水晶

 左腕のあまりの痛みに、その日は眠れなかった。

 もっともおれの頭はパンク寸前で、痛みがなくても眠れはしなかっただろうけど。

 翌朝、左の前腕は正視に耐えないくらい腫れあがっていた。腕から象の足が生えているのかと思った。

 学校に行っていろいろ話をしたいところだったが、それどころではなく、また学校を休んで朝一で病院に行った。

 左腕尺骨の亀裂骨折。ようするに前腕の骨にひびが入ってるとのことだった。全治一か月、その間激しい運動は不可。左腕にそえ木をあてられ、湿布と鎮痛薬をもらって、昼過ぎには帰ることができた。瑪瑙のことがあったので六義園病院に行くのは若干不安だったのだが、ちゃんと処置してくれるじゃないか。

 家に着いてからスマホの電源を切っていたことを思い出して電源を入れると、琥珀からの着信履歴があった。朝の始業時間直後だ。おれが登校していないことを知ってすぐにかけたらしい。その後にメールも入っていて、「怪我は大丈夫ですか。よろしかったら連絡ください」とあった。飾り気がないが、それが琥珀らしい気もする。

 ちょうど昼休みか。琥珀に電話してもいいが、いまは委員会のメンバーと一緒かもしれない。真珠たちと一緒では話しにくいだろう。そう思い、メールだけ返しておくことにした。怪我をしたのが右腕じゃないだけましだったかと思いつつ、「痛むけど問題なし。放課後になったら連絡して」とだけ打って送信した。

 さて、もうひとり連絡しなければならない相手がいる。こちらは遠慮する必要はないはずだった。発信履歴から電話をかける。

「またサボったの?」

 と竹内は言った。おれは化物と戦ったこと、そこで骨折したことだけ話してやった。

「ほんとに? それは大変だったね」

 深刻さのかけらもない口調と言葉だった。学食にいるのか、背後でガヤガヤ声がする。

「竹内の言うこと、もう少し聞いてみた方がいいような気がしてきた」

「えらい、一歩前進したね。これもケガの功名っていうのかな。また電話するから、じゃあね」

 一方的に電話は切られた。切れる直前に竹内が友達らしい名前を呼ぶ声がした。クラスでは目立たないが、ちゃんと友だちづきあいはあるらしい。当り前ではあるが。

 他に何もする気になれず、おれはベッドの上でウトウトしつつ、眠りそうになるたびに腕の痛みで起きるということを繰り返した。

 そろそろ帰りのホームルームが終わるころか、と思ったとき電話が鳴った。琥珀からだった。

「矢島くん? 大丈夫ですか?」

 挨拶もなく琥珀はそう言った。頭の中のもやもやをすりぬけて、心配してくれていたことは素直にうれしかった。

 おれが怪我のことを話すと、電話の向こうで琥珀が絶句する気配があった。竹内とは大違いの反応だ。

「ごめんなさい・・・・・・わたしが巻き込んだばかりに」

「いいんだ、そんなことは。でもさすがに今日の夜は・・・・・・」

「もちろんです。今日どころか、完治するまでお休みしてください。それまでに解決すればいいのですが」

「いや、二、三日したら行くよ。だっておれ、ただ立ってればいいんだからさ」

「それでもまた上級霊が現れないとも限りません。たしかに矢島くんの力は強力ですが、翡翠さんも協力してくれるそうですから」

 少し迷ったような間が空いてから、

「矢島くんのあの力、いったいなんなのでしょうか」

「わかんないよ、おれにも」

 おれはそう答えるしかなかった。

「翡翠だってわけのわからない力を使ってたじゃないか」

「戦ってる時の翡翠さんからは強い霊力を感じました。ご本人が意識しているかわかりませんが、おそらく打撃の際に霊力を《妖》に流し込んでダメージを与えていたのでしょう。わたしもそれに近いことをしています。ただ、素手で《妖》を倒すほどの霊力の使い手はわたしも初めてみましたが」

 まったくだ。翡翠の無茶苦茶さに比べれば、日本刀を操る琥珀が普通に見えてくる。だが琥珀の考えは違うようだった。

「翡翠さんの方は原理は理解できるんです。程度が違うだけで。ですが矢島くんの力はまったく・・・・・・」

 なんだか琥珀との距離が遠ざかるような気がして、おれはその話を打ち切った。

「それよりさ、その──汀のことは?」

「それが・・・・・・わたしはもう、間違いないと思ってるんです。汀さんが《妖》の王だと。でも有馬くんは信じられないらしくて。汀さんとコミュニケーションを取ろうとしてくれていますが、なかなか《妖》のことは切りだせないみたいです。話自体もなかなか進まなくて」

 それはまあ「おまえは化物のボスか」とは言えないだろうけど。水晶はただでさえ意思表示が少なそうだし、交渉役がマロでは押しも弱いだろう。どうせまた「友だちが《妖》のはずがない」とか言ってるに違いない。

「わかった。おれもなにか手を考えてみる」

「ええ、お願いしますね」

 考えなど何もなかったが、頼られるのはいい気分だった。絶対にマロより役に立ってみせる。

「そういや、昨日はごめん。自分の力に気づいてなくて、琥珀に余計な怪我させちまった」

「気にしないでください、もう回復しましたし」

 あ──琥珀って下の名前で呼んじまった。思い返せば昨日も呼んだ気がする。セリフもキザだったし・・・・・・。どうにも気恥ずかしくなり、二、三のやりとりをしてから電話を切った。

 もう回復しました、か。普通に考えれば琥珀や翡翠の方が大怪我だったのに、二人は学校に行ったようだ。二人だけじゃない、哲だって、瑠璃だって、死んでもおかしくないことをされながらケロッとしていた。

