翡翠
琥珀は旧校舎の《妖》の気配は消えたと言った。もう校舎を破壊しても問題ないし、作業中に事故が起こることもないだろうと。
予定通り、翌日から取り壊しが始まった。木造とはいえ民家とは規模が違うので、工事には二週間ほどかかるとのことだった。そういえば上級霊が開けた壁の穴はどうなったんだろう。いかにボロくてもあんな穴が簡単に開くはずがない。それでもやはりだれも気にしてなかったのか。
水晶は当然ながら学校には来なかった。学校側にも何の連絡もなく、公的には行方不明になったはずだったが、警察沙汰になったりはしなかったし、たいして話題になることもなかった。哲と瑪瑙が「体調でも悪いのかな」と気にしているくらいだ。もしかしたらマロが真珠に何か言い含めたのかもしれない。珊瑚のときと同様、学籍はどうなってるんだとか、どこに住んでたんだとか、いろいろ疑問が浮かびはしたものの、もう確かめる気にはなれなかった。
おれにとっての大きな変化は、それとは別次元のことだった。琥珀のマロへの呼び方が、それまでの「有馬くん」から「マロくん」に変わったのだった。別にあだ名で呼ぶことくらい、と思われるだろうが、あの夜にマロの肩に手をまわしていたことと併せ、その延長上にあることがおれのなかでは事実として定着してしまっていた。
数日後、おれはまた放課後にあの公園で竹内と待ち合わせて、すべてを話していた。竹内説について話すつもりだったのだが、あれはいったん捨て去ったはずだ。何でまた話す気になったんだろうと考えて、女友達に恋愛相談をしたかったんじゃないかと気づき、おれは何だか無性におかしくなった。
「そっかそっか、矢島くんは黛さんのこと・・・・・・」
直接的なことは何一つ言ってないつもりだったのに、竹内はいきなり結論に飛びついた。
「そんなんじゃ・・・・・・」
といいかけたものの、隠すのもバカバカしくなった。
「・・・・・・悪いかよ」
「悪くないけど、二次元出身の相手にマジ惚れ・・・・・・くく・・・・・・」
竹内は笑いをこらえるのに精一杯であるらしかった。
「あのさあ、黛さんののんびりした動作って、CGとか止め絵ならともかく、アニメだったらどう処理してたんだろうね。アニメで遅い動きを表現するのって、スロー再生するわけじゃないんだよ。その分枚数が必要だから手間が・・・・・・」
際限なく続きそうな竹内の意味不明な話を、おれは遮った。
「笑うなよ。あと二次元とかわけのわからないこと言うのもやめてくれ。ちゃんとこの目で見て、触れるだろ」
「ごめん。おかしいことじゃないよね。あたしだって、好きってほどじゃないけど、気になってる人はいるよ。あ、矢島くんじゃないからね。そういう展開は用意されてないみたい」
またそういう言い方をする。
「なんで黛さんなの? 他の子はちょっとキャラ強すぎるから? だいぶ印象薄いけど、春瀬さんとかは?」
「知らないよ。それこそ竹内には関係ない」
「そりゃそうか。好きになるのに理由はいらないってことね。ふふん」
竹内はにやりと笑った。
「でも、まだそんな風に考えてたんだ。もう全部認めちゃいなよ。その方が楽だし、純粋に学校生活を楽しめるよ」
「銃撃戦に巻き込まれたり、化物に襲われたりするのが楽しい学校生活かよ」
「刺激的じゃないの。結局無事だったんだし。この世界はね、たぶん怪我や病気では人が死なないようにできてんのよ。あたしたちが直接手を出さない限りね」
「だからその世界ってのに納得がいかないんだって」
「うーん・・・・・・」
竹内は腕組みした。
「これ言うとショックかと思って、自分で気づいてほしかったんだけど・・・・・・」
「なんだよ。ショックなことならもういろいろ体験済みだよ」
「たぶんそれどころじゃないと思うけど、聞きたい? もう後戻りできないよ」
「聞きたいよ。おれだって全部話したんだ。隠し事はなしにしてくれよ」
「じゃあ言うけど、あのさ・・・・・・あたしたちみたいに現実世界から来た人は、創作世界出身の人が疑問に思っていないことがいちいち気になるの。あたしも最初はそうだった」
おれだって気になっている。心霊現象的なものだけは認めてしまったけど、それ以外は全部論理的に説明がつくことなんだと思ってはいるが。
「ただ、それでも気づかない間に、どこかでこっちの世界を受け入れちゃってるの。しかも、受け入れることはやっぱり気づかない間に増えて行く」
竹内は指先で眼鏡の位置を直した。
「それで、世界を構成するもっとも基本的な要素から順に受け入れていくみたいで、矢島くんはとっくの昔にいくつかのことを受け入れ済みなの。矢島くん自身が気づいてないだけでね。たとえば、ここがどこだかわかってる?」
「いかれた世界だって言いたいんだろ」
「そうじゃなくて、この現在地。住所」
「ゆうなぎ町。R県の」
「なによそのR県て」
「R県はR県だろ。なにがおか・・・・・・」
口にしながら妙な違和感を覚える。もう何か月も住んでいる場所なのに、なんだこの馴染みのない語感は?
