第1話
1
よう、また会ったな。え? オレが誰かって? ……うーん、オマエとはつい最近も会ったような気もするけど……。まあいいや、オレの名前はデヴィ。オマエ達人間の悪事を運ぶことを生業としている「ワルイコ宅配便」という会社の社長だ。オマエの名前は?
……。そうか、いい名前だな。オマエの両親がオマエのために決めてくれた名前だろ。大切にしろよ。
今日も、部下たちがとても優秀なおかげで、オレはヒマなんだ。ちょっと話でも聞いていってくれよ。
そうだな、名前といえば、オレが一番頼りにしている部下に「ゲン」っていう名前のヤツがいるんだ。
オレはヤツをそう呼んでいるけれど、ゲンというのは本名じゃない。初めて会った時に名前を言えなかったヤツに、オレがつけた名前だ。
なあ、オマエは分かるか? 自分の本当の名前を、他人に言えない理由が。自分の名前が恥ずかしいから。大抵のヤツはそう考えるだろうな。だけどよ、だからと言って自分の名前を隠し続けることなんてできるか? オマエ達人間には一人ひとり、ひとつの名前がついている。自分がどこの誰なのかを他人に知ってもらうために、つまり、自己紹介をするときに、オマエ達は無意識のうちに最初に名前を名乗るだろう。何の躊躇いもなく。少々、自分の名前が好きじゃなかったとしても、咄嗟に偽名は思い浮かばないし、そもそもそんなことをする必要もない。
毎朝、東の空から昇ってくるものを太陽だということをいつの間にか認識しているのと同じ、物心ついたときからオマエ達は自分の名前をちゃんと認識していて、それを口にする。そう、太陽というのも、名前だよな。だけど、それを忘れてしまっていたら。買い物に行った店でかかっていたあの曲の名前、どこかで聞いたことがあるんだけど、うっかり忘れちゃったなんてレベルのものじゃない。
自分が何者なのか、分からない。僕には名前なんて本当にあるのだろうか。デヴィさん、僕は一体誰なんですかと、ゲンは初めて会ったオレにそう言ったんだ。オレはびっくりしたね。コイツ、オレをからかってるんじゃないのかと思ったけど、ヤツの目は真剣そのものだった。目は口ほどに物をいうって言葉がオマエ達人間の間にはあるだろう。まさにその通りだとオレは思ったよ。嘘をついている様子もない、純粋な表情で、突拍子もないことを聞いてくる。不思議な奴だと思ったよ。それと同時に、何とかしてやりたいという気持ちも芽生えた。
もしもコイツが自分の名前も分からないくらい、記憶を無くしているんだったら、オレがその記憶を取り戻してやりたいってな。変な顔するなよ。オレにだって誰かを思いやる気持ちくらい、持ち合わせているんだぜ。そうじゃなきゃ、こんな仕事、やってねえよ。
2
「お疲れさまです社長」
「噂をすれば影がさす、だな、ゲン。仕事は終わったのか」
オレがケラケラと笑うと、ゲンはきょとんとした顔で「僕の噂をしてたんですか」と言った。オレがコイツと出会った時と変わらない、短く刈り込んだ黒髪をかきながら、照れたような笑みを浮かべている。ゲンが着ている赤と黒のボーダーのポロシャツに、黒いスラックスを合わせたのが、オレの会社の制服だ。人間みたいだろ。オレは人間が好きだからな。ついつい真似したくなるんだ。
「今日の配達は三百件ほど。まだ少ないほうですよ」
「そうかそうか。おつかれさん」
言いながら、オレは心の中でうーんと唸った。オレの会社は、人間達に「悪事」を運んでいる。人間が悪いことをすればするほど、オレ達は忙しくなるわけで、あんまり忙しくなると、オレまで現場に駆り出される羽目になるから、これがけっこう大変な仕事だ。
ゲンは、三百という数字は少ないと言ったけれど、オレはそうは思わない。コイツはこう見えても、オレの会社のナンバーツーだ。人間達の一般的な企業で例えると、そんな立場にいる奴らって、大抵ふんぞり返って偉そうにしているだけだと、その下にいる社員たちに思われたりしているだろう。だけど、ゲンは違う。ふんぞり返って偉そうにしているのはこのオレだけで、ゲン達は毎日配達に明け暮れているんだ。
つまり、それだけ人間が悪いことをしているってことだな。
「社長……」
ゲンがあらたまってオレのことを呼んだ。見ると、ゲンは肩をすぼめて手を前に組み、もじもじしながら俯いている。
オレは、ゲンとの長年の付き合いでハッと気が付いた。コイツがこんな態度をとるということは、何か仕事でミスをしてしまったのだ。滅多に問題を起こさないゲンでも、自分の失態を上司に報告するのは気が引けるらしい。もっとも、ミスが少ないということは、逆にこういう場面に慣れていないから、緊張してしまうのかもしれないが。