 対するおれは机をぶつけられただけで全治一か月。でもそれが普通のはずなんだ。おかしいのはおれじゃ──ない。

 また電話が鳴った。竹内だった。

「いつまで電話してんのよ。いまから矢島くん家いくから、場所教えて!」

 なんでだよ、と問い返す間もなく、おれは学校から自宅までの道を電話越しに案内させられた。やがて家のチャイムが鳴った。

「はいこれ、お見舞い」

 家に入るなり竹内はビニール袋を差し出した。中にはカルシウムの錠剤が数種類入っていた。

 これ飲んで早く骨をくっつけろということらしい。琥珀のキスとはえらい違いで、散文的極まりない。残念ながらおれにはこっちの方が効果はあるのだろうが・・・・・・

「家に来なくても電話でよかっただろ」

「なによ、カルシウムいらないの? ついでにあたし以外の人がどんな暮らしをしてるのか見たかったし」

「あたし以外ってなんだよ、友だちの家でも行けばいいだろ」

「元からこっちにいた人は観察する意味が無いの。特にお金持ちじゃなくてもいい家に住んでるって相場が決まってるから。それより何があったのか詳しく聞かせて」

 なんの相場なんだ。そう思いながらもおれは、昨夜のことを包み隠さず話した。数日前までのおれなら夢とか妄想とか笑い飛ばしていたような内容だったが、竹内には笑われる心配はない。

 これよりはるかにスケールのでかい妄想を抱えてるんだから。

「上級霊ね・・・・・・そんな賢いやつもいたんだ。ちょっと責任感じるなあ。あたしがなにも影響がないとか言っちゃったから」

 そんな笑顔で言われても説得力がないぞ。

「そんなすごいバトルが見られたなら、あたしも行けばよかったなあ」

 やっぱり責任なんて感じてないじゃないか。

「あたしが行ったときは一度もそんなやつに会わなかったけどね。運が悪かったね。いや、良かったのかな?」

「良くないだろ・・・・・・って、行ったのかよあそこに。何度も?」

「行ったよ。だから矢島くんに勧めたんじゃない。あの二人がイチャイチャしてるだけって可能性もあったんだし、自分で確かめもせずに矢島くんを行かせたりしないよ」

「おまえな・・・・・・」

「けっこう二人を手伝ったんだよ。バレないようにだけどね。あたしがいくら妖を倒したところで話の本筋には影響なかっただろうけど」

「それだよ、おれが言いたいのは」

 竹内は手伝ってくれないので、おれは片手で苦労してカルシウムのケースのキャップを開け、錠剤をひとつ飲み込んだ。

「化物が実在することも、霊力ってのがあることも、そういうのが一切おれには届かないこともわかった。でもやっぱり、それが話の本筋がどうとかいう、竹内の説を認めることにはならないじゃないか」

「だけど矢島くんはあたしの話を聞きたいと思った。ほかにもいろいろおかしいと思ってることがあるってことでしょ」

「・・・・・・そうだよ。でも間違えないでくれよ、おれはあの説を否定したいんだ。だいたい、なんで竹内だけがそんなこと知ってるんだよ」

「ああ、誤解しないでね。あたしは真実を語ってるわけじゃない。あたし自身の経験とか、ここに来る前に出会った同じ立場の人たちの話に基づいて推測してるだけ。たぶんこうなってるんだろうって。だから間違ってるところもあると思う。むしろその可能性のほうが高い」

 竹内は一息ついて、

「こういうとき、世界の構造を何もかも知ってる人がいて、なにがどうなってるのか親切に説明してくれるものなんだけどね。そいういうのはいないみたいなのよ。少なくてもあたしは会ったことない」

 竹内の話はどうもわかりづらい。「してくれるもの」っていうのは、その、創作の中における話なのか。

「じゃあその推測でいいから聞かせてくれよ。おれが創作の世界に来ちまったっていうなら、妖と同じく、マロたちだって想像上の存在なんだろ。おれが触ったらマロたちだって消えなきゃおかしいだろ」

「あたし、創作の世界に迷い込んだみたいって言ったと思うけど、あれは正確じゃないの。たぶん現実と創作がくっついちゃってるのよ。こう、半分半分にね」

 竹内は祈るように、両手を合わせて指を組んでみせた。

「で、お互いが実在を認めるものが並立してる。有馬くんたちはどうみても普通の人間だって矢島くんもあたしも認めてるから、触れても何ともない。でも妖はどうやっても現実と認められないから消えちゃう。もっともこれはお互い様だからあたしたちのほうが消えてもおかしくないんだけど、その点はあたしたちのほうが優位に立ってるのかもしれないね。それとも妖のほうがあたしたちを有馬くんたちと同じ人間と認識してるってことかな」

 組んでいた指を離して、自分の髪にさわる。

「まあ、髪がピンクの子を人間と認めるかっていうと微妙なところだけどね」

「それは珊瑚のことだろ。自分の星に帰っちまったっていうぞ。それはどうなるんだ」

「ああ、ほんとにそうだったんだ。たぶん実際に帰ったんだと思うよ、なんとか星に。それともまだ宇宙船の中かな。地球上に限った話じゃないはずだから」

 ぐらりと視界が傾いた気がした。たぶん鎮痛薬の作用だろう。あまりのスケールに呑まれたわけじゃない。

 おれの頭に浮かんだのは「バカバカしい」の一語だったのだから。

「あたしさあ、ついあの子たちのつむじとか髪の分け目とか見ちゃうんだよね。そうするとちゃんと髪の根元から色がついててさ。で、他の部分はどうだろうって腕とか脚とか見るんだけど、もう腹立たしくらいスベスベで、ムダ毛なんて一本もないんだわ。それ以外の場所っていうと、さすがに見せてもらうわけにもいかないしねえ?」

