第一話 ブラジャーに関する一考察 5 

 日は暮れて、外は完全に夜だ。

宮水家の奥座敷で、宮水三葉の身体を持った瀧は、畳の上に正座をしている。


 五分以上の正座をしたことがない瀧だが、今は平然と座り続けていられる。三葉の足が、正座に耐えるよう鍛えられているものらしい。


 三葉の祖母と妹が、着物姿で同じように座っているが、瀧は自分に着物を着付ける能力がないので、制服姿のままである。

全員の前に古い木製の器具が設置されていて、それはどうやら織物に関連するもののようだ。


 三葉の祖母は色とりどりの糸を複雑に組みあわせて一本の太い紐を作っている。四葉は糸を縒りあわせる作業をしている。


 瀧も同様の作業をどうやら期待されているらしいのだが、やり方がわかるわけもないので、完全に居直ることにした。


「まったく忘れました」

「あれまあ」

 祖母はそう言って目を見開いたのだが、それほど驚いているふうでもない。


 瀧は横にいる妹のほうに身を乗り出した。

「四葉ちゃん、教えて?」

「ちゃん?」

 四葉が薄気味悪そうに身体を引く。


 そういう反応を示したものの、四葉は糸縒りの道具を部屋の隅から持ってきて、瀧の前にセッティングしてくれた。


 宮水三葉との「入れ替わり生活」をしてわかってきたことだが、その場の状況にまごついてもじもじしていると不審に思われる。それよりは堂々と居直ったほうがいい。

「何か文句がありますか?」くらいの態度でいれば、知っているはずのことを知らなくても、どんなに変な行動を取ってしまっても、周囲は「そんなものなのかな」と飲み込み、それで通ってしまうものだ。


 糸守町で遭遇するほとんどすべての状況を、こういう「居直り」で押し通っている瀧である。


 そういうコツがわかってきてからは、少しばかり安心して、油断した状態で、宮水三葉として生活できるようになってきた。


(というより……)


 自分の身体でいるときよりも、かえって率直なホンネで活動できている瞬間が、たびたびある気がする。


 人格が入れ替わりを起こすというのは、とんでもない体験なのだが、「自分という存在からいったん離れることができる」というふうに捉えれば、つまりそれは、一種の「自由」を獲得しているのだと言えるのかもしれない……。


 ごく初歩的な糸の縒り方を、四葉から教わりながら、そういったことを考えていた瀧だが、ふと、


(あいつ、向こうでそういうこと、うまくやってるのかな)


 今、瀧の身体に入って東京にいるはずの三葉のことが、気になった。


 立花瀧という男子高校生になりすまして一日なんとかやりすごすという、ちょっとしたゲームのような状況の中で、「居直りで押し通す」といったことが、ちゃんとできているのだろうか。


 そういうことについて、瀧は気を回したのだが、よく考えたら心配することはなかった。

何しろ宮水三葉は、ほぼ初めて入れ替わりを起こして瀧の身体に入り込んだときに、平然と瀧のバイト先に行って、いろいろと失敗はしつつもレストランのウェイター業務をひととおりこなして帰ってきた女だ。


(普通だったら、さぼるとかするだろう……)

 凄い度胸だ。

 

それなのに気を回してしまうのは、糸守町で触れる宮水三葉の気配が、なんとも頼りないからだ。


 このギャップは何だろう。


 このあいだ瀧は、三葉の後輩の女の子に(突然)手作りのクッキーをもらったのだが、


「あの、私、宮水さんのこと、やっとわかってきた気がします」


 中学か、へたをしたら小学校のころから知り合いのはずの子に、そんなことを言われるのは、どうなんだと瀧は思う。


『スムーズ・クリミナル』を見られた女の子たちとは、あれから少し仲良くなった。

通りがかりに唐突に、

「ビリー・ジーン!」

 などとリクエストしてくるので、

「私はビリー・ジーンじゃないっ」

 と言い返している。


人の顔を見て大声で大悪女の名前を呼ばないでほしいのだが、三葉本人は、いったいどんなふうに言い返しているのだろうか。


 そんな彼女たちを含めた何人かの人たちから、ことあるごとに言われるのは、例えばこんなことだ。


《宮水さんって本当はこんな人やったんやねー》《知らんかったわー》《おとなしーい人だと思っとったのに》《ひかえめな優等生じゃなかったんや》《見る目が変わった》云々……。


 そこから見えてくる「本物の宮水三葉」像は……。


 主張のほとんどない女。


 だが、そんなわけないだろう。

 わめき声が携帯の画面から聞こえてきそうな、三葉のあのメモアプリをちょっと思い返すだけでも、そんなわけがないのは明らかだ。


 瀧の中での宮水三葉は、行ったこともないバイト先にいきなり飛び込み、その場しのぎと憶測となりゆきでなんとか仕事をこなし、失敗したら愛想笑いでうまいことやりすごす、とてつもなくファンキーな女だ。


 外面的な評判と、内面とのあいだに、著しくギャップがある。


 和室の壁に、古い姿見が立てかけられていた。

 指は糸を縒り、頭は考え事をしていた瀧は、何げなく視線をさまよわせていて、鏡の中の三葉の顔と、ばったり目が合った。


 肌が白く、うりざね型で、飾りっ気のまったくない女の子の顔が映っていた。


 その顔を、瀧はまじまじと見つめた。


 その顔が、瀧をまじまじと見返してきた。


 それが本当に、ひどく思いつめたものに見えて、瀧は呼吸が苦しくなる。


 今は自分のものでもある女の顔が、何かを訴えかけているような気がした。


(おまえはいったい──)


 おまえはいったい、どういうやつなんだ?


 瀧は、この女について、強い興味を覚えている自分に気づいた。



 鏡を見つめたまま、瀧は、四葉に向かってぼそりとつぶやいた。

「君のお姉ちゃんは、大丈夫かな」

 四葉は首を傾けて、いかにも胡乱そうに瀧を見て、こう述べた。

「この人大丈夫かなって、私、今思ったけど」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

君の名は。 Another Side:Earthbound 角川スニーカー文庫 @sneaker

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る