自鳴琴

猫田芳仁

自鳴琴

 音楽家と呼ばれることを、オルランドは実に嫌がる。

 そんな高尚なもんじゃないよと、気だるげな口調をやにわに強めて、だるそうなりに少し、怒った。

 かといって、大道芸人と呼んでもオルランドはいい顔をしない。

 そんな大したもんじゃないよと、沼の深いところまで沈んでゆきそうな顔で否定する。

 結局何と呼べばしっくりくるのか、本人だってわかっちゃいない。数少ない知人もその辺はよく把握しており、たいていただのオルランドか、どうしても彼の職をつまびらかにする必要性がある際は、「アコーディオン弾きのオルランド」ということにしている。


 ***


 オルランドの住処がどこかは、誰も知らない。

 数少ない知人にしても、家までは教えてもらっていない。

 彼はたいてい小ぎれいにしているし、派手な仕事着も何着か持っているしで、おそらくまあまあちゃんとした家に住んでいるのだろうというところで噂話に一応の決着はついていた。

 いつだったか、誰だかが、ひどい雨の日帰り際のオルランドに「この雨じゃあ帰るに帰られない。ここはひとつ君んちで雨宿りをさせてもらえないか」と頼んだ。それに対しオルランドは「悪いんだけれど、見られたくないものがたくさんあるんだ」と相変わらずの気だるさで言った。その物々しい内容と、オルランドのおどろな雰囲気に、あいつはやばい仕事でもしているのではないかという憶測が出回ったことがある。もっとも雰囲気については、傘が壊れて土砂降りに降られるままのオルランドにそれを言っちゃあ可哀想との意見もある。

 その噂が気になってこっそり後をつける剛の者もいないではなかったが、途中で絶対に見失うだの、真夜中の墓地に平気で入っていくのが怖くて追いかけられなかっただの、スラム街で怪しげな商人としゃべっているのを見ただの、オルランドについての得体のしれない噂がますます積み重なってゆくだけで、オルランドの自宅にたどり着いたものは誰一人としていなかった。ただ、噂話ばかりが盛りのついたウサギのように殖えていった。

 いつだったか、誰だかが、心配半分の冗談半分、「変な噂が立っているし、もうちょっと人間らしくしたらどうだ」と肩を叩いたことがあった。オルランドはきょとっと不器用に振り返って「そんなの、面倒くさいな」と言ったとか、言わなかったとか。


 ***


 これこのようにオルランドに対しあまりよくない類の興味を抱く人間はちらほらといたが飽きたり周囲にくぎを刺されたり、本当かどうかはともかく怖い思いをしたりでたいていがすぐに探るのをやめた。だけれど最近現れた「観察者」は不幸なことに、今までの連中に比べてはるかに図々しく、そして粘り強かった。

 名をジェレマイアというその青年は、地方から出てきて間もないトランペット吹きであった。あっちの楽団、こっちの劇団、拾える仕事は何でもやって、ほとんど雑用係といってよいありさまで行き来して、食うや食わずの暮らしをしつつ、いつかはちゃんとした楽団で、トランペットを吹くのだと、青い希望に燃える若者であった。

 彼はまず、人の噂でオルランドのことを知った。なかなか腕は良いくせをして、どこの楽団に入るわけでもなくふらふらしている(ジェレマイアからしたら信じられない)、妙ちくりんなアコーディオン弾きがいると。そしてもれなく、彼について回って離れない逸話の数々。

 もっぱら「逸話」のほうに激しく興味を掻き立てられたジェレマイアは、早速その次の日からオルランドを探し始め、その日の夕暮れ時にはもう見つけてしまった。先輩方からオルランドがよく立っている場所を何か所か聞き出し、しらみつぶしにあたったのだ。オルランド本人も役者はだしの派手派手しい衣装だし、通行人やほかの芸人とも一線を画しておりすぐに彼だとわかった。

 今日は雲行きが怪しく、通行人の往来は少ない。そのためさして迷惑にはなるまいと踏んで、曲の切れ目にジェレマイアは声をかけた。トランペットのケースを敵将の首のごとく高々と掲げて、オルランドどの、お噂はかねがね、道具は違えど同じ道行き、一つ話をしてみたいと物怖じもせず迫ってみれば、拍子抜けるほどあっさりと、オルランドは片手と口元でそれに応じた。

