旅のなごり~語らいのソルベ~

 カーナビが左折を指示する。


 私たち二人を乗せた軽トラは歩道すれすれを曲がり、エンジンを唸らせた。

 国道六号仙台バイパスから宮城県道一二九号の果てしない直線道路を走る。



「見事ないわし雲だ」

 助手席から見える空は広く、ちぎったパン生地のような雲が西から東へ並んでいた。


「そりゃ秋だもん。いわし雲の季節だよ。こんな日はイワシが大漁なんだってさ」

 運転手の彼女は交差点で停車し、ハンドルに顎を乗せて空を見上げた。


「へえ、いわし雲が出ると大漁なんだ。言い伝え?」

「さーね。ずっと前に漁師のおっちゃんに教えてもらったんだ。その場の創作かもしんない」



 いわし雲の由来は、巻積雲の隊列がイワシの模様によく似てるから付けられたと聞く。さば雲とも呼ばれる。イワシもサバも秋の魚である。秋の魚といえばサンマだが、サンマにはまだら状の模様がないから、さんま雲とは呼ばれない。


「この天気なら岩沼も晴れてるかな」

「ごめんね、マッチ、仕事中でしょ? 仙台駅から送迎させちゃってさ」

「いーっていーって。ミッツと話すとリフレッシュになるんだ」



 マッチ……木梨松実は女川から岩沼市の得意先へ行く。岩沼は名取市の南隣にある市で、古くから交通の要衝として栄えた。宮城有数の穀倉地帯でもあり、良質な水をふんだんに利用した白菜は、冬になるたび食べに訪れたい。


 松実とは仙台駅で落ち合い、今日の目的地である名取市の閖上ゆりあげ海岸まで送ってもらうことになった。今日は営業用の白ブラウスにグレーのパンツ姿だった。彼女は背中のラインがきれいだから、ブラウスがとてもよく似合う。

 松実は私のことをミッツと呼ぶ。二度目の三陸旅行で彼女と再会したとき、妙にウマが合ってしまったのだ。



 ――ミツバのこと、なんて呼べばいいかな?


 そう尋ねられて戸惑ってしまった。あだ名とか愛称とか、そんなの無縁の人生を送っていたからだ。


 ――なんだっていいよ。好きに呼んでよ。

 ――じゃ、ミッツね。ハローミッツ。


 当然ミッツなんてニックネーム初めてで、私以外の誰かみたいな感じがした。ミッツ。非常にこそばゆい。

 これでは一方的に負けたような気がした。


 ――じゃ、松実はマッチね。


 だから私も反撃した。可能な限りよその人から呼ばれなさそうで、可能な限りこそばゆいネーミングをセレクトした。


 ――は、マッチ? 私火付け役かなにか?

 ――いいんじゃない? 擦れば発火しそうな感じ、似合うよ。

 ――それ、褒めてなくない?


