第4話 終焉
それから一ヶ月が経過した初雪の日、アパートに一通の封筒が届いた。
差出人はT大学。あのパーマネント助教公募の、書類一次審査の結果通知が来たのだ。
京太がその薄い封筒を開くと、中にはA4サイズの紙が一枚だけ入っていた。紙面には文字が数行だけ印刷されており、余白部分がやたらと目立った。文書の二行目に、こう書かれていた。
「書類審査の結果、残念ながら貴殿は不採用となりました」
何度読んでも、そう書いてあった。
京太は二次審査の面接への道すら通れず、不採用になったのだ。
京太は、直立のまま動けなかった。まるで、液体窒素に放り込まれて瞬間凍結した金魚のように。
「なぜだ……なんで?……なんでオレが……なぜ?……なんで?……なんでだ……??」
同じフレーズを何度も繰り返した。
そして、脳内のすべての神経回路が切断されたように、思考が停止した。その衝撃は、論文をリジェクトされた時の比ではなかった。
「ただいまー。すごい雪だねー……ん?ど、どうしたの……?」
いつもと何かが違う。紗季は、何かただならぬ自体が京太に起きたことを察した。
京太は、死んだ魚のような目をゆっくりと紗季に向けた。そして、テーブルの上に置いた審査結果通知書を、力なく指で差した。
審査結果通知書を読んだ紗季は「えっ」とだけ声を発し、口を閉じた。1DKの空間は、これまでに経験したことのない重い沈黙に支配された。
無音の室内に、時折、雪が落ちる小さな音だけが、淋しく響いた。
翌日、一通のメールが京太に届いた。教授からのものだった。
採用できずに申し訳なかった、という謝罪から始まるメールの文章を読み進めていった京太は、再びディープ・フリーズした。
教授は京太ではなく、あの猫背の後輩の千現武志を助教に採用していたのだ。実は、武志もこの公募に応募していたのである。
教授が武志を採用したという事実。
これは、教授が自分の後釜にふさわしいのは武志であり、京太ではないと考えていたことを示していた。そのことを、京太は受け入れることができなかった。目眩とともに、視界が真っ白になっていくのを感じ、意識が遠のいていった。
右手に激痛が走り、京太は意識を取り戻した。
目の前には無惨に破壊されたノートパソコンがあった。
無意識のうちに、自分のノートパソコンに鉄槌を下していたのだ。何度も、何度も。
破壊されたノートパソコンからは、ゴムの焼けるようなにおいが立ちのぼっていた。濃い、敗北のにおいだった--。
半年後、京太は太平洋に浮かぶO島にいた。
環境省管轄下の自然保護官補佐とよばれる職に就いたからだ。京太のことを気にやんだ教授が、彼にこの職を紹介したのだ。
O島は人気のない孤島だが、希少生物の宝庫として、一部のナチュラリストの間で人気のあるフィールドだ。
自然保護官補佐の勤務内容は、研究活動というよりも、管理監督業務に近い。自然公園内の管理や監視、そして生物調査が主な仕事である。もちろんポスドクではない。給与は手取りで二十万円を少し上回るほど。契約期間も一年間で、更新はない。
紗季との遠距離恋愛生活も、すでに五ヶ月目に入った。
交通費がばかにならないので、お互いに会うことはせず、LINEと電話で連絡を取り合っていた。
京太は研究者として復活するために、相変わらずポスドクや助教の公募に応募し続けていた。
そして、相変わらず落ち続けていた。
しかし、諦めるわけにはいかない。
できれば、T市のどこかの大学や研究所でポジションを得て、また紗季と一緒に暮らしたい。そう願っていた。
ただ、京太は最近の紗季の反応が気になっていた。
以前はLINEでメッセージを送ると数時間以内に返ってきたのに、ここ最近は一日以上経っても既読にならないこともあるからだ。
紗季の携帯電話に着信を残しても、折り返しかけてくることがなくなってきた。何かあったのかを聞いても、「忙しい」の一言だけで、それ以上のことを話さない。
まるで、自分の体の周りを分厚い繭で覆ったクスサンの蛹と対峙しているようだった。
そんな紗季だったが、彼女のフェイスブックには、食べものや研究者どうしの飲み会での写真が頻繁に投稿されていた。写真には、京太の知っている顔あった。
その写真の中には、あのT大動物生態学研究室で助教のポジションを得た千現武志の姿もあった。しかも、彼は紗季の隣にポジショニングしている。
写真の中の武志は、数ヶ月前に会った時とは、まるで別人のように映っていた。
武志は不敵の笑みを浮かべ、その目は丸眼鏡越しに京太のことを小馬鹿に見下しているかのように見えた。
「くそ、アイツめ!アイツさえいなければ、今頃はオレが……」
京太は、頭の中に無数のフジツボがびっしりと張り付いているような感覚に襲われた。重力にまかせて重くうなだれた頭を、上げることができなかった。
京太の業務は、大半を歩く時間に費やす。歩行をしている間、脳内は自然と紗季のことで埋め尽くされる。
