ。今のはちょっと口が滑っただけで……」

「違うと思う。だって、さっき兄さんが占ったんだよ。『是』って」

「……おれが?」

 そうだ、何か言ったような気がする。けれどはっきり覚えていない。まるでトランス状態にでも陥っていたみたいに、ぼんやりと霞がかかっていて……ただ、『是』だったことは疑いようもなかった。

 あれほど輝かしい純白の景色は、もう二度と見ることができないのではと思うくらいの、紛れもない『是』だった。

「兄さんはこう言ったんだよ。――『あなたが今なさろうとしていることを遂行すると、それに関わるすべての人々が幸福を得られます』……って」

 びっくりした。そこまではっきりとした文言を告げていたなんて。

 いつも占いの結果を伝える時は、とても慎重に言葉を選んでいる。ところがその文言は、おそらく考えることすらしていない。

 翡翠の指輪が――『神秘の翠』が、晴季に言わせた。

「殿下がなさろうとしてることって、兄さんを王国へ連れて行くってことも含まれてるんでしょう? それで、殿下に関わることによって、兄さんも幸福を得られるんだよね?」

 ――あっ。その場合の「幸福」って、ひとりで占えるようになるってこと!?

 確証はない。

 けれど可能性が少しでもあるなら、縋りたい。

 ただ、王子がなんのために『神秘の翠』の力を必要としているのか、晴季に何をさせたいのかもまったく分からない状態で、「行きたい」と言ってしまったのは、やはり軽率すぎたと思う。

「ごめん、よく分からない。その言葉を言ったっていう、はっきりした記憶がないんだ。だから、一から相談させてくれないか?」

「スケジュールを気にしてるの? 一週間後の出発なら、調整できるよ」

「あ、うん。それもだけど……」

「ちゃんと調整できるから。心配しないで、兄さん」

 有無を言わさぬような力強い口調に、少し驚いた。いつもほんわりとした空気を身に纏って控え目な咲が、これほど頑なに主張するなんて。

「咲。ちょっと場所を変えて相談しよう」

 王子のいないところで、という意味で言ったのだが。

「はっ! 本当だ! こんな玄関先で立ち話とは、殿下になんというご無礼を! 晴季、上がっていただきなさい」

 叔父が勘違いしてしまった。

 けれど、言われてみれば確かにそうだ。咲と相談するにも、まずは王子の話をもっと詳しく聞かなければいけない。

 というか、彼がヤーデルブルク王国の王太子というのは本当なのか、まだ素性の確認さえしていない。いくら一目で「王者」だと明らかな人であっても、それが素性を証明することにはならない。

 ここは叔父の言う通り、いったん応接室に通して……と段取りを考えていたら、充希が子犬のように瞳をキラッキラと輝かせて晴季の袖をツンと引っ張った。

「ねぇねぇ、ヤーデルブルク王国ってどんな国? 兄ちゃんたちが行くなら、俺も一緒に行っていいよね?」

「ダメに決まってるだろ」

 即座に却下すると、「えー」と不満げな声を上げる。

「充ちゃんは学校があるでしょ? 授業についていけなくなっちゃうよ?」

「……う。それは困るけど」

「充希は叔父さんと留守番してよう。な? とにかく話は後にして、まずは殿下を中へ……」

 痺れを切らした叔父が、自ら王子を案内しようとしたところ。

「ならば、短期留学ということにしてはどうだ? 実際に勉強していくといい。教育機関への交渉は私の方で行おう」

 王子がとんでもないことを言い出した。

「えっ! ホントですか!?」

「充希! ダメだからな!?」

「えー、なんで? 王子様がせっかく言ってくれてるのに。俺だけいつまでものけものはいやだよ。兄ちゃんと咲ちゃんの手伝いができるようになりたいよ」

 クーンと垂れた耳としっぽが見えそうだ。

末っ子の哀願が可愛くて、うっかりほだされそうになってしまった。けれど遊びに行くわけではないのだ。どんな状況かも、王子の真意が何かも分からないのに、連れていけるわけがない。充希だけでなく、咲だってそうだ。

