遠鳴堂あやかし異聞

椎名蓮月

僕の叔父さん




 三年生になると、にわかに周囲が騒がしくなる。受験生になったせいだろう。

「安達くんと同じクラスになれてうれしいよ」

 明は正門を出ながら、隣を歩く安達に告げた。校門脇の桜はすでに葉桜になっている。三年に上がって二週間が過ぎており、校内はもうすぐ訪れる連休に浮き足立っているように感じられた。

「でも香枝とはべつのクラスになっちまったのは、つまんないだろ」

 安達はニヤニヤしながらそう返す。

 三年に上がる際にクラス替えがあり、明と安達は三年二組になった。安達のいとこで去年は明と同じクラスだった望月は一組だ。隣のクラスなので偶然に顔を合わせることはあるが、以前ほどの頻度ではない。それに以前は一緒に下校したが、三年になってからは毎日のようにピアノのレッスンがあると言って、急いで先に帰っていた。

「残念だけど、でも、安達くんと一緒だと楽しいよ」

 明がそう言うと、安達は肩をすくめた。

「おまえってそういうとこが、ちょっと謎だよな」

「謎?」

「いやまあ……いいけど」

 もごもごと安達は呟く。

 明としては、確かに望月と同じクラスだったらよかったのにな、と思いはするが、彼女は音楽科のある高校を志望している。高校はきっと分かれてしまうと考えると、一年早く遠ざかることになっただけだと自分を納得させることしか明にはできなかった。彼女のことは憎からず想っているものの、人づき合いが苦手なので、どうすることもできない。望月は今でも親しい友だちとして明によくしてくれている。それだけはありがたかった。

「ところで、体育祭……」

 安達が切り出す。明は溜息をついた。

「ほんと、どうしよう。なんでこんなことになっちゃったんだろう」

 愚痴っぽい弱音が思わず漏れる。

「無理なら俺が替わるけど……俺っていうか、兄ちゃんの誰かに頼むけど」

「うん……でも一応、倫太郎さんにも訊いてみるよ」

 来月、五月半ば、ゴールデンウィークあけに催される体育祭では、生徒と保護者が混合で走るリレーがある。一クラス必ずひとりの生徒とその保護者が出るのだが、くじ引きで明が当たってしまったのだ。得点には関係のない余興のリレーだが、だからといって負けるのはいやなものだ。

 明は体力作りのため、夜は少しばかりジョギングをしている。それでものすごく体が鍛えられた感はないが、以前よりは走れるようになった気はしている。だが、問題は、明の保護者が叔父の倫太郎だけだしかいないという点だった。

「倫太郎さんって、走れるのか?」

「……聞いたことない」

 ずっと昔に大けがをして、体の左側が少しだけ不自由だったという話は以前に聞いている。その話は安達にも、誰にもしたことがなかった。よく考えれば、その怪我がふつうの怪我なのか霊傷なのかがわからなかったからだ。

「もしかしたら替わってもらうかもしれないけど、その場合、安達くんはどのお兄さんに頼むつもりなの」

「誠ちゃんかなあ。来てくれたらだし、だめでも進介か翔ちゃんに頼めるはずだし」

 安達には兄が三人、弟がひとりいる。五人兄弟の四番めなのだ。

「体育祭って日曜日だよね。お兄さん、来られるなら、もしかしたらお願いするかも」

「兄ちゃんは出るのいいと思うけど、その場合、どっちが走る? おまえなの、俺なの」

「安達くんはスウェーデンリレーのアンカーだよね。だから僕が走るよ」

 明はうなずいた。安達はあからさまにほっとした顔になる。

「だったらいいや。でも、倫太郎さんが出られればいちばんいいよな」

 友人の言葉に、明はうなずいた。




 帰宅すると明は遠鳴堂のほうから家に入るようになっていた。玄関だと、作業場で倫太郎がうたた寝をしているとき、発見が遅れるためだ。

「ただいま」

 引き戸をあけて入ると、倫太郎は作業台にうつぶせて寝ていた。やれやれと明は溜息をつく。このぶんでは洗濯物も出しっ放しだろう。

「倫太郎さん、起きて」

 近づいて揺さぶると、倫太郎はとび起きた。

「はっ、えっ、……あっ、おかえりなさい、明さん」

「眠くなったらちゃんと横にならないとだめだよ。腰が痛くなるんでしょ」

「そうですね」

 倫太郎はふわあとあくびをした。「あっ……買いもの行ってないです」

「いいよ、昨日のカレーがあるし。僕、洗濯物を取り込んでくるね」

「すみません、お願いします」

 倫太郎の声を聞きながら作業場で靴を脱いで廊下に上がる。ちらりと台所を見ると、シンクにはまだ朝の食器が積まれていた。たぶん、ずっと作業をしていたのだろう。明はそう思いながら階段をのぼった。自室に入って制服を着替えてから、和室に入る。和室からちいさなベランダに出て洗濯物を取り込んだ。すると足もとの影がにゅるりと動いて、黒い仔猫が現れた。

