八、亡宋の遺民たち

 一二七六年、首都臨安が陥落した年の十二月、蒲寿庚は元に投降した。泉州に居住する宋室を皆殺しにして、元への忠誠の証しとしたのである。

 南宋の亡命政権は泉州をあきらめ、さらに南下した。

 同じ月、広州が元軍に占領され、駐守していた南宋の遺臣は広州を追われた。再起を図る張鎮孫は、広東の恵州甲子門で、端宗皇帝に謁見した。

 嶺南でならぶもののない、文武両道に長けた状元の義士である。文天祥・陸秀夫・張世傑らともたちまち意気投合し、端宗手ずから佩剣弓箭を賜予され、広東制置使など広東地方の最高軍事長官を拝命した。

 翌年、都統(大将)に奉じられた張鎮孫は、軍馬を発動、起死回生の一戦におよぶ。宋の残党を糾合して元軍と激戦、広州城を奪回する。

 久々の朗報に嶺南の民心は奮い立ち、人々は喜びに沸きかえった。

 しかし半年後の冬、元軍は大将呂師夔ろしきを派兵、広州を反撃した。張鎮孫は二千余艘の軍船をひきいて元軍を迎え撃った。

 両軍は珠江北岸の水上で激しく戦ったが、戦力の差はいかんともしがたく、宋軍は大敗した。やむなく五羊城内に退き、立て籠もった。しかし孤立無援のなか、広州城の陥落は必至であった。報復のみな殺しをおそれた張鎮孫は、みずから投降し元軍の捕虜となった。


 張鎮孫は呂師夔のまえに引き出された。

「わが身はともあれ、広州の民をお救い下され、かたじけない。篤く礼をもうしあげる」

 張鎮孫は悪びれず、神妙に陳謝した。

「世祖より『なんじ殺すなかれ』とのお達しがあった。わしは先年、大庾嶺を越えて嶺南攻略の軍勢を進めたが、そのさい珠璣巷の惨状をつぶさに検分した。さすがのわしも驚きいった。南遷移民で高名な繁華の象徴が、見る影もない無人の廃墟とかわり果てておった。宋に盾突いた謀反人三万の村を、宋の討伐隊が一夜にして皆殺しにした結果だと聞いた。モンゴル人のわしでさえ背筋が冷えたが、まさに他山の石よ。いまさらながら、おのが所業のすさまじさを思い知らされたことであった。『報復の皆殺し』なぞ、わしらもいまは自粛しておる。ましてやおぬしらには、二度とまねてもらいたくない。世祖にはご報告してあるから、『なんじ殺すなかれ』とは、それをおもんばかってのお達しであろう」

「検分されたのが昨年なら、大殺戮から三年目。いまなら四年になるから、もうそろそろよろしかろう。ふたたび珠璣巷へゆかれ、あらためてご覧になるとよい」

「なにが見られる」

「かならずや珠璣巷の繁華な街通りが復興しておる。それもこれまで以上に」

 張鎮孫はおのが民族の祖先の地にかける思慕の念と執着性を、信じて疑わなかった。


 そして翌年、大都へ護送される途次、おのが目でそれを確かめた。

 珠璣巷、珠璣里、牛田坊五十八村は、生き返っていた。三万の新たに南遷した移民たちが、忙しく立ち働いていた。

 田畑は緑に覆われ、確実な実りをとり戻していた。街道は行き交う人と荷車で満たされている。たとえ統治者が元にかわっても、人々の日々の営みはかわらない。大地を踏みにじる野蛮な鉄蹄と無辜の民をあやめる残忍な刃を、封じ込めてくれさえすればいい。勤勉で働くことをいとわぬ南遷の民は、元の統治下だろうと黙って働く。生きる糧が残り、ささやかな個人の自由が黙認されるなら、あえて逆らうことはない。

 珠璣巷は無人の廃墟と繁華な賑わいの両者を見せて、今後、元国が採るべき道の選択を迫ったのである。

 刃を振るう一過性の強奪は、あとに無人の廃墟を残すばかりである。鋤を振るって耕せば、実るまで数ヶ月かかるが、成果は確実に約束され、年ごとに蓄えを残すことができる。経済効果だけからみても、繰りかえし税収の上がる後者を選ぶのに、疑問の余地はない。