「充ちゃんをのけものになんかしてないよ? 高校を卒業するまで、家業は気にしないでなんでも好きなことをしてほしいっていうのが、お父さんとお母さんの願いだっただけだからね?」

 咲の絶妙なフォローに、晴季も「そうだぞ」と乗っかる。

 両親の方針は、後継者である晴季に対しても同じだった。だから晴季は、結局一度も父から『神秘の翠』の扱い方を教わっていない。

 占いの方法は、叔父の説明と歴代『翡翠様』の資料を見て、独学で身に着けた。

父がいてくれたら……どうしてひとりで占えないのか、指摘してもらえたかもしれないのにと何度も思った。そしてそのたびに、それはただの甘えだと恥ずかしくなる。

「充希、後でちゃんと話そう」

 しょんぼりしているものの、充希も一応は納得したようだ。

「殿下、せっかくのお話を、申し訳ありません」

 王子に向き直って頭を下げると、「いや」と微笑みが返ってくる。

「どうやら余計な申し出をしてしまったようだな。すまない」

 王子の顔を、まじまじと見上げてしまった。

 ――王族なのに、こんなに普通に謝るんだ……。

 社長や政治家など、重要なポストになればなるほど、簡単に謝ってはいけないものだと聞いていたのだが。謝るということは、非を認めたという意味で、それを言質と取られると困るからだと。

「晴季、王国へ行くには、解決しなければならないことが多くあるようだな」

 ドキッとした。表情に出さないだけで、実は怒っていたのではないかと。

「お待たせして、申し訳ありません」

「ああ、そういう意味ではない。まずは、きみとふたりだけで話す機会がほしいと言いたかっただけだ」

 爽やかな笑顔で言うやいなや、なぜか王子がズイッと迫ってきた。そして次の瞬間――ぶわっと体が浮き上がる。

「うわっ!?」

 バランスを崩しそうになって、とっさにしがみついたのは……まさかの、王子の肩で。

 晴季は、なぜか、王子に抱き上げられていた。

「っ!? なっ!? えっ!? おっ、下ろしてくださ……っ」

 バッと両手を離す。後ろに傾いだ晴季の背中を、王子はなんなく抱き留めた。

「話が終わったらな」

 煌びやかな笑顔でそう言って、王子はそのままスタスタと外に歩きだした。

 家族が、え? え? と混乱しながら追いかけてくる。

 けれど屋外に出た途端、黒づくめの男がぬっと現れて、家族の行く手を阻んだ。

「殿下のご意向です。しばらくお待ちください」

 低い声が淡々と告げる。

男は漆黒の髪と眸に、日本人らしい顔立ちをしていた。しかし王子に並んでも見劣りしない長身とスタイルのよさに、外国の血を感じる。そして男は、黒い詰襟に金色の刺繍が施された制服らしきものを身に着け、腰にサーベルを下げていた。

ギョッとする。それは本物なのか。日本国内においてそれはまずいのではないか。治外法権というものか。

「その者は護衛だ。怪しい者ではないから、安心してくれ」

 できるか。晴季は思わず心の中でツッコんだ。

「王子様ー、兄ちゃんをどこへ連れていくんですか? あんまり遠くへ連れていかれると困るんですけどーっ」

「そうだな……できれば私の滞在先のホテルでじっくり話をしたいが……」

 それはいやだ。そのままうっかり王国へ連行されそうな予感がする。現に、こうして担ぎ上げられているくらいだし。

 晴季はぶんぶんと勢いよくかぶりを振った。

「その、お車の中で話すというのは、いかがでしょう?」

 王子が向かう先に、御付きの人が恭しく扉を開けて待っている黒塗りの車がある。

「できれば、そこに停めたままで」

 晴季の提案に、王子はにこっと笑った。光の粒が零れ落ちてきそうなほど、煌々しく。

「それは名案だ、偉大なる翡翠の占い師よ。これできみの家族を心配させることなく、ふたりきりで話ができそうだ」

 ――なんか分かってきた。……この人、笑顔で煙に巻いて強引にマイペースだ……。

 波乱の幕開けの予感がした。


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※この続きは是非、10/1発売ルビー文庫『翡翠の花嫁、王子の誓い』(著/水瀬結月)にてご覧ください!

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