 そんなことで同意を求められても困るし、答える気もない。もうおれは彼女を追い出すつもりになっていた。

 ただ、ひとつだけ気になったことがある。最後にそれだけ訊いてみた。

「なんでそんなにいろいろ知ってるんだ。さっき経験に基づいてって言ってたよな」

 竹内はなぜかちょっと寂しげな笑みを浮かべて言った。

「あたし、ここが初めてじゃないの。創作の世界ってほかにもいーっぱいあるみたいで、そのうちのいくつかを渡り歩いてきたのよ」



「あ、留年候補生!」

 三日ぶりに登校したおれを迎えたのは哲のその声だった。

「誰が留年なんかするか。見ろ、この腕」

 そえ木が当てられた腕を示す。最初の二日は純然たるサボりだったが、そちらもこの怪我が原因だったことにしておこう。口実としては充分に使える怪我のはずだ。

「ひび入れたんだって? ケンカでもしたのかよ」

「階段から落ちたんだよ」

 ウソ臭い理由を、哲は納得したようだ。琥珀、マロ、翡翠はやはり哲たちにはあの事を話していない。その割には哲も鋭いじゃないか。ケンカで怪我をしたことには変わりない。

 みんなおれのことを心配していたようだった。それぞれの表現でおれの復帰を喜んでくれた。

 あまりにいろんなことがあったので、おれだけが取り残されたように感じていたが、やはり友人たちであることに変わりはないようだった。

 竹内、彼らが幻みたいなものだっていうのか? こうして心配してくれて、小突きあったりもできるこの連中が? それぞれちょっと、いやかなり変わった連中ではあるが、おれが転校してすぐに友だちになってくれたんだ。はじめての転校で不安に思ってたから、けっこう本気で感謝してるんだぞ。その彼らが現実にはいないはずの存在だなんて、そんなことあるわけがない。

 でも、琥珀の鮮やかすぎる青い瞳とか、翡翠の派手すぎる赤い髪をみれば、竹内説をすべて否定することもできないのだった。これまでは染めてるんだろうで済ませてきた。今こそ確かめるべきなんだろうけど、もう訊くのが怖くなっていた。

 とりあえずその件は、無理やり折りたたんでどこかにしまっておこう。先に片付けておきたいことがある。

 琥珀、マロ、翡翠の三人で水晶の話をしたいところだったが、なかなかそのタイミングがなかった。委員会メンバーがいつも一緒だからだ。琥珀が話が進まないと言っていたのはこういう理由もあったようだ。

 マロが休み時間のたびに水晶に話しかけているが、当たり障りのない話ばかりだ。水晶はうなずくか、首を振るか、ときどきスケッチブックになにか書き込んでおり、一応会話は成立しているらしい。事情を知っている翡翠はともかく、真珠と瑪瑙はマロが水晶にかかりきりなのが面白くなさそうである。

 翌週になって、ある校内放送が唐突に流れた。

 来週の月曜から旧校舎の取り壊しが始まるので、作業現場には近付かないように、とのことだった。

 寝耳に水だった。真珠はマロの「許嫁になった」ことに満足して、取り壊しは棚上げになっていたものと思っていたのに。

「真珠、ほんとに決めちまったのか?」

 放送が終わるなり、マロが真珠に訊いた。

「ええ、ちょっと忙しくて遅れておりましたが」

「その、もう少し待ってもいいんじゃないか。ほら、ずっと通ってたから愛着ができちゃって」

「愛着ならまた新たに作ればよいのです。この仕事はあたくしとマロさんのはじめての共同作業なのですから」

 うつむいた真珠の顔が赤く染まっている。もういっそ、全部話しちまったらどうなんだ。



 そのあと真珠は、ずっと謎のままになっていた跡地の利用計画をおれたちに話してくれた。

 それはおれたちの将来を左右しかねないとんでもない計画、というかほとんど詐欺的な企みだったのだが、ひとしきりその話題で騒いだ後は、いつものようにみんなそのことを認めてしまったようだ。

 しばらく前までのおれだったらかたくなに拒んだだろう。だがこの数日間の精神的な大しけ状態のあとでは、真珠の企みの影響などさざ波のようなものだった。「将来」の言葉も遠く感じられる。

 当面重要だったのは水晶についてであり、彼女に絡むことなら些細なことでも語る意味があると思う。

 校内放送の翌日、真珠がある提案をした。誕生パーティーがあんなことになってしまったので、改めて開催して労をねぎらいたいとのことだった。今度は仲間内だけで。

「よろしければあたくしの家のクルーザーで・・・・・」

「そんなのいいって、瑪瑙ちゃんとこでやろう!」

 以前にも聞いたことのあるようなやり取りをして、哲が瑪瑙を呼んだ。

「瑪瑙ちゃんとこ」とはノイシュヴァンシュタインのことだろう。彼女はあそこでバイトを始めたんだっけ。哲はしょっちゅう行ってるだろうに、飽きることはないらしい。

「あたくし、正直なところあのお店にあまりいい思い出がないのですが・・・・・」

 真珠はルートヴィヒのポールダンスを見て以来だろうからな。

「大丈夫よ、普段は店長は客席の方には出てこないから」

 現従業員の瑪瑙が保証した。おれも何度か行ってるのでそこには同意できる。自分の存在が店内の客に与える影響を、多少は自覚しているらしい。

「まあ、マロさんがそこでよろしければ・・・・・」

「おれ? いや、おれはどこでもかまわないけど・・・・・あ、そうだ!」

 マロは立ちあがって二つ前の席に移動し、そこに座る水晶をおれたちの輪に加わらせた。

「そのパーティー、水晶にも参加してもらっていいかな」

 水晶が無表情のままとなりのマロを見上げる。

「あー、ほら、こんな近くに座ってるのに、おれたちあまり水晶と話したことなかっただろ。委員会と関係ないのはわかってるけど、この機会に親睦を深めるっていうかさ・・・・・」

