第3話 競合

 時は流れ、大鷲京太と竹園紗季が交際を始めてから、三年が経過しようとしていた。

 竹園紗季は京太の指導もあり、無事に三年間で博士課程を卒業。卒業後は、やはりT市にある、昆虫の研究で有名なN資源研究所のポスドクの職に就いた。

 二人は、T市内にあるアパートで同棲を始めた。


 この二年間、順調な同棲生活を送っていたが、ここのところ、二人の周りには重たい空気が流れ始めていた。

 京太の勤め先のS総合研究所でのポスドク任期があと三ヶ月で終了するにもかかわらず、次のポジションがまだ決まらないからだ。


 この一年近くの間に、京太は大学の助教や研究所のポスドクなど合わせて十以上のポジションの公募に応募したが、すべて落ちた。書類による第一次審査すら通らなかった。文部科学省による若手研究者対象の奨学生制度である、学術振興会特別研究員になることも、叶わなかった。


 公募選考の際に重要なのは、研究業績だ。この研究業績は、具体的には国際科学誌に掲載された論文の本数と質によって判断される。京太の場合、筆頭著者として二報の論文を発表していた。

 一報はT大在籍時に行っていたオオタカのメイティング・ビヘイビアーに関する内容だ。もう一報は、S総合研究所に来てから調査した、関東地方におけるオオタカの分布についてのものだ。

 いずれも『Journal of Avian Ecology』という、鳥類の生態学に特化した国際科学誌で発表した。『Journal of Avian Ecology』のインパクト・ファクターは2を少し上回るほどであり、生態学関連の雑誌では中堅の部類に入る。


 ポジションの公募における審査の際、論文の質は、その論文が掲載された雑誌のインパクト・ファクターにより判断される。つまり、雑誌のインパクトファクターに論文数をかけたものが、応募者の業績とみなされるのである。

 当たり前だが、各公募では、応募者の中から一人だけが採用される。

 いくら優秀でも、二番目以下では不採用なのだ。京太の業績はとくに優れたものではなく、書類審査でいつも落とされるのは当然のことであった。公募をかけた側の研究内容と京太の研究内容とがマッチングするケースも、あまりなかった。


 そして、京太には強力なコネもなかった。

 今も昔も、研究職の公募はコネで決まることが少なくない。京太は、自分よりも業績の少ない人間が、コネで助教の職に決まったケースを何度も見てきた。業績もコネもなく挑む公募が、すべて負け戦になるであろうことは、うっすらと感じていた。


 しかし、まだ最後の望みが残っていた。京太の古巣であるT大動物生態学研究室が、教授の定年退官に伴い、その後釜として助教を募集していたのである。しかも、今時珍しい、任期のないパーマネントのポジションである。


 パーマネント。

 ポスドクをはじめとした、すべての任期付研究者が垂涎する響きだ。

 狭き狭きパーマネントの門をくぐること。それこそが、ポスドク砂漠をさまよう者たちが目指す、最終ゴールなのである。


 パーマネントのポジションをゲットすれば、もう任期が切れて無職になる悪夢を見なくて済む。嫁も見つかる。マイホームも手に入る。この世のすべての苦しみから解放される。

 皆、そう信じて疑わない。

 パーマネント、それは果てしない夢であり、ユートピアだ。


 そのパーマネントのポジションの公募が、自分の出身研究室から出ている。

 コネという点で、京太はとてつもなく有利な立場にいた。実際に、応募書類を提出する前に動物生態学研究室に挨拶に行ったときも、教授はこう言った。「知らないやつよりも、知っているやつを選びたい」、と。


 だが、京太にはひとつ気がかりなことがあった。

 動物生態学研究室に在籍時に、京太をさんざんコケにした、あの憎き観音台則夫の存在である。観音台は上っ面だけはよかったので、教授は彼を信頼していた。

 もし、観音台がこの公募に応募してきたら、教授は自分ではなく、観音台を選ぶかもしれない。そんな不安を抱えていた。


 そこで、動物生態学研究室を訪れた際、後輩である博士課程三年の千現武志を研究室の外に呼び出し、尋ねた。


「今回の公募、観音台さんは応募してくるのか?なんか聞いたか?」


 武志は、うつむいたまま、おどおどしていた。目を左右に動かし、決して京太の方を見ようとしない。

 無理もない。京太は以前、研究室内で武志のことを、これでもかとコケにしてきたからだ。武志は研究室メンバーの中でも冴えない、大人しい性格の持ち主だったので、京太にとって格好のターゲットだった。


 もともと極端な猫背の武志は、その背中をさらに丸めながら、小声で答えた。


「い、いえ。多分、観音台さんは応募しないと思います」


「そうなのか?」


「観音台さん、研究はもうやめたらしいです。先生が話していました。なんか、どこかの出版社に就職したらしいです」


(そうだったのか。これで敵はいなくなった)


 京太は、このポジションは自分のものになるという確信を持った。オオタカが縄で縛り付けられた獲物を容易に奪うのと、同じ要領だ。これはいける。そう思った。


 アパートに戻ると、京太は後ろから紗季の肩を両手で掴んで言った。


「例の公募、もうオレで間違いなさそうだよ」


「本当に?!」


 紗季は、少し信じられなさそうな目で聞き返した。そんな紗季の不安を掻き消そうと、京太は上機嫌をアピールしながら紗季の肩を揉み出した。


「マジだって!先生もコネを優先するって言ってたし、他に対抗馬がいないからな」


「じゃ、今度は期待してる」


「期待しててよ。それじゃ、どっか食いに行こうか」


 研究作業に追われるポスドクは、自炊をする時間もない。ポスドクカップルの京太と紗季は、夕食をいつも外で済ませる。この日は、T市内のタイ料理屋に向かった。T市には外国人居住者も多く、多国籍料理を楽しめるのも特徴だ。


「今日は、就職の前祝いだな」


 紗季のグラスにエビスビールを注ぎながら、京太はつぶやいた。


「はい、カンパーイ。私も研究者として早く安定したいな~」


「紗季は大丈夫だって。オレがT大に紗季のためのポジションを用意してやるから」


「調子に乗んなっての!どんだけ上から目線なんだか……」


「あははは」


 二人は饒舌になった。こんなに楽しい夕食は、いつ以来だろうか。

 ビールの瓶が、すぐに空になった。


 午後九時をまわり、店内では女性タイ人店員たちがカラオケを大音量で歌い始めた。ねっとりとしたタイの歌を聞いていると、ここが北関東の新興住宅地であることを忘れそうになる。店員らのミニスカートが気になり、京太の視線はついついそちらに行ってしまう。


「なにジロジロ見てんのよ」


「いや、見てないって」


 京太は、はぐらかすようにグラスを口に運んだ。紗季を見ると、まだこちらを睨んでいる。

 胸元のネクタイに鎮座するクスサンも、その大きな目で紗季と一緒に自分を睨みつけているような気がした。

 四つの目で睨まれた京太は、不意に小さな恐怖に襲われた。

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