或る曲芸師の死

猫田芳仁

あるいは地下劇場からの招待

 すこしむかし或るところに、旅から旅へのサーカス団がありました。そのサーカス団に、なんでもそつなくこなせる曲芸師がおりました。

 その曲芸師は背が高く、やや癖のあるハンサムで、とんぼも切れるし歌も歌えて、道化の仮面をかぶればとびきり無様にすっ転んでみせました。気障な衣装で手品をしても、シャンパンタワーを片手に自転車に乗っても、それはそれは絵になりました。

 だけれど彼はいつでも裏方でした。

 確かに彼はなんでも出来たのですが、サーカス団にはどの分野でも、彼より上手な芸人が必ずいたからです。

 隠してはいましたが彼はとても高慢なたちだったので、いつまでも裏方なのを死ぬほど悔しく思っていました。ただ高慢なだけではなく、実際彼は何をしても、舞台に出して恥ずかしくないだけのことができましたから。ある日彼はサーカス団長に直談判をしました。


「わたしは小さなころからこのサーカスで修業をして、もう13年になります。そろそろわたしもステージに立ちたく思いますので、なにか役をいただけないでしょうか」


 団長は答えました。


「そうだなあ。誰かが怪我や病気をすることがあったら、きみに代役を頼むよ」


 曲芸師はぶらんこ乗りの練習道具に細工をして怪我を負わせました。ぶらんこ乗り本人の整備が行き届いていなかったという結論が出ました。ぶらんこ乗りは普段からだらしのないたちだったので、誰も曲芸師を疑いませんでした。


 しかし曲芸師は舞台に立つことができませんでした。なぜならぶらんこ乗りの弟子が代役になったからです。正直、あぶなっかしくて見ているのがつらくなるような演技ではありましたが、団長は曲芸師を代役にしようとは思いつきもしませんでした。

 曲芸師は舞台裏で弟子の演技を見ながら、自分ならばもっとうまくやったのにと、血が出るほど爪を噛みました。


 ***


 曲芸師は考えました。

 たしかに彼はぶらんこにも乗れたのですが、練習しているところを、あまり団長に見せていませんでした。だからぶらんこには乗れない、乗れても満足な演技ができないと判断されたのかもしれません。そこで彼は、なるべく団長がいるときにこそ、派手な演目の練習をして「できるやつ」と思わせようと努力しました。誰も見ていないところでは、徹底的に基礎の訓練を積んだり、地味な技を練習したりと、無我夢中でした。彼は高慢ではありましたが、努力を惜しまない男でもあったのです。

 またいくつか新しい演目ができるようになり、頃合いだ、と思ったところで、彼はまた団長に直談判をしました。


「わたしは小さなころからこのサーカスで修業をして、もう16年になります。そろそろわたしもステージに立ちたく思いますので、なにか役をいただけないでしょうか」


 団長は答えました。


「そうだなあ。誰かが怪我や病気をすることがあったら、きみに代役を頼むよ」


 団長は以前曲芸師から直談判されたことすら覚えていませんでした。曲芸師は団長を縊り殺してしまいたい衝動に駆られましたが、我慢しました。代わりに「よろしくお願いいたします」と頭を下げて部屋を出ました。


 曲芸師は手品師の酒に毒を混ぜて病気にしました。手品師は普段から酒が過ぎるたちだったので、日ごろの無理がたたったのだろうと皆が言いました。手品師本人だけが「この程度の酒、呑んだうちにも入らない」と騒いでいましたが、誰も酔っ払いの戯言と、気にもとめませんでした。


 しかし曲芸師は舞台に立つことができませんでした。なぜなら巡業先の町に、団長の知り合いの手品師が住んでいたのです。その手品師は現場を離れてしばらく経っていましたが、団長が「今、うちの手品師が身体を壊していて」というと、快く代役を引き受けてくれました。その手品師の演技は可もなく不可もなくという程度でしたが、なにぶんサーカス、非日常のお祭り騒ぎでしたので、大喝采となりました。