 水晶が委員会の活動と関係ないとは限らないだろ、彼女がすべての元凶かもしれないのだから。それ、水晶の正体を突き止める足掛かりとして提案してるんだよな。どうも浮いているクラスメイトを馴染ませようっていう意図しか感じられないが。

「いいんじゃないの。おれもちゃんと話したかったし」

「まあ、マロさんがおっしゃるなら・・・・・」

 事情を知らない哲と真珠は予想通りのセリフで了解した。

「あたしはパス。しばらく忙しいから」

「ごめんなさい、わたしもです」

 翡翠と琥珀だった。翡翠は上級霊との戦い以降、マロと距離を置いている感がある。マロが記憶を失っていると聞いて、思うところがあるのかもしれない。琥珀はやはり疲れがたまっているのだろう。あとでおれに話してくれたところによると、微弱とはいえ妖気を発する水晶のそばに長時間いると、酔ったような気分になるのだそうだ。

「二人とも欠席なんだ・・・・・」

「ご用事があるのでは仕方ありませんね」

 瑪瑙と真珠の言葉はさほど残念そうではない。顔を見合わせて微笑む二人の間に火花が散ったように見えたのは気のせいか。

「そっか・・・・・。人数が多い方が楽しいと思ったけど」

 マロだけはほんとうに残念がっているようだ。おまえ、実はわかっていて言ってるんじゃないだろうな。



 その日の放課後、おれ、マロ、哲、真珠、瑪瑙、それに水晶は駅前の商店街に向かった。どう気持ちを切り替えても騒ぎたい気分にはなれなかったが、琥珀に「なにか手を考える」といった手前、水晶と行動をともにした方がいいと思ったからだ。

 ノイシュヴァンシュタインに到着すると、さっそく瑪瑙がゴスロリ服に着替えた。今日はアレキサンドラは真珠の家の仕事らしいので、ちょっとほっとする。

 それに今日はほかのバイトの子もいるし、さほど混んでもいないので手伝わされることもなさそうだ。

 瑪瑙は先に来ていた客の料理を運んだり注文を取ったりと忙しそうだ。彼女は委員会メンバー(哲が心の会員と称する瑠璃も含めて)の中では控えめである。その点では琥珀も同じだと思っていたのだが、その印象は《妖》騒ぎですっかり覆されている。そうなると普通なのは瑪瑙だけになるのだが、あの衣装を平然と着て、しかも抜群のスタイルの良さで着こなしているところはやはり普通ではないのかもしれない。

 そう、たとえこの世界が竹内の言う通りのものだったとしても、瑪瑙もあの衣装も素晴らしい。哲なんて鼻の下を伸ばしっぱなしで瑪瑙の姿ばかり追っている。

 ん・・・・・? 追っているのは哲だけじゃないな。なぜか水晶が無表情のまま働く瑪瑙を見つめている。

 マロもそれに気づいたようだった。

「どうしたんだ・・・・・もしかして、興味あるのか?」

 マロに顔を向け、水色の髪を揺らしてほんのかすかにうなずく水晶。

「ほんとか? まさか水晶がウェイトレスに興味があるとはな・・・・・」

 しばらく考え込んでいたマロは、おれたちのテーブルに料理を運んできた瑪瑙に何か耳打ちした。

「え・・・・・? 前にわたしたちがやったみたいにってこと?」

 前にやったって・・・・・臨時バイトのことか。

「うーん、いまは手が足りてるから、どうかなあ」

「なんとか頼む、一時間でいいからさ」

「じゃあ、店長に訊いてみるね」

 と、瑪瑙は厨房の方に行き、いったん戻って今度はなぜかマロを連れて厨房に行き、マロと一緒に戻ってきた。

「いいってさ。水晶、こんな機会なかなかないと思うから、ちょっと体験してきなよ」

 マロが言った。また臨時バイトとして採用したらしい。いい加減な店だな・・・・・

「なんでマロが一緒に行ったんだ?」

「店長が、おれが週一回来店するなら臨時バイトを認めるっていうからさ。売上に貢献しろってことだろうな」

 いや、それは違うぞマロ。おまえは「心が女」であれば誰でも引き寄せちまうらしいんだ。でも世の中には知らない方が幸せなこともある。ここは真相を告げないほうがいいだろう。

 しばらくすると、水晶が瑪瑙と一緒に店内に戻ってきた。

 もちろんあの衣装を着ている。またしてもサイズはぴったりだ。でもあれ、珊瑚の着てたやつじゃないのか。珊瑚と水晶は体型が似ている気がする。ということは・・・・・

「いい! いいよ水晶ちゃん! こんなに似あうとは思わなかった!」

 前に「珊瑚の凹凸の少ないところがよかった」と言っていた哲は大喜びだ。凹凸のある瑪瑙にも大差のない反応をしているので、結局のところどちらでもよいのだろうが。

 水晶は話しかける瑪瑙にこくこくとうなずいている。注文の取り方を教えられているようだ。

 手始めに、とおれたちのテーブルに連れてこられた水晶は、手にしたスケッチブックを開いた。

 そこには『ご注文は何になさいますか、お館様』ときっちりした楷書体で書いてあった。

 おお、と感嘆の声を漏らす哲を尻目に、おれたちはいくつかの品を注文した。今日は全部真珠持ちなので頼み放題である。

 水晶はやはりスケッチブックにその品目を書きとめた。ページをめくって今度は『ご注文は以上でしょうか』を示す。

 おれたちがうなずくとまたページをめくり、『ご注文をくりかえします』。さらにめくってさっき書きとめた品目を示す。・・・・・いそがしいな・・・・・

 最後に『少々お待ちくださいませ、お館様』を示して、一連の流れが終了した。

 一応スムーズに終わったことに瑪瑙が褒めようとしたようだが、それを打ち消すように哲が声を張り上げた。

「あー、ちくしょう! そうか! この手があったか!」

 マロの隣に移動し、肩に手を回す。

「マロ、おまえにこんなプロデューサー的才能があるとは思わなかった! あの一生懸命ページをめくる手つきがたまんねえよ! おまえ水晶ちゃんと一緒に新しい喫茶店やれよ! 沈黙喫茶とか無言喫茶とかミュート喫茶とかさ! おれが一日三回通ってやる!」

