エピローグ



 十月初旬。

 残暑も過ぎ去って、シャツ一枚で外出するには厳しい季節になってきた。


 私はロケット公園のてっぺん、アスレチックの頂上から公園を一望する。

 空は既に半分以上藍に染まり、遠くに見える夕陽の残滓が今日の終わりを告げている。あと一時間もしたら真っ暗になるだろう。


 風が吹き、後ろに束ねた髪が大きく流される。


 ホントは夏の間に切りたかったけれど、変なタイミングで切ると余計な誤解を受けそうだから、あえて伸ばしたままにしてやった。


 あっちに行ったらバッサリ切るつもりだ。


 目下、公園のグラウンドで遊ぶ小学生は、寒いという完成を欠落させて短パン・Tシャツで駆けまわっている。そうしてられるのも今のうちだぞ、あと数年もしたらお前たちも風の子卒業だ。


 この光景も今日で見納め。

 あと四時間もしたら、私は関西の地に降り立っている。


 いまの自分が、過去と繋がっているようで繋がっていないような、不思議な気持ち。


 あれから――母さんと再会して二ヶ月、色々なことがあった。




 華暖。


 あいつとは仲直りしてからというもの、たまに電話で近況を話し合っている。


 いまはうどん屋のバイトをこなしつつ予備校に通っていて、なんと国立の大学を受験すると豪語している。最初は話半分で聞いていたが、先日の模試でC判定をもらっているらしい。


 私は勉強などからっきしだし、興味も無いからピンと来なかったけど、十月に国立でC判定と言うのは、どうやらとてもすごいことらしい。


 けれど本人は「じゃあ第一志望はもっと高いのメザそっかな~?」と飄々としている。諭史が一度”華暖はあれで頭がいい”と言ってたけど、なんとなく私にもニュアンスは伝わってきた。



 ニッカ。


 実際のところ、私はニッカの代わりに関西支店に出向くことになった形だ。


 事務所でニッカが社長と話しているのを横で聞いていると、どうやらニッカに事情があって、すぐに関西へ行くことが難しい。とそんな話をしていた。


 社長はじゃあ誰が行くんだと若干おかんむりだったので、私はすっと立ち上がって言ってしまった。


 私が行きます、と。


 そのままトントン拍子に話が決まり、ニッカは責任を感じたのかひどく心配していた。


「本当に行くのか?」「ヤケになってないか?」「優佳さんの許可は?」


 私はどれも二つ返事で応対し、最後に「すまない」とだけ言われ、私の関西行きは正式に決まった。



 エーコ。


 彼女には土下座された。


 直接はそう言われなかったけど、私の関西行きに一番責任を感じていたらしい。


 まあ、それはそうかもしれない。

 エーコには一度、この街から出て行けと言われたのだから。


 その件はあれからすぐ謝られた。私もその時は特に気にしていなかった。


 けど、もしエーコにそう言われなかったら私もそれを思い立たなかったかもしれない。この街を出る――なんて私の中に選択肢すら存在しなかったのだから。


 それと彼女が責任を感じている理由は一つじゃなかった。


 エーコはニッカは関西転勤のことでギクシャクがしていたらしい。


 彼女にとってみれば出て行けと言った相手に、恋人との仲を取り持たれたような形となって、いっそう罪悪感が募ったであろうことは想像に難しくない。


 だからオタオタするエーコには言ってやった。

 これで貸しイチ、いやサンくらいで覚えておけよって。


 あと冷やかし半分でニッカと上手く行ってるか聞いてみた。けど途中で後悔した。


 だって想像以上にベタ惚れらしく、表情を変えずに淡々とノロけ話が三十分ほど始まったからだ。そういうのには意外と奥手だと思っていたのだが、人は見かけによらないということなのか。



 母さん。


 最近、私が一番執心している人だ。


 自分の母親に執心なんていうのはおかしいかもしれない。

 けど、あえて言わせてもらうのであれば……かわいい人だった。


 それは顔とかスタイルのことを言っているのではない。


 私はあの日、頬を張られたり叱られたりで散々な目にあった。

 だから第一(?)印象はスパルタママで、怒らせると怖いというものだった。


 けどその後ことあるごとに、電話がかかってきた。


「イェンファ、ワタシのことホントは嫌いになってませんか?」「娘を捨てるサイテイな母親でホント、ごめんなさいですよ」「ウチに遊びに来ませんか、ファンも会いたい言ってます」