「なにがおかしいかって? じゃあもう一度言ってみて。ゆっくりね」
「あ・あ・る・け・ん・・・・・・?」
「はい、もうわかったでしょ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・え?」
「日本にアールケンなんてふざけた県名があるわけない。日本にRではじまる県もないし。それともむかしの沖縄?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・は?」
二回にわたる思考の断絶、その後の何十秒かの精神的空白の後に、その「事実」はおれの頭に洪水となって押し寄せてきた。
それはずっと探していたものが、じつは手に持っていたままだったことが分かった瞬間だった。それも小さな探し物じゃない。石油タンク並みのものを両手に抱えながら、そのあまりのでかさゆえに気づいていなかった。
ここはどこなんだ。
おれはいま、いったいどこにいるんだ。
身震いがした。それはとてつもない恐怖だった。飛行中の飛行機から突き落とされたような、自分の足場のすべてが消えうせる感覚。
手足を目一杯のばしてもどこにも引っかかりはせず、地表すら見えない高空をただ落ちていくしかない。
全部、ひとつのこらず、竹内の言うとおりだったってことか・・・・・・
「ほらね、だから言ってもいいか訊いたのに」
遠くの方から声が聞こえる。
「しっかりしなよ。あたしがついててあげるから。あ、ちょっと臭い?」
ぽんぽんと肩を叩かれる感触がして、おれはそちらを向いた。困ったような、いたわるような、いろいろまとめた苦笑を浮かべた竹内の顔があった。
「いつからだ? いつからこうなったんだ?」
「それを知ってる人がいるならあたしに教えてほしいよ」
「おれの親父は? 離婚して山梨にいるお袋はどうなったんだ?」
「お父さん、いまどうしてるの?」
「こないだまで一緒に住んでたけど、いまは出張で・・・・・・」
「ああ・・・・・・」
竹内は苦笑を消した。
「残念だけど、もう会えないと思う。いつからかわからないけど、お父さんも別の世界で、あたしたちと同じ状況に置かれてるんじゃないかな。お母さんもね。あたしもそう。矢島くんと似たような事情で家族と離れたけど、それきり会えなかった。いまはひとり暮らししてるし」
「そんな話があるかよ!」
おれはスマホを取り出し、思いつく限りの場所に電話した。両親のケータイ、親父の仕事先、お袋の実家、東京の友人たち・・・・・・いずれも「この電話番号は現在使われておりません」の自動音声がおれの希望を閉ざした。壊れてるんじゃないのかと竹内の番号に発信すると、ちゃんと通じた。
「もっと試してみる?」
と竹内にスピーカー越しに言われて、おれは電話を切った。
「ほんとにもう会えないのか・・・・・・?」
「絶対とは言わない。でもかなり難しいでしょうね」
おれは竹内にこれは冗談だと言ってほしかった。それとも催眠術か何かでおれを惑わせているんだと。そのトリックか何かを、どうにか暴けないか。
「何回もこういうの繰り返してるって言ったよな。おれは初めてなのに、計算が合わないじゃないか。竹内はほんとは高一じゃないのか」
「あたしにいわれてもね。じゃあ生まれた年をせーので言ってみる? 西暦でさ」
おれたちは二〇〇〇年代の始まりに近い年をあげた。ぴったりハモった。
「どういうことだよ、これ・・・・・・」
「だからわかんないんだって。でも、矢島くんも今回が初めてじゃないかもしれないよ」
「こんなこと初めてに決まってるだろ」
「前回のことを記憶しているとは限らないでしょ。いつからこちら側に来たのかもわかってないんでしょうし」
「この町に来たのと同時ってことだろ。その前は東京の高校にちょっとだけ通って・・・・・・」
「それ、ほんとに元の世界だった? そのときはまだ始まってなかったんだって、言いきれる?」
おれは頭を抱えた。もう勘弁してくれ・・・・・・
次の日、おれは学校に来ていた。家にいても気が変になりそうだったし、元通り生活してればいいんだよと竹内に勧められたからだ。
病院の精神科に行った方がいいのかとも思った。でもおかしいのはおれじゃなく、この世界の方だ。それはもう間違いなくイッちまったやつ特有の言い分なのだが、事実らしいからしょうがない。
R県、またはゆうなぎ町なる地域の場所も調べてみた。それは資料によってバラバラだった。太平洋に面しているという以外の共通性はなく、R県とゆうなぎ町は日本のどこにでも存在していたし、どこにも存在しなかった。存在しないことになっている「まともな」資料もたくさんあったからだ。しかし最も奇妙なのは、住民たちがこの状況をおかしいと感じていないことだった。
クラスメイトに訊いてみることも考えたが、それはやめた。これまでそうだったように「彼らの中では筋が通っている答え」が返ってくるだけだ。ここではおれが異分子なのだ。あまり摩擦を起こすようなことはしたくなかった。
水晶の件ですっかり意気消沈したマロに、真珠、瑪瑙、アレキサンドラ、それに琥珀がいろいろ話しかけているが、完全に上の空だ。翡翠はなにか物思いにふけっているようで、その輪にはあまり参加していない。哲だけがおれを気にかけていてくれるようで、いつものバカ話をふっかけてくる。おまえはいい奴だよ、哲。ただ悪いけど、上の空はおれも同じで、おまえの話はなにも頭に入っていないんだ。
それでもおれは、機械的にではあっても哲の相手をして、学校生活をこなしていた。家に帰れば家事をして、身の回りのことは自分の力でどうにかしていた。
なのにマロ、おまえはなんなんだよ。
自分だけが重荷を背負ったかのように深刻な顔をして、周りに心配させて。話しかけられてもろくに応えもしてないじゃないか。
辛いこと、悲しいことに直面しているのはおまえだけじゃないんだ。なんでおまえだけがちやほやされるんだ。おれとおまえの何が違うっていうんだ。どっちも男前じゃないし、特別に勉強やスポーツができるわけでもない。
そりゃ、基本的にはいいやつだって認める。別に注目を集めたいがために深刻ぶってるわけじゃないのもわかる。いつもの臭いセリフは冗談や誇張じゃなくて、たぶん本気で言ってるんだろう。
でも、それだけじゃないか。ひとりふたりがマロのそういうところに惚れるのは理解できなくもない。だけどあんなに大勢集めることはないじゃないか。
真珠は本気でマロと結婚するつもりらしく、いつ籍を入れるんだとか、式の日取りはどうするとか飽きもせず話しかけている。
アレキサンドラは将来の雇い主になると判断したらしく、マロをマスター呼ばわりしてずっとつきまとっている。
瑪瑙はふたりほど直接的ではないものの、マロの優しさだか何だかにほだされたのは確かなようで、いつもマロの隣にいる。