「多聞さん。出てくるなら洗濯物たたむの手伝ってよ」

 和室に置いた洗濯物を指し示すと、仔猫はたちまち人間の姿になった。

「まったく、式神だからといって、そんなことをさせるか」

 多聞は和室の端に腰掛けてベランダに長い脚をのばすと、洗濯物をハンガーから外し始めた。

 多聞は鳴瀬家を見守る守護神で、今は明の式神だ。なので明の命令には逆らえない。明は容赦なく、雷獣を自称するこの男に家事を手伝わせるようになっていた。

「そうか」

 明も、洗濯物の隣に腰をおろして、乾いていいにおいのするシャツを手にとってたたみ始めた。

「おい、何を考えている、明」

 多聞が、その美しい顔をしかめた。

「多聞さん、リレー出てみたくない?」

「ないぞ」

 明の言葉に、多聞は苛立ったような顔をした。「明、おぬし、我輩をなんだと心得る」

「僕の式神。……ですよね、今は」

 容赦なくこき使うが、今でも明は多聞を目上の者として丁寧口調で話しかけていた。

「そうだ。だが、我輩はおぬしの保護者ではない」

「でも、似たようなものじゃないですか?」

「似たようなものだが、我輩がおぬしの保護者会に行ったら困るであろう。だいたいなんと説明するつもりなのだ? 兄というには似ていないし歳も離れておる。叔父は倫太郎ではないか」

「ややこしいですよね」

 ふう、と明は溜息をついて、たたんだシャツを置いた。次に靴下に手をのばす。靴下は揃えて、外側の口に足先を突っ込むのが母に教わったやりかただ。倫太郎も同じやりかたをする。その際、口のゴムをのばしすぎないように気をつけないとならない。

「きちんと倫太郎に説明すればいいではないか」

「でも倫太郎さん、走れるのかなって。だって、怪我してたじゃないですか……ずっと治らなかったって」

「おぬしとおることで治った。だから、心配はせずともよい」

「それに最近、やたらと仕事が多いじゃないですか。本の修繕だけじゃなくて、鳴弦師の仕事も。……倫太郎さんは夢中になるとごはん食べるのも寝るのも忘れちゃうし……きょうもおひる食べてないんだろうなあ」

 多聞が苦笑した。

「明。おぬし、まるで倫太郎の母親みたいなことを言うな」

「おばあちゃんもそんなこと言っていたんですか」

「いや、そうではない。そのように心配するのがまるで母親のようだな、という意味だ」

「だって心配なんですよ」

 明は肩をすくめる。「倫太郎さん、よくあれでこの家を出ていくとか言えましたよね」

「それは我輩もまったく同感だ」

 最近になってわかってきたことだったが、倫太郎は実はそれほど生活能力に長けているわけではないようだ。

 甥の明と暮らすことになって少しは緊張していのできちんとしようと努めていたと本人は言う。いろいろあって、改めておたがいのことを家族として認め合って以来、倫太郎は少しだらしない部分を明に見せるようになった。特に修繕の仕事に没頭しすぎるのだ。

 明はそんな倫太郎に対して口うるさく世話を焼くようになっている。本の修繕に没頭するのはいいが、食事や風呂や、あまつさえトイレに行くのも倫太郎は忘れてしまうのだ。だから倫太郎が没頭するときは、風呂の順番がきたら、夜は寝る前に、朝は起きたときに、必ず声をかけるようにしている。

 それでも倫太郎はいろいろと忘れてしまう。今までは明との生活に気を遣って仕事を最小限に抑えていたのに、先月からはそれをやめたらしいので、余計に没頭するのだろう。

「もともと倫太郎はずっとひとりで居ったから、誰に気を遣うということもなく暮らしていた。明、おぬしと暮らすにあたって、あやつもいろいろと考えたのであろう。とにかくおぬしと暮らすのは、あやつにとってもよい傾向だ。だらしないままでは嫁も来ぬ」

「お嫁さんねえ……」

 倫太郎はそのへんをどう考えているのか。個人的につきあっている女性がいないらしいことはなんとなく明も察している。それに結婚するにしても、家を出ていくとか言いかねない。もしそうなったら明は全力で止めるつもりだ。かといって、自分が成人するまで結婚しないとか言い出されてもな、と明は思う。

「あやつは偏屈なところがあるから、だらしないところをなおしても、なかなか嫁の来手はなさそうだが」

「見た目は悪くないんだから、もてそうなのになあ」

「ひとは見た目だけで添い遂げてもよいと決めるわけではなかろうよ」

 多聞がしたり顔をした。そうすると仔猫のときの得意げな顔にそっくりだ。

「それは多聞さんを見てるとよくわかりますよ」

 明がうなずくと、多聞はムッとしたように、たたんだ洗濯物を積んだ。

「それはどういう意味だ」

「というか前から謎だったんですけど、多聞さんってどうしてその姿なんですか?」

「どうしてもこうしても、これが我輩の、人間であったときの姿ぞ。何か文句があるか」

「そんなに綺麗な姿だったんですか? 前から?」

 明は思わず、じっと多聞を見た。多聞の見た目は、人間としてはかなり上等の部類だ。役者やモデルのようにととのっている。人間の姿の多聞と歩き回ったとき、やたらと通りすがりに見られると思ったら、みんな多聞を見ていた。そのうえ、無闇に道を訊かれる。多聞の姿は見目よいだけではなく、誰にとっても『このひとと接してみたい』と思わせる雰囲気があるようだった。口を開けばろくなことは言わないのに。

