8-13 ”  ”


 辺りは暗闇に包まれたままだった。

 二十二時には灯りが戻り、ここを出ることになっている。


 夜空に咲く光の花は、心中に漂う靄に彩りを移したが、僕たちの関係を後押しすることはなかった。


 ここに留まれるのは、あと十五分。


 このまま僕たちが家路に着いたとして、次に顔を合わせられるのはいつになるだろうか。


 僕は遅れている受験勉強を始め、優佳は大学で失った単位を取り返しに出る。


 お互い、動機を宙に浮かせたまま。


 わかり合っているようで、どこかすれ違ったまま。無関係の時を、過ごしていく。


 そんなの……嫌だ。


 認めたく、ない。


「優佳――」


 顔を俯かせたまま、意識だけ寄越す。


 この凝り固まった現状を打開したい。


 急き立てられるような焦燥感はあるが……決意が乱されることはなかった。


 水面に映る月のような、落ち着いた気持ちを失ってはいない。


 今日は僕が無理やり誘ったデートだ。


 優佳を上手くエスコートできただろうか?


 不愉快な気持ちにさせなかっただろうか?


 優佳を楽しませられただろうか?


 そして僕も楽しめただろうか?


 ……悪くなかったはずだ。


 だから、まだ好き勝手やってやろう。


 自分本位でも、優佳の気持ちを無視するのでもいい。


 ただ僕がそうしたいんだから。


「昼間にしたテレビの話、覚えてる?」


「急に、なに?」


「一日中テレビを見ながら、ポテチつまんで、クーラー全開にぐうたらするって話」


 話の矛先が見えない――優佳の目はそう言っていた。


「優佳とは……そういう生活が送りたいんだ。休日ゴロゴロして、空間を共にするだけのなにもない夫婦生活」


 昼間にした話は本心、僕は本当にそんな日常が送りたいと思ってる。


「それが何年も何十年も続いて、おじいちゃんおばあちゃんになった頃には、縁側でネコでも撫でながら日向ぼっこをする。そんな面白くもない日常が欲しいんだ」


 お互い、特にアウトドアって人間でもない。

 そりゃ、たまにはデートとか旅行だってしたい、でも優佳にこの気持ちは伝わるはず。


 だって僕らは起伏のない平凡な生活の中で、お互いに好意を持ち始めたんだから。


「で、ちょっと刺激が少なくなった頃に、どっちかの提案で外出するんだ。その時は傑先輩やエーコでも誘って、ダブルデートみたいなのしてもいいかもね」


 友達、先輩後輩、お世話になった人。

 僕たちは一人で生きているわけじゃない。


 この一番高いところで暗闇の中、二人きりでいられることがなによりの証明だ。


「レイカともその頃にはきっと元通りの関係だ。誘ったら文句ばかり言うけど、なんだかんだ付き合い良いから、必ず顔を出してくれる」


 僕は敢えてレイカの名前を出す。

 側にいて、当たり前の人。それに遠慮をしている方が、よっぽど不自然だ。


「そして僕たちは長いこと夕霞に住んで、歳を取っていって。むかし大ゲンカしたことがあったよな、って話すんだ」


 優佳は目を細め、子守歌でも聞くように、僕の戯言に耳を貸している。


「きっとその頃には、当時悩んでいたことなんて全然大したことじゃなくなっていて。それこそ若かったなあ、一言で済ませられるくらいに」


 それを聞いた優佳は眉をひそめ、戯言を口にしてから初めて、僕に分かるような形で視線を向けた。


「……サトシは。わたしの悩みなんて大したことじゃないって、そう思ってるの?」


「そうだよ」


 即答する。


 言われた優佳はなにも言い返さない。

 ひたすらに訝し気な視線で、僕を眺め続けている。


「だって優佳、いまもここにいてくれてる」


「……」


「こんなバカげたことに、最後まで付き合ってくれてるじゃないか」


 人を騙して、暗い密室に男と二人。

 サプライズとは言え、怖がらせるようなことをした。


 普通だったらこうはいかない、早く解放しろと本気で怒るはずだ。けど優佳は怒らず、最後まで付き合ってくれた。


 自分ではどうにもならない、決められない、正否の判断すらつけられない。

 だからそれを打開する”なにか”を求めて、僕の船に乗ってくれたんだろ……?


 そしてその船に乗ること自体が、答えになってもいいって、気づいてもいるんだろ……?


