バラスコロ・ローザの隣人

道草屋

バラスコロ・ローザの隣人

 目が合った時、彼は「しまった」という顔をした。顔の半分がマスクに覆われていたってそれくらい分かる。ジョンが逆の立場でも同じ反応をしたに違いない。体のラインがはっきりわかるスーツなんて他人に見せるものではない。

 だがそれ以前に、ヒーローが隣人と遭遇するなんてシチュエーションは起きてはならなかった。

 彼は人差し指を唇に当て、風船から空気が漏れるような音を出した。ジョンは両手で口を塞ぎゆっくり頷くことで了解の意を示した。

 ぎこちなく笑みを浮かべると、彼は廊下の手すりに足を掛けた。体を引き上げ、引き締まった体躯を宙に躍らせる。

 重力に従えばあえなく転落死するところだが、彼はヒーローだ。腕をぴんと伸ばし、空高く飛んでいった。

 どんな原理で飛んでいるのか、いつか聞いてみたいものだ。頭の隅でそんなことを考えながら、後ろ手にそっと扉を閉める。その瞬間、どっと疲労感にその場に襲われ座り込んでしまった。

 隣人がヒーローだった。

 その事実は非常に厄介で、否応なしにジョンを困惑させた。なにも、ヒーローへの報復としてドン・ホチキスが団地に火をつけることを恐れたのではない。

 隣人ことケニーはヒーローである前にジョンの友人であった。

 そしてジョンはヒーローの敵、悪党の一人であったのだ。


 二日前のことだ、突然の停電に驚いたジョンは家の外へ飛び出した。団地の共同通路には顔の見えない住人たちがひしめき合っている。

 隣の部屋の扉が開いたことに気づかなかったのはそんな環境であったことと、隣人はいないという前提があったからに他ならない。

 気配に気づき振り返ったジョンは、携帯電話の光に一瞬照らされた姿に苦笑した。下着姿で外に出るのは感心しない。たとえシャツを身につけていて、性別が男であってもだ。

「突然電気が切れて、何事かと」

 大方予想した通りの言い訳はジョンの頭上斜め上から降ってきた。

「ここだけじゃないみたいだ」

 団地は町を見下ろす丘陵地帯に位置する。普段はネオンの灯りが目に痛いほどであるのにどうしたことか、今は一片の光もない。

「町でなにかあったのかもしれない」

「なにかって」

「悪党どもが電線を切ったとか?」

 ジョンは半ば確信を持って自身の考えを披露した。そんな噂を昼頃人づてに聞いたばかりであった。

「隣に誰か越してきたなんて知らなかった」

「おっと、挨拶が遅れてすまない。僕はケニー、今日の昼ここに入ったばかりなんだ」

「それなら分からないはずだ。その時間は仕事だったから」

 言い終らぬうちに、闇の中で火花が散った。遅れて爆発音が響く。町の方角だ。距離があるため耳を塞ぐほどではなかったが、住民たちは一斉に口を噤んだ。

「あの様子じゃまたヒーローと悪党がドンパチやってるな」

 からかうような口調になったのは、それが日常と化してしまっているからだ。

 大都会にいるはずのヒーローたちが辺境の町にやってきて数年、悪党と彼らの戦いは過激化し、毎日町のどこかでドンパチやっている。そういうのはニューヨークかゴッサムシティでやって欲しいものだ。

「復旧には時間がかかりそうだね」

「数日かかるかも」

「それは困るな」

 気がつくと住人の数はまばらになっていた。火種が飛んでこないと分かり興味を失ったのだ。町が灰にならない限り、朝が仕事を運んでくる。夜更かしする余裕は子どもだけのものだ。