 望月が、見た目のきれいな男をあまり好きなようではないのが、明にとっては少し安心することでもある。

「我輩は見目が麗しかったので、神に捧げる柱とされたのだ」

 そんなことを考えていた明は、その言葉を聞いて、多聞を気の毒に思った。

 多聞に対して明は以前よりあけすけにものを言うようになったが、きらいでもないし、どちらかというと好きなほうだ。見た目はともかく、多聞の内面は口うるさい祖父がいたらこんな感じかな、と思わせられる。明にとってはありがたい家族だ。

 そんな彼がどのようないきさつを経てこの鳴瀬家の守護神となったかはさらりとは聞いてはいるが、人柱として生きたまま埋められたと考えると、悲しくなってしまう。

「見た目がいいって、べつにすごくいいことってわけじゃないんですね」

「それはそうだな。神の生贄にされるのは、たいてい見目麗しい者だ。もしくは、周囲から疎まれている者。見目麗しく疎まれていれば、生贄にはなりやすい」

「疎まれているって、多聞さんはきらわれ者だったんですか?」

「そこは微妙なところだ」

 明が問うと、多聞はいやでもきちんと答えなければならないらしい。苦笑しつつもつづけた。

「我輩は人間であったころはのうのうと暮らしておったので、気に障った者もおったのであろう。……まあ、昔の話ぞ」

 多聞は懐かしげだ。「だが、ただのヒトとして生き、死ぬよりは、こうして永の時を経て、明、おぬしのようなもののわからない子どもの式神になるのは、なかなかにおもしろいものよ。まったくこの世は愉快にできておる」

 もののわからない子ども、と言われて明はムッとした。

「僕、そんなに物知らずですか」

「そう拗ねるな」

 多聞はカラカラ笑うと、明の頭に手を置いて撫でた。そうされるともっとちいさな子どものころに戻ったような気がしてくる。

「どうせすぐ、大きくなる。ヒトとはそういうものだ」

 多聞は、こうした言葉の端々に、長く生きてきたことを感じさせる。

「なりますかねえ……」

「健やかに長じれば、あっという間だ。だから明、いろいろと憶えておくのだぞ」

「何をですか?」

「自分が幼くて心細かったことや、弱くて無力だったことをだ。そういうことを憶えていられれば、そのような心地を味わっている者に寄り添うことができる」

 多聞の言葉に明は目をしばたたかせた。何を言われているのかよくわからないが、とてもだいじなことのような気がする。多聞はときどきとてもだいじなことを言うのだ。だが、だいじなことなのはわかるが、明の頭が追いつかない。

「自分以外の者の気持ちなど決して理解はできぬ。しかし、弱い者の心に寄り添うのは不可能ではない。わるいことでもない。……おぬしは誰かを助けてやりたいと考えるときがあるのだろう。自分がそうされたから」

「多聞さんって僕の考えてることまではわからないんですよね?」

 明は念を押した。

「わからぬよ。だが、おぬしの考えていることなど、たいていはお見通しぞ。我輩が幾年、このように過ごしてきたと思っておる」

「長く存在するとお見通しになるんですか?」

「まあ、そうだな」

 多聞はまた笑って、明の頭をくしゃくしゃとかき混ぜた。「おぬしのような子どもはたくさんいた。我輩がこのようにして話しかけるのは、明、おぬしくらいのものだが、それでもたくさん見てきたから、何をどう考えてどう行動しようかくらい、わかるのだ。……ヒトは単純で、愚かで、よほどのことがない限り、わかりやすい。……それでも我輩は、見ているだけでは飽きてしまって、ヒトと関わりたいと望むようになったのだ」

「それで倫太郎さんの式神にしてもらったんですよね」

「ああ、そうだ。――あやつが死にたがっておったから、ここで死なれてはたまらぬとも思ってな。我輩は、鳴瀬の祖と約束したのだ、いつまでもつづく限り守るとな。自ら死なれなどでもしたらその約束が途切れてしまう。それに、おぬしという正しい主がまだおったのに、あのままでは見つけることもできなんだしの」

 ふん、と多聞は腹立たしげに鼻を鳴らす。多聞はまだ、倫太郎に対して怒っているように思えた。

 倫太郎が多聞を式神から降ろして以来、倫太郎は、多聞から話しかけない限り会話をすることができなくなったという。それを思い出して、明はさびしい気持ちになった。多聞にも情はあると思いたかったが、そうではないのだろうか。

「多聞さんは倫太郎さんのこと、もう好きじゃないんですか?」

「おい、明。それはおかしな問いぞ。最初に好きでなかったら成り立たぬ」

 多聞は肩をすくめた。「しかし倫太郎を嫌っておるわけではない。現に今だって、我輩は倫太郎に話しかけることはしているであろう?」

「でも前と違う」

「それはしかたがあるまいよ。我輩は今はおぬしに仕える式神。おぬしの命だけを聞く」

「僕がしてくれっていったらなんでもする……そういうことですよね」

「ああ、そうだ」

「だったら、前みたいにしてほしいっていうのはできないですか?」

「前みたいに?」

 多聞はきょとんとして明を見た。「というのは」

「前みたいに、倫太郎さんの傍にいてあげてほしいんですけど……それで、何かあったらちょっと叱ってあげてください。おひるを食べるように言ったり、居眠りしてたら起こしてあげてほしいんです」