 曲芸師は舞台裏で手品師の演技を見ながら、自分ならばもっとうまくやったのにと、血が出るほど爪を噛みました。


 ***


 曲芸師は悩みました。

 もちろん、反省もしました。その結果、もっと万全を期して動かなければならないと思い、曲芸師は遠大な計画を練り始めました。


 次の的は道化師です。高慢な曲芸師は道化の役をあまり好かなかったのですが、彼は焦っていました。目立つ役どころで舞台に立てるならなんでもよくなってきたのです。たまたま曲芸師と相部屋なのが道化師だったので、仕方がありませんでした。

 幸運なことに道化師はあまり丈夫ではなく、しょっちゅう「疲れた」「だるい」と言っていましたので、曲芸師は良く眠れるようにと、睡眠薬を買ってきてやりました。そうして道化師が寝つくとおもむろに、耳元で道化師の悪口を囁くのです。ときどき昼間に道化師の顔をじっと見て「最近、顔色がよくないんじゃないか」と心配そうに言うのも忘れませんでした。

 それがずっと続くと、道化師の顔色は目に見えて、本当に悪くなってゆきました。もともと好き好んでサーカスに入ったくちではなく、今に至っても「ほかに何もできない」という暗い理由でサーカスにいる道化師は、ただでさえ多かった愚痴が日ごとに増えてゆきました。頃合いと見て曲芸師は、ある日道化師に優しく話しかけ、最近元気がなくて心配だから、一緒に外の空気でも吸おうと崖に誘い出し、突き落として殺してしまいました。


 死体を崖の下に埋め、何食わぬ顔でサーカスに帰った曲芸師ですが、だれも怪しみません。なぜなら誰も、曲芸師にたいした注意を払っていなかったからです。道化師がいないと騒ぎになり、相部屋の曲芸師にも話が回ってきたのですが「外の空気を吸ってくると言って出て行ったきりだ」というと、皆納得してしまいました。道化師はここしばらくあんな調子だったので、サーカスが嫌になって逃げたのだと思ったのです。

 道化師には弟子もおらず、道化師をやったことのある人間もサーカス団にはいなかったので、曲芸師は次の興行で自分に道化師の役が回ってくると確信していました。曲芸師が道化師の練習をしていることは、周知の事実でしたから。


 しかし曲芸師は舞台に立つことができませんでした。なぜなら困った団長が、道化師の演目なしでサーカスをすることに決めたからです。曲芸師の知るところではありませんが、そもそも団長は曲芸師を最初から裏方としか思っていませんでしたので、練習をしていようがしていまいが、大事な演目をやらせるなんて思いもしなかったのです。


 その発表があったその夜、茫然自失の体の曲芸師でしたが、ふと気になる声が聞こえてきて足を止めました。若手の大部屋の前です。


――ほら、あの裏方の、名前はなんて言ったっけ……。

――むやみに背ばっか高くって、陰険そうな顔の?

――そうそう、プラチナブロンドの。


 それはどう考えても曲芸師のことでした。むやみに、は言い過ぎでも、サーカス団の中で曲芸師はかなり背が高いほうでした。陰険そう、は言いがかりにしても、このサーカス団にプラチナブロンドは彼一人です。

 曲芸師は立ち止まり、聞き耳をたてました。


――本当にいろんな芸練習してるよね。よくやるよ。

――ああまでして舞台に立ちたいのかな。立ちたいんだろうね。でも、やりたい演目とか、本当はないんじゃないの。なんでもいいんだよ。

――つか、いつまで裏方なんだよあいつ。いい歳、してさ。


 さざ波のような笑い声が、砲弾のような重みを持って、曲芸師を蹂躙しました。いい歳してさ。いい歳してさ。いい歳してさ。それは曲芸師が、本当に恐れていたことだったのかもしれません。本当に恐れていたからこそ、忘れていたことかもしれません。もうすぐ、ほんとうにもうすぐ、30の大台に手がかかる曲芸師は、血が氷水になったような気分で立ちつくしました。その間にも彼を揶揄する若者たちの笑い声が追撃を加えてきます。湿気を吸ったように重たい足を引いて、引いて、ほうほうの体で曲芸師はその場を逃げ出しました。立ち去ったのではなく、逃げ去ったのでした。そうとしか、言い表せない気分でした。