「……」


 優佳は俯いたまま、なにも言わない。


 だから僕は言葉を続ける。


「優佳のことが、好きだ」


 目を落としたまま、優佳は息を止めた。


「いなくなってからも、思わなかった日はない」


 欠けた痛みを忘れようとしたことはある、でも無理だった。

 その痛みを忘れるということは、僕の人生そのものを否定することでもあったから。


「優佳を苦しめたことは一生抱えて生きていく。だから優佳もその悩みを、不安を抱えたまま……僕と一緒に生きて欲しい」


 優佳は自分の両手を深く握り込み、大きく顔を伏せた。


 なんて傲慢で横柄――そして自己中心的な言い草。


 優佳にはたっぷり考える時間が必要だった。

 そしてどれだけか時間を掛ければ、僕が一番望んだような未来が訪れるかもしれない。


 けど、そんなんじゃダメだ。


 だって僕たちは深く付き合い過ぎた。

 根っこからがんじがらめになっている間柄なんだ。


 だから、いまハッキリさせないといけない。


 なぜなら、夏が終わったら僕たちにはまたやるべきことが来る。


 受験勉強をして、成人になって、教職への道へ向かう。


 将来。


 それを相手に乗せて、これまで生きてきた。

 だから、いま、この瞬間、それができないのなら、僕たちに未来はない。


 だってその夢は相手ありきなのだから。

 相手と人生を共にする覚悟なしに、夢を語れない。


 だから夏が終わった時に、僕らがいまと同じ関係だったとしたら……


 僕たちは夢を諦めるだろう。

 夢を追う動機が、ないのだから。


 なんて不純な夢だろうか。

 自分一人で追い続けられない夢なんて、本気でそれを目指す人たちに失礼だ。


 けど、それが僕たちにとっての当たり前なんだ。

 誰から指を差されようとも、僕たちの根っこにある、生きている理由の立脚点。


 だから僕、いや僕たちはいま決断しなければいけない。


 その未来を、夢を、エゴを押し通そうと言うのなら。



「サトシ、ひどいね」


 こちらを見ることなく優佳は顔を上げる。


「わかってて、そう言ってるんだよね」


「……もちろん」


「わかってて、わたしにそれを言わせようって、キチクすぎるよ」


「僕の答えは、伝えたよ。だから優佳はそれに返事をくれれば、それでいいんだ」


「そっか……はは」


 暗闇に響く、愛しい人の乾いた笑い。


 もう灯りが点くまで、十分もない。


 その間に、僕らの未来が、決まる。


 夢に突き進むか、諦めるか、それとも無駄な時間を過ごすか。


 優佳はなにも言わない。


 選ぶことをしない。


 時間だけが過ぎていこうとする。


 だけど、それだけは認められない。


 これ以上の停滞は、僕たちをゆっくりと腐敗させていく。


「――僕は」


 優佳がひどく不安な顔をする。

 これから口にすることは、すべてわかっているかのように。


「もし、優佳に受け入れてもらえないのなら……本当に苦しくて、どれだけ掛かるか分からないけれど」


 それを聞きながら、自分の肩を両手で抱く。


「新しい道を、探さなければいけないと、思ってる」


 言ってしまった。


「なんで……」


 暗闇の中だから、優佳の顔色は見えない。


「なんで、待ってくれないの?」


「……それが一番の間違いだから」


「そんなに急がなくったって、いいじゃない!」


 悲痛な声が響く。


「でないと僕も優佳も、不幸になる」


「勝手に決めつけないでよ! いいじゃない、わたしと一緒に不幸になってよ!」


「そうならないんだよ優佳、それぞれ不幸になるだけだ。一緒に不幸になることは、絶対にない」


「なんでそう決めつけるの!?」


「優佳にも本当はそれが分かってるはずだよ」


「そんなのわからないっ! 勝手に決めつけないで!!」


「優佳」


「うるさい、うるさいっ! サトシはなんでもいつも勝手に決めて! 五年前だって、いまだって! わたしはいっつもそれに振り回されっぱなし!」


 優佳は泣き叫ぶ、癇癪を起した子供のように。


「わたしがなにをお願いしたって聞いてくれないのに、サトシは自分のことばっかり! 好きなんて言うのも全部ウソ、信じられない!」


 そんなことないだろ――思うけど言わない。

 いまの優佳にそんなことを言っても、聞く耳はない。


「そっか」


「そうよ……失った信用は簡単に取り返せないんだから」


「っ……」


 その言葉は、痛い。

 否定のしようもない。


 でもそれを踏まえた上で、いま結論を出さないともっと不幸になる。時間は有限だから。


「ごめん。でもそれを踏まえた上でも、いま答えを聞きたい」


「……それで、いいの」


「うん」


 迷わず僕は首を縦に振る。


「いま出せる返事は……わかってるんでしょ」


「わかってる」


 優佳の目が、泳ぐ。

 その肯定だけは、されないと思っていたかのように。


「わかってるんだ……わかってて、それをわたしに言わせるんだ」


「僕のほうは、伝えたからね」


 冷たく、そう突き放す。


 優佳が、胸を抑える、呼吸を整える。