 明はうつむいて、たたみ終えた洗濯物を積んだ。

「なるほど、おぬしは倫太郎を心配しすぎて、ねこに鈴をつけるように、倫太郎に見張りをつけたいというわけか」

「そうですよ。前はずっと多聞さんが一緒にいたでしょう? でも、倫太郎さんが気が抜けたようになってるのは、多聞さんが式神をやめたというより、単に傍に誰もいないからだと思うんですよね」

「それもあるやもしれんが……まあ、倫太郎が、おぬしに慣れて、気を抜くようにもなっているのだぞ」

「僕に慣れて、って……今まで慣れてなかったんですかね」

 明は思わず顔を上げて多聞を見た。多聞はうなずく。

「そうだ。明、おぬしから見れば倫太郎は大人やもしれんが、あやつは、……家族を亡くしてから、時間が止まっておったようなものだ。おぬしに対して大人であろうと努めてはおったが、それは大人ではないからだ。わかるか」

「わかります」

 明はこくりとうなずいた。

 家を出ていく、などと言い出したあの件以来、倫太郎が少し和らいできたのを明は感じていた。生活の面で倫太郎が少しだらしなさを見せるのも、多聞が言ったよう慣れてきたのだとは察している。それが少しうれしいのも事実だ。

「だから余計に心配なんですよ。倫太郎さんのこと」

「しかし……我輩はおぬしの式神であるから、おぬしから離れるわけにはいかん」

「僕の命令でも?」

「おぬしを守るのが最優先であるからの」

 そこで多聞は、ニヤリと笑った。「だが、方法はある」

「方法?」

「身を分ける術を使えばよいのだ。我輩をもうひとりつくる」

「そんなことできるんですか?」

「できるも何も、おぬしがやるのだ」

「えっ」

 明は顔をしかめた。「僕がですか」

「呪をさがせ。見つかるであろう」

 明は目を閉じた。頭の中にもやもやと、さまざまな言葉が渦巻く。これは鳴弦師の本部で封印を解かれて以来、できるようになったことだった。いつ憶えたのか、自分では記憶にないような言葉が、求めれば必要に応じて浮かび上がる。

 適切な一文が脳裏に浮かび上がり、明はゆっくりと目をあけた。

 見ると、多聞の輪郭がきらきらしている。

 明は腕を上げると、多聞の額に指を当てた。

「我が式神よ、その身を分けよ。我が命に従って、ことを成せ」

 すると、ふわりと多聞の中から何かが浮き上がった。

「あっ……」

 多聞の足もとに、白い仔猫が現れる。明は思わず手をのばして抱き上げた。仔猫はちいさく鳴くと、うれしげに明に身をすり寄せる。

「可愛い!」

「可愛かろう。それも我輩ぞ」

 多聞は得意げな顔をした。「それは、おぬしが命じれば、おぬしが守ってほしいと思う相手の傍にいることができる。そして我輩自身でもあるが、我輩とはべつの体を持っておるから、考えも言葉も何もかも異なる」

「じゃあ、全然べつの子なんですか?」

 ちいさな声をあげて、仔猫は明の胸にとりつき、よじのぼって肩に立った。

「そうだな。名前もつけてやれ」

 多聞はうなずいた。「しかしそやつは我輩と溶け合って記憶を混じり合わせることもできる。だから、そやつのしたことは我輩も知っているし、我輩の知っていることもそやつは知っておる。それを心得よ」

 多聞の言葉を聞きながら、明は仔猫の額を撫でた。




「多聞さんの分身ですか」

 仔猫を抱えた明は、洗濯物を多聞に持たせて二階から降りた。台所で夕食の準備をし始めていた叔父に白猫を見せてわけを説明すると、倫太郎はガスの火を止めて苦笑した。

「白猫ですね。多聞さん、こんなことできたんですねえ」

「我輩はなんでもできるのだ。前から言っておるであろう」

「それで、この子を倫太郎さんにつけます」

 つけていいですか、とは明は訊かなかった。

「え、俺にですか? またどうして」

「おひるも食べずに仕事に没頭しちゃうと体によくないし、居眠りするくらいならちゃんと仮眠をとったほうがいいし、そういうことに気をつけてもらいます」

 そう言って明が白猫を抱えた手を差し出すと、倫太郎は困った顔をしつつも受け取った。

「明さんに心配させてたんですね。すみません」

「僕のほうこそ、勝手なことをしちゃってごめんなさい。でも、これから体育祭の練習とかで、帰りが遅くなったりするから……」

 倫太郎は腕に仔猫を抱いて背を撫でた。仔猫は気持ちよさそうに喉を鳴らしている。

「体育祭ですか。それなら遅くなるのもしかたないですね」

 まるで赤ん坊を見る父親のように、倫太郎はにこにこして仔猫を眺めている。明は手を洗うと、ガス台のフライパンから倫太郎のつくっていた野菜炒めを皿に取り分けた。

「それで僕、リレーに出るんですよ」

 次に、昨日のカレーの鍋をあけた。きちんと火を通されていて、湯気が顔を撫でる。皿にごはんをよそってカレーをかけ、野菜炒めの皿と一緒に食卓に並べた。ちなみに野菜炒めは、キャベツとニンジンとタマネギを豚肉と一緒に炒めたものである。キャベツ以外はカレーの具とかぶっているが、倫太郎も明も気にしなかった。