 やだよそんな喫茶店・・・・・。

 と思ったのだが、店内には賛同者が大勢いたようだった。次々に追加注文の声が上がったのである。水晶ご指名で。



 腹いっぱい食べて、おれたちはノイシュヴァンシュタインをあとにした。

 瑪瑙は毎日閉店まで働いているわけではないようで、おれたちと一緒に商店街を歩いているが、ライバルの登場に手を貸してしまったとでも思っているのか、ため息ばかりついている。

 会計のとき以外はまったく出番がなかった真珠も同様。

 哲はすっかり水晶がツボにはまったようで、いろいろ話しかけてスケッチブックでの回答を引き出そうとしている。マロは引きこもりの娘が久しぶりに外出したのを見守る父親の眼差しで水晶を見つめている。

 おれはその二組のどちらにも入ることができず、所在ない身体を持て余していた。

 マロがどう思っているのか知らないが、おれはどうにかして水晶が《妖》であることを見極めようとしていた。

 水晶の様子は、怪しいといえばすべてが怪しい。しかし特徴的な外見と性格は多くのクラスメイトが持っているので、それだけで水晶が特別だと言い切ることはできない。

 琥珀がいれば違う感想を持ったのだろうが、ここに彼女はいない。なんとか尻尾を出さないものかと観察していたが、《妖》の、または人間観察の専門家でもないおれにわかることはなかった。

 もっとも、おれには簡単に判別できる手段がある。しかしそれはあくまで最後の手段で、とくに哲たちの前で行うわけにはいかないのだった。

 そのあとはゲームセンター、カラオケと定番コースをたどった。真珠と瑪瑙はそれぞれの理由でこういうところに慣れてなさそうなのに、どちらもいやにはりきっていて、おれはいっそう居心地の悪い思いをしたのだった。

 どうにも耐えられなくなったところで、おれはマロに「そろそろ行こう」と耳打ちした。まだ早かったが、旧校舎に行く時間が近づいていた。

 怪しまれないように、女子メンバーを家まで送り、哲とも別れてから学校に行くことにしていた。

 水晶は送らなくていいと伝えて、ひとりで別の道を帰ってしまった。おれはよほどその後をつけていこうかと思った。彼女の家から夕飯のカレーのにおいでもただよってくれば、それはもうシロと断定してもいいだろう。でもそれは、傍から見ればただのストーカー行為だ。迷っている間にマロと哲がおれたちの家の方向へ歩きだしたので、それはあきらめた。



 その後、水晶は学校を三日休んだ。

 怪しまれていることに気づいて逃げた──おれの頭にはまっさきにその考えが浮かんだが、金曜日にはなにごともなかったように登校した。

 旧校舎の取り壊しまでまだ一週間あると思っていたのに、いつのまにか今日を含めてあと三日になっていた。金曜日も特に進展のないまま下校してしまった。

 その日の夜の旧校舎、おれたちはまた話し合いをした。

 すでに今夜の《妖》は片付いている。おれが少なくとも低級霊に対しては無敵なのはわかっているのだが、片付けたのはおれじゃなくてほとんど翡翠ひとりだ。怪我人は下がっていて、といわれたが、たぶん自分が暴れたいだけなのだろう。

「で、結局どうすんの、水晶のことは。倒しちゃうの」

「まだそんなこと言ってるのか。水晶は《妖》の王なんかじゃないって」

「じゃあなんで毎日あの子と話してるのよ」

「最初はおれもちょっと疑ってたさ。なんとか《妖》のことを聞き出そうともした。でもそのうちわかったんだ。水晶はコミュニケーションを取るのが苦手なだけで、普通の女の子だよ。彼女があまりクラスに溶け込もうとしないから、変な印象を持っちまうんだ。証拠っていのも口数が少ないってことと、琥珀が弱い妖気を感じるってことだけだろ。どっちも決め手に欠けるよ」

 またそれか・・・・・・。琥珀の言うことがそんなに信用できないか。彼女の霊力を全く受けつけないおれが言うのもなんだが。

「ではどうしますか。真珠さんにお願いして、工事を延期してもらいますか」

「全校に発表しちゃったじゃん。それなりの理由がないと取り消せないんじゃない?」

 事実を隠しつつ、真珠を納得させる理由か。ちょっと思いつかないな。

「あんたたち、この前あの子と遊びに行ったんでしょ。なんか気づかなかったの」

「その日の夜に話しただろ。学校にいるときと変わらなかったよ。バイトの手伝いをしたくらいで」

 マロはそういうつもりで水晶を見ていなかっただろうから、おれが代わりに答えた。

「そういえばなんで三日も休んだんだ。理由を訊いたか?」

「ああ。でもはっきり答えてくれなくてさ。自分でもよくわかってないような感じで。あ、でも、『気持ちの整理がつかなかった』とは言ってたな」

 よくわからないが、とにかく風邪とか普通の原因ではないんだな。

「あんたの気持ちの整理はどうなのよ。水晶は《妖》じゃないって言ってるのはあんただけで、あたしたちはあの子をとっつかまえて吐かせればいいと思ってるんだから。駄目だっていうなら自分で何とかしなさいよ」

 吐かせるって、そんな荒っぽいこと考えてるのは翡翠だけだ。

「・・・・・・もう一日だけ、待ってくれないか」

「なによ一日って。明日土曜日よ」

「わかってる。このことはちょっと、おれもどう扱ったらいいのかわからないんだけど・・・・・・」

 なんだそりゃ?

