第2話 交配

 三年が経過し、また新しい春がきた。

 T市民が待望していた、T市と東京を結ぶ鉄道路線が、ついに開通した。大鷲京太は博士課程三年生になっていた。


 この間、京太に恋人が出来たことは一度としてなかった。彼女いない歴も二十六年間に更新した。

 動物生態学研究室に、紗季以外に好みの女の子がいなかったわけではない。

 だが、アタックしたところで振り向いてくれる女の子がいるようには感じられなかった。そしてなにより、京太にはアタックする意欲そのものが失われていたのである。


 日頃から則夫にさんざんコケにされ続けた京太は、研究室内ヒエラルキーの下位から脱することができなかった。このようなヒエラルキー地位にいる限り、周囲からはオス的魅力に欠けるダメ男子として見なされてしまう。女の子からモテなくなるのだ。


 こうなると京太自身も、研究室内での自分のヒエラルキー地位と非モテ度合いを、嫌でも認識せざるをえなくなる。

 すると、ますます自信が失われる。自信が失われると、オス的魅力も失われていく。学年が上がっても下位ヒエラルキーから脱することができず、ますますモテなくなる。


 京太の身に起きたこの現象は、ネガティブ・モテ・フィードバック (NMF) とよばれる。

 NMFは、隔離された閉鎖的個体群内で生じやすい。理系研究室は、そのような閉鎖的個体群の代表例である。


 NMFに陥り、セミの幼虫のような地中生活を余儀なくされていた京太だったが、今年は大きな転機が訪れた。

 則夫が研究室を去ることになったのだ。

 教授が科研費を獲得することができず、則夫をこれ以上ポスドクとして研究室が雇えなくなったのである。則夫はアカデミックポストに就くことができず、東北の小さな博物館で非常勤の学芸員として働くことになった。


 そしてこの異動が引金となり、則夫と紗季が別れることになったのだ。

 研究室内でボスザルとして君臨していた則夫がいなくなったことで、京太がヒエラルキーの最上位に進出できるチャンスが出てきた。

 さらに、紗季も今やフリーの存在だ。

 じゅうぶんに栄養を蓄えたセミの如く、京太は長い地中生活に終止符を打ち、高々とそびえる桜の木に登る準備を始めた。羽化をするまで、もう秒読み段階だ。


 ポスドクの則夫が去ったことで、博士課程三年生の京太が研究室内での最上級生となった。新歓コンパやラボミーティングでは、最上級生である京太が主に仕切ることになった。

 京太は思い出していた。新歓コンパやラボミーティングで、自分が則夫にさんざんコケにされ続けたことを。


「オレがあいつにやられたことを、後輩にはしたくない」


 などとは、京太は微塵にも思わなかった。

 則夫が自分にしたことを、そのまま後輩にもする。そう固く誓っていた。


「後輩たちを徹底的にコケにしよう。則夫が自分をコケにすることで研究室内ヒエラルキー最上位の地位を保ち、自分が紗季や他の女の子に手出しできなくなったように」


 その信念のもとに、新歓コンパでは後輩の男性研究室員を容姿から性格に至るまで、徹底的にこき下ろした。

 ラボミーティングでは、後輩の研究能力だけではなく人格までも否定した。

 とりわけ、野外調査直前の京太のディスりは熾烈を極めた。野外調査期間中、京太は研究室を留守にする。その間に、他の男性研究室員がつけ上がるのを抑制する必要があるからだ。


「オレはオオタカの研究者だ。オオタカは肉食だ。だからオレも肉食だ。そして最強の肉食男になるのだ」


 森の中でオオタカのメイティング・ビヘイビアーの観察をしながら、京太は紗季とのメイティング・ビヘイビアーを夢見ていた。


 後輩をコケにし続けた甲斐があり、京太は研究室内ヒエラルキーの最上位を占めるようになった。則夫が去ったことにより空白となったボスザルのポジションを、ついに獲得したのだ。

 それまでは路上の隅に生える干涸びたコケを見るような目で京太を見ていた女性研究室員たちの接し方も、大きく変化していた。

 自分の研究内容の相談を京太に持ちかける女子の後輩が、出現したのである。

 京太の研究能力が、この短期間で大きく向上したわけではない。ボスザルとして振る舞う京太のことを、女性研究室員が頼れる存在として認識し始めたのである。


 オスとしての魅力が現れ始めた京太は、自信も出てきた。そして、研究室内でよりいっそうボスザルらしく振る舞うようになった。

 すると、さらに女性研究室員が京太を慕うようになり、プライベートな相談までする女子も出てきた。

 京太はついに、生まれてはじめてモテはじめ、モテ度も日を追うごとに向上していった。


 京太に起きたこの現象は、ポジティブ・モテ・フィードバック (PMF) とよばれる。

 NMFと同様に、PMFも研究室のような閉鎖的空間で起こりや

すい。則夫も京太も、研究室という閉鎖的な人間関係が存在する空間において、ヒエラルキー下位層のオスをうまく利用し、PMFを創出したのである。


 一見、仲間をディスる男は悪い印象を与えるので、嫌われることはあってもモテることはないように感じる。

 だが現実には、このような男ほどモテる。テレビのバラエティ番組などでも、他の出演者をディスる「ちょっと感じの悪い」芸能人ほど、実際には人気があってモテるのと同じだ。道徳的で謙虚な男は、実際にはあまりモテない。


 他の女性研究室員と同じく、PMF期に突入した京太を見る紗季の目も次第に変わっていった。

 紗季はいつしか、研究室内で京太とすれ違うたびに、草原に流れるそよ風が全身を巡るのを感じるようになっていた。自分でも認めたくなかったが、心と体の反応は正直だった。

 クスサンのネクタイ越しから伝わってくる紗季の胸の鼓動が、京太に届いていた。


 機は熟した。

 京太は紗季に話しかけた。まずは手堅く、第一稿をサブミットしてみた。


「この前のプレゼンの時に言ってた解析の問題、もう解決した?」


「え、いえ、まだちょっと考えてるんです……」


 紗季は少し驚いた表情をしてから目を下に移し、はにかみながら答えた。マイナーリビジョンだ。


「この子、脈があるぞ」。そう確信した京太は、自信ありげに続けた。


「あのね、あれはやっぱりNが少なすぎるのが原因だと思うんだよね。Nをもっと増やした方がいいよ」


「でも、一人で採集しているのでなかなかサンプルがとれなくて……」


「それじゃ、今度手伝ってあげるよ。」


「えっ?! でも……」


 レフェリー全員、ポジティブな反応。悪くない。


「D論も目処がついたし、大丈夫だよ。竹園さんももうD2だし、早くデータ取った方がいいからね。 よし、来週に行こう 」


 二人きりでの野外採集にごぎつけた。アクセプトだ。コングラチュレーションズ。


 これを皮切りに、ディスカッションと称した深夜のファミレスデートなど、京太はさまざまな方法で紗季にアプローチを続けた。

 紗季も自信にあふれた京太の存在に、ますます惹かれていった。


 その後、京太は無事に博士課程を三年間で卒業し、博士号の学位を取得した。

 卒業後は、T市にあるS総合研究所にもポスドクとして赴任することも決まった。


 そしてついに、紗季は京太と交際し、半同棲生活をすることに決めた。京太に対しての唯一の懸案事項だった、経済的問題が解決したからだ。

 T市に再び春が訪れた。

 桜の開花を待たずに、紗季とのメイティング・ビヘイビアーも成立。京太は、これまでの人生で、最良の時代を迎えていた。

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