 まずジェレマイアは、おのれの想像力がいかに貧しく、紋切り型のそれであったかをいやというほど思い知った。彼はオルランドについて複数の人物から聞いていたが、怪談じみた怖い話がほとんどで、容姿については「小柄」「痩せ型」「服が派手」「中年」くらいの情報しか持っていなかった。そして足りない情報を噂話からの勝手な着想で彩色した結果、「顔に染みの浮いたような、貧相で不細工な男」というものを漠と想像していたのだが、実物のオルランドはまるで違った。

 確かに、背は低かった。ヒール付きの靴と、めったやたらに羽飾りやレースのついた巨大な帽子による威圧感はある。あるが、それは小鳥の威嚇のようなもので、現実の彼はおそらく、ジェレマイアよりも頭半分背が低い。そして痩せてはいたが、貧相というより華奢である。ふんだんにレース飾りがあしらわれた襟首からちらつく首は、強く握ったら砕けてしまいそうだ。とどめに、その顔。今にも世界が終わりそうな、そんな顔をしているから。目の下の隈が徹夜明けさながらに青黒いから。それを差し引いて、ついでにとってつけたようなちょび髭さえ取っ払ってしまえば、彼は実に、若かった。そのけだるけな所作と、なげやりな言動と、ちょび髭でもって彼は中年男として扱われているのだ。むろん新進気鋭の若手であるジェレマイアよりは年かさだろうが、とっくり見つめてみればそんなに離れた年でもないような気がしてきて、そこは実に恐ろしい。

 喫茶店に入るでもなく、手ごろな壁に寄りかかって二人はしゃべり始めた。もとより茶を飲むだけの小銭の持ち合わせがないジェレマイアに、これはありがたかった。

 しゃべるのは九割がたジェレマイアであった。オルランドは「うん」「ああ」以外の言葉をめったに発さない。いきなり見ず知らずの男に話しかけられた故でのかたくなさでないことも、ジェレマイアはほどなく悟った。おどおどしているわけでこそなかったが、話慣れていない雰囲気が言葉のそこかしこに粘りついている。片言とまではいわないが、大人の男としては舌足らずに過ぎる。オルランドの発するセンテンスは常に短く、ぼそぼそとしゃべった。首を傾げたり、指を組み替えたりといった、何気なく行う仕草であれ、彼がやるとかちかち音がしそうにこわばっている。

 はっきり言って、変だった。

 だがその「変」という部分に、ジェレマイアは大変な満足を覚えた。怖いもの見たさ、それだけを原動力に探し出した相手だ。実際会ってみたら至って普通の、いい人でした! なんて冗談じゃない。元来押しの強い性格であるジェレマイアは、あたりがとっぷりと暗くなってきたことを見計らい、ここぞとばかりに畳みかけた。


「なぁオルランドのにいさん、知り合って間もない仲でこんな図々しいことを言うのも恐縮なんだがね、あんたの部屋におれを泊めちゃあくれないだろうか。実に情けない話なのだけれども、手持ちがなくって下宿を追い出されてしまったのさ」


 むろん真っ赤な嘘である。オルランドはぱちくりと、隈のできた目をだるそうにしばたかせ、疑っている風でもないが、きっぱり首を横に振った。


「悪いんだけれど、見られたくないものがたくさんあるんだ」


 これを聞いたジェレマイアの心中と言ったら、もう、筆舌に尽くしがたいものであった。それはそうだろう。夢中になって拾い集めた怪しげな噂話の本人から、噂話そのままの台詞がぽんと吐き出されたのだ。長らく離ればなれであった恋人にするような熱烈さでジェレマイアはオルランドの冷えた手を取り、抱き寄せんばかりの勢いで言い募った。一度断られたくらいではいそうですかと諦められるほど、彼はものわかりのよい男ではなかった。


「なあ頼むよ、この通りだ。玄関を貸してくれるだけでいいんだよ。もしあんたが悪いものを部屋の中に隠していて、万に一つおれがそれを見ちまったとしても、決して誰にも漏らさないとこの場で神とあんたに誓うよ。そんなら文句はないだろう?」


「あるね」オルランドは手品のようにジェレマイアの手から自分のそれを抜き取り、一歩、退がった。もはや人っ子ひとりいなくなった石畳の道が、ヒールを打込まれて甲高い悲鳴を上がる。


「よそを、お当たり。うちはダメ」


 ぎくしゃくとポケットに手を突っ込んで、オルランドはジェレマイアを見つめた。ヒールを差し引いてもジェレマイアのほうが長身なので、自然とオルランドは上目遣いになる。

 それは、おぞましい目だった。

 ジェレマイアの背中はすうっと涼しくなった。

 目の色や形に異常がある、わけではなかった。だけれどこいつはいけないと、彼の本能が告げている。しかし彼の人間らしい部分には耐え難い歓喜に沸き立っていた。こんなにも得体のしれないものが、こんなにも身近にあったなんて。ジェレマイアの野次馬心はかつてないほど熱く激しく燃え滾っていた。もっと踏み込んでゆきたいのを理性の力で強引にねじ伏せ、ジェレマイアはおとなしく引き下がることに成功した。