 曲芸師は恐れたのです。あのままとどまっていたら、きっと誰かが言ったであろう言葉を。


――あれじゃあ、一生裏方だよね。


 血が出るほど爪を噛みながら、自分の部屋に転がり込み、薄い毛布にくるまって、曲芸師は泣きました。恐らく誰も、自分を曲芸師とは思っていないという事実に。


 ***


 それからの曲芸師は、あきらめたとも、あきらめていないとも取れる状態のまま、ずるずるとサーカスにいました。日課にしていた厳しい練習も続けていましたが、惰性です。諾々と、腐りかけた心で裏方の仕事をこなし、惰性のままに練習を終えたら、寝るだけ。曲芸師と親しい団員は一人もいませんでしたが、それでも「様子がおかしい」と気付く人が出るほどには、曲芸師は変わってしまいました。ですが、叫び散らすでも誰かに暴力をふるうでもなく、仕事はきちんとこなしていたので、誰も曲芸師に直接指摘をしようとはしませんでした。


 そうして、また次の興行がやってきます。曲芸師はもう曲芸師ですらありませんでした。ただの裏方です。裏方の仕事を黙々とこなしていました。ステージは滞りなく進行していきました。初日は。

 2日目の夕方、ジャグラーが猛獣使いを殴りました。そうして「お前みたいなやつとは、一秒だって一緒に居たくねェやい」と言い捨てて、ぷいっと出て行ってしまったのです。

 サーカスは騒然としました。ジャグラーが出ていったからではありません。実はこの後、夜も興行があるのです。ジャグリングは前座ではありますが、外すとどうしても寂しくなります。困った団長はいろいろ考えましたが、奇跡的に、あることに気が付きました。


「きみ、ジャグリングの練習してたよな」

「はい」

「代打で入ってもらえる?」

「……はい」


 やはり曲芸師は曲芸師でした。ひどく静かなその声に、抑えきれない歓喜がにじんだのを、感じない団員はありませんでした。


 ***


 代打だって何だって、遂に舞台に立てると思うと、曲芸師の心臓は壊れたように鳴り響きました。前座なのが不満ではありますが、そんなことを言っていられる立場ではないと本人が一番わかっています。

 夜の興行まで時間はありません。方向性や持ち時間を確認しただけで、曲芸師は舞台に放りだされました。

 夢にまで見た舞台。観衆の、暴力的なまでの視線。頭がおかしくなりそうに感じながらも、そつなく、難なく、曲芸師はボウリングのピンだの、カラーボールだのを回してゆきます。次第に余裕が出てきて、「お客様向け」の毒のない笑顔を浮かべながら客席を見渡すくらいのことは出来ました。


(おや?)


 誰かと眼があった気がして、視界を逆戻り。

 最前列、かぶりつきで観ている、小柄な青年かそれとも少年か、という年頃の客でした。眼が輝いている、という表現を使うにはぴったりな顔をして、彼は曲芸師を見ていました。

 曲芸師、だけを、見ていました。


(そんなはずはない)


 そう思いながら演技を続けましたが、その観客の眼が、ずっと自分を追いかけているように曲芸師は感じました。彼が退場するその時まで。いいえ、その先までずっと。眼だけが後をつけてきているような気さえしました。

 舞台に立てて、少しおかしくなっているのだ。単なる自意識過剰だ、と言い聞かせ、彼は毛布にくるまり、すっかり冴えてしまった眼で部屋の天井を見上げていました。その真っ暗な天井にさえ、あの観客の、薄青色の眼が浮かんでいるような気分がします。曲芸師は疑問を覚えませんでした。ステージから観客席まで多少の距離はあるうえ、観客席は真っ暗なのに、最前列とはいえ観客の眼の色まで覚えているのはおかしいということに。


 ***


 結局ジャグラーは帰ってこなかったので、次の日も、その次の日も、曲芸師は舞台に立ちました。そのたびに、例の若い観客は目を輝かせて最前列に陣取っていて、本当に気のせいか自信がなくなるくらいに、曲芸師と眼が合いました。