 そんな冗談を言えるくらい松実に親しみを覚えていた。何年も昔から一緒にいたような錯覚を抱くほどに。



 信号が青になる。倉庫とチェーン店の無機質なまちなみから、田園風景へと変わる。窓を開けると稲穂の香りが車内に充満する。腹の減る芳しさだ。


「そうそう、この道はガラッと景観が変わるんだ。懐かしいな」

「え、なにミッツここ知ってんの? まさかあんた、歩いたとか言うんじゃないよね?」

 苦い顔をする彼女の横顔を見て思わずしたり顔になってしまう。


「愚問だマッチ。歩くに決まってるじゃないか」

 運転席の松実は目を丸くして私を凝視する。

「前見て、前。マッチは運転荒いんだから」


「あっきれた! ホンット体力バカね。ううん、体力大バカモノだ。こっから閖上まで一〇分かかんだよ? どうせ名取駅から歩いたって言うんでしょ?」


「まあね」

「名取駅からって、車じゃ一五分くらいの距離でしょ? 徒歩何分の距離よ?」


「忘れもしない。ちょうど一二〇分だ」

「ええぇ……」

 松実は動揺の声を上げた。カーオーディオからローカルFMラジオが流れている。鬼束ちひろの懐かしい曲だった。



「若かったんだよ。だって学生してたんだから。隣で散々愚痴を言われたっけな」

「そりゃ、ねえ」

「荷を背負ったまま、というのがよくなかった。あらかじめ宿泊地を設定して、大きい荷物を預けるべきだった。そうしたら余裕を持って散策できたはずだし」

「ミッツ、違う。反省点ズレてるズレてる。バス使おうよ、バス。名取だったらあるでしょ」


「あるよ。帰りは閖上で知り合った人にバス停まで送迎してもらったんだ。でも歩いたこと自体に後悔はないよ。歩きでないと気づけないものってあるからね」

「〈あの人〉もそう言ってた?」


「きっと」

「本当?」

「直接訊いたことはないよ。でも何度かここ訪れてるみたいだし、今日だって閖上で落ち合う約束してるんだから、そこそこいい思い出になってる可能性が高いと思うんだけど」

 私の推論を聞いても松実は納得いかないようだった。


「〈あの人〉が免許取ったの、旅の直後だってミッツ知ってる?」

「そうだっけ?」


 旅のあとの話はあまり覚えていない。個展の準備に追われて、しばらく一緒にいられなかったのだ。

 反応を見た松実が「肝心なとこ抜けてるんだよ、ミッツはさ」とため息を洩らした。


「こっちは聞いてるよ。もう歩かずに済むって泣き言をさ」

「二度目の女川でか」

「何度目かはもう忘れた。そりゃーもうミッツが歩きまくって困ったって愚痴をぐだぐだと」

「……どうやら今日会ったら謝らなくちゃいけないらしいね、依利江に」

「これを機に、ミッツは人類のなかでも上位ランクの行動力を持ってること自覚して、よーく謝っときなさいよ」


 私みたいな人間はそういないのだろう。



 世界中をめぐっている。

 けれどもやってることは学生時代から大差ない。


 発端は釜石市の仲見世通りで見た光景からだった。寂れたシャッター街に衝撃を受けた私は、依利江との雑談を経て一つの目標を持った。カメラを通して人の知らない場所の内情を描こうと思ったのだ。スクープを手にしたいとか告発してやろうとかいう思惑ではない。ただ彼らの姿を記録し、記憶したかったのだ。


 各地をあるいて人と話すと、積み重ねた記憶が人の役に立つことを知った。大学卒業後、全国行脚を試みた際、あるまちで観光客の目をひく特産物がないという相談を投げかけられた。話を聞いて、ないのなら作ってしまえばいいと思った。気仙沼の藍染について話した。


 気仙沼の藍染文化は震災以後、女性の働く場所として誕生した。元々漁業のまちなので帆にする布は作っていたらしい。そこに東京から嫁いで来た女性が藍染工房を作った。気仙沼の土地に合った藍を栽培し、現在気仙沼ブルーは世界から注目されるまでになった。


 とはいえ国内の知名度はまだ低い。私の知識は文化の橋渡しと地域活性に利用できる。そう確信した瞬間だった。



 ラジオで流れる曲が間奏に入った。ヴァイオリンがワルツ調のメロディを弾いている。

 松実は鼻歌まじりにハンドルを叩く。その薬指に銀色の指輪が輝いている。


「あ、イリエに謝るとき、そこの〈かもめの玉子〉でも渡してよ。一〇〇パー許してくれるはずだから」


 松実はシフトレバーに引っかけてあったビニール袋を指した。中にはミニサイズの〈かもめの玉子〉が入っている。六個入りだ。


「助かる。これ好きなんだよ、依利江さ」

 白い玉子型の見た目で、中身は黄色い餡子が詰まっている。しっとりとした舌触りで、お茶と飲むとこれがまた上品な甘味なのだ。依利江は渋めの紅茶と飲むのが好みらしいが、個人的にはブラックコーヒーと一緒に口にするのがオススメだ。自論を説いてもなかなか理解してもらえない。


「ほんと飽きないね、あんたら」

「東北行くとどうしても食べたくなっちゃうんだよ」

 私も依利江ほどではないが、胃袋を掴まれてしまっているのは疑いようがなかった。



「ま、菓子のことはさておいてもさ、謝るとこは謝っといたほうがいいよ」

 田園を疾走しながら松実はつぶやく。


「当たり前のことかもしれないけど、客観的に見て悪いのが自分なら謝っといたほうがいい。おかげで私は一度友達を全員失ったんだから」

「マッチが言うと説得力あるよ」

「でっしょお?」

 松実は満面の笑みで答えた。



 松実が自身の境遇を冗談にして言えるようになるまでいくつもの段階があったに違いない。松実の昔話は以前聞いた。あっけない話だったし、彼女自身もあっけなく語った。衝撃的ではあったが、だからといって同情を誘っているわけじゃないことは容易に理解できた。