 広州近辺の珠江三角州で、入植者の活気を肌で感じ、いままた復興した珠璣巷を目にした呂師夔は納得し、張鎮孫を励ました。

「南遷者は生き残ることに必死で、わき目も振らずに働く。脅す必要もなければ、むりに縛ることもいらぬ。無人の廃墟となった嶺南の地が、短期間のうちにもとの姿―豊穣の福地に戻った事実を、そなたの口から世祖に説いてみられてはいかがかな」

 福地とは、幸いをもたらす豊かな楽園をいう。

「わたしがいうまでもない。世祖はすでに見通しておられよう」

 張鎮孫に大都までゆく意思は、はなから存在しなかった。


 居民はかわっても里長さとおさはかわらない。一夜にして消えた三万人の南遷者を領導した羅貴は、戻っていた。

「元に投降したと聞いたが、おぬし大都まで送られて、そのあとどうする」

 珠璣巷で泊まった夜、羅貴が訪ねてきた。護送中の身ではあるが、宿先での来客応接を許されている。居住まいを正した張鎮孫は静かにいった。

「投降はあくまでも仮の姿だ。大庾嶺を越え、嶺南をすぎたら、自刃して義をしめす」

「曹汝端が同志とともに、おぬしを奪還しようと息巻いている」

「いやわしのことはもはや無用にしていただきたい。むしろその力を、元の時代となっても珠璣巷が、かわらず南遷者の受け皿となりつづけるための発条ばねにしてもらえぬものか。かえってわしから曹汝端に頼みがある。朋輩の黄準平を探し、胡妃さまとお子の行方を追ってはもらえまいか。できれば、人知れず背後から静かに見守ってあげていただきたい」

「いとやすきこと。もとよりわしらはその慮りであった。胡妃さま母子は、珠璣巷の井戸へ身を投じて亡くなったことになっている。されど生き延びて、どこで暮らそうが、何十年経とうが、珠璣巷出身の同胞であることにかわりはない。さきごろ、羅浮山の一真道士にお会いした。地仙となってあと百年生き続けるので、元朝支配下の漢土のありようを、しかと見届けて世祖フビライに、ものもうしてくれると、まこと壮年のようなお顔で意気盛んなことであった。胡妃さまと皇子みこの行く末も、お見守りくださるそうじゃ」

「世の中が大きく変わろうかといういま、はや不老長生の地仙におなりか。されば、あと百年生き、その間の元朝の有様を見届けようというのか。なんと豪儀なものじゃ」

「さよう、モンゴルの世となり百年ののちにも、嶺南がいや漢土全域が、平和に暮らせる世であってほしいとのご託宣であろう。そうそう、おぬしへの伝言も託されておる。宰相の賈似道にいいように使われたと、恨み言のひとつもあろうが、すべては南遷者を平穏無事に嶺南に導きいれ、珠江流域の豊饒の大地に移住させるための計らいであった。戦乱の中、その計らいを成功させるためには、土地の実情に通じた先導者が必要だった。おぬしを見込んで一切を託した宰相の目に狂いはなかったと、わしも思う」

「いや、恨み言などあろうはずもない。宰相には得がたい機会とき舞台ところを与えられ、ありがたく思っている――」

 一二七八年二月、京師大都へ護送される途中、張鎮孫は宋朝への義を貫いて死ぬ。大庾嶺の紅梅の群がり茂るなか、縊死して果てたのである。享年四十四。


 一方、逃亡を続ける亡命政権を潔しとしない文天祥は、ひとりゲリラ戦に活路を見出していた。私家軍団をひきい、福建・江西そして広東と、南方各地で元軍相手に抗戦していた。たとえ寸土であろうが失地を回復し、敵に一矢報いんがためである。そして、張鎮孫が亡くなった年の十二月、潮陽県五坡嶺で戦い敗れ、元軍元帥張弘範によって捕えられた。竜脳を飲んで自決をはかったが薬効が弱く、死に切れなかった。文天祥の人となりを惜しんだフビライは、けっして殺すなと諸将に厳命していたから、捕われの身とはいえ、下にもおかぬ賓客の待遇である。ただし、逃亡した前歴があるから監視の目は厳しく、再度の自決は容易になしえなかった。たびたび絶食を試み衰弱死を待ったが、心気の衰えるのを嫌い、土牢に監禁されてからは生きるに任せた。