「えっ、それはすごいですね」

 倫太郎は仔猫に向けていた顔を上げた。「見に行きますよ。カメラを持って。いいですよね」

「いいけど、……僕が出るの、保護者リレーなんだ」

 明が席に着くと、倫太郎も座った。仔猫を傍らの椅子に置く。多聞は以前は夕食のときは冷蔵庫の前で黒猫の姿をして丸くなっていたが、最近は明の隣に座る。といっても食事はしない。

「いただきます」

 倫太郎が手を合わせたので、明も手を合わせた。最近、倫太郎の真似をしてカレーを箸で食べるようになった明だが、未だに倫太郎のようにうまくはいかない。

 これはやってみてわかったが、おかずがあるときに箸とスプーンを持ち替えなくて済むのが楽だと気づいた。つまり、倫太郎は無精をして箸でカレーを食べていたのだろう。

「保護者リレー……とは」

 野菜炒めに箸をのばしながら目を丸くした叔父に、明は説明する。保護者とバトンを渡すリレーで、一種の余興のようなものだと。

「くじ引きで決まっちゃったんだ。でも、倫太郎さん、怪我をしてたでしょう? 走れないなら、安達くんのお兄さんの誰かに替わってもらおうかと思うんだけど」

 そう説明する明の傍らに座って、多聞はニヤニヤしている。どうやら多聞は、ふたりがこうして会話をするのを見ているのが楽しいらしい。

「走れないことはないと思いますよ。前みたいにというわけにはいかないですけど」

 思いがけず、倫太郎はにこにこして答えた。「去年の今ごろ、季節の変わり目だと左側が痛くて起きられないときもあったんですが、今は全然平気なんですよ」

「そうなんですか?」

 明はびっくりしつつ、倫太郎の快諾にほっとした。だが、一抹の不安は拭えない。

「リレーに出るなら、ちょっと走り込みしないとならないですね」

 さらに倫太郎は驚くことを言う。その顔はわくわくしているように見えた。

「えっ、そ、そんなのいいですよ。そこまでしなくても……」

「でも、ビリになったら明さんが恥ずかしいでしょう? できるだけのことはしますよ」

 叔父に負担をかけているのではないかと心配になってきた。だが、倫太郎もそれなりに大人だから、無理はしないだろう。そう思いはするが、最近の倫太郎はちょっと抜けていて心配なのだ。もともと抜けていたのを隠していたのかもしれないが。

「それに、明さんがこの子をつけてくれるなら、無理はしないですよ」

 倫太郎は傍らの椅子に目をやった。「この子、……名前は?」

「倫太郎さんがつけてよ。倫太郎さんについてくんだから、倫太郎さんの呼びやすい名前がいいでしょう?」

 明が言うと、倫太郎は一瞬、目を細めた。懐かしげだ。何かを思い出しているように見えた。

「……吉祥」

 倫太郎の唇からその名が滑り出る。「多聞さんと同じで、昔うちで飼っていたねこの名前です」

「よい名じゃ」

 ふいに甲高い声がしたかと思うと、倫太郎の隣の椅子に、少女が現れた。

 思わず明は箸をぽろりと落とす。

「我が名は吉祥。よろしく頼むぞ」

 甲高い、だがやわらかく聞き心地のいい声が名乗る。少女は目がくりくりと大きく、目鼻立ちはほどよくくっきりとしていた。髪は肩までの長さで、ふわりとしている。どことなく、意思の強さ……というより気の強さが漂っていた。

「俺は倫太郎です。どうぞよろしく、吉祥」

 ごくあたりまえのように、倫太郎は少女に向き直って応じる。

 明は口をぱくぱくさせた。

「倫太郎、そなた、何を考えていた?」

 ニヤニヤしていた多聞が、眉を寄せた。

 すると倫太郎は困ったように笑う。

「あかりさんのことを思い出してたんですよ。俺を拾ったとき、猫の吉祥が見つけて、あかりさんを呼んでくれたというので……そのころのあかりさんがこれくらいだったのかな、と思ったんです」

 明はまじまじと少女を見つめた。

 小学生、どう見てもせいぜい一年生くらいにしか見えない少女だ。しかし、その顔には確かに母の面影があった。着ているものは薄いピンクのワンピースである。裾がふわふわしていて、レースもふんだんについていた。

 見つめると、少女がぴょこんと椅子を降りた。それからとててっと小走りで食卓の角を曲がり、明の傍に来る。

 明はびくびくしながら彼女を見た。

「我が主よ。吉祥は主の言葉を命として受け、従う者ぞ。どうか末永く可愛がってくれ」

 母の面影を残す少女にそう言われると、なんだかとても奇妙な気持ちになってくる。

「うん……よろしくね、吉祥」

 明が手を差し出すと、吉祥はぱっと笑顔になった。可愛らしい顔で明の手を両手で取ると、自分の額に押し当てる。

「幾久しく」

 そう告げると吉祥は明の手を離し、倫太郎の隣の席に戻る。

「明の母の姿のせいか、明とは兄妹のようではないか、のう、倫太郎」

 多聞がそう語りかけると、倫太郎は少し戸惑った顔をしたが、そうですね、とうなずく。

「なんだか家族が増えたみたいで、いいですね。こんなちいさな女の子になったのはちょっとびっくりでしたが」

「我輩もびっくりだぞ」

 多聞はおどけた。「吉祥は、その姿をほかの者に見られぬようにすることだな」

「心得た」

 吉祥は神妙な顔をして多聞にうなずきかけた。




 吉祥のおかげで、倫太郎は吉祥がいないときでもちゃんと昼食を食べるようになった。明が帰宅したときも居眠りをしていることはなくなった。

「だって吉祥、怖いんですよ。目をつり上げて、おい倫太郎、ちゃんと食事をせよ、って言いに来るんですから」

 そんなふうに倫太郎は苦笑して言った。吉祥は明の前ではおとなしくにこにこしているのでにわかには信じがたかったが、多聞に言わせると「姿を写した者に似る」とのことだった。つまり、吉祥の性格は、明の母あかりの幼少時そのままらしい。