翡翠はやっぱりぼんやりしているものの、ちゃんとマロを注視しているのがわかる。
そして新興勢力たる琥珀はほかの四人に警戒されているようだ。
ああそうだ、家に帰れば瑠璃にベタベタされてるんだろう。
なんであいつだけが。数日間を精神的に綱渡りしながら過ごしてきたおれの肩に、その言葉は重くのしかかった。
終局は突然訪れたわけではなかった。おれのなかでは充分に前触れが積み重なっていた。
ただ、その結果がおれの予想外のものになってしまっただけだ。
旧校舎の取り壊しが半分ほど終わり、中間テストが近付いてきたある日。四時間目は体育で、男子はグラウンドでサッカーだった。
もっともなにをしようが怪我が完治しないおれには関係なく、ジャージに着替えてはいるものの、妙に気合たっぷりにサッカーに興じるクラスメイトを眺めていただけだった。
ようやくチャイムが鳴った。次は昼飯なので急ぐ必要もなく、ぶらぶらと教室に引き上げようとした。女子は体育館での授業だったらしく、階段の前で合流した。
おれは気づいていなかったのだが、おれの少し後ろをマロが歩いていて、琥珀がそれを見つけたようだった。階段を上っているときに声が聞こえてきて、後ろに二人がいることが分かった。
「マロくんはサッカーだったんですか?」
「・・・・・・」
「女子はバレーボールだったんです。翡翠さんが同じチームだったんですけど、あまり気が乗らなかったみたいで。翡翠さんが本気を出したら圧勝したと思いますけどね」
「・・・・・・そう」
階段を数段上るあいだ沈黙があった。
「マロくん・・・・・・やっぱりまだ水晶さんのこと・・・・・・」
「・・・・・・」
「あれはどうしようもないことだったんです。だからどうか気に病まないで」
「・・・・・・どうしようもないなんて言うなよ」
「え?」
「琥珀がもっと早く《門》に気づいていたら、あんなことにはならなかったんじゃないのか」
マロ、おまえ・・・・・・
ずっと抑え込んできたものがあふれだした瞬間だった。
おれはマロの腕をつかむと、有無を言わせず引っ張りながら教室とは別方向に歩きだした。
「なにすんだよ、矢島!」
「矢島くん?」
マロと琥珀の声は無視して歩き続ける。
人のいないところ、と考えてまっさきに思いついたのは屋上だった。すぐに旧委員会メンバーが昼飯を食べにくるのだが、そこまで気は回らなかった。
屋上への階段を上りきり、防火扉を開けようとしたとき、マロはおれの腕を振り払った。
「もういいだろ、何か用なのか」
本当にわけがわからない様子のマロに、おれは言った。
「おまえ、いい加減にしろよ」
「なにがだよ」
「なにがじゃねえよ! 水晶のことが琥珀のせいだってのかよ!」
「さっきのは・・・・・・言いすぎた。別にそんな風に思ってたわけじゃない。琥珀に謝らないと」
「それだけじゃねえ、いままでさんざん琥珀たちに気ぃ使わせて、何様のつもりだってんだよ!」
「そんなつもりじゃ──」
「だとしても気づくだろ、みんなおまえのこと心配してるって! なんでちゃんと応えてやらねえんだよ!」
「落ちつけよ。何で急に怒り出すんだよ」
急に? 急にじゃない。ずっとたまってたんだ。竹内の話を聞いてからでも、水晶のことがあったあとでもない、たぶんおれの転校初日からずっとだ。
「──選べよ」
「なに?」
「誰かひとり選べよ」
「誰かって誰のことだ、何を選ぶんだ」
「翡翠でも、真珠でも、瑪瑙でも、アレキサンドラでも、瑠璃でも──琥珀だっていい。宝石の名前のついた連中から、おまえが好きなやつをひとり選べ!」
話がおかしくなってきたのは自分でもわかってる。でも止められなかった。
「好きなやつって、おれは──」
「見ててイライラすんだよ! わかんだろ、みんながおまえのこと好きなんだって! ああそうだよ、おれはおまえに嫉妬してるんだ。おまえばかり女に好かれて腹が立つよ。でもな、選ばないとあの子らだってかわいそうだろうが!」
「そんな、みんながおれのこと好きなんて、あるわけないだろ。もしそうだったとしても、ひとりを選ぶなんてことできないよ」
・・・・・・ああ、マロ、頼む。その先は言わないでくれ。言ったとしてもおれの予想してることは避けてくれ。でないと、おれ──
「みんなおれの大切な友だちなんだから」
おれは右の拳をマロの顔面にたたきこんでいた。
初めて本気で人を殴った拳の痛み、それに急な衝撃にさらされた治りきらない左腕の痛みが、脳髄を駆け抜けていった。
「なにすんだ・・・・・・!」
壁に背を打ちつけたマロは、顔に手を当てながら体勢を立て直す。その顔からは鼻血のひとつも流れていない。効かなかったのか? いや、ちがう。あいつは鼻血なんか流さないんだ。おれは好きな子のまえでお漏らしするけど、あいつはそんなみっともないことはしないんだ。
「腹が立っただろ? わけもわからないうちに殴られてさ」
おれはせいぜい悪人らしく見える笑い方をしてみた。
「おまえもやってみろよ、いつまでも正義ヅラしてないで、たまには本性見せろよ!」
それが「本性」とは思わない。マロだってかっとしてわけがわからなくなることもあるだろう。ともあれ、事実としてマロはおれを殴った。
おれもさっきのマロのようによろめいて後ろの壁にぶつかり、反動で左側の下り階段の方に踏み出しかけた。
あわてて手すりに手を伸ばす。だが手すりに届くのは左腕だけだった。
手すりをつかんだ拍子に走った痛みのあまりの激しさに、反射的に手を離してしまった。
視界が空転して、足元にあったはずの階段が目の前に迫った。
このおかしな世界でもしっかり働いている重力がおれを捕らえ、衝撃が身体中を襲った。
何かを突き崩すような派手な音と振動がしばらく続いたが、やがてそれも止まった。
「つ・・・・・・!」
思わずうめき声をあげる。
だが、変だった。痛みがあるのは左腕と殴られた頬だけだ。下階まで階段を転げ落ちたらしいのに・・・・・・?
身を起こしたおれの下に、マロの顔があった。
マロがおれの下敷きになった? おれを助けようと?
「おい、マロ・・・・・・」
いくら呼びかけても、目を閉じたままのマロは応えようとはしなかった。
最初におれとマロを見つけたのは、おれたちを探していた琥珀だったらしい。
らしいというのはおれが状況を正しく把握できるようになったのはもうしばらくたってからだったからだ。誰かがおれの視界と思考に対して、勝手に早送りやスキップを加えている。そんな感覚がしばらく続いた。
琥珀が真珠を呼び、真珠が救急車を呼び、マロが運ばれていった。おれも一緒に救急車に乗ったのは、呆然としていたのでマロと同様に頭を打ったと思われたためだ。
救急隊員はマロの瞳孔を確認したりしながら怪我をしたときの状況の説明を求め、おれは正直に話した。そのこともよく覚えていないが、後で確認するとけっこう正確に話していたようだった。