「なにかあてがあるんですか?」

「そういうわけでもないんだけど・・・・・・すまない、明日必ず話すから」

「気になるじゃないの。もう余計なことをしてる時間はないのよ」

「もしなにも進展がなければ、おれが真珠にどうにか工事を延期してもらうように頼んでみるよ。だから、一日だけ時間をくれ」

 翡翠はさらに何か言い返そうとしたようだが、ふいにマロから視線をそらすと、彼女には珍しくボソボソと口を開いた。

「わかったわよ、好きにすれば」

 ずいぶんあっさり引き下がったな。おれに名案があるわけでもなく、結局マロに任せることになってしまった。明日、何があるっていうんだ。



 マロの不可解な言葉の意味は、たしかに翌日明らかになった。

 早く聞きたかったのに、マロは集合時間に遅れてきた。すぐに《妖》が現れ、話を聞くのはまたその後になってしまった。

「水晶と会ってきたんだ」

「休みの日に? なんで?」

「ゆうなぎ町駅で待っててくれって、昨日言われてさ」

「で?」

「ひとりで来てくれって言うから行ったら、水晶がいた」

「デートじゃん、それ!」

「そんなんじゃないよ。水晶にいろいろひっぱりまわされて、メシ食ったり映画観たりしただけだ」

「それをデートっていうのよ!」

 なんだよその話は。水晶をめぐって議論してるときに、おまえは当人とデートしてたのか。ひっぱりまわした──あの水晶がか?

「まったくあたしがどんな気持ちで・・・・・・じゃない、いまの取り消し! とにかく信じらんないこのバカ! 女たらし! 青春の恥部!」

 最後のはよくわからないが、もっと言ってやれ。

「有馬くんがどう扱ったらいいかわからないと言ったのは、そのことだったんですか?」

 琥珀が言った。

「いや、そうじゃない。昨日、水晶は言ったんだ。大事な話があるからって。だから駅に来てほしいって」

「で、告白でもされたの」

 翡翠の声は冷たい。

「だから違うってば。別れ際、ついさっきのことだけど・・・・・・。明日、ここに来てくれって言われたんだ。事情を知っている人全員で」

 おれたちは顔を見合わせた。それはもう、答えを言ったのと同じということだよな・・・・・・



 日曜日の午後八時、おれ、琥珀、マロ、翡翠の四人は旧校舎の入り口に集まった。もうしばらくすれば《妖》があふれだす時間だ。

 しばらく待っていると、校庭の方からひとりの制服姿の女子が歩いてきた。水晶だった。

「事情を知っている人っていうのが、おれたちの考えてる通りのことなら、これで全員だよ」

 マロが言うと、水晶は小さくうなずいた。

「で、なんの用なんだ?」

 水晶は何も話そうとしない。いや、手にしたスケッチブックに何も書こうとしない、というべきかもしれない。

「旧校舎のことで、何か知ってることがあるんだよな?」

 マロが優しい口調を作って促すが、無反応。

「ここに呼んだってことは何か知ってるんだと思う。でもそれは、水晶自身がどうとかいうんじゃなくて、何かいい解決方法を知ってるとか、そういうことだよな」

「おまえ、まだそんなこと言ってるのかよ」

 おれは思わず口をはさんだ。

「みんなわかってるはずだろ。おれたちをわざわざ呼び出した時点で、もう確定してるんだよ」

「まだわかんないだろ、おれには水晶がその、あれだなんて思えないんだよ」

「はっきり言えよ、妖って。デートして洗脳でもされたのかよ」

 言いすぎたか、と思ったが、マロをにらむ視線を外すことはなかった。マロもおれと同じ視線を向けている。

 ほんとに煮え切らないやつ。もういい、どうせここにはおれたち、「事情を知っている人」しかいないんだ。そう思い、おれはそれまで慎重に避けていた行動に出た。水晶に右手を伸ばしたのだ。

「矢島くん!」

 という声と同時に、マロがおれの手をつかんでいた。マロが止めるのはわかる。でも今おれを呼んだのは琥珀だよな・・・・・・?

「止める必要ないだろ。マロの言う通りなら消えたりしないんだから」

 マロに言ってから、そうだろ、という視線を琥珀に投げた。

「それは、そうなんですが・・・・・・」

 と、琥珀もマロと同様にはっきりしてくれない。

 なんだよ、一番責任感じて行動してたのは琥珀じゃないか。だからおれだって協力したのに。ほんとは戦う力なんてありはしないのに、琥珀の助けになるならと思って、文字通り骨まで折ったんだ。なのにいまになってためらうのかよ。

 おれはマロの不意をついて左腕を伸ばした。《妖》に触れてもなんの感触もないので、怪我をしている腕で充分だ。

 だが、左腕に痛みが走った。水晶の肩は確かに人間の身体の重さを感じさせて、おれの手に抵抗していた。

「見ろ、やっぱり違うんだよ」

 数瞬が経過しても水晶が消えないことに、マロは笑顔を見せた。琥珀は喜ぶとまではいかなくても、ほっとしているように、おれには見えてしまった。

 違うなら違うでいい。先走ったことを謝ってもいい。でもこれで振り出しに戻ったってことなんだ。ほっとするところじゃないだろ?