「こたびは間違いなく大都へお連れせよと、世祖よりじきじきのお達しである。おぬしの妻子も待ちかねている。義を尽くすというなら、生きて三宮の無事を確認されてはどうか」

 張弘範は文天祥に「世祖は貴殿に宰相の地位を約束されている。元の世にあって、存分に己が抱負を具現されよ」と、文天祥にかけるフビライの期待をにおわせ、元への帰順をうながした。

 しかし、節義に殉ずる覚悟の文天祥が、首を縦に振ることはなかった。崖山に向かう船中で、張弘範は亡命政権への投降勧告文を書かせようとしたが、文天祥は応じなかった。かわりに、死をも恐れぬ烈々たる忠義の心情を、詩句に託しで残したのである。


  人生自古誰無死  人生いにしえより 誰か死無からん

  留取丹心照汗青  丹心(まごころ)を留取して 汗青(歴史)を照らさん


 崖山の敗北を元船から目撃した文天祥は大都に送られ、さまざまな帰順勧告を受けたが節を曲げることはなく、三年後の一二八二年十二月、処刑された。享年四十九。

 天地の間にみなぎる正気は、国家存亡のおりに発現、誠忠の志をもって恩義に報い、歴史に典刑(正しい規範や法則)を伝えるのだと賛美し、従容しょうようとして死に就いたのである。獄中でつづった『正気の歌』は、時代を越え国を跨いで幕末の日本の志士に語り継がれた。藤田東湖、吉田松陰らが文天祥に倣い、自作の『正気の歌』を詠んでいる。


 元軍に追われ広東に逃れた端宗の亡命政権は、潮州・恵州・広州と各地を転々とした。そして海路、ベトナム中部の占城チャンパを目指す途次、いまの湛江たんこう市近海、雷州湾沖の一海島で、端宗は病死する。しかし、あくまで祖国の復興を念ずる陸秀夫・張世傑らは、端宗の弟でわずか八歳の衛王を擁して珠江の西側河口、マカオに近い新会の孤島崖山がいざんに立て籠もった。この崖山を難攻不落の要塞と恃み、行在所あんざいしょを設け、各地の義軍の決起を待つという、不確かな長期戦に望みをつないだのである。

 崖山は広州の南約百キロ、いまの江門市新会区古井鎮にある。いまは陸続きだが、当時の崖山は珠江の河口に浮かぶ孤立した小さな島であった。東に崖山、西に陸続きの湯瓶山というふたつの山が南に延びて海面に突出し、激しく出入りする潮流を制する関門の様相を呈している。またの名を崖門というゆえんである。

 ちなみに珠江の下流は、ほんらい広大であるはずの湾が砂州や島で遮られ、八つの河口に分かれて南海に流れるが、崖門の河口はそのひとつである。


 元軍に捕まった文天祥、消息不明の陳宜中にかわり、陸秀夫が亡命政権の内政を束ね、張世傑が軍事を仕切っている。総勢二十万になんなんとする大部隊だが、家族や後宮の官女らを含んでいるから、すべてが兵力ではない。

 大小二千艘の舟船を崖門の内側に停泊させ、中央に衛王の御座船をかこみ、太い綱で一文字につないでいる。崖山への敵軍上陸をこばむ橋頭堡の役割を担っており、あたかも海上宮殿の城門というにふさわしい陣構えである。火攻めにそなえ、船体の外側には泥を塗ってある。

 割拠した当座、崖山の山林を伐採し、島内に行宮三十室と兵舎三千室を建設、糧食を徴収保存し、武具や兵船の調達修理、軍事訓練・子弟教育などを行っていたが、待てども援軍は到来せず、かえって元軍の集結が予測され、ふたたび移動を余儀なくされる趨勢である。やむなく建物を焼き、人はすべて船中に移している。