病院に到着し、マロはICUに入った。おれも簡単な検査を受けて念のためCTスキャンにもかけられたが、なにも異常はなかった。殴られた頬に湿布を貼られただけだ。
それから病院で数時間待たされた。その間に旧委員会メンバーが集まってきた。おれの記憶にしっかり残っているのはそのあたりからだ。
やがて卜部医師が現れ、マロの病状を説明してくれた。
頭部外傷による昏睡状態、だそうだった。
「脳にたまった血液を抜き取る手術をして、それは成功した。だが意識が戻っていないんだ。今後意識を取り戻す可能性は・・・・・・正直に言って、わからない。数週間の間に意識を取り戻さなかった場合、ずっとこのままということもありうる」
卜部医師はいわゆる植物状態のこととか、そう定義される条件とか詳しい話をしてくれた。瑪瑙のときと違ってずいぶん専門的なことまで語った。
また自分自身で執刀したらしいが、いったいこの人は何科の医師なんだろう。それにやっぱり部外者にいろいろ話しちまうんだな・・・・・・
卜部医師が去った後、おれはみんなに救急隊員に話したことを繰り返した。そこには竹内説、それに琥珀がらみのことは含まれていない。おれのなけなしのプライドが、それだけは言わせなかった。話したのは階段から落ちたときの状況と、おれがマロの態度が気に入らなかったからケンカになったことだけだ。
「確かにあいつ、ここのところ変だったもんな。矢島もだけどさ。でもこうなったのはおまえのせいじゃないって」
まだ水晶のことを知らない哲は、そうおれを慰めた。
哲だけじゃない、みんながおれに責任はないと言った。翡翠でさえもだ。
なんでだよ。なんでそんなに物分かりがいいんだ。どうしてなんでもかんでもすぐに認めちまうんだ。
状況は話しただろ。おれがマロを階段から突き落としたわけじゃないが、そう疑われたっておかしくないじゃないか。おれがそんなことをするはずないと信じてくれていたとしても、おれに八つ当たりくらいするところだろ。おれだけ無事だったんだぞ。みんなの大好きなマロはあんなことになったのに・・・・・・
マロは面会謝絶とのことで、みんなはそれぞれ帰宅していった。おれは最後まで残っていたが、やがて追い出された。
そういえば警察も来なかったし、学校関係者も真珠がおれの話を聞いただけだ。あれだけのことがあったのに、いいのかよこのまま帰って。
どうせ、この世界に公権力なんて存在しないんだ。あるのは真珠の親父みたいなウソ臭い力だけ。だからこの「事故」によっておれは逮捕されたりしないし、TVや新聞のニュースになることもないんだ。未来の婿養子を奪われた真珠の親父に消されることはあるかもしれないが・・・・・・
家に着いて、おれは通学カバンを放り投げた。妙なところで気が利く哲が、おれの制服などを詰めて病院に持って来てくれたのだった。でも、カバンも制服ももう必要ない。今後どうなるのか分からないが、学校に行くことはないだろう。世界がおかしくなっちまったのに、学校に行く必要なんかないんだ。なんで竹内はそれを知りながら毎日・・・・・・
竹内。
その名は、おれに一縷の希望を抱かせた。
カバンからスマホを取り出す。呼び出し音が二回したところで彼女が出た。
「救急車で運ばれたんだって?」
おれは今日のことをすべて打ち明けた。今度は琥珀のことも含めて全部だ。それから息つく間もなく、おれは尋ねた。
「瑪瑙だって小数点以下の成功率の手術に成功したんだ。マロは絶対に回復するんだよな?」
「うーん・・・・・・」
肯定的な即答を期待していたおれは、早くも裏切られた。
「うーん・・・・・・ごめん、それ、わかんないや」
「なんでだよ!」
「ありえないはずのことが起こるのは、二次元出身の人たちが自発的に行動して、彼らの中だけでその行動が完結した場合に限られると思ってるの。あたしたちが自発的にとった行動では、やっぱりそういうことは起こらない。有馬くんのは自発的と言えば自発的だけど、矢島くんがいなかったら起こらなかった事故だし・・・・・・といって回復するかどうかは矢島くんとは関係なくて、有馬くんとこの世界の医療の問題だし。微妙すぎてなんともいえない」
それとも──と言いかけて、竹内は黙ってしまった。
「なにか手があるのか?」
「ああ、ごめん、今のなし。ふざけたこと言ってる場合じゃないよね。あたしたちにできることはないよ。だって、ただの高校生なんだから」
ただの高校生、ときいてまっさき琥珀の顔が浮かんだ。彼女は霊力ってやつでマロたちの傷を治したことがあったじゃないか。それに翡翠だって頭がいいんだからなにか治す方法くらい──
駄目だ。病院で充分な時間があったのだから、手段があるのなら彼女たちがそれを言い出さなかったはずがない。卜部医師に止められるのを恐れたから? それもない。二人が何か提案したら、医師は「素人に手を出せる状態じゃない」なんてまともなことはきっと言わない。
「おれ、マロを殺しちまったのか・・・・・・?」
口に出してみて、ようやくその事実の重みが染み込んできた。マロの人生を閉ざし、おれの人生も一緒に・・・・・・
「やめなよ。事故だったんだって。矢島くんがなにも悪くないとは言わないけど、やっぱり事故は事故で、だれの責任でもないよ」
そうか? ほんとにそうだったか?
「第一、まだ回復する可能性はあるんでしょ。殺したなんて決めつけないでよ」
おれは、マロを・・・・・・
「もう御見舞いできるかな。もしできるなら明日一緒に行こっか。ね? 矢島くん?」
おれは適当な相槌をうちつつ、電話を切った。
おれはまた数日、学校を休んだ。というより、もう退学したつもりでいた。
初日の朝から竹内が家に来て、ぐずるおれを無理やり外に引っ張り出した。竹内もサボったらしかった。
向かったのは六義園病院。前の日に言った通り、マロの御見舞いだった。
マロは一般病棟に移っていたが、やっぱり個室だった。「ドラマの展開に相部屋は不向きなのよ」と竹内は言った。
ベッドに横たわったマロは、頭に撒かれた包帯のほかは健康そうに見えた。おれが殴った痕もない。さっき鏡に映ったおれのほうがよほど病的な顔をしていた。
マロの親が来た様子もない。冒険家の話もほんとうだろうから、いまごろジャングルの奥地にでもいて連絡がつかないのかもしれない。
竹内はしばらくマロに話しかけたり、おれを元気づけようとしてくれていたが、昼過ぎには帰っていった。おれは帰る気力もなく、面会時間が終わるまで病室に居座り続けた。
そんな日を何日か繰り返すと、マロに関わっている女の子たちが順番にやってきた。
最初は瑠璃だった。
「六年前、瑠璃と研磨おにいちゃん、翡翠おねえちゃんで旧校舎に行ったんだ。ちょっとした探検のつもりだった。瑠璃たちの両親の影響だったのかも」