「じゃあやっぱり、解決手段か何か知ってるってことか?」

 マロが再び尋ねると、水晶はスケッチブックを開き、サインペンのキャップを外した。でもなかなか書き出さない。無表情はそのままだが、ためらっているようにも見える。

 やがて彼女は意を決したように速いスピードでなにか書いて、おれたちに見せた。

『かいけつしゅだんをしってる』

 おお、と声が上がる。何でそれを早く言わないんだ。だが、重要なのは次に書かれた文字だった。

『わたしはあやかしの王だから』

 誰もが息をとめて、その文字を見つめた。

 いくら見たところで内容が変わるわけはない。それが事実であるらしかった。

 よく見ればその紙は裏面のようだ。インクが逆の面からにじんでいて、表面にもいろいろ書きこんでいることが分かる。裏面もいくつか単語や短い文章が書いてあって、過去のものにはすべて上から二重線が引かれている。ノイシュヴァンシュタインで書きとめたセリフやメニューも含まれているだろう。おれたちが見たのはその隙間に書かれた文字だ。

 ああそうか、とおれは思った。おれの力は《妖》に反応してるわけじゃないんだ。おれが現実のものと思えない存在に対して反応している。おれは汀水晶というクラスメイトを、人間として認識している・・・・・・

「ウソだよな、水晶自身が《妖》の王だなんて、つまらない冗談やめろよ・・・・・・」

 水晶はマロに首を振った。

「なぜ王と呼ばれる者が現世にいるんです。先日遭遇した上級霊はあなたのことを裏切り者だと・・・・・・」

 今度は琥珀にうなずいてみせ、スケッチブックに書き込んだ。

『ずっとあいたかった人がいた』

 左右の色が異なる瞳で、マロをじっと見つめる。

「おれに・・・・・・? だって、水晶に会ったのはこの学校に入って──」

「ちがうでしょ」

 と、翡翠が口をはさんだ。

「あの《妖》が言ってた、二千日前の話。《妖》の王と人間の子供が出会ったってやつよ。それが水晶とマロだっていうんでしょ」

 水晶はうなずき、校舎の方に歩き始めた。おれたちはその後に続いた。

 昇降口から校内に入りつつ、またなにか書き込んでいる。

『わたしもあなたたちとおなじこどもだった』

 書くスペースがなくなってきたのか、だんだん文字が小さくなっている。

『ちかづいてきたにんげんにきょうみをもち、すがたをみせてしまった』

「それが、おれ? 九歳のときの?」

 水晶はいったん立ち止まった。マロとスケッチブックを見比べてしばらくためらっていたが、またペンを走らせる。

『わたしのほんとうのすがたのおそろしさに、あなたはショックをうけた』

 そして短い言葉を書き足す。

『そしてきおくを失った』

「・・・・・・!」

 マロはその場に立ちすくんだ。

「あんたのせいだっていうの」

 マロの代わりに進み出たのは翡翠だった。

「マロがあたしのこと忘れちゃったのは、あんたのせいなのかって訊いてんの!」

「翡翠さん」

 水晶の襟首をつかむ翡翠を琥珀がなだめようとしている。おれは傍らでそのやりとりを見守っていた。

 マロが九歳のときにそれ以前の記憶を失ったのは確からしい。でもそのことを知っているのは家族のほかには瑠璃を含むごく一部の者だけで、学校の友人たちには隠しとおしたんだそうだ。そんなことが可能かどうかはともかく、隠し通すには事情を知る人から記憶を失う前のことを残らず聞き出さなくてはならなかったはずで、翡翠のことだけ知らないというのは変だった。聞いてはいたけど忘れていたというだけなのだろうか。