 喉の渇きが激しい。島に井戸はなく、飲料水を調達する供給路を断たれたためである。喉の乾きに耐え切れず海水を飲んだものは、腹を壊し、嘔吐している。

 陸海で包囲した元軍は、頃合を見計らって油を流し、着火したわら舟を突っ込ませる火攻めの攻勢にでた。船体に塗った泥が類焼をさえぎり、前哨戦こそ持ちこたえたが、本格交戦をまえに、宋軍の意気は、いささか心もとない。無敵と謳われた、名にし負う南宋の大艦隊も、長い流浪の航海で、兵も船も疲労がたまり、極度の緊張に耐え切れそうになかった。

 一方、モンゴルといえば騎馬軍団で、その後塵を拝してきた海軍だったが、投降した蒲寿庚の船と海事要員を加え、質量ともに充実し、面目を一新していた。

 一二七九年二月六日早朝、張弘範は五百艘の艦隊を四隊に分け、最終決戦を開始した。初戦から十数日経っていた。

 一隊は崖山の北側から攻めた。張弘範の本隊と残り二隊は南に回り、河口に迫った。昼ころ、満ち潮に乗った張弘範軍は石を放ち、火矢を射って進撃した。

 張世傑は兵を叱咤し、前後の敵に対峙した。勢いは元軍にある。元船に体当たりされ、一艘の宋船のマストの軍旗が倒れた。と見るまに、その周辺の宋船のマストの軍旗もつぎつぎと倒れてしまった。船は交互に太綱でつないであったから、激しい揺れの連鎖反応を起こしたのだった。戦意の象徴を失墜した宋軍は、敗戦を予感した。

 張世傑は太綱を断ち切り、かろうじて十数艘の宋船を脱出させた。そのうちの一艘に、たまたま御座船を離れていた幼帝の母楊太后が座していた。

 一方、中央に囲まれていた御座船は身動きが取れず、たちまち元船に発見され、格好の標的にされてしまった。このままでは帝が捕えられる。

 逃げ切れないと観念した陸秀夫は、じぶんの妻子に入水を命じた。

「もはやこれまで。生きて虜囚の辱めは受けられない。不憫ではあるが、ともに死んでくれい」

「分っております。大宋国の忠臣の妻であり、その子であることを誇らしく思います」

 陸秀夫は衛王を背に負った。衛王はかぞえで八歳、奇しくも誕生日の一ヶ月前である。幼王に抗う意識はない。されるがままに、したがうだけである。

 陸秀夫の妻がけなげにも背の上に白い布をかけて、しっかりと縛った。

「おいたわしや帝さま。ご母堂にかわり、お供つかまつります」

 妻は子を抱いて、先に海中に飛び込んだ。

「すまぬ」

 痛恨のひと声を発し、陸秀夫も海面に身を躍らせた。享年四十四。

 その様子を見ていた宋の軍民はひとり、またひとり、戦闘員、非戦闘員の区別なく、だれもみな、崖門の海に身を投じはじめたのである。

「やめろ、やめてくれ。死ぬな、死んではならん」

 絶叫したのは敵将張弘範である。

 呆然として見守る元軍を尻目に、二十万人の人々が、宋船から飛び降り、崖海の藻屑と消えたのだった。首都臨安が陥落して三年後のことである。


 脱出した張世傑ら宋の残党は、元軍の追跡を振り切り、さらに南下した。

 停泊した港々に、はやくも崖山の惨情が伝わっていた。

「二十万人の遺臣が、幼帝に殉じて死んだ」

 この噂が楊太后の耳に入った。

「帝はお亡くなりになられたか。かくなるうえは、生きていても甲斐なし」

 引き止める張世傑をふりきり、いまわのひとことを残し、楊太后は入水自殺した。

「宋の祀りを絶やさぬために皇統をもとめるなら、胡妃の皇子をお探しなさい。胡昱ともうされ、母子で南遷された由」

 胡妃といえば先の皇帝・度宗の貴妃である。呆然として楊太后を見送った張世傑だったが、気を取り直し、珠璣巷に人を派遣して胡妃の消息を尋ねさせた。


「あなたが張世傑どのか。皇孫をお探しと聞いたが、もはや宋朝は滅びた。胡妃さま母子がお亡くなりになったこと、お察しいただきたい。されば、亡き皇子を亡宋の王に推戴するなど、迷惑至極。ご無用に願いたい。それをもうし述べたく、まかりこした」