 そして、曲芸師が休みをもらった日。

 もう日も暮れてから、曲芸師はふらふらと部屋を出て、繁華街をぶらついていました。せっかくだし、ポケットの小銭で安酒の一杯でもひっかけようと思ってのことです。さてどの店が安全そうかと品定めを始めたとき、曲芸師の後ろで小さな歓声が上がりました。何の気なしに振り向くと、なんということでしょう、あの最前列の観客が、追いはぎしてくれと言わんばかりのおめかしで突っ立っているではありませんか。


「サーカスの方ですよね」


 内緒話の声音で、観客は言いました。


「そうですが」


 そっけない声音で、曲芸師は答えました。


「ジャグリングの」

「はい」


 ほう、と官能的な溜息をついて、観客は曲芸師に一歩、詰め寄りました。


「僕、サーカスが大好きでして、興行が来るとどこのサーカス団でも毎日行くんですよ。勿論、あなたのサーカスにも毎日伺ってます。ところで、初日って違う方がジャグリングをしていましたよね。勿体ないなぁ。あなたは初日の方より魅せ方が断然すてきだし、背格好だってずっと舞台映えするのに、なんでまた初日からあなたじゃあなかったんでしょうね。こんな、組織の事情にくちばし突っ込むようなことを言って恐縮ですが、まったく不思議です。初日しか行っていない方は、損をしたんじゃないかなって思うくらい」


 ひどく熱を孕んだ言葉が、小柄な体からいっぺんに吐き出され、曲芸師はさすがに動揺しました。ですが動揺しながらも「よく見ていらっしゃる。でも、所詮前座ですから」と肩をすくめるくらいの余力は残していました。ですがそれで納得するような観客ではなく、さっきより少し大きな声で、さらに畳みかけてきました。


「順番としては前座に相違ないでしょうけれども、芸に貴賎などありませんでしょ。うーん、でも、ほかの演技を見てみたくないと言ったら嘘になりますね。無論あなたの。ジャグリングもそれはもうすてきだったけれども、あなたの技はそれだけではない気がしますよ」


 あとからあとから、だだもれの賛美の言葉はすべて曲芸師に向けられたもので、それは彼の演技を実際に見た観客からのもので、さしもの曲芸師も初めての感覚にぼうっとなってしまいました。曲芸師は考えます。生まれてから今まで、こんなにもべたべたに褒められたことがあっただろうか。結論は、いいえ。執拗なまでに自分をほめ続ける観客に疑問を覚えないではなかったものの、強烈な陶酔がそれを押し流して行ってしまいます。とても成人しているようには見えない観客が「良い店を知っているのですが、一杯どうでしょう」と言い出した時も、深く考えずにほいほいとついていってしまったくらいには、すてきな気分でした。


「僕が無理を言ってしまいましたから、御馳走させてください」


 という観客に連れて行かれたのは、一番賑やかな通りを二本ばかり外れた、小粋なたたずまいのバーでした。いかにも、高価そうです。ここにきて、曲芸師は後悔し、ひどく気後れしました。普段の曲芸師からは考えられないような感情でしたが、それも仕方がないことだったのです。なにせ曲芸師は「外に出ても恥ずかしくない」程度の格好であり、とてもとても、高価い店に入れるような服装ではありませんでしたから。

 しかし観客は当然のように、ためらう曲芸師を引っ張って行きました。苦み走った壮年のマスターに慣れた様子で「いつものやつ」と声をかけ、「何にしますか」と曲芸師を顧みました。曲芸師は震えだしそうな声をぎりぎりでフラットにして「適当なウィスキーを、ロックで」と伝えました。

 観客が曲芸師を引っ張っていったのは、密談をするのに良さそうな小部屋でしたので、曲芸師は少しばかり警戒を取り戻しました。ですが、その警戒も、飲み物が運ばれてきて観客が口を開くとどこかに行ってしまいました。


「サーカスって本当に素晴らしいですよね。夢そのものがそこにあると言いますか、あのテントの中にいる間は嫌なこをと一切合財忘れられます。人間の限界に挑む演者の姿って、うつくしいといったらないですよ、ほんとうに!」