 とか度々、お窺いを立ててくるのだ。


 昨日も電話がかかってきた。


「一人でさっさと引っ越しするの、寂しくないですか? イェンファが、もし許してくれるなら、ワタシ遊びに行きたいですよ……?」


 とか、申し訳なさそうに聞いてくるのだ。


 なんか放っておけない、構って欲しい子供のようで、私は母さんをついつい甘やかしたくなってしまうのだ。


 新居のお客様第一号は、是非母さんに踏んでもらいたい。



 諭史。


 晴空塔での復縁計画を押し付け、その結果報告を聞いてからは一度も連絡を取っていない。


 取る理由もなかったし、取ることでなにかが上手く運ぶとも思えなかったし。


 私としても特に連絡を取りたいと思うこともなかったし、本来の関係に落ち着いたとでもいうのだろうか。


 諭史に話したいこと、言いたいことはあの夜にすべて済ませた。


 今更、会って話すことなんて特にない。

 そもそも私と諭史は五年の間、特に連絡も取って来なかったんだ。


 私たちはそんな間柄。


 久しぶりに会っても気兼ねなく話せる幼馴染、理想ともいえる関係だろ?


 幼馴染。

 それ以上でも、それ以下にもならない。

 


 そして……



「な~ねえちゃん、そんなトコでなにしてんの?」


「あ?」


 目を落とすと駆け回ってた小学生たちが、こっちを見上げていた。

 その中のキャップを逆さに被った、リーダー格っぽい少年が声を張り上げる。


「ねえちゃん、ヒマなら一緒にあそぼ~ぜ?」


「……ねえちゃんはこう見えて忙しいんだよ」


「へえ、じゃあなにしてんの?」


「……」


 私はなにをしてるのかって?


 ……なにをしてるんだろう。


 子供の頃から遊んでいたこの公園、その別れを惜しんでいた?


 私ってそんなに感傷的な人間だっけ?

 いや、違うはず。関西へ行くことも特に渋ることなく淡々と決めてやった。


 だから、私が感傷に浸るなんてことは……


「なあ、ねえちゃん、あそぼ~ぜ?」


「……少しだけだぞ?」


 マジか? 私はいまからガキに混じって遊ぶのか?


「ほら言っただろ、あのねえちゃん絶対ヒマだって」


「聞こえてんぞ、クソガキ」


「うわ、ヤ〇ザだ」


「じゃ、やるか? ヤ〇ザオニだ。ねえちゃんに捕まったら、コンクリートで固めて海に沈めてやるからな」


「ひええ、こいつはホンモノだぁ~!」


 ガキどもは笑いながら、奇声をあげて散っていく。


 ちょっとワクワクしてきた。

 走るのは久しぶりだ、まだ体力はあるだろうか。


 子供の頃を思い出す――



---



「だ~る~ま~さ~ん~が~……」


 リーダー格のボウズが大声を張り上げる。


 私は磨り足、忍び足で近寄っていく。


 この遊びは昔よくやった。

 あの頃の私は負けてばかりだったけど、今だったら……


「ゾウさんになった!!」


「は?」


 あっけに取られている私をよそに、他の子供たちはパオーンとか言いつつ、腕に鼻を当ててゾウさんになっていた。


「はい、ねえちゃんアウト~」


「ちょ、ちょっと待て……なんだ、いまの? だるまさんだったら転べよ?」


「ねえちゃん、おっくれてる~。だるまさんの一日、知らないのぉ?」


「だるまさんの一日?」


 あとで知ったことなのだが、どうやら現代のだるまさんは転ばず、歯を磨いたとか、ダンスしたとか言って、その動きを真似させるらしい。


「知らなかったの~? じゃあ今のはオマケで許してあげる」


「あ、どうも……」


 なぜか下手に出る私。


「じゃあ、もう一回いくよ~だるまさんが~……ブタになった!」


 ブタ!?

 私は人差し指を鼻に押し当てた。


「おい、ねえちゃんブタだったら鳴けよ」


「ブ、ブヒィ……って調子に乗るんじゃねえ!」


「ひええ、やっぱりホンモノだあ~!」


 なんつークソガキだ、大人を心底馬鹿にしている。


「ほら、じゃぁもう一回行くよ? ホンモノのねえちゃんも上手くやれよな?」


「なにがホンモノだ、こら」


「じゃあ行くよ、だるまさんが~オシッコした!!」


 オシッコ!?