「まあ私の友達はマッチと依利江だけだから、マッチの忠告は手遅れかもしれない。これ以上減ることはないよ」


 彼女の境遇は個性として受け容れることにした。


「すっくな! ミッツ友達すっくな! ま、私もミッツしかいないんだけど」

「依利江は違うの?」


「〈あの人〉は……どうなんだろ? 昔なじみっつーかなんつーか。そういやもう何年会ってないんだろ。ミッツとはちょくちょく会えるんだけどな」


 何度目かの信号に掴まり、松実はラジオの歌に合わせてリズムを取る。それから彼女は小声でささやいた。


「なあ、今から言うこと〈あの人〉には言わないでよ」

「言わないよ。どうしたんだい?」


「私、〈あの人〉と会うとさ、どうしても緊張しちゃってさ、なんか会話が乗らないんだよね。中学んときは私が話し手で、あっちが聴き手だった。話し手が話さなきゃ、会話は成立しないってことなんだろうね。怖いから……じゃないはずだけど、引きずってんだろうなあ、ずっと」


「中学のこと?」

「まあなあ」



 信号が青になった。エンジンの回転音が高鳴るものの、思ったほど加速しなかった。


「中学んとき〈あの人〉が最後に言った言葉をさ、たまに思い出すんだよ。『松実ちゃんはわたしのことどう思ってんのか、教えて』ってさ。当時は動揺してて、なんて言ったかな」


「依利江をどう利用してやるか、でしょ?」

「ああ、えっと……そんな感じ。今は利用しようだなんて思いもしないけどさ……うん、結論としては『マジ気持ち悪ぃ奴』で落ち着くんだよね」

「否定はしないよ」


「今は親しみこめてマジ気持ち悪ぃって言えるけどさあ、昔は〈あの人〉の考えることがわからなすぎて怖かった。どんなにひどいこと言ってもやっても、餌付けされた小動物みたいにうしろ付いてくんだよ。あいつはなにも考えちゃないって思ったよ。でも本当は違った。エスパーかなにかよって思うくらい、よく見てたんだ。女王様気分の私をね」



 依利江は、知れば知るほど理解不能になることがある。私では到底考えつかない発想をするし、かと思えばぼんやりのんびるしてるだけのときもある。普通誰でも気づくものを見落として、誰も見ないような部分に着眼することもある。

 『マジ気持ち悪ぃ奴』などと総括したくなる気持ちも、わかる。


「……あの日以降、ね。とにかく泣いた」


 あの日。彼女にとってのあの日は、二つある。どちらの意味だろうか。ひとまず松実の話に耳を傾ける。


「確か、泣いたんだ。今となっちゃあなにに泣いてたのか覚えてないけど。後悔があったから泣いてたんだと思う。全部を失っちゃったんだ。だからガル屋で再会したとき、実は泣くのこらえてたんだ。もしも〈あの人〉を仙台に送ってたら、車のなかで泣き出してたかもしれない。私、泣き虫だから」

 彼女の車はスピードを保ちながら道路を走る。私は静かに頷いた。



 宮城県道一二九号線をくだっていく。仙台東部道路の高架下をくぐった。

 ここから津波浸水区域だ。波は自動車道の盛土で止まった。

 相変わらず見慣れた道のりだった。疲労困憊の依利江をなんとか鼓舞して歩いた残像が見えた。


 しかし初めて訪れたときの風景と見比べると、面影はなにひとつない。民家の隙間から豊かな田園地帯が広がっていた。初めて訪れたとき、ここは荒地だったのだ。


「子供の私を知ってる唯一の人なんだよなあ」

 松実は独り言のように言葉を洩らした。


 閉口する。それは紛れもない事実だったからだ。肯定を口にしては味気ないように思えた。



 ラジオの曲が終わった。パーソナリティが曲目を紹介していた。


「お、閖上中学校だ」


 松実が運転席側の窓を指した。現代的な建築物が見えた。四階建てで、隅が黄色くペイントされている。周囲で最も高い建物に見えた。

 名取市立閖上小中学校だ。津波の被害に遭った閖上の小学校と中学校が併合され、二〇一八年に開校した。


「図書館と郷土資料館があって、地域の人にも開放してるらしいよ」

「へえ、詳しいじゃんミッツ」


 閖上中には思い出がある。新設される前の話だ。名取閖上めぐりの帰り、閖上中前のバス停でバスが来るまで校舎を見て回ったのだ。時間にして五分かそこらだったろう。割れた窓ガラスから廊下が見えて、数ミリの泥が積もっていた。中庭には空気の抜けたサッカーボールが雑草に埋もれるようにして転がっていた。