と話し始めた瑠璃は、どっちの彼女かよくわからなかった。
「瑠璃は怖くなって逃げ出して、あとから二人も追い付いて来て、一緒に家に帰った。その途中で翡翠おねえちゃんが身につけてたペンダントを落としたことに気づいたんだ。でももう遅い時間だし、もういらないから別に探さなくていいんだって。翡翠おねえちゃんと別れた後、研磨おにいちゃんはやっぱり探してくるって、旧校舎に行っちゃった」
瑠璃の視線は眠るマロに留まったままだ。
「瑠璃はおじさんとおばさんに怒られるからやめなよって言った。でも研磨おにいちゃんは瑠璃が黙ってればわからないからって。何か訊かれても、おれがどこに行ったか知らないって言うんだぞって。翡翠おねえちゃんは引っ越すことが決まってて、次の日の朝に出発することになってた。だからその日のうちに探しに行くしかなかった・・・・・・」
マロはそこで水晶と出会った・・・・・・。
「研磨おにいちゃんはその夜帰ってこなかった。おじさんとおばさんも、瑠璃の両親も一晩中探して、旧校舎の近くを歩いてた研磨おにいちゃんを見つけた。でももう、なにもわからなくなってた。瑠璃のことも、翡翠おねえちゃんのことも何にも。どうしてこんなところにいたのか、なにか心当たりはないかって訊かれたけど、言いつけどおり知らないって答えた。翡翠おねえちゃんのことも話さなかった。結局、そのことを知らないまま引っ越しちゃったし」
そういえば前に翡翠と会った日の帰り、「ババアブッコロス」とか言ってたな。
「翡翠を恨んでたってことか。マロが記憶をなくす原因になったから」
「見損なうんじゃねえぞこの──モドキが! 瑠璃はそんな器の小せえ女じゃねえ!」
瑠璃は豹変した。というか元に戻った。
「それを話したら翡翠おねえちゃんが傷つくかもしれねえじゃねえか! いくら周りがおねえちゃんのせいじゃないって言ったって、やっぱり責任感じちまうだろ! 研磨おにいちゃんはぜってえそんなこと望まねえんだよ!」
ああ、その状況、ちょっとだけいまのおれに似てるかもしれないな。それにしても六歳かそこらとは思えない判断力だよ。
「そのこと、いまは翡翠も知ってるよ。ペンダントも見つかった」
「あぁ!? なんでだよ!」
「──旧校舎で偶然ペンダントを見つけたんだ。マロが記憶を失ったことも話して、いろいろわかった」
あの出来事を四捨五入して話すと、瑠璃は「そうか」といって肩を落とした。
「いつか話さなきゃなんねえことだったしな・・・・・・」
「恨んでないなら何でババアブッコロスとか言ってたんだよ」
瑠璃は顔をそむけた。
「あれは・・・・・・決まってんだろ。ライバルが増えたのが気に食わなかっただけだ」
マロが目を覚まさないまま数日が過ぎ、最後に来たのが翡翠だった。
痛々しいほどやつれた翡翠は、パイプ椅子に座ったままなにも話そうとはしなかった。
そういえば竹内が言ってたな。翡翠の「翡」の字は人名として使用することができないんだって。ほかにもあのクラスにはおれたちが生まれたころには使用できなかったはずの漢字を使った名前が何人もいるそうだ。
だとすれば、こうして目の前に座っている彼女は何者なんだろう。髪は真っ赤だし、まずお目にかかることはないくらい整った目鼻立ちをしているが、それでもその姿は人間以外の何物でもない。頭の中身も特殊といえば特殊で、ありえない経歴の持ち主でもあるが、こうしてまっすぐに悲しみを表している。
そのまま数分が過ぎ、耐えられなくなったおれはこれまで誰にも言わなかったことを口にしていた。
「この前はおれのせいじゃないって言ったけど、ほんとは恨んでるんだろ」
翡翠は今日初めておれのことを見たような気がした。
おれの襟首をつかんで立たせると、拳を固める。
ああ、こいつに本気で殴られたらおれは死ぬだろうな。それは構わないけど、痛いのは怖いな。それともやっぱり、おれに対してはちょっと強い女子高生のパンチにしかならないのか。
それを確かめることはできなかった。翡翠はおれの肩に軽く拳をあてただけだった。
「あんたさ、あたしたちのために怒ってくれたんでしょ? あれだけ言い寄られてるのに、マロがはっきりしないから」
「なんで・・・・・・?」
そんな風に思うんだ? おれがみんなに言ったのは、最近のマロがろくに返事もしないからということだけだ。
「あたしもあんたもマロが落ち込んでた理由を知ってるもの。そのことだけであんたが怒るとは思えない」
おれをつかんでいた手を離す。
「あの日ね、あたしはマロを屋上にでも呼びだそうとしてたの。そこで謝りたかった。記憶喪失のことも知らずに、勝手に怒ってばかりいてごめんなさいって。そのうえであたしの気持ちを全部伝えて、はっきりしないさいって言うつもりだった。それでもウジウジしてたらひっぱたいてたと思う。だってこいつ、誰にでも優しいから、みんなその気にさせちゃうし。それは記憶喪失とは関係ないでしょ?」
「・・・・・・」
「ちょうどそんなことを考えてたから、あんたはあたしの代わりに殴ってくれたんだと思った。だから、もしあんたが殴ったことで階段から落ちてたとしても恨んだりしない。こいつがはっきりしないのが悪いんだから」
再び椅子に腰を下ろすと、翡翠は驚くべきことを口にした。
「なんていうか・・・・・・違うよね、矢島は。ほかのみんなと」
「え・・・・・・?」
「みんな、そんな風に怒ったりしない。永野だってマロのこと羨ましがってるだけだし。女の子たちもマロを取り合ってるように見えて、特にお互いに嫉妬してるわけでもない。あたしも、たぶんそう」
「性格の違いってだけだろ。県民性かもな」
おれは適当なことを言った。
「そうかもしれないけど・・・・・・」
翡翠は目の前に掲げた手のひらをしばらく見つめ、ついで病室の白い壁を見つめた。
「なんか違う。そういうことじゃない。でもよくわかんないわ。ダメね、頭にはちょっと自信があったけど、この町に来てから調子狂いっぱなし」
まさかおれのことに気づいている?
確かに翡翠はおかしな話の流れに対して、たまにおれと同じような疑問を口にすることがあった。
それこそただの性格だと思っていたが、そうとも言い切れないのかもしれない。おれがこの世界のおかしさに気づいたのだから、逆もありえるのだろうか。
翡翠はあのペンダントを取りだした。
「あたし、引越しばかりしてたって言ったでしょ。最初にこの町に来たときも、またすぐに引っ越すことになって、あたしはかなりぐずってたの。そしたらご機嫌を取るつもりだったのか、親がこれを買ってくれて。でも子どもっぽくて、あたしは好きじゃなかった」
九歳のときの話だろ。子どもっぽいって・・・・・・。
翡翠の手の中のペンダントは確かにその通りかもしれないが、やっぱり真ん中の薄い緑の玉は本物の宝石のように見えた。