 広州の西南二百キロ、陽江県の海陵島で、張世傑は曹汝端の訪問を受けた。

 かれらが操る商船には、鉢植えの菊などの花卉が満載されている。

「戦が止めば、花を愛でる余裕が生まれる。いや、一日も早く殺伐とした気を忘れ、祖先を弔い、新たな開墾に勤しむよう、菊花栽培などの普及に努めている」

 元が軍を引き、戦の収束した両広の港をめぐり、城鎮近隣の郷村に花卉の栽培を勧めているという。

 珠璣巷で村長羅貴の示唆を得た曹汝端は、黄準平一行の行方をたどって北江を下り、珠江デルタの一隅いちぐうに皇族をすてた胡妃母子のひそかな落ち行き先を捜し当てた。それが、いまの中山市小榄である。

 一面の野生の菊を見て感動した胡妃は、この地を終の棲家と定め、移住した。

 米麦蔬菜の収穫以外に、菊に代表される花卉の栽培を、押しも押されもせぬ生業とすべく、規模を広げてきた。いまや小榄は、菊の里に生まれ変わりつつある。

「われらはみな武器を捨て平民となって、胡妃さまのもと菊を育て商うて、元の世を安穏に生き抜く所存。祖先の供養は忘れぬが、宋朝の復興など思いもよらぬこと」

 曹汝端ら在野の郷士は、侵略するモンゴル軍には敵対したが、崖山で南宋軍が壊滅したのちは抵抗をやめた。もともと南宋の朝臣ではない。元朝政府が嶺南の収奪を禁じ、漢人を表に立てて戦後の復興を優先しようとする姿勢を評価し、和平に転じたのである。

「胡妃さまは、胡菊珍ともうされたな。お名にあやかり、たっとく美しい菊を、亡宋のみしるしと崇められたか――。ならば、われらが天命、ここに極まれり」

 事情を察し、張世傑は天を仰いで嘆息した。


 張世傑の出自は河北の涿州、もとをたどればモンゴルの武将張柔の族人である。罪を得て南に逃亡したが、武人としての素質を買われ、南宋の混乱に乗じて丞相にまで上った。あくまで皇統を推戴すればこその地位である。皇統がなければ価値はない。

「泉州で皆殺しの難を逃れたある宋室が、占城に匿われていると聞き及んでいます。あるいは皇孫がおられるやも知れません。お探しになるなら、占城までお供します」

 元軍が迫っている。かしらを失った亡国の残党は、生き延びる道を占城に求めた。

 元軍は残党を一掃して、対南宋戦を収束させようとしている。張世傑にも投降勧告が執拗に寄せられている。そもそも当面の敵将張弘範は、知らない仲ではない。じつは前述した張柔の子、いわば主筋の御曹司だったから、投降しても張世傑には高位高官が約束されている。

「まさか、ここへきて投降など、できようはずがない。ならば行くべし、占城へ」

 意地もある。迷いを吹っ切り、張世傑は決意した。すでに死出の旅を予感していた。

 台風が近づいている。張世傑は全員を下船させ、ひとりだけ船に残った。

「船はわしが見る。みなは陸に上がって、しばし憩うてくれ。考えをあらため、家族のもとに帰るものは、戻らずともよい。武器さえ捨てれば、命まではとらぬと、敵将もいうておる」

 張世傑は、みなに金をわたし、再考をうながした。

 翌朝になっても太陽は昇らず、風は止まなかった。雲が天を厚く覆っている。やがて大雨が降り出し、雷雨となって風にあおられ、音を立てて船体を打った。

 張世傑は碇を上げ、とも綱を解いた。岸壁を離れた宋船は高波に洗われ、沖合いに流された。風雨と波浪に翻弄された船は、暗礁に乗り上げ、船底が割れた。裂け目から海水が浸入、船はゆっくりと傾きはじめた。