「紗季のやつ、オレよりもアイツらとの飲み会を優先しやがって。もう、オレのことなんてどうでもいいに決まってる。あと、絶対に何かを隠している。いや、気のせいかもしれない。でも、あの態度はおかしい……」
半径十km以内に自分以外は誰もいない雄大な自然の中、京太は延々と紗季のことに考えを巡らせた。来る日も、来る日も。
そして、いくら考えたところで決して答えが出ないことに気づいた京太は、意を決して紗季にLINEで尋ねることにした。「最近、冷たくなった。これは自分の気のせいじゃない。言いたいことがあったら、正直に聞かせてほしい」、と。
案の定、紗季からはすぐに返信は来なかった。三十分おきにLINEをチェックしていたが、一日、二日と時間が経っても一向に既読にならない。一日が、何十日間にも感じられた。
そしてメッセージを送ってから三日目、林道を歩いていたときに、ついに紗季からの返信があった。
「返事遅くなってごめんね。。。今、電話していい?」
京太はすぐさま、紗季の携帯電話にコールした。
紗季が電話に出た。
紗季と話すのは、十二日ぶりのことだった。
「もしもし。連絡、あんまりとれなくてごめんね……」
「……あるんだろ、話したいこと。言ってくれよ」
「うん、あのね……ちょっと言いづらいんだけど……」
「うん」
「あのね……」
「……」
「好きな人ができたかもしれない」
「…………」
「ごめんね」
「……誰だよ」
「ん……」
「誰なんだよ?」
「うん、京ちゃんも知ってる人なんだ……」
「まさか……」
「千現君」
「……やっぱり……、あの猫背メガネかよ……」
「ごめん……」
「おまえ、嘘つきやがって。「ずっと一緒にいようね」って言ってたくせに。お前の研究だって、オレがずっと面倒見てきたのに……」
「……」
「なんなんだよ……。なんなんだよ? なんなんだよ!!!!」
「……」
「パーマネントかよ」
「!?」
「やっぱり、パーマネントなのかよ??パーマネントがいいのかよ!??ああ??」
「……そうだよ」
「っ?!」
「京ちゃんも言ってたじゃん。「生物にとって、適応度の期待値が大事だ」って。千現君はパーマネント。だから、これから安定した収入が見込める。若くて研究能力もあるし、このままいけば順調に教授になると思う。でも、京ちゃんは一年契約だし、業績もあまり無いから、このままだとアカデミアに残るのは、正直、難しいと思う」
「……」
「専門が生態学だと、ドクターを持ってても潰しがきかないから、アカデミア以外の就職も難しいでしょ。私が適応度一以上、つまり、子どもを二人産んで養っていくのは、このまま京ちゃんと一緒だと難しいんだよ。自分でも分かってるでしょ?」
「オレは……いずれは……」
「もう聞き飽きたよ!「世界一の鳥類研究者になる」とか「『Nature』三報はいける」とか「オレのモットーは大きな野望と高い志。「オオタカ」なだけに」とか……!現実を見なよ!!まだファーストが二報しかないし、インパクト・ファクターの合計も五にも満たないじゃない!!」
「……」
「京ちゃん、千現君のこと「へっぽこコネメガネ」とか言ってたけど、あのコはドクターとる前に、あの『Nature Ecology』に二報出してるんだよ??コネが無くったって、助教になってたよ、絶対。それに……」
京太は携帯電話を切った。
目の前には暗い森が広がっていた。
もはや、自分が世界のどこにいるかも分からなかった。
いや、自分が、皆が存在する世界そのものと切り離された、異次元の空間に浮遊しているようにも思えた。
「パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネント~♪ パ~マネントォォォ~~~~~~♪♪♪」
それまで普通に鳴いていたセミたちが突如、「パーマネント」の大合唱を一斉に始めた。
「やめろおおおおおおーーーーーーっ!!!!!」
京太は耳を塞ぎ、目を閉じたまま、走った。転んでも、木にぶつかっても。日が暮れ、勤務終了時間が終わっても、森の中を、ただただ、走り続けた。
その後の京太の消息を知る者は、誰もいない--。
二年後、花粉が舞い桜が咲く季節が、T市にまたやってきた。
この春、街には新たな命が誕生していた。
「本当に君そっくり。ほら、目が二重でこんなに大きくて。僕と全然違う」
「赤ちゃんは成長したらまた顔が変わってくるし、まだどっちに似ているかなんて分からないよ」
「いやあ、でも、自分の子どもがこんなに可愛く産まれてくるなんて、信じられないね。でも、よかった。自分に似なくて」
「あ、そろそろミルクあげなきゃ」
母親は、ぐずる赤ん坊に授乳を始めた。
この世に存在する苦しみを一切知らない赤ん坊は、これ以上無い平穏な表情で母乳を飲み続けた。
赤ん坊にかけられたよだれかけに施された刺繍のクスサンも、やはり平穏な表情で母親をじっと見つめていた。
アカデミック・ラブ 堀川大樹 @horikawad
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