 特に話題が曲芸師本人に向くと、その甘やかな賛辞に曲芸師の心は、日向に放置したアイスクリームのように溶けていってしまうのです。


「僕はただ、サーカスを観た回数が図抜けているだけの素人ですけれども、なんだかあなたって、ジャグラーそのものではない気がするのですよ。ほかにもなにかなさるでしょう。え、練習だけ。なんて勿体ない! 損失です。あなたのほかの演技を是が非でも観客席から観たく思いますよ、僕は」


「いつだったか来たサーカス団に、寸劇がありまして。いえ、道化劇ではないのです。真面目というと何だか変ですが、戯曲の一部を切り取ってきたような、軽妙だけれど懐の深さも感じさせるような……僕がなにを言いたいかというですとね、声ですよ。ええ、声。ジャグラーってまずしゃべらないですから、あなたとこうしてお話しさせていただいて初めて気がついたのですが、あなたの声は深みがあって色気がありますよねえ。あ、いや、深い意味はないんですよ、ただ、そういう演目があったらさぞよく似合うだろうなと……」


 その、小さな身体のどこにこれだけの言葉が詰まっていたのかと思うほど、観客は絶え間なくしゃべり続けました。ときどき、銀のカップの中身で喉を湿らせながら。半分は寒気がするほどのサーカスへの嗜好で、もう半分は不気味なほどの曲芸師への賛美の言葉でした。その言葉の群れは、とびきりのウイスキーをさしおいて、曲芸師を甘く酔わせました。夢現の心地の中で、いつのまにかまた会う約束をした曲芸師は、それからいつ観客と別れ、どこをどう通って帰ったのは、よく覚えていません。


 ***


 その次の晩にも観客は最前列に陣取っていました。相変わらずむやみに目が合う気がしましたが、まったく様子が変わりません。幼い子供のようなときめきをたたえた瞳を、あの偏執的な恍惚と結びつけるのは非常に困難でした。曲芸師が、昨夜の陶酔は夢だったのかと内心で首を傾げたほどです。

 それが夢でないとわかったのは、ある日、夜の興行がなかったときのことでした。

 また曲芸師が、ふらふらと街を歩いていると、手前の路地から魔法のようにあの観客がすべり出してきたのです。


「今晩は。よい月夜ですね」


 煌々と輝く満月を背負った観客は不吉なまでに美しく、街の雑踏は彼のための描き割り背景にたちまち化けました。びっくりした曲芸師が何も言えないでいると、観客は気を悪くした風でもなく言葉を続けます。


「今日は、夜の舞台がなくって残念です。僕、昼間の舞台には行けないものですから」


 観客の年齢や身なりから判断するに、学校に行っているので昼間の舞台に行けない、と解釈するのが妥当だったでしょう。曲芸師も、いったんはそう解釈しました。が、すぐに適切ではないとその考えを頭から追い出します。観客からは、あくせくした生活の気配をまったく感じないのでした。絵本から切り取った王子様の挿絵のようにつるりとしているのです。


「あの晩、また会う約束をしてくださいましたよね。どうでしょう、もしご迷惑でなかったら、またあの店につきあっていただけないでしょうか」

「喜んで」


 それからしばしば、観客は曲芸師の前へ狙いすましたように現われました。まるで、曲芸師の予定をすべて知っているようにです。それだけならまだしも、曲芸師が今夜は一人でいたいと思っている晩には決して姿を見せませんでした。

 曲芸師も、何か異常なことが起きているとは思っていましたが、いざ観客が目の前に現れてあのバーへ誘われると、とたんになにもかも、どうでもよくなってしまうのです。なぜって、あんなにも曲芸師を褒めてくれるのは、観客ただ一人でしたから。曲芸師はちょうど観客くらいの歳の頃、悪い先輩と一緒にアヘンチンキを舐めたこともあったのですが、そんなのがばからしくなるくらい、観客と差し向かいで彼の話を聞いているのは気持ちがよかったのです。大した日にちも要さず、曲芸師は、観客が現れるのを切望するようになりました。するとそれをわかっているかのように、曲芸師が外出するたび、観客は月光を背負って声をかけてくるのです。