 自分が口にする言葉で、二人の人生に大きな変化を起こしてしまうことを躊躇する。


 その覚悟をする。そして……迷う。


「でも優佳、一つだけ答えて欲しいことがあるんだ」


 体を震わせて驚く、これ以上なにを言わせるのだろうって顔。


 その瞬間、僕の罪悪感は解放される――我慢してきた、すべてのことに。


 でも絶対にこれだけは答えてもらわなければいけない。


 数年前の、仕返しとして。




「僕のこと……好き?」




 ――雨の音と、ホットミルクの香り。


 優佳は、気づく。


 それはあの日の焼き直し。


 二番煎じ。


 単純な質問で、イエスかノーだけの簡単な質問。


 かつて優佳が僕に投げた爆弾。


 優佳の好意を撥ねつけた僕を、自爆させたチープな問い。



 でも、その効果は計り知れない。


 だって……使われたほうは、たまったものじゃない。


 それは、僕が一番よく知っているのだから。




「……好き」




 小さなヒビを入れた。


「好きに、好きに……決まってるじゃない。なんでそんなこと言わせるの、バカ、バカバカ、サトシの大馬鹿っ」


 その小さなヒビだけ入れば、十分だった。


「サトシを、あなたを嫌いになんかなれるわけない。もう会えないなんて無理に決まってるじゃない、そんなんだったら死んじゃったほうがマシだよぉっ」


 ヒビが入ればダムの水はそこからすべて流れ出る。


「初めて会った時からずっと好き、時間が経つごとにもっともっと好き! 好きって気付いても言うのをガマンしたら、もっともっと好きになった!!」


 僕もかつて、そうだったから。


「手を繋ぐだけなんて、足りない。足りないんだよ、サトシの全部欲しいのっ! キスしたい、ハグしたい、エッチなことだって、全部全部したいのにっ!」


 余計なしがらみ、心の壁、鬱屈した想い、そんなものを全て吹っ飛ばす感情の奔流。


「サトシが女の子と話してるのがイヤ! わたし以外の女の子全員いなくなっちゃえばいいのに、わたしのサトシに勝手に話しかけないで欲しいのに、わたしが生きてるってことが、サトシを好きだっていうことなのにっ!」


 だから、きっかけだけ与えて全部台無しにする。


「わたしの気持ち、わかってるの!? キレイに好きでいたかったのに、いつかキレイな気持ちでまた好きになってあげられたのに! こんな汚いわたしの姿を曝け出させて、サトシはどうしたいっていうの、こんなわたしなんか、わたしなんかっ」


 かつての、仕返し――


 僕は優佳を抱き寄せる。


 優佳はそれ以上に強い力で僕の頭を掴み、強引に唇を寄せる。


 息ができない。


 背中を抱く指は爪を立て、本当に怒っているんだぞと伝えてくる。


 いまはその怒りでさえも愛おしい。


 優佳の剥き出しの感情が、僕に向けられるのが嬉しい。


 息をするために優佳の顔を僅かに離す。


「やっと、捕まえた……」


 そう言った僕の口を塞ごうと、また強い力で唇を押し当てる。


 恥とか、外聞とか、どうでもいい。


 過去とか将来とかもどうでもいい。


 ただそこに優佳だけいてくれればそれでいい。


 僕の隣に優佳がいてくれるんだったら、なんだってやってやる。


 だって優佳がいなければ、僕には過去も将来も、いまもないのだから。






 僕たちの関係はいままで間違っていたのかもしれない。


 本当だったら相手の気持ちに不安になったり、好意を疑ってしまうのは当然のことだった。


 絶対に別れない、なにをしても嫌いにならない。そんな関係は夢現のもの。


 僕らは最初からお互いを好いていて、最初からお互いを信じ切ったまま、恋愛関係になった。


 だから正しい恋愛過程を踏んでいない。


 相手に不安を抱え、信じていいのか迷い、ささやかな愛情を感じて幸せを得る。


 それがきっと正しい関係。


 いままで不安を感じずに、愛されるのが当たり前だとあぐらをかいてきたことが、そもそも歪んでいた。


 だから、こんなにも今更な不安で、ガタガタになってしまう。


 僕たちは、優れた関係でも、人より愛に富んだ関係なんかではない。


 どこにでもいる、ありふれた関係だ。


 それを、とても遠回りをして、周りに励まされて、何故かこんなところに二人きりでいる。


 支えてくれる人がいて、色々なことが積み重なって、こんな高いところに追いやられた。


 僕は優佳の信頼を取り戻したわけではない。


 これからもきっとたくさん不安にさせてしまい、僕も不安になることだろう。


 だから僕たちが究極の意味で想いを一つにすることは、きっとない。


 どこまでいっても、僕らは別の人間であり続ける。


 ――生きてきたこれまでの積み重ねで、今が一番高いところにいる。


 そんなのは幻。


 高いところを目指し続け、その過程を繰り返して、いつの日か死んでいく。


 それが、たった十数年生きてきた僕の答え。


 明日には変わっているかもしれないし、真逆の応えに辿り着くかもしれない。


 でも、それでいいんだ。


 それを繰り返していくことが、きっと……

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