 ケニーは手すりに寄りかかり、風に乗ってやってくる破壊の音に耳を傾けているようだった。

 ジョンは少し考えて、ぽんと手を打った。

「良かったら、うちに来ないか?」

 息を飲む気配がした。表情までは分からない。

「いいのか?」

「越してきたばかりで大変だろう。蝋燭があるから持っていくといい」

「それは嬉しい! 懐中電灯が見つからなくて困ってたんだ。えっと」

「ジョンだ」

 玄関を開けてケニーを招き入れる。明かりの一切がないので何か蹴飛ばさないよう家主のジョンも用心しなくてはならない。

 携帯電話の灯りを頼りに椅子を勧めると、「今ズボンを履いていないから」と断られた。

「知ってる、緑のトランクスだ」

「なんだ、知ってたのか」

「一瞬見えた」

「ちぇ、僕だけ見られたわけか」

 安物の椅子が軋む。本が開かれる音がする。そういえばテーブルの上に推理小説を置いたままだった。

「寝る前に本を読もうとしたらこの停電だ」

 ジョンは意外な気持ちで暗闇を振り返った。よもや隣人が同じタイミングで同じこと――この町にあっては稀有な趣味である読書――をしていたとは。

「君の故郷じゃ、寝るときは裸か」

「そういうわけじゃないが、この町は寝るのに暑すぎる」

「同感だ」

 がさがさと大げさな物音を立て引き出しを開け閉めする。戸棚の上に蝋燭の箱を探り当てたジョンは、それをポケットに押し込んだ。

「だめだ、見つからない。もう少し待ってもらえるか?」

「もちろんさ」

「すまないな」

「そんな、僕はこうして招いてもらっただけでも嬉しい。一人じゃ心細くてね」

「ここじゃみんな一人さ」

 爆発音に手を止めた時、雨音が耳に迫ってきた。腹に響く余韻から、爆発ではなく落雷だと教えられる。閃光から一瞬遅れて二度目の轟きが薄い壁を震わせた。

「蛍と雪の光で字は書けても、雷じゃ無理だな」

「なんだそれ」

「蛍雪の功。知らないか? 中国の故事だ」

 ジョンは黙って首を振った。

「その昔、高官を志す二人の青年がいたが、とても貧しく灯油を買う金もなかった。これでは本を読むことができない。そこで一人は蛍をたくさん捕まえて灯りの代わりにした。もう一人は雪をかき集め、月光の反射を利用し勉強した。努力の甲斐あって二人は無事高官になれましたとさ」

 めでたしめでたし、と締めくくるまでケニーの舌はよどみなく回り、そのくせ嫌味な感じがしないのが不思議だった。

「なんでそこまでして高官になりたかったんだろうな」

「給料がいいんだろ」

「今も昔も、お堅い仕事に就きたい奴らの思考は同じってことか」

 窓を打つ雨が強くなってきた。何度か雷が走るも、一瞬で消え去る。これでは本を読むことはできないだろうし、まずそんな気も起きない。

「まったくふざけてるな、この町は」

「というと?」

「復旧が遅すぎる」

「大都会でもない限りこんなものだろう」

 そのとき、灯りが付いた。

 ジョンは不安げに明滅する蛍光灯を目を細めてやり過ごし、椅子の上で膝を抱える男を観察した。

 長身痩せ型三十代、癖のあるブルネット、対照的に白い肌。思ったよりも体に厚みがあるが、この町に溢れかえる肉体労働者ならむしろ当然のことだ。日焼けしていないのは体質か、あるいは屋内の作業を担っているのか。

 咄嗟に中国の故事をジョークにできる人物が土臭い現場にいるとは思えなかった分、いささか拍子抜けした。役人の下っ端か、あるいはドン・ホチキスの囲うお気に入りの一人だと考えていた。

 労働者と分かっていればすぐにでも蝋燭を付けてコーヒーを入れたのに。

 ジョンは親切心でケニーを招いたのではなかった。隣人がどのような人物か探る目的があったのだ。

 ケニーは目が慣れないのか未だ顔を隠している。

「復旧したな」

 ジョンは蝋燭の箱を取り出すと、大げさに声を上げた。

「このタイミングで蝋燭が見つかるとは」

 怪訝そうに腕の下から現れた顔は、およそ粗雑な場所に似合わぬ精悍なものであった。ひょっとすると労働者ではないかもしれない。役人の仲間という可能性もまだ捨てない方が良い。なにせ顔で出世するのが当たり前の世界だから。