「だけどマロがきれいだって言ってくれて、それでつけてた。旧校舎で落としたみたいだったけど、どうせマロには会えなくなるんだし、もういらないって思った。だからマロが探しに行く理由なんてこれっぽっちもなかったのよ・・・・・・」
語尾が少し震えたようだった。
「そのとき記憶を失ってたなんて全然知らなかった。引っ越す日の朝に見送りに来てくれなくて、あたしは腹を立ててただけ。そのとき誓ったの。絶対またこの町に戻ってくるって。でもただ戻ってくるだけじゃダメ。マロが目を離せなくなるような、魅力的な子になって戻ってくるんだって」
「・・・・・・」
「引っ越す前、マロに一度訊いてみたことがあるの。どんな女の子が好きかって。そしたら強い子が好きだって言ってた。だからあたしは徹底的に身体を鍛えた。でもだんだん強いっていうのはそれだけじゃないって思い始めた。精神的にも頭脳的にも、それに経済的にも強くなきゃダメなの。それで必死に勉強もした。ろくにTVも見ないし、友だちと遊んだりもしないで」
《妖》を素手で倒し、海外の大学を卒業し、高級マンションでひとり暮らしをする──それらの「事実」が結びついていく。強い子が好きなんて、ガキのたわごとを本気で受け取るなよ。
この世界はたいていのことは実現しちまうらしいんだから。
「だから人づきあいってよくわかんなくて、やなやつって思われてたでしょうね。この際だから謝っとくわ」
弱々しく微笑む翡翠。おまえのそんな表情、見たくないのに。
「それでも少しは自分に納得できたから、ここに戻ってきた。なのにこいつ、全然あたしのことおぼえてなくて・・・・・・」
翡翠は点滴のチューブがつながれたマロの手を取った。
「ほんとに腹が立って・・・・・・マロが思い出すまで六年前のことは黙ってようと思った。バカだよね、あたし・・・・・・つまらない意地張って。あのさ、マロってあだ名つけたの、あたしなの。マロがあたしのこと忘れててもあだ名はちゃんと残ってて、それで六年間つながってたような気がして、すごくうれしかったのに」
マロの手を両手で握りしめる。声だけでなく、肩も震えている。
「このまえ、あたしに訊いたでしょ。怖いものはないのかって」
「ああ、怖いと感じている自分を自覚することだって・・・・・・」
「もうひとつあった。マロを失うことよ。いまそれが怖くてしょうがない。怖いと感じてる自分を自覚してるから、もっと怖い・・・・・・」
翡翠の目から大粒の涙がこぼれおちた。
「こんなことになるなら、もっと早く言えばよかった・・・・・・マロのことが好きだって・・・・・・」
マロの手の甲に小さな水たまりができる。
「好きで好きでどうしようもなくて、この町に戻ってきたんだって・・・・・・」
そのときだった。狭い個室に、おれと翡翠以外の声がした。
「──やめてくれよ、照れくさいだろ」
ドン、と音がした。おれが座っていた椅子を蹴倒し、壁に背中を打ちつけた音だった。
マロが目を覚ましている・・・・・・
「マロ!」
翡翠がベッドに身を乗り出した。
「・・・・・・ペンダント、見つかってよかったな。返すのが遅れてごめんな」
「・・・・・・! あんた、記憶が・・・・・・」
「ああ、全部思い出したみたいだ。翡翠や瑠璃に迷惑かけちゃったな」
「マロ・・・・・・!」
おれは壁に背をつけたまま、ずるずると移動していった。
部屋の扉まで来たことに気づいたとき、おれはその扉を開けて全力で駆け出していた。
患者が行き来する廊下を駆け抜け、階段を走りおり、病院を出た。
「やってられるか、もうこんなことやってられるか!!」
走りながら、おれは声に出して叫んでいた。
マロだけでなく翡翠までくっさいセリフを聞かせやがって! なんでもかんでも完ぺきにこなしちまう翡翠のこと、ほんとはちょっと尊敬してたのに!
あんなケガがそう簡単に回復してたまるか、それ以上に人間の記憶があっさりと消えたり戻ったりするものか!
この世界は狂ってるんだ。おれのほうじゃない、この世界がどうしようもなく狂ってるんだ。
何もかもがウソ。どっかの誰かが考えたしょうもない妄想の産物だ。なんでおれがそんなものに巻き込まれなきゃならないんだ。おれが何か悪いことしたのか。
夢中で走り続けたおれはいつのまにか駅前に来ていた。
「この駅も、電車も、ビルも、全部空想なんだろ! それにしちゃよく出来てるじゃないか、裏側までちゃんとデザインされてるもんな!」
おれは道行く人たちの肩をつかんでは振り向かせた。
「あんたも、あんたも、みんな空想なんだ! どういう設定になってるんだよ、血液型はあんのか? 生年月日は決まってるのか? 何かで統一された名前なのか?」
それはもう完全に狂人の沙汰だっただろう。人々がうそ寒い目をおれにむけている。
だがそんなの知ったことか。狂った世界に住んでいるのはみんな狂人だ。狂人に狂人と思われても、痛くもかゆくもない。
日が暮れ、声が枯れて身体が動かなくなるまでおれは叫び続けた。
まだまだ叫び足りなかったけど、疲れ果てて頭に上った血が冷えていく中で、おれは気づいてしまった。
こんなことをしたのは、このおかしな世界に絶望したからじゃない。もちろんそれもあるが、もっと大きな理由はマロが目を覚ましたこと、それ自体だ。
おれはたぶん、マロに目覚めてほしくなかったんだ。
そうすればいつか琥珀がおれの方を向いてくれるかもしれない。そんなことを期待してた。
──最低だ。
世界がどうとかじゃない、ひとりの人間としておれは最低なことを考えていた。
すっかり重くなった両足が、おれをいつの間にか旧校舎に運んでいた。
取り壊しはだいぶ進んでおり、校舎の半ばは骨組みを残すのみとなっている。あたりには近づくだけで埃まみれになりそうな、古い木材の山がいくつもできている。
ただ、あの場所だけはまだ手つかずで残っているようだった。
外部にむき出しになってしまっている階段を上り、校舎の隅のほうに歩いていく。
すでに新校舎やグラウンドの明かりも消えていたが、おれの足取りは確かだ。
窓から空を見上げると、巨大な満月が輝いている。このまえ竹内に言われた、おれが気づいていなかった世界を構成する基本的な要素──そのひとつが月だ。
月の見かけ上の大きさは、腕を伸ばして指先で5円玉をつまんだときの真ん中の穴の大きさと同じはずだ。だがあの月はサッカーボールくらいはある。
この世界の異常を気づかないうちに受け入れてしまっているんだと竹内は言ったが、あれに気づかなかったなんていまだに信じられない。夜でもこんなに明るいのも道理だ。《妖》退治に不自由はなかったし、水晶の書いたスケッチブックの文字が読めたのもそのためだ。第一、あの月は満月しか見せない。欠けたところを見た記憶がない。どうやって公転してるんだ。潮汐力の影響は?