 そんなふうにして四月が過ぎると、吉祥の存在にも慣れてきた。夜になると吉祥は仔猫の姿になって、同じく仔猫の姿の多聞と一緒に丸くなって寝る。そのさまはたいへん可愛らしかった。多聞が言うには、そのあいだにお互いの記憶を混ぜ合わせ、お互いに何があったかを知るようにしているらしい。まるでフチコマですね、と倫太郎が言うのがなんのことか、明にはさっぱりわからなかった。


 月末からのゴールデンウィークが過ぎると、すぐに体育祭だった。ゴールデンウィークとは言うものの中学生にはあまり関係なく、明は平日も休まず学校に行った。熱心なクラスは、祝日にも集まって応援の自主練習などをしていたらしい。明のクラスは微妙に熱心だったが、そこまでではなかった。

 この中学での体育祭は初めてなので明にはよくわからなかったが、応援合戦でも勝敗を競うようだ。まだ三年生も受験が本格的ではないので、楽しんでいる者も多い。

 体育祭当日になると、正門にはアーチが取りつけられて華やかだった。保護者や家族が次々にやってくる。生徒はみんな体操着かその上にジャージを着込んでいる。

「倫太郎さん! こっちです!」

 保護者席の後ろをきょろきょろしながら歩いている倫太郎を見つけて、明は手を振った。するとすぐに気づいて倫太郎が近づいてくる。カメラを持っているのか、肩から鞄をぶら下げていた。

「すみません、遅れてしまって」

「いいですよ」

「こんにちは、倫太郎さん」

 望月が声をかけた。

 保護者席の一画に、安達家と望月家がシートを敷いて固まっている。体育祭の前から、安達と望月の母がよかったら一緒にどうぞ、と言ってくれていたので、ありがたくおひるを一緒にいただいていたのだ。