「よかったら持っていけよ。今度いつ停電するかも分からない」

「ああ、ありがとう」

 投げて渡したことに特に意味はなかったが、ケニーは椅子から飛び上がると、そのまま玄関に向かった。

「おい誤解するなよ、帰れって催促したわけじゃない」

 慌てて後を追うと、ケニーはすでに半身を外に出していた。ひょいと体を反転させ、顔の前で指を振る。

「そっちこそ勘違いするな。僕は早く本の続きが読みたいだけさ」

 にやりと笑う口が真っ白な歯とよく似合っていた。

 ケニーが出て行ってしばらく、正確には隣の部屋から足音が消えるまで、ジョンは壁から耳を離さなかった。時折動く気配がするということは、ケニーは本当にベッドで本を読んでいるらしい。

 似合わないことをする。ジョンは一人苦笑した。

 箱を受け取ったケニーの右手の関節が、血で滲んでいた。人を殴った証拠だ。労働者ならもっと全体的に傷がついているはずだった。おかげでジョンは隣人の正体に確信を持てた。

 役人たちが自分の手を汚すことはない。そして、高給取りでもないのに日に焼けない仕事はこの町では二つしかない。

 ヒーローか、悪党か。

 だが役人たちの庇護下にあるヒーローが手狭な集合住宅に住むはずがない。

 となれば彼は悪党で、ジョンの同僚ということになる。


 裕福な者はより裕福に、貧しき者はより貧しくという世界の法則のもと、生活に困った弱者は強者の加護のもと生きるしかなくなる。

 そういった者の集まりが、バラスコロ・ローザという町であった。

 町を牛耳る自称大悪党ドン・ホチキスは集めた弱者を働かせ、自分の利潤をたんまりこさえている。

 そんな辺境の地に数年前、役人を名乗る一団が訪れた。町の現状を正しに来たらしかったが、ドン・ホチキスは頑なに彼らを拒んだ。行く当てのない労働者たちも彼を応援した。

 それが間違いだった。

 役人たちは強硬手段、武力行使による排除に打って出た。これに対抗すべく、ドン・ホチキスは労働者を私兵として使うことにした。

 彼は親しみを込めて、私兵を「悪党」と名付け、ジョンはその中の一人に選ばれた。若さと体力をかわれたらしい。

「殺し屋など雇って相手が死ねばそれこそ役人の思う壺、口実を与えることになる。殺さない程度に叩きのめせ」

 ドン・ホチキスの言い分は尤もである意味平和的なものだったが、それは相手がただの人間だった場合の話だ。

 普通の人間は跳躍しただけで空は飛べないし、麻酔弾を一ダースも喰らえば倒れる。拳でアスファルトを砕くのはコミックでしか起こりえないことのはずだった。

 理屈は知らない、聞いても理解できないだろうから聞くこともない。

 バラスコロ・ローザに送り込まれたのは普通の人間じゃなかった。

 役人たちはその規格外なパワーを比喩し、彼らのことを「ヒーロー」と呼ぶ。

 赤や青の原色を多用したスーツに身を包んだヒーローは悪党の制裁という大義名分を背負い、町に降り立ったのだ。


「わっ、どうしたんだジョン!」

 ケニーの悲鳴が廊下に響く。

 今自分はひどく迷惑そうな顔をしているだろうと思いつつ、訂正する意欲さえ湧かぬほどジョンは疲弊していた。

 明朝ドン・ホチキスに呼び出され、新作のスーツを強制的に着せられた。対ヒーローとしての位置づけを気にしてか、彼は悪党にも特殊スーツを着せる。

 ヒーローのそれとは違い黒一色で、どちらかというと特殊部隊の着る戦闘服に似ている。マスクで顔を隠すのは顔がばれるのを防ぐためだと言うがそれもこじつけだろう。

 そのまま町に放り出されて半日、ヒーローと死ぬ気でかくれんぼしていた。飛んだり跳ねたり、走り回った体はボロボロだった。もちろん救急車は来ない、手当はいつもセルフだ。