 まさに蜜月と言って差し支えのない時間でした。しかし、何事にも終わりはつきものです。この街での最終公演が、すぐそこまで迫ってきていました。それを曲芸師が苦々しげに観客に告げると、観客もさみしい顔をしました。ですが、急にその表情を引き締めて、曲芸師の肩に華奢な手を置くのでした。


「もう、わたしとあなたが一緒に過ごすのも最後かもしれないというわけですね」

「これだけ大きな街ならば、そんなに待たずに違うサーカスがやってくるでしょう。そこの曲芸師を、わたしのように扱えばよいではありませんか」

「人を、軟派男みたいに言わないで頂けますか」

「これは、失敬」

「ともかく――少し、少しだけ――真面目な話をしてもいいでしょうか」

「ご随意に」


 その直後、観客の口から飛び出した問いかけは、ひょっとしたら、曲芸師がいっとう怖がっていたものかもしれません。


「あなたは、サーカスにいて幸せですか」


 息を呑んで答えに窮する曲芸師を置き去りに、観客は言葉を続けてゆきました。


「あたは、なんとなくですが、非常に不満足な感じがしますね。それは、主役になれないからですか。ほんとうにそうなのでしょうか……ジャグラーだって、あなたは所詮前座とおっしゃいましたけれども、でも」


 いつのまにか、曲芸師は血が出るほど爪を噛んでいました。

 思い返せば観客からは、批判のない純粋な賛辞ばかりを吹き込まれていましたから、ここではじめて自分の内側に土足で踏み入られたような焦燥と恥じらいを覚え、我慢ができなくなってしまったのです。


「そもそも、サーカスの舞台に立って、それで終わりでいいのでしょうか。あなたは、そんな人間でしょうか」


 違う。違う。

 曲芸師の頭の中で、天使のラッパが鳴りました。


 曲芸師は、本当を言えば、何か大それたことを成し遂げてみたかっただけなのです。幼いころからサーカスで暮らした彼が思う「大それたこと」が舞台の主役だったので、それを望んだだけなのです。もう曲芸師は子供ではなく、それゆえにサーカスの外に「もっと大それたこと」があるのを知っているのです。それなのになぜ、自分の本当の欲望に気がつかなかったのでしょう。


「もし――もしですよ。世界中を敵に回してでも、刺激的な暮らしがほしいのなら、最後の舞台が終わった後、この店に来てください。このまま、サーカス団員でいたいのなら、旅回りの変わり者ながらも普通の人間でいたいのなら、僕たちが逢うのはこれが最後です。絶対ですよ」


 曲芸師は操り人形のように諾々と頷きながらも、頭の中では観客の言葉をしっかりと反芻していました。世界を敵に回すことと、自分の望みを果たすこと――そのふたつを天秤にかけるまでもなく、曲芸師の心はもはや決まっているのでした。

 その晩は意識がすっきりと冴えわたり、曲芸師は本通りからバーへの道をきっちり覚えて帰りました。


 ***


 最後の舞台が終わってもジャグラーは帰ってきませんでしたので、曲芸師へ団長から「このままジャグラーをしないか」との打診がありました。が、曲芸師は「少し考えさせてください」と曖昧に濁しました。以前の彼ならしっぽを振って飛び付いていたでしょうが、もはや曲芸師は、サーカスの舞台に未練などないのです。あくせくと片づけだの、荷造りだのにてんやわんやの団員達を放っておいて、曲芸師は悠々と一人、街に繰り出しました。皆自分の仕事に手いっぱいで、曲芸師が抜け出したことに気がつく人はありませんでした。ましてや、曲芸師は手ぶら同然です。彼は誰に言われずとも気付いていたのです。これから赴く場所に、余計な荷物はいらないと。


 こつこつと靴を鳴らして、迷いなく、曲芸師はあの店にたどりつくことができました。もうすっかり顔なじみになったマスターは、曲芸師に気付くなり「いつもの部屋にもういらっしゃいますよ」と笑いもせず言ってグラスを磨きつづけています。曲芸師も「どうも」と応えて奥へ進みます。