「そうかい、それもそうだな、悪いことをしたよ。無理を言ってすまなんだね」


 オルランドは心底どうでも良さそうに「別に」と小声で応えると、「もう帰る」とアコーディオンのケースを持ち上げた。それじゃ気をつけてと当たり障りのない言葉でその背中を見送って、さて自分も帰ろうかというときに、ジェレマイアはハタと気が付いた。なぜオルランドの目が、あんなにも嫌悪感を呼び起こしたのか。

 彼はジェレマイアを見つめている間じゅう、ひとつもまばたきをしなかった。


 ***


 ジェレマイアは仕事の合間を見ては、ちょくちょくオルランドを探しに行った。オルランドは毎回同じところにいるわけではないので実際に見つかるのは二回に一回くらいであった。いつもいつもジェレマイアがなれなれしく、かつ一方的にしゃべるばかりだったが、オルランドは嫌な顔一つせず、相変わらず魂の抜けたような様子でおとなしく聞いている。ジェレマイアが質問をすると言葉少なに返したが、住んでいる場所、出身、家族については頑なに答えなかった。話をしながらジェレマイアは、オルランドを穴が開くほど観察した。そして自分の予想が正しいことを、彼は確信するに至った。

 オルランドのまばたきは、極端に少ない。ジェレマイアが五回する間に一回くらいしかしていないのではあるまいか。おまけに、考え事をするときは完全になくなる。どうやら、意識していないとまばたきができないようだ。

 動作のぎこちなさも相変わらずだ。ほとんど会いに行くたびごとに、彼の演奏を目の当たりにしているだけに、違和感の大きさはひとしおだった。アコーディオンの演奏では思わず見とれてしまうほどの滑らかな指の動きを見せるくせに、それをケースにしまった途端、例のぎくしゃくした動作に戻ってしまう。これがジェレマイアには納得がいかない。アコーディオンのほうが本体だとでもいうのだろうか。探せば探すほど、ほかにも変なところがどんどん見つかりそうな気がして、相変わらずジェレマイアはオルランドに付きまとった。そのうちに、周りが勝手にジェレマイアを「オルランドの一番の親友」だなんて誤解して、今日はどこの通りに立っているぞと教えてくれるようになったため、会う頻度はさらに増えた。

 オルランドは相変わらず何を考えているのか(あるいは、何も考えていないのか)わからなかったが、ジェレマイアの姿を認めるとその大きな目を少しだけすがめて片手をぽっと上げてくれるくらいには親しげなそぶりを見せるようになった。

 ジェレマイアは最初のほうほど強引な真似をしなくなった。親しくなればオルランドのほうから勝手にぼろを出してくれるだろうと踏んで作戦を変えたのだ。そしてジェレマイアは、賭けに勝った。


 ***


 その日もジェレマイアはオルランドを捕まえていた。初めての日と同じく怪しい雲行きで、日も暮れかかっており、あの日に輪をかけて人通りも少なかった。そしてしばらくいつものように取り留めのないことをひとしきりジェレマイアがしゃべり、とっぷり日が暮れて真っ暗になったころ、珍しくオルランドのほうから口を開いた。


「ねえジェレマイア、きみは、吾が輩を、好きかい」

「よしておくれよオルランドのにいさん。あんたそそっちの気があったのかい?」

「恋ではないが好意はあるよ。ところで、きみは、どうなんだい」


 雲が割れて出た月の明かりで、まばたきのない瞳が濡れたガラス玉じみて光る。オルランドが下手な冗談など間違っても口にしないたちであることを、嫌というほど知っているジェレマイアは混乱の極みにあった。しかしこの問いに対する己の返答が、とても重大なものになるであろうことだけははっきりと理解していた。