 あちこち破けたスーツの代わりに労働者に支給されるツナギを着たものの、首からの出血で胸まで真っ赤に染まっている。

 ヒーローはやはり正義の味方だ。誰も殺さない、銃も使わない。拳で語り合うスタイルを貫いている。首の怪我も飛んできたコンクリートの破片で切ったものだった。

「僕の部屋に来てくれ」

 突然の申し出にジョンは目を瞠る。

 ケニーは取り繕うように顔の横で手を振った。

「手当をさせてくれないか、昨日のお礼に」

 意図を理解したジョンは、寒い日のホットココアよりも有り難い申し出に飛びついた。

 誘導されるまま案内されたケニーの部屋は、あちこちに本の山が築かれていた。備え付けの棚はすでに多くの本で埋まっている。

「すごいな、ここは図書館か」

「今は医務室だ。そこに座って」

 椅子に座り、ツナギの前を開けて上半身を晒す。救急箱から顔を上げたケニーは露骨に顔を顰めた。ガラスの破片が顔を覗かせる腹はさぞかしグロテスクなはずだ。

「何があったんだ」

「仕事で少しミスった」

「どうミスしたらこうなるんだ」

「誰かさんがうっかり割った窓の上にすっ転んだんだよ」

「随分危ない現場なんだな」

 そんな会話をしているうちにガラスの破片は全て摘出されていた。てきぱきと血を拭い消毒する手際はまるで医者のそれだった。日頃から手当の心得があるということの表れだ。

 やはりケニーも悪党の一人ということだ。彼に目立った傷がなくてなによりだ。ジョンはその事実を噛みしめ奇妙な充足感を味わった。

 ケニーが包帯を巻き終え離れた時、その感覚は風船がしぼむように消え失せてしまったものだからジョンは慌てた。なんだか自分が母親の温もりを欲してむずがる赤ん坊のように思えたのだ。

「聞いてもいいか?」

 ケニーはキッチンに立ち、火にかけたやかんをじっと見つめていた。その背中に問う。

「君のような男がなぜこんな場所に?」

「なんだい、その質問は」

「いや……」

 喉まで出かかった言葉を鉄の味と共に飲み下し、床から拾い上げた本の埃を払って顎をしゃくる。

「小説が好きなんだろ? でもこのあたりに本屋はない。不便だろ」

「これだけあるんだ、文句は言えない」

「そうか」

 本当は「君ならどこでもやっていけるだろう」と言いたかった。

 だがそれはかつてジョン自身が言われたことであり、激しい憤りを感じたのを覚えている。

 落ちるところまで落ち、流れ着いた者の集まりが、バラスコロ・ローザという名の吐き溜めなのだ。

「小説は好きだ。けど、生きる方が大切だ」

 湯気の立つカップを手渡される。コーヒーの良い香りがした。

 ケニーは床に座り手近な本を適当に開く。カップに隠れて盗み見た横顔は存外明るく、余計に影が濃く見えた。

「その本は読んだことがある」

 手垢で変色した推理小説の表紙を指さすと、ケニーはパッと顔を輝かせた。

「原作を読んだ人に会うのは初めてだ! 皆活字を嫌うから」

「映画とドラマも見たが、あれは傑作だった。そういえば、君は主演の俳優と似ているな」

「まさか、僕はカワウソじゃない」

「目の前にジョンがいるのにか?」

「おいおい、狙って言ったのか?」

 ブルネットの髪を掻きむしる姿は、やはり似ていた。一方のジョンは、かの相棒とは全く似ておらず、共通点と言えば髪の色くらいであった。

「いっそスタントの仕事でも探したらどうだい」

「そんな、僕にはできないさ」

 なぜ、の推理は咄嗟に破り捨てた。

 これ以上は踏み込むなと、頭の中で警笛が鳴る。コーヒーを飲み干し、ジョンはおもむろに腰を上げた。

「ごちそうさま。そろそろ帰るよ。ありがとう、こんなしっかり手当てしてもらったのは久しぶりだ」

「その言い草じゃ、いつも傷だらけみたいだな」

「ま、そんなところだ」

「そういえば」

 と、思い出したようにケニーが言った。

「僕も前から、君が誰かに似ていると思っていたが今思い出した。さっき机の上にあった小説が映像化した時の主演だ。それとは別なものになるが、彼が出演したある映画のオープニングは五週間で作られたらしい。その時は髪を黒く染めていたんだが、あの役は吸引器でいつも何か吸っていたんだ。君ももしかして喘息持ちじゃないか?」

