アカデミック・ラブ
堀川大樹
第1話 敗軍
四月上旬、北関東のとある学園都市でもようやく桜が咲き始めた。
それと同時に、この街に植えられている多数のスギに由来する花粉が、少なくない市民の鼻腔を攻撃していた。
T大学は、そんな街の一角を占める総合大学である。日本でも有数の広大なキャンパスを擁し、学術面でもノーベル賞受賞者を輩出するなど、誇らしい実績をもつことで知られている。
そんなT大学の片隅に位置する建物内に、動物生態学研究室がある。
この研究室では、昆虫から脊椎動物に至るまで、さまざまな動物についての生態学的研究が行われている。
毎年4月には、動物生態学研究室では新歓コンパが催される。この年に新しく動物生態学研究室に配属された学部四年生は三名、修士一年生は二名である。
学部四年生は全員男、修士一年生は男一名と女一名。研究室で開催される新歓コンパの目的は、表向きは文字通り「新入生を歓迎し親睦を深める」というものだ。コンパの席では研究室のメンバーが自己紹介をし、食べたり飲んだりしながら円滑な人間関係を構築していく。
だが、男性研究室員にとっては、これとは異なる明確な目的が、この新歓コンパにあった。
それは、新入生の女の子にツバを付けることである。
通常、理系の研究室では男女比が圧倒的に男側に偏っている。このような条件下では、男性陣の間で女性メンバーを巡る奪い合い、つまり雄間闘争が起こる。T大動物生態学研究室でも、研究室員の男女比は三対一と偏っており、例に漏れず雌をめぐる雄間闘争が起きる運命にある。
よって、彼らににとっての新歓コンパの至上命令は、いかにして自分が他の男性陣をおさえて有利なポジショニングをとり、新入生の女の子にアプローチするか、ということになる。
今回、新入生の中で女の子は、修士一年生の竹園紗季、ただひとり。
竹園紗季は学部時代、東京にある国立女子大学の生物学科に在籍していた。彼女はガの行動生態学に興味があったが、所属学科には生態学の研究室が無かったため、大学院からT大動物生態学研究室に入ってきたのだ。
女子大出身の紗季は、急に男性ばかりの環境に身を置かれたことで、少し緊張している様子だった。都会の洗練された凛とした雰囲気を醸し出す彼女の存在は、T大生態学研究室の中で、少し浮いて映った。しかし、純白のブラウスにかかる黒いネクタイには、ガの刺繍が大きく施されており、彼女が年季の入った虫屋であることを示唆していた。
「ガ、好きなんだ?」
修士二年生の大鷲京太が、お調子者キャラを全面に出しながら自分の椅子ごと紗季の隣に移動し、話しかけてきた。他の男性研究室員を出し抜いての、先制攻撃である。
「このガのネクタイ、自分で作ったの?それとも、どこかで買ったの?」
「えっと、アーティストが昆虫をモチーフにした作品を展示するイベントがあって、そこで買ったんです……。「むしむし大学」っていうイベントなんですけど……。このガはクスサンで……」
「へぇ。オレ、猛禽類の研究が専門だけど、虫も好きなんだよね」
「そうなんですか?」
「うん。でも、このガの刺繍、本当によくできてるね。ちょっと触ってもいい?」
「えっ」
京太は、自分の右手を紗季の胸元に近づけた。
他の男性研究室員たちを一気に突き放すため、準求愛行動ともいえる接触アプローチ戦略を展開したのである。この戦略が上手くいけば、紗季との距離を一瞬にして縮めることができる。
だが、そうはうまくいかなかった。これを黙って見ていられなかった、研究室員がいたのだ。研究室内ヒエラルキーの最上位に君臨する、ポスドクの観音台則夫である。
「大鷲、おまえ、そんなことするから彼女いない歴二十三年なんだぞ。ちったぁ女心勉強しろや」
「えっ?なんスか?オレ、ちょっと竹園さんと昆虫について語ってただけっスよ」
京太と則夫の闘いが始まった。しかし、この雄間闘争ではヒエラルキー上位の者が圧倒的に有利である。闘争は則夫のペースで進む。