「一件、未配の案件があります、すみません」
ゲンは直角にお辞儀をした。頭を下げるときまで几帳面なヤツだ。オレはゲンに「座れ」と促す。これは、内容によっては大事になるかもしれないなと思いながら、ゲンがオレの向かいに座り、言葉を続けるのを待った。
「東雲途一丁目で起きた飲食店の放火の案件です。火が起こったのは、店が営業していない深夜で、店の裏に置いてあったゴミ入れが出火元だったということから、人間達は放火犯による火災だと断定しています。その推測は正しく、火災が起きた時刻にそこにいたうちの社員が、犯人も、犯行の一部始終も見ています」
ゲンはそこで言葉をきって、ポケットから小さく折りたたんだ紙を取り出した。それをオレとゲンの間にあるテーブルに広げると、話を続ける。
「放火をした人間は、東雲途三丁目に住むこの男です。放火にあった店がこの男の勤務先のようで、現場の周辺を拠点に活動しているうちの社員によると、普段は真面目に勤務をしていたそうです」
「オマエみたいにな」
オレは、ゲンの緊張を和らげるために言葉を挟んだが、逆効果だったみたいだ。「ありがとうございます」と余計に小さくなって、背筋が強張ってしまった。埒が明かないので、テーブルの書類にある若い男の顔を横目に、ゲンに話の先を促した。
「今日、僕はこの男に『荷物』を届けるために、彼の自宅に向かいました。犯行に使った証拠品はすべて処分してしまったと報告を受けていたので、自分の犯した罪を償う勇気を届けに行ってほしいという依頼をもとに、部下のタルシスと一緒に配達先に着いたんです。そしたら、男はもうそこにはいなくて、彼の抜け殻が天井からぶらさがっていました」
ゲンが口にした「未配」とは、言葉の通り配達が出来なかったことをいう。
その理由は案件によって様々だが、今回の場合、受け取り人である放火犯の男が、自分の入っていた身体を残してどこかへ行ってしまった為に、依頼主の期待には応えられなかった、というわけだ。とはいえ、オレも会社の信頼がかかっているから、このままで終わるわけにはいかない。社長にありがちな、おも―い腰をあげるとしよう。
「ゲン、オレも手伝うよ」
オレは着ていたシャツを脱ぎ捨て、部屋の壁際にあるクローゼットからスーツを取り出した。人間達が大好きな正装。不思議な服。オレみたいなヤツでもちょっとは仕事ができるように見えるからな。
「社長、僕は……」
漆黒のジャケットがオレの身を包んだとき、ゲンのためらいがちな声もオレの耳を包む。「オマエはそのままついてくるだけでいいから」と、出来るだけ優しい口調で答える。ゲン、オマエは別に失態を犯したわけじゃない。こんなこと、よくあることだ、気にするな。
「タルシスをここに連れて来てくれないか」
ゲンは黙って頷くと、消えるように部屋を出ていった。扉を開けた様子もないが、オレは気にせずに鼻歌を歌いながらネクタイを選んで待つことにする。どこかの大通りを泣きながら走る歌。放火犯の男は、今頃何処かを涙ぐんで駆け抜けているのだろうか。
ゲンは、すぐに戻ってきた。オレがやっとのことでお気に入りのネクタイを見つけ出し、首に結ぶのに一苦労していると、いつの間にか後ろに立っていたのだ。
そばにはちゃんとタルシスもいて、とろんとした目でオレを見ている。いつも通り会社の制服ではなく、修道女のような恰好をしている。ヤツ曰く、「アンタの選んだダッサイ服よりもこっちの方がやる気が出る」そうだ。現にちゃんと仕事はしているようだし、業務にさしつかえはないからオレは黙認している。
「タルシス、お疲れさん。悪かったな急に呼び出して」
「別にぃ。まあこうなることは大体わかってたし。はやく仕事終わらせて寝るわよ」
ゲンがあわあわとタルシスを制す。社長にはちゃんと敬語を使えと諭すが、タルシスは聞く耳を持たない。正反対の二人。それなのに仕事の息はぴったり合っているから面白い。
「今回のような依頼品を届けるのは、僕よりもタルシスのほうが適任だと思ったので、彼女を連れて行きました。彼女もこう見えて責任感は人一倍持っています。きっとお客様の期待に応えられると思います」
ゲンが入れる、謎のフォロー。社長に対して無礼な態度の部下を擁護しようとでもいうのだろうが、お生憎様オレはそんなこと気にしない。部下には寛容な方が何かと都合はいいからな。