 相槌の隙さえ与えないマシンガントークに、目を瞬く。だがケニーが真面目に解答を待っていると分かるや否や、ジョンは肩を竦めた。

「いや、俺はいたって健康体だ」

 そう、歯を見せて笑ってやった。

 徒歩三秒の自宅に戻りベッドに倒れ込む。手当ては本当にありがたかった。目を閉じればばすぐに眠りの中に堕ちていける自信があった。

 しかし麻酔のような幸福感が脳内に溶け出して、ひどく心を落ち着かせる一方、ひどく頭を騒がせていた。とどのつまり、寝付けなかった。

 この町で小説を読む者は少ない。ドン・ホチキスが嗜好品の流通を妨害しているから、手元に回る機会がないのだ。その代わり、酒と女と薬はたっぷり与える。

 刹那的な快楽は活力に、余計なものは労働への支障になるというのがドン・ホチキスの持論だ。小説は現実逃避の懸念材料として厳しく取り締まられた。ジョンも苦労して運び入れたが、あれだけの量だ、ケニーはどれだけの代償を払っただろう。

 刹那的な快楽というならば小説とて同じ効果があるのにとジョンは思う。活字を追い駆け空想の世界を渡る時間は、落雷のように一瞬で終わる。

 酒のように翌朝まで引きずる日もあれば、薬のように慢性的な執着を生むこともある。向こうから迫ってこない点は女と違うものの、誘惑はしてくる。

 バラスコロ・ローザにおいて小説の価値は紙くず同然だ。悪党の中で話題に上がることはなく小説を読むのはジョンだけだと思っていた。そして、そのことを悲しいとも、寂しいと思ったことはなかった。

 厚さ数センチの紙束ごときで、現実の凄惨さと耐えがたい自己嫌悪から逃れられるのなら安いもので、嫌な感情はいつでも燃やせるのだと一蹴できたからだ。

 今更その価値が上がったからといって、何が起こるわけでもない。共感者が現れたところで、明日何かが変わるわけでもない。

 そうして、夢と現実の縁を彷徨ううち、ジョンは自分がこの町を出る可能性について考えているとこを悟った。

 そうでなければ四方を本棚で囲まれた部屋で寛ぐ自分など思い浮かべるわけがない。

 目を閉じると、高そうなスーツに身を包んだジャックが石畳の道を足音高く歩いていた。こちらのほうがよほど現実味があった。

 そんな突如として降って湧いた考えが頭の中を飛び回っていることを除けば、翌日の朝は生まれてから最も快適なものであった。

 まともな手当てを受けられたからだろう。傷の治りが格段に良く体が軽い。

 昨晩のやり取りを思い出しながらコーヒーを飲む。立ち上がった時、仕事へ行く前に一度ケニーに声を掛けることを決めていた。改めて昨夜の礼を言いたかったし、本を何冊か借りられないかと思っていたのだ。