 ――宋人そうひとを二十万人犬死させたおれに、これ以上の道連れはいらぬ。因果応報、おれを待つのは地獄の責め苦だ。賛辞も、哀悼もおれには似合わぬ。ひそかに慟哭し、人知れず死ぬ、これがおれの流儀さ。

 帆柱にわが身を縛り付け、激しい雨風に打たせながら、張世傑はひとりほくそえんだ。


 一二九四年、元の世祖フビライが亡くなる年である。

 南宋の滅亡から十五年たっている。一真が大都にフビライを見舞った。付き合いは長い。互いに軽口で応酬できる仲である。

「お久しゅうございます。お元気―でもなさそうですが」

「なん年ぶりになるか。久しいのう、イッシン。今年、余は七十九になるが、もはや八十路にはとどくまい。余とはひとつ違いだったはずだが、おぬしはいつまでも年をとらずわこう見える。伝え聞く地仙とはおぬしのことか」

「とんだお戯れを。いつまで生をむさぼるつもりかと、太祖に笑われまする」

「ならば、余は太祖に叱られるやも知れぬな」

「はて、なにゆえに」

「ジパング(日本)襲撃のたび重なる失敗で、かの地の海人をひとりたりとも確保できなんだ。ためにわが海軍創建の目論見は、烏有に帰した。投降した蒲寿庚の海事要員は、商事には聡いが軍事には疎いから、戦働きにはむかぬ。南洋諸国の遠征には、やはり和戦柔軟に使い分けるかのジパングの海人こそ望ましかった」

「南洋遠征では、現地側の抵抗や内戦に肩入れして戦になった場合もございましたが、その多くは敗退しております。確かにジパングの海人を起用しておれば、倭寇と異名をとるほど武に秀でたかれらのこと、容易に鎮圧し、平定していたやも知れませぬな。ただし、武器に頼らず通商に徹したおかげで、この十数年で入朝した南洋諸国は十余国、西方への交易に支障なきところをみれば、まずは大慶至極にございます」

「ものはいいようじゃが、これで陸上につづき海洋でも、西方につなぐ交易路を確立した。あとはおもな港に人を派遣し、航海の安全と交易の便宜を図らねばならぬ」

「官が動かずとも嶺南の民が、すでに動いております。南洋諸国には福建・広東の民が一族をひきつれ、僑居(仮住まい)しております」

「逞しいものよのう。南宋軍の将兵はほとんど投降したが、南宋の民はいったい元朝政府をどう思うておるのか。歓迎せぬまでも反感を持たねば、南洋にまでゆくまいに」

 中国人(唐人)の海外移住、いわば華僑のはしりだが、唐代から顕著な動きが見られる。チャイナタウンを唐人街と呼ぶゆえんである。宋・元・明代とつづき、清代に最盛期を迎える。

「元朝だから、南洋に僑居するのではありませぬ。すべては生活のため。一家一族が十分に食べてさえゆければ、あえて海を渡ることもありますまい。帝(世祖)のご一族や、北方の遊牧民がなにゆえ長城を越えて漢地に攻めてきたか―、同じことわりにございます。漢地の古い時代に残された『鼓腹撃壌こふくげきじょう』ということばが、政事まつりごとの要諦を示しています。満腹して腹鼓をうち、足で地面をはねて喜ぶのは、働く場があり、働いただけの収穫をわがものにできるからで、過酷な使役・収奪がなければ、だれが帝だろうと関係がない、といっているのです」