 いつもいつも、観客とふたりでおしゃべりをしたあの部屋。そこに入ると、あの観客が小さな背中をいつもよりしゃっきり伸ばして座っています。


「いらっしゃったのですね」


 咎めるような、それでいて喜んでいるような声音でした。


「はい」


 どうだやってやったぞ、という自己顕示がにじむ声音で、曲芸師は言いました。


「ま、おかけになってくださいな。大事なお話ですので」

「はい」


 二人はいつものように、差し向かいで座りました。いつもと違うのは、観客の目です。逢うたび逢うたび、カットされた宝石のように硬質な煌めきを放射していた観客の眼は今、蛋白石に似た妖しい光を宿しているのでした。


「ここに来たということは、あなたはサーカスを抜けることにした、と思ってよいですね」

「はい」

「世界を敵に回す覚悟も、ちゃんとしてきましたか」

「あなたがわたしに”大それたこと”を用意してくださるなら」

「よろしい」


 瞬間、観客の瞳を色の洪水が通り過ぎました。赤、黄色、青、緑、紫、ピンク。あっという間にもとの薄青い瞳に戻りはしましたが、小部屋の空気を一変させるには十分な演出でした。


「手を」


 あっけにとられた曲芸師は、阿呆のようにふらふらと、観客へ右手を差し出します。それをとった観客は袖を少したくしあげ、そっと手首へ唇を寄せました。

 曲芸師は、自分の右手首が爆発したように思いました。

 痛みはないのです。ないのですが、右手首から華吹雪が噴き出して、部屋の調度には蔓薔薇が咲き乱れ、居もしないオーケストラがいきなり大音量で演奏を始めたような、そんな心地がしました。それは決して不快ではなく、むしろ曲芸師は陶然とその感覚に身を預けました。

 やがて、部屋の様子が元に戻り、演奏が聞こえなくなっても、右手首からは一枚、二枚と花弁がほたほた零れてゆきます。少しだけ、平静を取り戻した曲芸師は華吹雪の正体を理解します。手首に開いた噛み傷から滲み出す血を一滴、一滴、美味そうに舐める観客を見て。


「――これが、僕が用意できる”大それたこと”です。お気に召しましたか」

「ええ――ええ、とても……」


 浅い呼吸の合間、熱に浮かされたようにつぶやく曲芸師の声を聞き、観客はころころ笑いました。


「初めての人はみんなそう言います。――さて、あなたはまだ人間なので、恐ろしければ今から帰ることもできます。もし僕と来るなら、表舞台はあきらめていただくほかありません。そして、僕の血は数ある血筋の中で最も穢れています。あなたは来週あたり気がふれてしまうかもしれませんよ。

 それでも良ければ、あなたを、僕の弟にしてさしあげる」

「表舞台? そんなものになんの価値がありましょう!」


 曲芸師は迷いない動作で、宙を遊んでいた観客の手を取ります。そして芝居がかった、蕩けるような声音で、わざとらしく首をかしげて言うのです。


「どうかわたしを、あなたと同じ舞台に立たせてください」


 ***


 サーカス団が出発の準備をしていると、団員達が口をそろえて「誰のものかわからない」という一人分の荷物が出てきました。衣類のサイズから背の高い男のものだとわかりましたが、サーカス団で一番背の高い男には少し小さく、次に背の高い男には少し大きく、なによりそんな服を持っていた覚えはないということで、結局誰の荷物かわからずじまいでした。この奇妙な出来事を肴に、若手の大部屋は大盛り上がりです。


「おれたちの知らない団員がいたりしてな」

「でも、団長だって首をかしげていたじゃないか」

「荷物だけ出てくるなんて、オペラ座の怪人にしちゃ間抜けすぎる」

「そもそも、こんなサーカスに怪人は見向きもしないだろうな」

「違いない」

「ちょっと出かけてそのまま消えた、っていう荷物の量だよね。財布、なかったし」

「ついでにそいつの記憶も皆から消えてしまった、ってわけ?」

「バッカじゃないの。そんなわけないじゃん。そうじゃなくてきっと……」

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