「なんかさあ、閖上中みたいだよね」


 旧閖上五叉路にさしかかった松実が言った。信号は青になっているが、車が列をなしていてなかなか進まない。


「閖上中? なにが?」

「〈あの人〉」

 松実は答えた。


「ま、私にとっては、だけど。〈あの人〉は中学時代の私を保存してるんだ。青春をね。私にとっちゃあそれなりに大切なんだけどさ。中学んときの話、なんも話さないんだもん。訊きもしない。〈あの人〉にとっては今のほうが大切なのかなーって。まるで図書館みたいじゃない?」


「図書館」

「誰にも手に取られない。所詮私の青春なんてベストセラーじゃないってこと。きっとイリエも私と過ごしたときのことなんて、本棚の隅っこで埃かぶってる本みたいな存在なんだろうなって思うとさ、ちょっと切ないよね」


 徐行しながら前進するあいだに信号は赤になった。

 読まれない本。文芸作品では忘却されたものの象徴として描かれることもある。否定する気はない。読まれないものは読まれない。当然のことだし、仕方ないことでもある。


「マッチはそう感じるかもしれない。けど私からすれば、埃のかぶった本が切ないとは思えないね」

「ふうん。どうして?」


「なぜなら、図書館に収められている本の大半はどうでもいい本ばかりだからだよ」

「ミッツさ、敵つくるの好きね」

「よく言われる」

 笑むと松実も笑みを返した。


「だって、そうでしょ? 各国のタバコパッケージの一覧とか、ヨーロッパ特有の自然現象を収めた考察書なんかがあったとして、読みたいと思う?」

「そりゃ読まねーわ」


「そう。普通は読まない。常時は必要のないものだ」

「なら私の思い出だって」


「でもある日唐突に必要になるときや、大切だと思うときがあるんだよ。図書館の本も、依利江との日々も。少なくとも私は、依利江の雑談に助けられたことがあった」


「ふうん。それ初耳かも。どんな話?」

 信号が青に変わった。旧五叉路を直進し、軽トラは復興住宅街の坂道をのぼる。



「忘れもしない。最初の三陸めぐりのことだ」

 その旅には名前がある。〈被災地あるこ~東北ちょこっとふたり旅~〉。依利江と一緒に決めた。


 運転する松実に釜石市の話をした。シャッター街化した商店街のこと、震災という問題に埋もれたローカルな問題に気づけなかったこと、カメラの道を諦めようとしていたこと……。


「ありとあらゆる資料を漁ったんだ。答えは見つからなかった。どうしようもなくなって、依利江に悩みを打ち明けたんだ。依利江、どうしたと思う?」

「見当違いのこと言ったんじゃねえの?」


「半分合ってる。依利江は直接アドバイスをするような器用なことはできないからね。代わりに思い出を話してくれたんだ」

「思い出?」


「ああ。一見なんの関係もない、どーでもいい話だよ。ばっさり聞き流すことだってできたね。でもそれがね、ちゃんと耳をすますと、私の求める答えそのものだったんだ」


「ちなみに、どんな話だったの?」

「ヴェネツィア特有の自然現象についてだった」

「うわあ、どーでもよさげ」


「どうしてその話題を持ち出せるんだろうね。けど、依利江の持ち寄った〈図書〉は、私の今を決定する一冊になったんだ。ヴェネツィアは美しいまちをつくろうとしてできたわけじゃない。その地で生き抜くために一千年工夫を続けた結果、文化ができあがったんだ。同様に私も写真を撮り続ける決心がついたんだよ」



 軽トラは交差点を抜け、丁寧に区画分けされた住宅街を直進する。車道は水道管工事の跡があって、その部分だけ真新しいアスファルトになっている。ダークアイボリーの平屋が連なり、歩道には買い物袋を提げた女性が歩いていた。