「わしらモンゴルの民も馬を下り、すきくわを持って田畑を耕させる。軍人も屯田兵で自給自足させれば、文句はあるまい。商人には商いの利益を供出させる」

「蒙古人・色目人・漢人・南人を問わず、上に立つ官人が収賄などせず、清廉潔白に勤めておれば、世の中は平穏無事に過ぎてゆきましょう」

「崖山で壊滅した南宋の遺臣が占城をめざしたと、あの時期、報告があったが、よもや皇統など、南洋の国に遺してはおらぬだろうな」

「この十数年来、安南も占城も内属し、トンと噂を聞かぬところを見れば、出家されいまは吐番トバン(チベット)でラマ仏教を学ばれているもとの恭帝をのぞけば、みなすべて御隠れになったのでは――」

 胡妃と胡昱の件は、フビライには伏せてある。一真はとぼけて見せた。

「嶺南に小広州といわれる里があるそうな。大晦日に除夜の花市を開くが、広州に引けをとらぬくらい、たいそうな賑わいだと聞いておる。さらにここ小榄の菊花は、ことのほか艶やかで六十年にいちど、洛陽や長安に負けぬ大規模な菊花祭りを催すという。そこでどうじゃ、この菊花祭りをひそかに支援し、賈似道を偲ぶよすがとしてみてはいかがかな」

 フビライが唐突に、賈似道の供養に言及した。してみると胡妃の小榄南遷も、とうにみぬいていたということか。さすがの一真も一本取られた態で、声が小さくなった。

「すでにご存知でしたか。賈似道が胡妃を珠璣巷に逃した一件も」

「知らいでか。三万の村人を逃散させて皆殺しに見せかけ、残酷な所業の反省をわしに迫るとは、イッシンよ、おぬしもたいした悪党よな」

「とんでもない。あなたさまに比べれば、可愛いものでございます」


 胡妃の南遷をさらりと流し、ようやくフビライは真顔で賈似道に話題を転じた。

「おもえば賈似道には、不本意な最後を遂げさせてしまったものよ」

「救いの手はいくどとなく差し伸べておりましたが、当の本人に受ける気は失せておりました。配流の途次、ふたりの息子と奥方が護送官鄭虎臣の手のものに殺害されるのを見とどけたうえで、毒を飲んで自裁をはかりましたが果たせず、鄭虎臣に討たれた由にございます。死後に汚名をきせられることは覚悟のうえでの最後でしょう」

「思うてもみよ。鄂州攻めのおり、賈似道が停戦に合意していなかったら、とんだ地獄図絵を見るところであった。クリルタイの開催を急ぐあまり、無益な殺生におよんでいたろう。兵を損じ半死半生で北帰しておれば、カラコルムでも一戦交えていたに違いない。たとえ勝ったにせよ、戦乱長期化の泥沼にはまっていたことは容易に想像がつく」

「まこと、賈似道どのあってこその元朝といっても、いいすぎることはありますまい」

「さよう。その見極めをつけるためには、二十年の歳月が必要であった」

「臨安の無血入城が、みごとな結果をしめしましたな」

「蒙古政府の新たな方向を天下に布告した。イッシンのかげ働きのたまものと思うておる」

「なんの、賈似道どのとの合作にございます」

「書画のたぐいは、いまも散逸せずに所蔵されておるか」

「西湖北岸の半閑亭は、元朝の威信にかけて守り通してみせましょう。中華の文化財を後世に残すことは、元朝の文化意識を示すことでもあります」

「臨安では一滴の血も流さなかったが、崖山では二十万もの人を死なせてしまった。賈似道ならなんといって余をなじることであろうか」

「なんともいいますまい。蟋蟀コオロギ宰相と揶揄されても鼻先で笑い飛ばし、わしは宋国軍司令官などと武張った総帥の器ではない、せいぜい闘盆のうえで蟋蟀を戦わせて喜んでいる柔弱な風流人でしかない。来世は人の殺し合いではなく、闘蟋で競い合おうではないか、と嘯いているのではありますまいか」

 淡々と語る一真をよそに、もうフビライは寝息を立てて眠りについていた。


「善くるものは書かず」という。

 書の鑑賞に長じた人は、じぶんでは書くことをしないのである。だから、たとえ奸臣と罵られても賈似道は黙して弁明することはない。

 数ある書画におのが鑑蔵印を残すのみである。


        (完)

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胡妃南遷(こひなんせん) ははそ しげき @pyhosa

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