 日の昇らぬ時間だがケニーは起きているだろう。今朝もドン・ホチキスは悪党を呼び出している。並んで歩くのも悪くない。

 玄関に向かうと、壁の向こうで物音がした。なんてタイミングだ。まるで小説のような展開だと、緩む頬をきっちり固めて廊下へ出た。


 そしてジョンは、ヒーロースーツを身にまとうケニーと邂逅し、自分がこの数日間、ひどい勘違いをしていたことに、ようやく気づいたのだった。

 肌の露出がないのは悪党だけではない。

 ヒーローだって自分の手当てをする。

 傷が少ないのは規格外のパワーで相手を寄せ付けないから。

 ヒーローだけが特別待遇で居心地のいい部屋をあてがわれているなんて、ジョンの思い込みでしかなかった。

 手がかりはあちこちに落ちていた。それに見て見ぬふりを貫いたのは、ジョン自身だった。

 小説のような? 馬鹿を言え、現実は小説なんかよりよっぽど泣ける。

 ケニーの飛び去った空は白々しいほどに青かった。


 ジョンは建物の影に身を隠し、必死に息を殺していた。

 酸欠で気が遠くなり、ふと今朝の情景が脳裏をよぎる。

 ベッドのマットレスを力任せに殴り爪を立て、飛び出した綿を引きずり出した。まだ温いシーツの上に置き去りだった小説を壁に投げつけ、棚の本がばらばらと落ちてようやく我に返った。

 体の中で嵐が吹き荒れて、サンドバッグにされている気分だった。逃げるように団地を飛び出しドン・ホチキスからスーツを受け取り、別な悪党の仕掛けた爆弾で吹き飛ばされてもそれは変わらなかった。

 ケニーは何も悪くない。ただ勝手に仲間意識を持って舞い上がった自分が、大気圏のはるか上空から突き落とされたに過ぎない。残った燃えカスでなんとか動いているものの、影響が体に現れてくるともはや手に負えない。