「久遠くんの叔父さんですか。弟がいつもお世話になっております」

 日曜で仕事が休みなので、安達の長兄、誠一が来ていた。それどころか、安達の兄弟は全員が来ている。

 誠一と挨拶している倫太郎は、びっくりしたように安達の一家を見た。

「噂には聞いてましたが、ほんとに兄弟がたくさんいるんですね」

「男ばっかりでむさくるしくて」

 安達の母が笑う。きれいに化粧をして美人な母によく似た安達の次兄が、

「俺は妹が欲しかったんだけどな」と、ぶつぶつ言った。

「仕方ないだろう」

 肩をすくめたのは三番めの兄の翔太だ。安達の弟は母の傍で、

「さっくんは最後に走るの?」と訊いた。

「おう、俺はスウェーデンリレーだからな」

「アンカーって四百メートル走るんだよね。だいじょうぶ?」

 弟は心配そうだ。その頭を、安達はくしゃくしゃ撫でた。

「へーきだって! 涼は心配性だな」

「倫太郎さんもどうぞ」

 望月が差し招いて、倫太郎も荷物を置いてシートに座った。それにてきぱきと望月が箸や料理の載った紙皿を渡していく。

「すごいごちそうですね!」

「昨日からふたりで作ってたのよ。香枝ちゃんも朝、早起きして手伝ってくれたのよね」

 ねー、と安達の母が姪の肩を叩く。望月はちょっと恥ずかしそうな顔をした。

「あんまり役に立たなかったけど」

「あら、そんなこと言っちゃって、がんばってたじゃない」

「もう、おばさんったら」

 望月の声に、アナウンスがかぶさる。

『保護者リレーに出場する皆さんは、本部の前に集まってください……』

「え、もう?」

 ちらし寿司を口に運んでいた倫太郎がそわそわしたように箸を置いた。

「うん、わりとギリギリです」

 明はうなずく。昼食の時間は余興になるのだ。次は部活動対抗リレーで、その次が保護者リレーのはずである。

「失礼します」

 倫太郎はそう言うと、望月が皿に盛ってくれた唐揚げやたまご焼きを大急ぎで食べ終えた。明もびっくりするほどの速さだった。

「食べてから走るの、だいじょうぶなの、倫太郎さん」

「平気ですよ、これくらいなら。というかむしろ食べないと俺は走れないので」

 倫太郎は箸と皿を置くと、鞄をあけて中からカメラを取り出した。「すみませんが、これで甥を撮っていただけませんか」

「お、いいカメラですね」

 そう言って倫太郎からカメラを受け取ったのは安達の次兄だ。「俺、撮影係だから撮りますよ」

「ありがとうございます」

 それからまた、鞄の中に手を突っ込んで何かを出す。古びた巾着袋だ。

 なんだろうと明が思っていると、倫太郎から中から取り出したのは年季の入ったスパイクシューズだった。

「おっ、本格的じゃないですか」

「昔、陸上やってたんで」

 誠一が驚くのへ、倫太郎はちょっと笑い返す。

「え、そうなの?!」

 明は初耳だ。それへ倫太郎はちょっとだけ笑いかけた。

「二十歳までですよ」

 そう言いながら倫太郎は靴を履き替えた。「それに、この格好だし、短距離は苦手だったから、どうなるかわからないですけど……」

 叔父が上着を脱いで立ち上がる。明も慌てて立ち上がった。

「じゃ、僕たち行ってきます」

「がんばってね!」

「あんま無理すんなよ!」

 望月と安達に送り出され、明は倫太郎と小走りで本部まで向かう。ちょうど校庭の反対側だ。

「倫太郎さんが陸上やってたなんて初めて聞きましたよ」

「そういえば、そういう話、したことなかったですね」

「うん、全然」

 倫太郎とは話してないことがまだたくさんあるのだ。

 本部に着くと、ゼッケンを渡されてつけた。

 保護者リレーは三学年の縦割りで、最初に一年生の生徒と保護者が走り、次に二年生、最後が三年生となる。コースは四つ。集まった選手は二十四人だ。名目上は男女混合だが、女子生徒も母親もおらず、父親や兄と一緒にいる男子生徒ばかりだ。

 校庭では部活動リレーが始まっていて、部活のユニフォームを着た生徒が走っている。文化系の部活動はわかりにくいので、美術部は大きなキャンバスを背負っていて走りにくそうだ。演劇部は人気の男子生徒がばっちり舞台メイクをして花をくわえて走っていたが、さすがにわけがわからない。しかし女生徒の歓声がすごい。

「倫太郎さんがアンカーだよ」

「緊張しますね」

 保護者から生徒にバトンを渡すと明は思っていたが逆だった。自分がビリでゴールするのはいいが、倫太郎がそうなったら申しわけない。そんな気持ちで不安になってくる。

「でも、こういうのひさしぶりで、懐かしいですよ」

 倫太郎は笑った。

 部活動リレーが終わり、係員の指示で選手がスタートラインにつく。選手は校庭のトラックをひとりで一周する。けっこうな距離だ。

 一年生の生徒がスタートラインについた。すぐにかけ声がかかり、発砲音がしてリレーが始まる。

 一年生が一周を走り終えるころには二組の生徒が最後尾になった。バトンが受け渡され、二年生保護者が走り出す。一組の保護者は大学生のような兄で、とびぬけて速い。保護者と一口にいってもいろいろで、若そうな父親や、白髪の年配の男性もいた。意外に年配の男性が速く、前にいた選手を抜き去って生徒にバトンを渡す。

 バトンを渡された二年生の生徒が走り出す。生徒に替わってたちまち一周が終わり、順位が入れ替わりながら保護者にバトンが渡った。

 次が三年生の生徒だ。

 スタートラインにつきながら、明は緊張で何も考えられなくなってきた。走るのは得意ではない。かといってすごく遅いわけでもない。とにかく精一杯走るしかない。

 憶えておこう、と思った。多聞が言ったように、こうした不安や緊張を、忘れないでいよう。――誰かの役に立てるときがいつか来るかもしれないから。

 二組は最後尾のまま、明にバトンが渡った。

 走り出した明は、以前の中学のときに体育祭を思い出した。短距離に出たが、そのときより軽快に走れている気がする。夜の走り込みが少しは役に立っているのだろうか。前を走っていた選手の背がみるみるうちに近づいてくるのが自分でも驚きだった。それを抜いて、さらに手足を大きく動かす。以前よりずっと、走るのが楽だった。息も苦しくない。ふたりめの背が見えてきたが、抜けずに一周が終わろうとしていた。

 倫太郎が待っている。明は突っ込むようにして叔父にバトンを渡すと、すぐにコースからどいた。

「あっ……!」

 倫太郎が大きなストライドで、みるみるうちにトラックを曲がっていく。明は呼吸をととのえるのも忘れて、叔父があっという間にトラックを半周するのを見守った。歓声がひときわ大きくなる。倫太郎はひとりを抜くと、最初からトップをキープしていた一組の保護者に迫った。

 あれが、僕の叔父さんか。そう考えると明は、自分が走ったときより頭の中が真っ白になるような気がした。

 倫太郎は最後の角を曲がりながら前方の選手も抜き去って、まるで風のように、たったひとりでゴールに駆け込んできた。

 怒濤の追い上げに、観客席はすさまじい歓声に包まれる。余興だというのに、本番のリレーのようなどよめきだった。

「久遠くん?」

 ゴールした倫太郎に駆け寄ることも忘れて茫然とする明の肩を誰かが叩く。振り向くとジャージを着た体育教師だった。

「君の保護者……お父さんじゃないよね。お兄さん?」

「いえ、叔父です。母の弟で……」

「もしかして、鳴瀬さん? 鳴瀬倫太郎」

「知ってるんですか?」

 明がびっくりして問うと、体育教師はそれ以上にびっくりした顔になった。

「やっぱり。鳴瀬さんなら、高校のときに国体に出てたよ。大学でもインカレに出てたけど……怪我をして陸上はやめたって聞いてたんだ。また走れるようになったのかあ。よかったね」