「竹園さん。こいつねぇ、さっき昆虫好きをアピールしてたけど、ラボで企画している昆虫採集旅行に参加したこと一度も無いんだよ。うそなの、うそ」
「い、いやっ、最近、昆虫好きになったんスよ!本当っス!」
「それじゃあ、お前、俺の研究材料のキチョウの学名言ってみろよ」
「えっ...と......」
「Eurema hecabeだよ。ほら、昆虫のこと全然知らねーじゃん」
声を出さずに苦笑いするだけの紗季を前に、則夫は続ける。
「大鷲さぁ、女心もそうだけど、本業の自分の研究テーマについても、もっと勉強しろよな。この前の進捗セミナー発表でも、データの取り方が全然ダメダメだったし。サンプリングする前に、どのくらいのサンプルサイズが必要かとか、どの解析手法を採用するかとか、ちゃんと検討しとけっつーの」
「あ……はい……」
「鳥の研究は、ただでさえデータ取りにくいんだからよ。おまえ、ドクター行きたいって言ってるけど、それだと何年かかっても学位とれないよ?わかってる?」
「......」
「竹園さんもこれから分かってくるだろうけど、研究ってやっぱストラテジーが重要だからさ。ま、その辺は俺に聞いてくれれば何でもアドバイスするから、遠慮なく絡んできてよね。同じ虫屋どうし、同じ鱗翅目屋どうしだしさ」
則夫はアカデミックなアドバイスをするように見せかけて、京太をとことんディスった。
京太が女性から人気がなく、さらに研究室内のヒエラルキーが低いことをアピールすることで、相対的に自分がいかにオスとしての力があるか、そして優れているかを、これでもかと紗季に見せつけたのである。グループ内の下位のサルが自分に完全降伏するさまを、晒したわけだ。
結局、則夫の思惑通り、紗季は則夫が京太よりも質の高い魅力的なオスとして認識するようになった。新歓コンパは、則夫が研究室内ヒエラルキーでの自らの地位を利用し、紗季にツバをつけることに成功したのだった。
その後も、則夫はセミナーやミーティングで京太やその他の男性研究室員をディスり続けた。もちろん、自分のオスとしての優位性をアピールするためだ。研究室内には、教授をのぞいてはポスドクの則夫がヒエラルキーの最上位を占める。
男性大学院生たちは、誰も則夫を敵に回して紗季にアプローチすることを許されなかった。サルのグループ内で、力のあるボスに誰も逆らえないのと同じだ。
則夫は、紗季の研究も積極的にサポートした。彼女が野外調査をする際には自家用車を出したり、研究のディスカッションと称して二人きりでファミレスでの食事に誘った。
則夫のポスドクとしての給与は、決して高くなかった。それでも、日産マーチで出迎えたり、ロイヤルホストで食事を奢るようことは、京太や他の貧乏大学院生には、決してできない芸当であった。研究室内には、オスとして則夫を上回る価値を持つ男性研究室員は皆無だったのである。
もちろん、大学の研究室の外の世界を見れば、則夫よりもはるかにオスとしての魅力をもつ男性はゴマンといる。外見だって、則夫は決してイケメンとはいえない。
だがしかし、日本の大学院生は、日夜研究をするので忙しく、研究室の外部の人間と接触する機会がきわめて乏しいのである。
よって、人間関係は研究室内ですべて完結するため、恋人候補も研究室内のメンバーに限られてくる。
研究室内でもっとも質の高い異性に魅かれるのは、当然の帰結なのだ。
それは、紗季も例外ではなかった。
研究室というきわめて閉鎖的な環境でしか異性の質をジャッジできない条件下に置かれたため、則夫のことをオスとしてきわめて頼れる存在として、いつしか憧れるようになっていった。
新歓コンパから四ヶ月後、お盆を前もそて紗季と則夫は交際することになった。京太の心の叫びを代弁するかのように、セミたちがけたたましく鳴いていた。
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