「この話は一度きりだったから、今ごろ依利江のなかじゃ埃を被った記憶になってるかもしれない。だからと言って私は悲観してないよ。たとえ埃をかぶってかび臭くなったとしても、思い出を受け継いだ当人にとっては指針にだってなりえるんだから」


「……いい話」

 松実は無感情に言い放った。

「けど私の青春時代は違う。〈あの人〉は当時を封印してるんだ。誰にも読まれない本は死んだも同然。私の青春はもう死んだんだ。私が〈あの人〉をないがしろにしたから……」


 彼女は囚われたままなのだ。女川の〈ガル屋〉で二人が再会を果たしたあの日、依利江は松実の絶交を赦してしまった。あの日依利江が「恨んでる」と言っていれば、松実はここまで畏れを抱くこともなかったのだと思う。



「マッチはさ、勘違いしてるよ」

 しかしながら、こんな関係は誰も望んではいない。


「確かにさ、中学時代のマッチの話はベストセラーではないよ。だけど私と依利江にとっては、紛れもない記憶バイブルなんだ」

「バイブル? さすがに言いすぎ。私の青春のどこがバイブルなの?」

「いいや、記憶バイブルと言って過言でないよ。すべての始まりはマッチと依利江が出会ったからなんだ」


「ウソ。絶対ウソ」

「疑うなら依利江に訊いてみるといい。マッチが訊いてくるの、心待ちにしてるはずだよ。私と依利江が出会えたのも、マッチと会えたのも、二人が一緒にいたおかげなんだ」


 松実はこれ以上言及しなかった。



 住宅街を過ぎた軽トラは漁港をゆき、運河に架かる橋を渡った。正面に若い防砂林と巨大な防潮堤が姿を現した。

 ドライブも終わりのときを迎えつつある。


「五月なら……」

 隣の席からか細い声がした。


「五月の連休なら、一日くらい時間、つくれなくも、ないよ。もしもミッツがイリエを誘ってくれるんなら……話、聴いてみたい、かな」


「五月か」

「忙しいよね? それともずっと先すぎる?」


 ためらいがちに尋ねる松実がしおらしくて、思わず頬がゆるんでしまった。


「いいや、五月なんてあっという間さ。いいよ。なにがなんでも依利江を連れてここまで来るよ。依利江が聞いたら飛び跳ねて喜びそうだ」


 依利江のことだ。例えでも誇張でもなく、飛び跳ねて喜ぶに違いない。

 松実も同じ想像をしたのだろう。不安げな表情がにわかに解けた。


「あーわかる。ほんとイリエって、そこんとこ昔から変わんないのな!」

 視線を一瞬交わした私たちは、声を上げて笑った。


 アスファルトの道が途切れて、車は白い砂地に乗り上げた。激しく車体を揺らしながら軽トラは走る。防潮堤の脇に一台の車が停まっていた。メタリックブルーの軽自動車で、湘南ナンバーをぶら下げている。こんな場所にやってくる湘南カーを持つ人間なんて、たった一人しかいない。


「はい到着。先客がいるね」

 サイドブレーキを引き上げた松実が伸びをしながら言った。


「どうせだし、マッチも顔出す?」

「んー、いや、今日はやめとくわ。岩沼行かなくちゃいけないし、心の準備ってもんがあるし」


「じゃ、五月にまた、だね」

「うん。家きれいにしとくから来てよ」

「楽しみにしてる」

 ドアノブに手をかける。



 手をかけて、このまま降りるのは惜しいと思った。


「マッチんとこの子、元気してる?」

 ついつい他愛ない雑談を持ちかけてしまう。


「元気すぎるくらい! 来年小学生だよ」

 松実も話に乗った。


「わ、もうそんなになるんだ。早いなあ」

「生意気さはレベル上限超えだよ。勘弁してーって毎日」

「依利江と会ったことはあるの?」

「赤ん坊のとき一度だけね。知らないんじゃないかな」

「なら会ったときお互いどんな反応するか、楽しみだ」

「イリエ……ああっ、会いたいけど、やっぱ緊張する!」

「大丈夫だよ。私もいるんだしさ」

「お願いミッツ、トイレ立たないで!」

「無茶言うなよ……」


 と言ってついにドアを開けた。松実が身を乗り出し、手を伸ばしてきた。


「サンキューミッツ、楽しかったよ」

「こちらこそだよ」

 伸ばす手に手を重ねた。乾燥してひんやりしていた。働く女性の手だった。今度ハンドクリームをプレゼントしよう。


「連絡してね」

 と松実は言った。

「する」


「イリエによろしく」

「オッケー。送ってくれてありがとね。それと〈かもめの玉子〉も。身体気をつけて」

「うん。じゃ……」


 手が離れ、松実はハンドルを握りしめた。一度だけ私を見て手を振り、それからアクセル全開で軽トラは走りだした。砂塵が舞い、二本の轍が残った。見えなくなるまで白い車体を目で追いかけた。