──考えるのはやめだ、アホらしい。
おれはあの穴の前に立った。
《妖》が出入りする《門》。水晶が消えた場所だ。
琥珀はもう《妖》が出てくることはないと言った。しかし異世界への扉としての機能は保っているようだった。月明かりのおかげで下の教室が見えてもいいはずなのに、穴の下は真っ暗だ。
異世界。それはどんな場所なんだ。やはり《妖》がうようよいる地獄みたいな場所なのか。それとも・・・・・・
元の世界に通じてるんじゃないか。
それはあまりに都合のいい希望だった。
しかし《妖》の巣窟だろうが、かまいはしない。いかれた世界なのはここと同じだ。どこに出ても同じなら、万一の可能性に賭けてみる価値はあるんじゃないか。
さらに身を乗り出す。みしりと床が鳴った。
明日になればここも壊されるかもしれない。いままで残っていたのが奇跡かもしれない。
奇跡。この世界ではそれはけっこう簡単に起きる。おれに起きたっていいはずだ。
──いや、奇跡なんて必要ないか。どうせここにはおれのいる場所なんてないんだ。どこにつながっていようと、その先で野垂れ死のうと知ったことか。それなら。
「行ってやる・・・・・・」
おれはそう口に出し、その言葉で自分の背中を押した。
軽くジャンプし、穴の中心に飛び込んだ。
──どこまでも続くものと予想していた落下は一瞬で終了し、足の先から身体中に衝撃が走って、おれはたえきれずに尻もちをついた。
痛みに顔をしかめつつ上を見上げると、いま飛び込んだ穴が見えた。
まわりには古びた、しかしすっかりなじみになった机や椅子が散乱している。
一階の教室だった。
おれはその場に、大の字になって寝転んだ。
いっせいに埃が舞い飛んだようで、おれはしばらく咳き込んだ。
「・・・・・・ははは・・・・・・」
咳が治まると、胸の奥から笑いがこみあげてきた。
いったん笑いだすと、もう止まることはなかった。笑いすぎて息苦しくなり、どうにかこらえようとするのだが、少しでも呼吸が整うとまた笑いだした。
波がおさまってきても、おれが決死の覚悟で二階から一階に飛び降りたところを想像するとまたおかしくなり、吹き出してしまう。
それを一時間ばかり繰り返した。
息も絶え絶えのおれは、スマホを取りだした。
「なんで飛び降りる前に呼んでくれなかったの!」
この半日にあったことを話してやると、竹内はさっきまでのおれと同じように笑いだした。
「落ちてきた瞬間の顔、見たかったのにさ・・・・・・」
ひとしきり笑ったあと、竹内は涙を浮かべてそう言った。笑い物にされても腹も立たない。なんなら一緒に笑い出したい気分だった。
「あー苦し・・・・・・。電話で半笑いの声を聞いたときはちょっと心配したけどさあ・・・・・・」
面白いことがあるから旧校舎に来てくれ。夜も遅い時間、正気とは思えないおれの言葉に、竹内は「いいよ」とだけ答えてほんとうに来てくれたのだった。
「で、気は済んだ?」
「ん・・・・・・どうかな。いまは苦しいだけだ。笑いすぎて」
竹内は持っていた缶コーヒーを投げてよこした。飲料メーカーはスポンサーじゃなかったみたいね、とか言いつつ自分も別の缶を開けて飲み出す。
おれもその見覚えのないラベルのコーヒーを口にした。正直コーヒーは苦手だけど、いまは火照った喉に冷たい感触が心地よかった。
一息ついてから、おれは訊いた。
「元の世界に戻る方法はないのか?」
「その元の世界ってやつね、あたしも便宜上そう言ってたけど、的確じゃないと思う」
「なんでだよ。元の世界は元の世界だろ」
「言ったでしょ。二つの世界がくっついたんだって。だから元の世界なんてもうないと思う。元、というなら、ここも元の世界なのよ」
竹内は恐ろしいことをさらりと言ってのけた。
「元の世界はたぶん、何万とか何億とかに分割したされたうえで、世の中に存在していたいろんな創作物と融合した。それぞれの世界に何人かの人が割り当てられたけど、ずっと同じ世界に留まるわけでもない。だからあたしみたいにいくつか異なる世界を経験した人もいる。でも一度でも元の世界に戻れたって人はいない」
「なんで融合したってわかるんだ。元の世界と創作の世界があって、おれたちがこっちの世界に来たってだけじゃないのか?」
「そう考えた方がつじつまが合うから。創作物は通行人Aについて細かく設定したりしない。でもここでは通行人Aにも生活がある。奇妙なことばかり起こるように見えて、ちゃんと現実世界のルールも適用されてるのよ。創作そのものの世界だったら、あたしも矢島くんもとっくに発狂してると思う」
「それでも創作の世界の出来事に偏ってるように見えるけどな」
「それはたぶん、そっちの出来事があまりに特徴的すぎるから。印象に残らないだけで、元の世界で起こってたことはちゃんとこっちでも起きてるはず。だからね、創作の世界の出身者もあたしたちのように違和感を感じてると思う。妙に平凡な出来事ばかり起きるな、っていうあたしたちと反対の違和感をね。特にあたしや矢島くんに対しては」
翡翠みたいに、か。
「・・・・・・じゃあ、もう二度と戻れないってのか」
「わかんない。言ったでしょ、あたしは全部の事情に通じてるわけじゃないって。全世界の人がこういう目にあっているなら、あたしはその七十億分の一でしかない」
「でもおれよりは理解してるじゃないか。こうしておれと同じクラスになったのも特別じゃないのか?」
「残念だけど、それもこれもただの偶然。もしかしたらあたしは多少経験値が高いかもしれないけど、あたしたちは運命に選ばれてここにいるわけじゃない。だから泣いてもわめいても、神様が救ってくれたりはしない。矢島くんと前世で会ってたなんてこともないから。まあこれだけ世界がぐちゃぐちゃになってたら、一回くらいどこかで会ってたかもしれないけど、あたしも矢島くんも覚えてない。でしょ?」
おれも今回が初めてじゃないかもしれないのか・・・・・・
「ほかの世界も見てきたって、いくつくらい?」
「うーん、六つか七つかなあ・・・・・・」
「おぼえてないのかよ」
「だって、どこからどこまでが地続きなのかわかりにくいのもあったし。実際忘れてるのもあるだろうし」
「どこもこんなところなのか」
「んーん、ここはアニメかゲームが元になってると思うけど、創作物──少なくても映像作品は全部網羅されてるんじゃないかと思う。映像化されていない小説みたいに、視覚的なイメージが固定されていない作品は、こういう世界として構築されないんじゃないかって予想してる。それでね、あたしの二つ目の世界なんて、戦争映画が元になってたみたいでさ、大変だったんだから」
竹内は窓際まで歩いていって、空を見上げた。
「あたしは今回と同じく市民Aでしかなかったみたいで戦ったりはしなかったけどさ、食べるものもあまりなかったし、空から爆弾が降ってきたこともあったし。よく覚えてないんだけど、あたし、そのとき死んだのかもしれないって、いまでも思うことがある。死んだから次の世界に行ったんじゃないかって」
「死んだって・・・・・・そうすると次の世界に行くのか」
「それも不明。特に決まってないのかも」
でもさ、と竹内はつづけた。
「そういうのに比べたら、ここはいいところじゃない。たぶんこれ以上のところってあまりないと思うよ。あたしなんてずっとここにいたいくらい。もう諦めて、気楽に行こうよ」
「認めろってのかよ、このわけのわからない世界を」
「へえ、じゃあ矢島くんは元の世界のわけがわかってたんだ」
おれは絶句した。