ネクタイをきっちりと結ぶのに五分ほどかかった。オレはいつまで経ってもこの紐みたいなものを、首に巻くのには慣れない。やっぱり人間ってすごいよな。これをキュッと締めれば、心も引き締まるんだから、よく考えたもんだ。
「デヴィも、スーツ着たら社長って感じするじゃない」
タルシスがにんまりと笑う。悪魔のような笑み。つかみどころのない女だ。
「うるせえ、さっさといくぞ」
「はあい」
オレが指をパチンと鳴らすと一瞬にして周りの景色が変わった。
ざあざあと降り注ぐ雨。アスファルトは一段と黒く染まり、ぴちゃぴちゃと空からのシャワーを受け止めている。今にも落ちてきそうなほどどんよりと重そうな灰色の雲は、途切れることなく水平線まで続いている。このままずっと雨が降り続けるんじゃないだろうかと思ってしまうほどだ。
東雲途三丁目に建つ放火犯の男の家は小綺麗なアパートだった。同じような形の家が立ち並ぶ住宅街の片隅に、肩身の狭い思いをしているかのように遠慮がちに建っているグレーの建物。お洒落とは言い難いが、飾りっ気のない外壁は洗練されたデザインだともいえる。
「男の家は、二階の一番奥の部屋です。まだ騒ぎになっていないところを見ると、彼の抜け殻はまだ誰にもみつかっていないでしょう」
ゲンが二階の向かって左にあるベランダを指さした。制服の袖からむき出しになったヤツの腕に、決して優しくはない雨が打ち付ける。しまった、傘をもってくればよかったなと、オレは思った。
「いくぞ」
オレの掛け声とともに、ゲンが先頭に立って歩き出した。雨に濡れてもものともしない。さすが、うちのナンバーツー。
「社長、いつものあれ、やってくださいね!僕、大好きなんです」
「オマエ、やけに楽しそうじゃねえか」
「そんなことないです。これは仕事ですから、真面目に責務を果たさないと、会社の信用問題に関わってきますよ」
そのとおりだなと、オレは笑っていった。ゲンは明らかに今の状況を楽しんでいるように見えるが、しつこく指摘してやる気を削がれるのもよくない。部下の意欲を育てるのも、いい上司としての仕事だ。
雨風にさらされて、びしょびしょになった階段を昇っていく。遠慮なくオレ達の全身に吹きつける雨は留まることを知らず、ゲンが盾になっていなければ、オレはもっと濡れているだろう。人間どもは、自分があまり使わない場所の設備に関してはおろそかになる傾向でもあるのだろうか。それとも資金が足りなかったのか、この建物にはこの程度の設備でいいなどと決められたのか、どんな理由にせよ、オレは気分が悪くなった。
「ここが男の部屋です」
階段を昇りきったあと、そのまま先へ続く通路を一番奥まで進んだとき、ゲンはひとつの扉を指さし言った。
「サンキュー、ゲン。あとはオレに任せろ」
オレはそう言って扉の前に立った。ゲンがするりと背後にまわる。さっきから無言のままのタルシスはその隣でじっと扉を凝視している。
「部屋の主は抜け殻を残して行方不明になっている。だったら、ヤツがどこに行ったのか、部屋の中にいる奴らに聞けば、分かるかもしれないな」
「やっぱり入っちゃうのね」
やっと口を開いたタルシス。オレはああと頷くと、人間たちとは別の方法で扉の向こうに入った。体に扉が触れたときのひんやりとした感触さえ慣れてしまえば、オレ達はどこへだって入れるのだ。
男の部屋は、まさに男の部屋、という感じだった。床には服が脱ぎ捨てられていて、廊下についている小さなキッチンには、焦げ跡のついたフライパンや皿が重ねられている。綺麗ではないが、汚くもない。最低限の掃除は行き届いているようだ。
オレはそんなことを思いながら、廊下の先にあった扉を「くぐった」
なるほど、ゲンの言った通り、部屋に入った瞬間に、男の抜け殻が視界に飛び込んできた。天井から吊り下げられたその抜け殻は人間としての原型を留めていないように見えた。ああ、もうこいつはここには戻っては来ない。オレはそう思いながら、合掌し、目を閉じた。
「タルシスは、見るの初めてだったな。君はいつも社長に馴れ馴れしい態度を取っているけれど、社長の凄さを思い知るといいよ」
ゲンが後ろでひそひそと囁いている。オレは合掌したまま、目を開いた。別に男の抜け殻を弔っているわけじゃない。仕事をしているだけだ。
「黒キモノヨ、命ヲ進ゼヨウ。然スレバ、我ノ糧トナレ」
ゲンが先ほど言った「いつものあれ」を、オレは始めた。ゲンが興奮したように「来た!」と囁く。オレは苦笑し、じっと正面を見据えた。