 彼はうれしそうに笑った。




 体育祭は盛況のうちに終わって、疲れ切って明は帰宅した。

「一緒に安達くんたちと行ってもよかったんですよ、ごはんに」

 安達と望月は家族揃ってファミレスで夕食をとるらしい。誘われたが、明は断って倫太郎と帰ってきたのだった。

「そんな元気ないですよ」

 倫太郎をひとりにしておいたら、吉祥に言われるから食べはするだろうが、適当に済ませてしまうだろう。明にはそれも心配だったが、ずっと好天の下にいて、汗くさくなっているはずだ。そんなで望月の傍にいたくなかったというのもある。

「それより、倫太郎さんがあんなに走れるなんて知らなかったですよ」

 埃だらけの体操着のまま帰宅した明は、台所に入ると冷蔵庫から作り置きの麦茶を出してコップについだ。もちろん倫太郎のぶんもだ。

「体育の先生が倫太郎さんのこと知ってましたよ。国体に出てたってほんとですか?」

 冷たい麦茶で喉を潤した明は、そう尋ねながら倫太郎にコップを差し出した。

「高校のときですね」

 倫太郎は、コップを受け取ってひと口のむと、あっさりうなずいた。

 明の影からにゅるりと黒い仔猫が現れた。次いでそれが人間の姿になる。

「明、おぬしもようがんばったな」

 多聞がうれしそうに笑う。どうやら明の活躍を誇りに思っているらしいことが伝わってきて、面映ゆくなった。

「そうですよ。ビリだったのに追い上げて」

「ふたりも抜いた倫太郎さんに言われたくないですよ」

 明は首を振った。だが、自分が毎晩走っていたことが無駄にならなかったのはうれしい。これからも体力作りをしようとひそかに決意する。腕力も鍛えたい。背ももっと伸ばそう、と、安達の兄の誠一を思い浮かべながら考えた。

「まぐれですよ。保護者って、三年生のはみんなお父さんでそこそこ年上でしたしね」

「でも、かっこよかったよ」

「そう言われると悪い気はしないですね」

 倫太郎は照れたように笑う。

 その影からにゅるんと白い仔猫が現れた。仔猫はすぐに少女に姿を変える。

「だが倫太郎は無理をしているぞ」

 吉祥は甲高い声で告げた。「膝が痛いのであろう」

「そりゃ、少しは」

「痛いって、だいじょうぶですか」

 明は慌てた。倫太郎は苦笑しながら食卓の椅子をひいて座る。

「マッサージすれば治りますよ」

「吉祥がしてやろう」

 そう言うと、吉祥は座った倫太郎の膝を擦り始めた。

「でもだいぶよくなりました。……これは、家族がいないと治らない傷だから」

 倫太郎の左半身が霊的な傷を受けて痛んでおり、それはずっと長いあいだ完治しなかった。しかし、明と暮らすにつれて治ったのだ。それは明が家族になったからだと多聞は説明した。

「我輩は倫太郎にとって家族ではなかったというわけだ」

 多聞は拗ねたような顔をして、倫太郎の斜め前の椅子をひいて腰掛けた。

「多聞さんのせいではないです。というか、それに、あやかしは家族になっても、そこまでも影響を人間に及ぼすことはまれらしいですよ」

「そうだとしても、そなたの心には、ほかの者を受け容れる余裕がなかったのであろう。とにかくそれについては、我輩は申しわけなく思っているのだぞ、倫太郎」

「知ってますよ」

 倫太郎は多聞に笑いかけた。「でも俺は多聞さんには感謝しているんですよ。体に傷は負ったけど、この十年、ひとりじゃなかった。それに、傷は全然治らなかったわけじゃないです。多聞さんが支えてくれたおかげで、少しずつは治っていたんですから。……本当に、助かりました」

 多聞はそれを聞いて、ふうと息をついた。

「そうだな。それは我輩も同じだ。――傷が完治はせずともそなたのためになったのなら、それでよしとするか」

 ひとりになった倫太郎を、ひとりだった多聞が支えたのだ。

 明はそのやりとりに、このふたりのあいだには十年という歳月の培った絆があると感じて安心した。

「だから、気にしないでくださいね」

「もう、せぬさ」

「多聞さんって、意外に心配性だし、ひとがいいよね」

 明が言うと、多聞はたいそうムッとした顔になった。

「あやかしに向かってひとがいいとは、これはまた奇っ怪な」

「じゃあ、『あやかしがいい』?」

 明が訂正すると、やれやれと多聞は息をついた。

「言い回しなどどうでもよい」

「まあとにかく、多聞さんは物言いが素っ気ないけど、ほんとうはやさしいんですよ。俺は知ってますからね」

「僕も知ってるよ、多聞さん」

 明が言うと、多聞はばつがわるそうにそっぽを向いた。

 吉祥が手を止めて顔を上げる。

「あまり言うでない。そやつは、そのように言われるのは好かぬのだ」

「どうして?」

 明が訊くと、多聞がキッと見た。だが吉祥はかまわず答える。

「恥ずかしいのじゃ。そうであろう」

「我輩自身でなければ引き裂いておるぞ」

 多聞は剣呑な声で呟くと、するりとその身を黒猫に変えた。

「まあ、知ってましたけどね」

 倫太郎が笑う。

 明も思わず笑ってしまった。




 翌日、倫太郎は全身の筋肉痛で起き上がれなかった。

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遠鳴堂あやかし異聞 椎名蓮月 @Seana_Renget

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