 空気を裂く甲高い音がして、次の瞬間には衝撃の余波で地面に転がっていた。砂ぼこりの中、跪く姿勢からシルエットがゆっくりと立ち上がる。いつ見てもぞっとしない。

 ぬるりと熱いものが頬を伝う。顎から頬までマスクが裂けていたがそんなことを気にするゆとりはない。四肢は鉛のように重く、思考は牛の歩みより遅い。

 視界に入るもの全てが二重に見え、突進してくるヒーローのどちらが本物か区別できなかった。拳が鳩尾に食い込み、言葉にならない声を胃液と共に吐き出す。

 胸倉を掴まれ壁に押し付けられる。足が浮き、喉が絞まる。かろうじて呼吸はできるが、穴の開いたパイプから空気が漏れるような音がした。

 薄れていく意識の中、ジョンはふと思い出したことを口にした。すると、聞き取れなかったのかヒーローが顔を寄せる。

 覚えのある香りがした。

「コーヒー、美味かったよ」

 ヒーローなのにどうして今日はぼろぼろなんだろうか。急におかしくなって、自分の体を宙に縫い止める腕に手をかけると、血濡れた口で笑ってみせた。

「俺が喘息持ちだってよく分かったな。ついでに言うと奴の吸入器の中身は覚せい剤だ」

 最後まで言えたかは覚えていない。気がつくと誰かの背中におぶわれていた。

 揺れる感覚が心地よくて目を閉じ、眠るように意識を失った。

 再び目覚めたとき、ジョンは自宅のベッドの上にいた。感触が違うのは今朝自分が綿を抜いたからだと思い出すまで、ケニーが傷口を消毒するのを黙って見つめていた。

「俺を殺すかヒーロー?」

「そんな気は毛頭ない。君はただの隣人だ」

 嵐が通ったかの如き惨状の部屋に、傷だらけの悪党とヒーローがいる。

 昨晩と同じ場所をまた手当てされるというのは、今更ながら変な感じだ。お互いぼろぼろのスーツを着たままなのが一層滑稽だった。

「君のこと、ヒーローだと思っていた」

「俺は悪党だとばかり」

「色白だから?」

「いい奴だからさ」

「そんなんじゃない。だがジョン、君はどうして悪党なんかやっているんだ」

「高尚な理由なんてないさ。借金取りに死ぬかここで働くか選べと言われた。それだけだ」

「だからって、子どもに薬を売ることはないだろ」

 聞き慣れない単語に首を傾ぐ。とぼけていると思ったのか、ケニーは巻きかけの包帯を放り投げジョンにつかみかかった。

「人さらい、人身売買、麻薬取引、賭博、賄賂、横領。ドン・ホチキスと君たちがやっていることは把握しているんだ。今まで僕が何人の悪党を捕まえてきたと思っている!」

「ちょ、ちょっと待ってくれケニー、君は一体なんの話をしているんだ」

 なんとか引きはがすと、ケニーは目に涙を浮かべていた。気持ちを落ち着けるため、深呼吸する。喉がひりひりとしたが、気にしていては話せない。

「悪党はドンがかき集めたただの労働者だ。ヒーローと戦う以外になにもやっていない」

「何を言っているんだ、証拠なら役人が……」

 しかしそのあとの言葉を紡ぐことはなく、ケニーは目を見開いた。縋るように見つめられ、しかしジョンは首を振った。

 考えてみれば初めからおかしな話だった。

 役人はなぜ警察ではなくヒーローを使う?

 ドン・ホチキスはどうして戦闘経験のない素人を防衛ラインとして据えた? 町が破壊されても文句を言わない?

 一対多数、力の差、殺さずのルール……。

 まるでゲームのご都合設定だ。

「お前たちはただの駒だ」

 いつかドン・ホチキスが言っていた。今ならその真意が分かる。

「町を支配するドン・ホチキスとその仲間を捕まえろ、だが殺してはいけない。逮捕劇でも強襲でも、任務クリアの条件はいつも同じだった」

 そう切り出したケニーが語ったのは短い昔話だった。

 常人ならざる力のために社会から疎外され、放浪の末国に保護された。ほっとしたのもつかの間、保護対象であり続けるため役人のもとで働くことを強制された。そしてやってきたのが、バラスコロ・ローザだった。

 話のオチが見えた。ジョンはベッドから跳ね起きた。

「おい、どこに行く気だ」

「俺は悪党だ、やることは決まってる」

 キッチンのナイフを手に取り、床で丸まっていたジャケットに腕を通す。スーツはぼろぼろで埃まみれだったが、動くのに問題はない。ドン・ホチキスが改良させただけはあって丈夫だ。

「待てよ」

「止めようったって無駄だぞ」

「そんなつもりはない。ただ、悪人を取り締まるのはヒーローの役目じゃないか?」

 ケニーは自分の手当は終わったと言わんばかりに包帯の巻かれた腕を掲げる。ジョンは呆れる思いで指を突きつけた。

「本当に俺が薬売りでないという確証を持っているのか? これが君を嵌める罠だとは考えないのか? それに、ここを出ても行く当てなんてないだろう」

「君が本当に悪事に手を染めていて僕を誘い込んで罠にはめようっていうならそれでもかまわない。何人束になっても僕は返り討ちにする自信があるからね。それに、幸いにしてスタントマンという新たな可能性を友人に指摘されたばかりだ。それとも、まだ僕とやり合う気か? 悪党」

「その言葉、そっくりそのまま返すとしようかヒーロー」

 ケニーは頭を振った。

「君はただの隣人で、僕の友達だ」

 君はどうだと、ケニーの目が問う。だがジョンは顔を背けた。

 ケニーの脇を通り過ぎ、クローゼットからロングコートを引っ張り出す。

「その格好は目立つこれを着ろ。友達がヒーローだってばれたら色々面倒くさい」

 するとヒーローは片目をつむって苦笑した。

「君こそ、ジャケットの前は閉めろよ。素肌にきていると悪党というより変質者みたいだ」

 

 翌日の朝刊を飾ったのは、お縄に掛けられた役人とドン・ホチキスの写真であった。

「正義と悪が手を組んだ! 人命を軽視した非道な行い」

 スキャンダラスなタイトルが示す通り、本来対立関係にある両者が結託し、お互いの部下を戦わせる「ゲーム」に興じていたことが詳細に記されていた。

 この一件が発覚したのは、二人の密会現場が何者かによって襲撃されたからであった。目撃者の証言によれば、相手はたったの二人だったらしい。

 役人とドン・ホチキスに洗いざらい真実を吐かせたその二人組は密会現場である施設を全壊させた後に逃走、警察は全力で行方を追っている……。

 町全体を揺るがす大事件に人々は一面記事に釘付けだった。



 紙面の片隅、団地の部屋に二つ空きが出来たという小さな広告が載っていた。

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