 松実の車が見えなくなったあとも、しばし立ち尽くしていた。仙台駅からここまでほんの三〇分足らず。予想はしていたが、あまりにも話し足りない。会う約束を取りつけただけましだろう。社会人になるとどうしても連絡を怠ってしまい、人と疎遠になりやすい。



 さて、と。


 二度深呼吸をした。


 磯の香りがする。



 振り返ると防潮堤がそびえていた。傾斜型と呼ばれるタイプの堤防で、背丈の三、四倍はあった。竣工当時は真っ白で浮いていたものの、幾年分かの雨風を受けた結果、くすんだ灰色に染まっている。いい具合に景観と馴染んできた。


 防潮堤の階段をのぼる。この規模になると頂に至るまでに三〇段も必要になる。ちなみに建築の業界では防潮堤の頂のことを天端てんばと呼ぶらしい。


 私は天端からの眺めが好きだ。カメラケースから相棒を取り出すのにそれ以上の理由は必要なかった。

 一直線に伸びる鼠色の防潮堤、左には白い砂浜があり、右には深緑の松林が茂っている。〈あの日〉以降に植林された防砂林だ。樹高は天端より低いので、貞山運河ていざんうんがや閖上漁港、朝市にあるメイプル館が見える。それから稲穂の絨毯、遠くかすかに蔵王山がそびえ、空は青かった。



 思うままにシャッターを切る。ファインダー越しに海を見たあとで、レンズから目を離した。この深い青色はこの目でよく見たほうがいいような気がしたのだ。


 浜辺から威勢のいい掛け声が聞こえる。ジャージ姿の少年たちが列になって岸を掛けていた。部活中らしい。閖上中の子供たちなのかもしれない。


 少年たちが走るなか、一人だけが逆方向へ歩いていた。見覚えのある女性だった。

 黒くて長い髪を後ろで結い、潮風になびかせている。白いパーカーを着ていて、豊かな胸にハート形のアクセントが添えられていた。しゃがんで砂浜に埋もれていたなにかを拾いあげる。


 御咲依利江みさきイリエだった。

 天端を降り、閖上海岸を進む。


 彼女との関係は不思議なものだった。

 定期的に会う仲ではない。半年から一年、会えるか会えないか。会いたいと思ったら連絡をし、互いの予定を確認する。私たちにとって大切なのは会う頻度ではない。共通の場を持っているということなのだ。



 彼女は砂浜に落ちている貝殻を拾っていた。真剣になっているからか、背後の私に気づいていなかった。


「お気に入りの貝殻は見つかった?」

 背中がぴくっと震えた。飛び跳ねるように立ち上がる。手に積み重ねていた貝殻が弾けるように砂浜に落ちた。

「あ、三ツ葉!」


「ただいま、依利江」

 彼女は無邪気な笑みを洩らした。初めて会ったあの日から変わらない、依利江の笑顔だった。


「おかえり、三ツ葉」

 途端に大学時代の自分にタイムスリップしたような気がした。


「久しぶり」

 私たちは肩を並べて歩きだした。

 会って、さんぽして、お茶して、話をする。


 私たちの関係は、それだけの関係だ。それ以上でもそれ以下でもない。だがこれ以上安らかな関係が他にあるだろうか。

 海の音が耳に心地よかった。


「風が気持ちいいね」

「ああ。さんぽ日和だ」


 波は呼吸と同じ間隔で水際に寄せ来る。二人分の足跡が白い浜に残った。

 足跡はやがて風に吹かれて消えるだろう。秋めいた空もいつかは曇天になる。私も依利江も知っている。

 知っているからこそ。


 他愛ない会話を、波の音を、空のいわし雲を、この身に刻めるのだ。

 話題はいつまでも尽きることはなかった。

 私たちの旅は、当分終わりそうにない。





終幕

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イリエの情景 ~被災地さんぽめぐり~ 今田ずんばあらず @ZumbaUtamaro

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