「どうしてくれんのよ、マロに記憶を返せるの!?」

「やめろって!」

 マロが翡翠を引き離した。

「そのときのこと覚えちゃいないけど、べつに水晶は悪気があってやったんじゃないだろ。いまはこうして不自由なく暮らしてるんだから、もういいって」

「あんた、よくそんなこと言えるわね。あんたがよくてもあたしは・・・・・・」

 と言ったきり、黙り込んでしまう。今度は琥珀が尋ねた。

「そのことを有馬くんに謝罪したかったということですか」

 水晶はまた歩き出し、書いては立ち止まることを繰り返した。

『あやまって、すぐにきえるつもりだった』

「何で消えなかったのよ。あんたのせいで琥珀たちも迷惑してたのよ」

「やめろってば」

『かってなのはわかってる。でも』

「なによ」

『あのクラスにいるのがたのしかった』

 おれたちはその意外な文字が書かれたスケッチブックを見つめた。まったくクラスに馴染んでいなかったように見えた水晶が、それでも楽しいと感じていた・・・・・・

 水晶に視線を移すと、彼女は顔をそむけるようにしながら教室に入っていった。二階の隅の方にあるクラスだ。

『これいじょうめいわくはかけられない。さいごに一日あそべて、もうくいはなくなった』

 悔いはない。昨日マロとデートして、ということか。

「待てよ、どうするつもりなんだ」

『わたしがこの門に入れば、もうあやかしはでてこない』

 水晶が教室の床を指さした。そこは一階に通じる大きな穴が空いている。前にこの教室を調べたときに落ちそうになったことがあった。

「門──これがあの《門》なのですか?」

 琥珀が驚きの声をあげた。

「《門》は物理的な空間とは限らないんです。霊的な経路が確立されていれば、鉛筆の先端でも《門》になり得ます」

 巫女装束の肩を落とす。

「それにしてもこんな大きな《門》に気づかなかったなんて・・・・・・」

 おれはその穴を覗き込んだ。真っ暗だった。夜とはいえ、一階の床はすぐそこだ。おいてあるはずの机とかが見えていいはずなのに、おれの目には完全な闇しか映らない。

「近づかないで。そこは異世界への入り口です。人間が入れば二度と戻れなくなります」

 琥珀に言われて、おれは数歩後退した。

「その向こうには《妖》がいっぱいいるんだろ。あいつらは水晶を始末するって・・・・・・」

 水晶はなにも反応しない。スケッチブックにも書こうとしない。

「まさか、自分が犠牲になろうっていうんじゃないだろうな」

 やはり応えない。

「なんとか言えって!」

 マロに肩を揺さぶられると、ようやく何か書きだした。

『ぎせいじゃない。もともとわたしのせきにん。こうなることはわかっていた』

「だからって、そんなことしなくても他に手があるだろ! そうだ、この《門》を封印できないのか?」

 と、琥珀を振り向く。

「それは可能とは思いますが──」

『ここをふういんしてもべつの門からやってくるだけ』

 水晶が新たに書いた文字を示した。

 マロは翡翠の方を向く。

「しょうがないでしょ。自分で責任を取るって言ってるんだから、それでいいじゃない」

 最後におれを見る。

「毎晩、妖と戦って、またこの怪我をしろってのか」

 冷たい声が出た。琥珀も翡翠も言ってるじゃないか。ほかにどうしようもないんだ。どうしようも・・・・・・

 水晶はうつむいたマロをしばらく見てから、翡翠の前に足を運んだ。そして制服のポケットを探り、何か小さなものを翡翠に差し出した。

「これ・・・・・・! なんであんたが?」

 それはペンダントだった。淡い青やピンクの花びらがあしらわれた、ちょっと子供っぽいデザインに見える。でも中心の薄い緑の宝石は素人目にも高級そうなものに見えた。

『わたしはあなたと、もうひとりのこどもにもあっている』

「もうひとりって、瑠璃のことね。そうよ、あたしたちは三人で一度ここに来た。夕方だったけど、あたしが何か気配がするって言ったら、瑠璃が怖がって逃げだして、マロが後を追って、あたしもひとりじゃ怖くて・・・・・・」

 手のひらのペンダントに目を落としながら、翡翠は記憶をたどっている。

「たぶんそのときにこれを落とした。ないことに気づいたのは帰る途中だったけど」

『そのよる、かれだけがまたここにきた。それをさがしにきたのだとおもった。だからかえそうとした』

「じゃあ、そのときに・・・・・・!」

 翡翠は目を見開いて、身体ごとマロに向き直った。

「あんたってほんと、つくづく、どうしようもなくバカなのね・・・・・・」

 六年前のことはなんとなく理解できた気がする。だがもちろんそれで終わりではなかった。

 水晶は何か書こうとしているが、なかなかスペースが見つからないらしく、何枚か紙をめくった。

『これでようはすんだ。わたしはいく』

「済んでないだろ! 少なくてもこっちの用は済んでない、おまえともっと仲良くなりたいんだ!」

 マロ、気持ちはわかるけど、やっぱりお前にはついていけないよ・・・・・・

『もとのすがたにもどらなければならない。またショックをうけるから、みないで』

「そんなことしなくていい! あのクラスが楽しいって言ったじゃないか! これからもっと楽しいこともあるって!」

 水晶は今書いた「みないで」の部分を指さした。

「おまえたちも何とか言ってくれよ!」

 マロが振り返るが、琥珀も翡翠もうつむくだけだ。その表情はさっきよりずいぶん同情的に見える。そりゃおれだって多少は・・・・・・

 水晶はスケッチブックを置くと、制服のジャケットのボタンを外した。

 やめろよ、とマロが脱ぐのを止めさせようとするが、脱いだジャケットが床に置かれ、スカートに手がかかれば、マロもおれも背中を向けるしかなかった。

 やがて琥珀と翡翠も背を向け、四人は水晶の前に並んでそのときを待った。

 しばらく衣擦れの音がしていたが、それも収まる。

 背後でなにか巨大なものが生まれようとしている。それはおれにさえ察することができた。上級霊に匹敵する、いやそれ以上の何かが。

 木造の床がきしみをあげたとき、隣の琥珀が膝をついた。胸のあたりを押さえている。

「すさまじい妖気・・・・・・ほんとうに、《妖》の王・・・・・・」

 気分の悪そうな琥珀の背中をさすってやるべきかと手を伸ばした拍子に、おれはつい後ろを振り返りそうになった。

「見ないで」

 と、声がした。四人の声じゃない。上級霊が発したものと同じ、奇怪な声だった。これが水晶の声・・・・・・?

「この声も聞かれたくなかった。でもこれだけは自分の声で言いたかった」

 床がぎしりと鳴った。おれたちから一歩遠ざかったようだ。

「ごめんなさい。ありがとう」

 また床が鳴る。

「さようなら」

 もう床は鳴らなかった。

「水晶!」

 マロの声で、おれたちは振り返った。そこには誰もいなかった。床の穴だけが黒い口をあけている。

 穴の手前に、女子の制服がきちんと折りたたまれて置いてあった。水晶が身に着けていたもののすべてであるらしかった。ただ、スケッチブックとサインペンだけがなかった。

 水晶の名を呟きながら、マロがふらふらと穴に近寄っていく。琥珀がその後を追って彼の腕をつかむが、マロは止まらない。

「水晶ーっ!」

 穴の直前に膝をつき、あらん限りの声で叫ぶ。その声は反響することもなく、暗闇の中に吸い込まれていった。

 何度も叫ぶうちにマロの声はかすれ、しだいにすすり泣きに変わっていった。となりを見れば翡翠も肩を落とし、顔をそむけている。

 だがおれにはそんなマロと翡翠の様子も、水晶を失ってしまったらしいことすらも、どうでもよくなっていた。

 マロの震える肩に、琥珀が優しく手をまわしているところを見てしまったからだ。

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