「あたしは元の世界──ああ、これからは三次元世界ってことにしようね。そっちの方がよほどわけがわかんなかったな。三次元のほうがずっと不条理で、理不尽で、どんな無理ゲーだよって感じだったじゃない。それにくらべてこっちは、苦労したら正確に報われるし、いやなやつは相応な目にあうし、それに事故で人が死んだりしないしね」
最後のはマロのことか・・・・・・
「そういえば、有馬くんが入院した日、矢島くんにマロは治るのかって訊かれて、あたしちょっと言いよどんだよね。あることをすれば治るかもって思ったんだけど、なんて言おうとしたかわかる?」
「・・・・・・お姫様のキス」
「そう! 正解! よくわかったね。キスまではいかなかったみたいだけど」
「たったいま思いついた」
確かにあの場面じゃ、そんなふざけたことは言えなかっただろう。
「あまりに使い古されてて、逆に新しいのかもね。とにかく目を覚ましてよかったじゃん。もっとリアル寄りの世界観だったら、あのままだったかもしれない。天羽さんの幼馴染力のおかげね」
「意味の分からない言葉を使わないでくれ・・・・・・でもそれ、ほんとに翡翠のおかげか? 運がよかっただけとかじゃないのか」
「どっちでもいいでしょ、そんなこと。あ、でももうひとつの可能性もあるかな」
「なんだよ」
「矢島くんの影響力が薄まっているってこと。この世界への同化がすすんで、三次元世界の常識が作用しなくなったのかも。今度妖に触れても消えないかもしれないよ」
「ろくでもないな・・・・・・どうあってもおれはここに残ることになっちまうのか」
竹内はちょっと笑みを浮かべると、行こっか、と言った。教室を出ていこうとするので、あとをついていく。
フェンスを乗り越え、校外に出る。
「ちゃんと有馬くんと話してさ、謝るなりお礼を言うなりしたほうがいいよ」
「話はするよ。謝って、礼も言う。でもやっぱり、おれはあいつのこと認めらんない」
「強情だねえ。でもさ、この世界への同化がすすんだんなら、黛さんを振り向かせるチャンスもできたってことだよ。いままではたぶん無理だったけど」
おれはつい立ち止まった。そういう見方もできるのか・・・・・・
琥珀の目は完全にマロを向いている。そのマロを殴ったおれはもう、彼女に嫌われてしまったのかもしれない。そもそも琥珀は「あちら側」の人なのだ。それらを理解したうえでなお、やっぱりおれの気持ちは変わっていないのだった。世界がこんなことになってしまったのに、人の心はそう簡単には変わらないらしい。
「ね? この世界も悪くないでしょ。こうなったのはあたしたちの責任じゃないんだから、あるがままを受け入れて楽しめばいいんだよ」
「現実を見ろってことか」
「そういうこと」
現実。この世界がいまのおれにとっての現実・・・・・・
「なあ、おれたちがいたのが三次元なら、創作の世界が二次元てことか?」
「そうね。アニメだろうと実写だろうとモニターの上では二次元だからね」
「じゃあここはなんて呼ぶんだ」
「あいだを取って二・五次元じゃない? ちょっとファンタジー要素が入ってるから二・四・・・・・・ああ、異世界ファンタジーが二・一だとすれば、むしろ二・六くらいでもおかしくないか。悩ましいな」
というと、竹内はまた笑った。
ほんとによく笑うな。親ともはぐれて、一度死んだのかもしれないっていうのに、どうしてそんなに笑えるんだろう。今回の二・四だか二・六次元がそんなに楽しいのだろうか。それとも・・・・・・
「竹内・・・・・・そういや、下の名前なんていったっけ?」
「・・・・・・ウソ、いままで知らなかったの?」
「いや、名簿か何かで見たことはあって、宝石の名前じゃないのはわかってるんだけど」
「なにそのひどい覚え方。そんなだからモテないんだよ」
ひどいのはわかってるけど、いまそれを言うか?
「
「彩る──それってさ、宝石を彩るって意味にとれないか?」
「・・・・・・あ」
竹内は返答に詰まり、表情も固まった。おれは彼女から初めて一本取ったらしかった。
それでもすぐに元の表情に戻り、
「ないない、それはない。それだとあたしもあちら側の出身てことになるじゃない。よくある名前だし、ただの偶然。まだ完全に二・五次元的思考に染まるのは早いよ」
そうかもしれない。でも──。竹内彩。やたら難しい姓名をもつクラスメイトと比べれば平凡な名前だが、その名前がこの半月ばかりの間に特別な意味を持つようになったのは確かだった。
「その・・・・・・ありがとな」
「なに?」
「何度も電話で呼び出しちゃってるよな。そのたびにちゃんと来てくれて」
「そりゃまあ、あたしたちは外を歩いてたら会いたいタイミングで偶然会えた、てわけにはいかないし、呼んでくれないと」
「そういうのじゃなくて、いろいろ話に乗ってくれてさ。おれ、竹内がいなかったらほんとにおかしくなってたと思う。まあ、ひどいショック療法も受けたけど」
「そのへん、あたしも考えたんだよ。気づかないならそのままのほうが幸せかもって。でももう限界みたいだったし、あたしも同じ立場で話せる人がほしかったのかもね。だから、ありがとうはお互いさま」
「おれたち以外に三次元出身はいないのか?」
「ひとりもいないってことはないと思うけど、区別できないのよ、しばらくそばで観察しないと。ここではあたしの知ってる限り矢島くんだけ」
そうか──すると、少なくても当面は秘密を共有できるのは竹内だけか。
当面・・・・・・?
「なあ、マロと翡翠って、やっぱり落ち着くとこに落ち着いたってことなんだよな。そしたらこの世界のストーリーはそれでおしまいなんじゃないのか?」
「そうかもね」
「どうなるんだよ、その先は」
「さあ? 何事もなく続いていくかもしれないし、パッと消えちゃうかもしれない」
「消えちゃうって・・・・・・」
「だからさ、気にしても仕方ないんだって。世界を変えるための具体的な意思とか力を持ってるならそれを使えばいい。いい方に変わるっていうならあたしもできるかぎり協力するよ。でもそれがないからって、気に病んだり自暴自棄になる必要はないの。そんなの時間の無駄。自分が楽しく過ごすために努力した方が得なのよ」
確かにそうなんだろうけど、よくそこまで割り切れるな。その心境に至るには相当な時間がかかりそうだ。
「あ、そうだ」というと、竹内は唐突に話をかえた。
「今度デートしよっか」
「はあ?」
おれの心臓が一度だけ高鳴ったが、竹内の表情は絶対に何か企んでいる。
「前に気になってるやつがいるっていったじゃないか。そいつとしろよ・・・・・・まさかそれって、マロのことじゃないよな」
「有馬くんだとダメ?」
「あいつはやめとけ。人の良さで周りを傷つけるのが得意なんだ」
「ふーん。嫌われちゃったね、有馬くん。まあ、違うんだけどさ。永野くんでもないし。行きたいところがあるんだけど、そこは矢島くんとじゃないと意味がないと思うんだ」
「どこだよ」
「この世の果て」
なにを言い出すんだ。心中でもするつもりか。
「それは言い過ぎか。単にR県の外に出てみようっていうだけ」
「日本のどこにあるのかってことか?」
「そう。単純に実在するどっかの県と県に挟まれてるだけなのか、それとも・・・・・・」
「透明な壁があって、そこから先に進めないのかもな」
「それそれ! あたしそれがいい!」
竹内はまた笑いだした。
その笑顔があまりに楽しそうだったので、おれも少しだけ笑うことができた。
「面白そうだな。いいよ、行ってみよう」
うなずく竹内の姿を月の光が鮮やかに照らし出していたが、おれにはどうしてもその光は明るすぎるように思えるのだった。
完
X - d @fsme
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