「――好きだよ」

「そう、二人目。それを吾が輩に、言ってくれたのは」

「一人目が誰か聞いても?」

「先生」


 アコーディオンケースを持ち上げて踵を返すオルランド。ああもう帰るのか、そうジェレマイアが思った途端に彼はくるりと振り向いた。


「うち来る?」

「喜んで」


 ジェレマイアは勝利の味を噛みしめた。それと同時にオルランドの家の中を誰と誰に吹聴するかの算段を、もう頭の中でたてていた。


 ***


 オルランドの家は町はずれにあった。

 近道だからと墓地の真ん中を突っ切るオルランドの後を怖さ半分あきれ半分で追いかけて、たどり着いた先はなかなか立派な一軒家だった。ひどく古いが、一人で住むには大きすぎる。そこでジェレマイアはハタと思いつく。勝手に部屋を借りての一人住まいだと思っていたが、彼に家族がいてもおかしい道理はないではないか。オルランドの家族構成へ思いをはせるジェレマイアをよそに、オルランドはさっさと鍵を開けて中に入ってゆく。

 家の中は冷え切っていた。

 空気がずっしりと重たくのしかかってくる。オルランドが申し訳程度の明かりをつけても重さはなくならなかった。むしろ室内の異様さが目に入ってきて、ジェレマイアを手ひどく打ちのめした。

 その部屋は壁中が引き出しだった。大小さまざまなその引き出しに、ひとつずつ鍵がつけられている。部屋の中央には作業台と思しき大きなテーブルがあった。机上には用途のよくわからない道具が雑多に置かれている。どことなく、医療器具に似ていた。テーブルの周りを高さもデザインもばらばらな椅子が何脚かで取り囲み、その様子はなんとはなしに邪教の儀式を思わせた。オルランドは実に重たそうな上着を脱ぐと手近な椅子にひっかけ、ジェレマイアにもそうするように勧めた。


「変わった部屋だね」

「先生の、仕事部屋」

「先生? アコーディオンのかい」

「いや、違う……と思う。アコーディオン、教えてくれたのも先生だけれど、本当は、違うことの先生」


 確かにアコーディオン弾きの部屋という感じはしない。だが、どんな先生の部屋に見えるかと聞かれれば、それらしい答えは一向にひねり出せぬジェレマイアであった。


「先生は今いないのかい」

「死んだ」


 オルランドはジェレマイアの向かいの席にすとんと座った。かなり背の高い椅子で、オルランドのつま先は床から少し、浮いている。何を言ってよいのか見当もつかず黙り込むジェレマイアを、頬杖をついたオルランドがまばたきせずに凝視していた。


「きみは、いつも質問ばかりする」


 だるそうに足を組み替えて、オルランドが言う。いつも通りの小さな声だが、時間すら死んだようなこの部屋ではよく響いた。


「知りたい? 吾が輩の、こと」

「ああ――ああ、知りたいともさ」


 挑発ともとれる発言に、とうとうジェレマイアのタガが外れた。


「知りたい。まったくわからん。なぜあんたは気が違ったみたいな恰好をしている? なぜあんなに上手いのに、道っぱたでアコーディオンを弾いている? あんたって……あんたって、何なんだ?」

「待って……ちょっと、お待ちよ」


 じわじわと両手を挙げて、オルランドはジェレマイアを制する。


「ひとつずつ答えよう……うん、ひとつずつだ。まずひとつ目の質問は……あつらえてくれたものだからだ。先生が、吾が輩に、よく似合うと。次。ふたつ目の……質問。あつらえてくれたからだ。先生が吾が輩を……そのように」

「待てよ、あんた何を言っている」


 立ち上がりかけたジェレマイアの足に、何か固いものがぶつかる。


「次。最後の質問……実際に、見てもらったほうが、早いと……思う」


 ジェレマイアが下を見ると、細長いヒールが目に入った。オルランドが靴を飛ばして当ててきたのか、子供じみたことをしやがると思って彼はふと違和感を覚えた。靴の形がおかしい。足を入れるべき空洞がない。すでに何かが中に入っており、少し、はみ出している。それが何か悟ったジェレマイアはもう少しで椅子から転がり落ちるところだった。靴にはオルランドの、足首から先が入っていたのだ。血が出ていないことをいぶかしがることも忘れているジェレマイアの耳を、びちびちといういやに有機的な音が舐め上げてくる。顔を上げるとオルランドが自分の左手から薄い膜のようなものをむしり取っている。そのまま左手そのものをぽきんと外すと、ジェレマイアへ投げて寄越した。テーブルの上を滑ってジェレマイアの目の前で行儀よく止まったそれは、関節までよく作りこまれた人形の手だった。


「答えには、なった? ――それとも、もっと知りたい?」


 残った右手でオルランドはタイをほどくとシャツのボタンをひとつ外した。スタンドカラーに隠されていた首には、くっきりと継ぎ目があった。

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自鳴琴 猫田芳仁 @CatYoshihito

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