 私はとっさにどうしたらいいか分からず、その場にしゃがみ込んでウン……じゃなくて、剣道のソンキョのポーズを取った。


「ほら、どうだ! これなら紛れもないオシッコだろ?」


 その時、後ろでなにかがドサッと落ちる音がした。


 地面には取り落としたバッグ、そこには瞳の色を失った……姉さんがいた。


「………………レイカ、なにやってるの」


「あ、えと、その……」


 私の顔に血液が集まり、背中に冷たいものが流れ落ちる。

 小学生と遊んでいるところを自分の姉に見られ、しかもオシッコのポーズを披露している……


「ウチのトイレは洋式でしょ、なんで和式のポーズを取ってるの……?」


「ツッコむところ、そこかよ!」


 私は立ち上がって花摘みを中断する。


「あれ? フランスのねえちゃんと、ホンモノのねえちゃん友達かよ」


 少年が不思議そうな顔で、私たちの顔を交互に見る。


「そうなの、そこのおねえちゃんはわたしの妹だよ」


「うっそぉ~!? だってフランスのねえちゃんも、俺たちと同じショウガクセーだろ?」


「も~何度言ったらわかるの? わたしは大人です~!」


 おいおい姉さん、小学生にいじられてんのかよ、って私も人のこと言えないか……


「え、ねえちゃんショウガクセーじゃないの? ダイガクに行ってるんだろ、お金借りて勉強してる人もショウガクセーって母ちゃん言ってたぞ」


 なんだこいつ、親の顔が見てみたい。


 それからしばらく私と姉さんは、ショウガクセーに混じって恥ずかしいポーズ合戦に参加していた。



---



「あはは、あ~楽しかった」


「姉さん、ガキ相手に付き合い良すぎだ」


 姉さんと一緒にベンチへ腰掛け、背もたれに体をぐっと伸ばす――疲れた、あいつらはまったく遠慮しない。


 帰りを促す市内放送が流れ、ガキどもはまた明日~って帰っていった。私が明日来ることはないけれど。


「こう言うのは楽しんだもの勝ちだよ。でもレイカの仁王様、顔まで似せようとするから笑っちゃったよ~」


「う、うるさいな……姉さんだってカエルの時ひどかったじゃないか。四つん這いでゲコゲコ言うなよ恥ずかしい」


「い、い~じゃない。恥はかき捨てっていうでしょ?」


「旅の恥は、ね。これからも住み続ける人がいう言葉じゃ……」


 あ……


 お互い、黙り込んでしまう。


「レイカ……忘れ物は、ない?」


「……うん」


「お世話になった人に、お別れは言った?」


 言ってない。


 ……姉さんにだけ、言えてない。


 姉さんが帰ってきた、七月から。

 あのケンカがあった時以来、ほとんど話すことなんてなかった。


 同じ家に住んでいた時期だって、あったというのに。



 姉さん。


 晴空塔の一件があった後、夏休みの終わりと共に姉さんは諭史との同棲を再開した。


 諭史からその報告を聞いて、安心した。これですべてが元通り、そう思った。


 けど、私と姉さんの関係は……あまり変わらなかった。

 どう接していいか分からない、それは姉さんも同じようだった。


 お互いがお互いに対して、慎重だった。


 かけたい言葉はたくさんある。

 けれど目が合った瞬間、どちらかがその視線を外してしまっていた。


 そこにある気まずさのようなものは、姉さんが帰ってきた夏にあったものとも、家出をする前のに感じていたものとは別だ。


 それは姉さんも同じかどうかは分からない、でも私は姉さんとなにか話がしたかった。


 母さんに言われて気付いた事実、姉さんは私の方をいつも見てくれていたこと。改まって感謝したりするのはおかしいのかもしれない、唐突なのかもしれない。


 でもなにか話をしたかった。けれど同棲をし始めた家に行くのは忍びなくて、電話をするには勇気が足りなくて。

 

 そんな状態が……今日までずっと、続いていた。


「本当に、行っちゃうんだ」


 姉さんが少しいじけたような声で言う。


「ああ、そっちこそ諭史と上手くやりなよ」


「言われなくても、ね」


「妹離れしろよ」


「……レイカのほうこそお姉ちゃん離れ、ちゃんとしなさいよねっ」


「うん、頑張ってみる」


 姉さんは真面目な表情を見せる。


「諭史のこと、今度はほったらかすなよ」


「うん」


「もしそうなったら、今度は本気で誘惑してやるから」


「……ちょっと、やめてよ!?」


 いままでで一番大きな反応をする。なんだろう、それが少し面白くない。


「ああ、それと」


 私は付け加えるように言う。


「あいつおっぱい星人だから気を付けなよ。前に華暖とケンカした時も、仲裁することなく私たちの胸を見比べてたくらい肝入りだぞ?」


「ええっ、それホント!?」


「ああ。姉さんのちっちゃい胸じゃ、他になびいちゃうかもしれないな?」


「ハ、ハレンチ! ぜったい更生させてやるんだからっ」


 姉さんは自分の胸をペタペタ触りながら結構本気にしている。


 諭史め、ざまあみろ。あとで姉さんに説教を食らえ――


「諭史も、レイカのこと気にしてたよ」


「……そ、か」


「……いまは遅れてる受験勉強を取り戻すためにカンヅメにしてるの。浪人なんて絶対させないんだから」


 姉さんは作り笑いを浮かべてそう言う。

 その笑顔は作り笑いだということが分かってしまう、作り笑いの裏が見えてしまう。


 姉さんは諭史を一緒に来させたいけど、自分から誘うのは微妙で。諭史にしても……もし最後に一目私に会いたいと思ってくれたとしても、それを姉さんに言うのは忍びなくて。


 だからカンヅメで出て来られない、なんて事実を創り出したんだ。


 まだすべてが元通りとは言えない、不思議な私たちの幼馴染という関係。


「――なあ、姉さん」


「うん?」


「結婚式には、呼んでくれよ?」


「うん」


「ケンカ、するなよ」


「……うん」


「それと」


「レイカぁ……」


 言葉を遮って、姉さんが私の名を口にする。


「行っちゃ……やだぁ」


 こうなるだろう、と予想していた光景がそこにあった。


「……あ~あ、やっぱり泣いた」


「泣くに、決まってるでしょぉ、だってだってレイカがぁ」


「あ~よしよし、いい子だから泣かないの」


「もぉ……大きいのは身長だけのクセにぃ……」


 そうだ、姉さんに勝ってるのは身長だけだ。それ以外に適うものはなにもない。いつだって私を片時も離さず見てくれて、愛してくれていた。


 アネキ――ではなく、大事な私の、姉さん。


「姉さん、ありがとな」


 自然と口から出てきた。


「母さんと、私を繋いでくれたこと。ずっと礼を言いたかった」


 姉さんは、目を丸くする。


「それまで会おうと思ったことなんて無かった、会ってなにかが良くなるなんて考えたことも。そして姉さんは諭史やお父さんとケンカしてまで、私と母さんを会わせてくれようとした」


 全部、私のために……


「だから、ありがとう。姉さんがお父さんや諭史と、仲直りできて本当に良かった」


「うん」


 目元を拭う。本当に良かった。


 姉さんがそこまで私にしてくれた。


 そのために姉さんがなにかを失う、なんてこと私には耐えられない。


 だからいま、この形で姉さんと言葉を交わすことが出来て、本当に嬉しい。


「……わたし、余計なことしなかった?」


「ああ、私が一番して欲しいことをしてくれた」


「おせっかいじゃなかった? うざくなかった? いやいやで言わされてない?」


「……私みたいなヤツが嫌々思ってること、言うかよ」


「ふふ、そうだよね。レイカはいつだってバカ正直だもんね」


「バカ正直、言うな」


 姉さんのほっぺをつねる。

 その手を剥がそうと、姉さんがじゃれてくる。


 脇腹を突こうとする姉さんの手を抑え、小さい体を捕まえてから私の膝に座らせ、後ろから抱え込む。


 傍から見たら、ただの姉妹に見えるだろう。甘えて抱き着く妹と、身を委ねる姉に――


「そして、ありがとう。私のこと、今日まで見ててくれて」


「バカ。そんなこと言わないでよ」


「言うよ。だって……」


「やめてやめて! こういうお別れの雰囲気、ホンットダメだから……」


「姉さんにはさ、喜んで欲しいんだ。私が家を出ること」


「なんで? 全然うれしくないよ」


 ムスっとした声で姉さんは言う。


「だって姉さんが繋いでくれた、母さんとの関係。そして姉さんが見てくれることに気付けた。それさえあれば、ちゃんと自分の足で歩いていけるって」


「……そう」


 それだけ口にした。


 自惚れるわけじゃないけど、姉さんとしては私を側においておきたいのだろう。


 私も決して離れたいわけじゃない。


 けど、離れなきゃいけないと思えたんだ。


 私にとっても、姉さんにとっても。


「……そうだ、サトシから預かってきたものがあるの」


「諭史から?」


 そう言って姉さんはバッグと別で抱えていた、もう一つのナイロン袋を取り出した。


 なんかゴワゴワしていて、そこそこ大きいものが入っているようだった。


「なにこれ?」


「なんでわかんないの、自分の物でしょ?」


「……スニーカー?」


 そこにはスニーカーが入っていた。


 しかも、私の。


「サトシにも聞いたの。これ元々レイカのでしょ、なんで諭史が持ってるの? って。そしたら渡せばわかるって」


 渡せばわかる……?


 普通のスニーカーだ。

 でもここ最近履いた記憶がない、そこそこ気に入ってたはずなのに、なんで?


「……あ!」


 これ……

 いつだったか、公園で靴飛ばしをした時に無くした靴だった。


 勢いよく飛び過ぎて、軽トラの荷台に乗って、ドナドナしてしまったあの時の靴……


「こんなの、よく見つけられたなあ」


「縁藤なんて苗字、あまりないからね」


「どういうこと?」


「だってココ、ほら」


 姉さんは踵の部分を指さす。


「ここに”縁藤”って名前書いてあるじゃない? 親切な人に届けてもらえて良かったね?」


「え?」


「だから、ここに”縁藤”って」


「ええええええええ!?」


「レイカ、なにをそんなに驚いてるの?」


 私は頭を抱える。


「なんで私の靴に、名前なんて書いてあるの!?」


 これまでずっと気づかなかった……


「もしかしてこれ……姉さんが書いたの?」


「そうだよ。レイカ、すぐに物無くしちゃうし」


「ば、ばかっ! そんなことしなくていいよ、恥ずかしい!」


「え~? でも全部の靴に書いてあるし」


「うそっ!?」


 いま履いている靴の踵も確認する、それを見て私は絶望した。


「あああ……なんでそんな恥ずかしいことするかな」


「恥ずかしくても物を無くすのが悪いの。クセが治るまでそれを使い続けなさいっ」


 人差し指を立てて、姉さんが眉をしかめる。


「わかった? 返事は?」


「はいはい……」


「ハイは一回!」


「はい……」


 私は返事をしてからため息をつく。


「それに、レイカは縁藤なんだから。……あなたが縁藤でいるから、私の家族。遠く離れていても、ずうっと、ね」


「…………うん」


 回した腕に、力を込める。


「でも、こんなの恥ずかしくて、さすがにもう履かないからね」


「なんでよっ!」


 言いながら、おかしくなって二人で笑いあった。


 最高に笑える餞別だ。


 私がこの靴を蹴り飛ばしたりすることは、もうないだろう。



---



 そうして姉さんとは、ロケット公園で別れた。


 新幹線に乗るまで着いていく、言ったけれど断わった。


 最後にこの街を一人で見て回りたい――そう言うと目を瞑り、黙って頷いてくれた。


 空はもう真っ暗だった。


 かろうじて見えるのは、晴れた夜に浮かぶ満月の灯りだけ。



 ――十二年。


 縁藤家に入って過ごした年数、私にとって人生そのものだ。


 次にこの道を通るのはいつになるだろう。


 何年後かにこの道を通った時、私は懐かしいと言ってノスタルジーに耽るのだろうか? そうだったら笑ってしまう。


 でもその時にはきっと忘れてるだろう。


 私がいまここでこうして、懐かしんで街を歩き回る私自身を、馬鹿にしていたことを。


 人は忘れる。


 楽しいことも、辛いことも、少しずつ。


 ここにいて楽しいことばかりじゃなかった。


 悲しかったり、ムカついたり、悩んだりもした。


 時間をドブに捨てた時期もあった。


 けど思い出になる頃にはきっと、いまの自分を笑うこともできるだろう。


 不思議だ。


 いまこうして夜道を一人歩く自分のことを、私は嫌いじゃなかった。


 少し前まで、あんなにも自分のことが嫌いだったのに。


 ……終わり良ければ、すべて良し。


 いい言葉だ、誰かに座右の銘とか聞かれたらそう答えよう。


 いや……適当な人間っぽいか? 実際そうだけど。



 ざくざくと、道端に落ちた枯葉を踏みしめて、夕霞の地をあとにする。


 その音が耳に心地よく、新しい土地での生活に……心を躍らせる。


 これから寒い季節がやってくる。


 でも、きっとなんとかなるだろう。


 私はいつの間にか、そんな風に思えるようになっていた。







 -fin-

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逃げた彼女と、ヒモになった僕 遠藤だいず @yamamotoser

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