オレの能力のひとつに「黒いものに意思を与え、そのものが見てきた情報を聞き出せる」というものがある。オレの得意技だ。これを使えば、この部屋にある黒いものが、この抜け殻の持ち主がどこに行ってしまったのかを教えてくれるかもしれない。
オレの呪文に反応したのは、部屋の片隅に置かれた小さなテレビだった。人間たちの持っているテレビという機械は凄いよな。コードさえ繋げば、世界中のありとあらゆる情報が手に取るように分かるんだから。
情報をくれるという点では、オレもテレビは好きだ。なぜか大体どの人間の家に訪れても、テレビは黒いからな。オレの能力とは最も相性がいいデザインだ。
静かに光り始めたテレビは、やがてこの部屋の様子を映し出した。とはいっても今の様子じゃない。画面の向こうにはオレたちの姿はなく、代わりにまだ抜け殻になっていない男の姿が映っていた。
男は、目に涙を浮かべてこちらを見ていた。髪の毛はぼさぼさに入り乱れ、目の下には隈もできている。顔色が悪い。唇をわなわなと震わせて、何かをぶつぶつと呟いている。
「どうしよう、取り返しのつかないことをしてしまった。おれは、もうおわりだ」
よくよく耳を澄ますと、そんなことを言っていた。オレの隣でゲンがごくりとつばを飲み込む。さっきまで浮ついていたヤツはもういない。真剣なまなざしは画面に釘付けとなっていた。
「死ぬしかないんだ……おれは……もう……こんな罪悪感を抱いて生きていけない」
消え入るような男の声。画面の向こうの男はやがて、決心したように立ち上がると、テレビ画面に背を向けた。しばらく見続ける。画面の向こうでどんなことが行われていても、オレはそこから目を背けたりはしない。オレの能力によって意思を宿したこのテレビが、オレ達に教えてくれている貴重な情報なのだ。男が抜け殻を残してここから立ち去る様子を、コイツはどんな気持ちで見ていたのだろう。男がもう二度と戻ってこないであろうことを、コイツは勘付いていたのだろうか。
やがてテレビ画面の向こうも、オレ達がいる部屋の光景と同じになった頃、男が抜け殻を残して、外に続く部屋の奥の窓から出ていくのが見えた。一度もこの部屋に留まろうとすることもなく、何の躊躇いもなく男は出て行ったのだ。
「社長、すぐに追いましょう。テレビの向こうにあるこの部屋の時計は、今から四時間前をさしています。まだ、近くにいるかもしれません」
さすがの観察力。ま、まあ、オレもちゃんとそこはチェックしていたが。オレと同じことが出来るなんて、やっぱりゲンは優秀だな……。
「社長が大好きな人間の『名言』とやらには、犯人は現場に戻ってくるっていうのがありますよね。僕はこの人は、自分が放火した現場の近くにいると思います」
ゲンが言った。
「甘いなゲン」
「えぇ!? どうしてですか!」
オレの静かな反論に、ゲンは目を見張る。それだからオマエはいつまでも二番手止まりなんだよというと、ヤツは明らかにムッとしたような顔になった。
「オマエだったら、どうする?」
オレの問いかけに、ゲンは困ったように俯く。答えがすぐに出てこないのだろう。だが、闇雲に「わかりません」といっても、またオレに馬鹿にされてしまうかもしれないと思っているようだ。
オレはゲンに隠していることがある。今のオレはヤツの過去を知っている。
ゲンが何をして名前を無くし、茫然と彷徨っていたのか。オレと出会うまでにヤツの身に何が起こったのか、すべてを胸の内に秘めているのだ。
業務の合間をぬって、オレは頼りになる相棒の過去をひそかに調べていた。ひとつだけ確かだったのは、ゲンが人間だったということ。たったそれだけの手がかりをもとに、オレは根気よくいろいろと調べた。人間が残していく文献。街中にいる部下たちからの情報。オレ達が築いてきた様々なものを駆使すれば、ゲンの過去にたどり着くのにはそう時間はかからなかった。だが、それを本人に教えてやるかどうかは、また別の問題だ。
ゲンが自分の過去のことを聞いてきたことは、今までに一度もなかった。もしかすると、自分に、オレと出会う前の過去があるなどと思ってもいないのかもしれない。オレがヤツに「ゲン」という名前をあげたときからが、自分の人生の始まりなのだと、そう思っているかもしれないのだ。
だが、オレはこの放火犯の男の案件が、ゲンが担当する地域で起こったことを知り、ヤツの過去をすべて本人に話したい衝動に駆られている。今のゲンなら、オレの言葉をきちんと受け取ってくれるだろう。オレがそう思い込みたいだけかもしれないが。
オレ達の仕事は、人間たちの悪事を運ぶこと。それはタイミングさえ間違えなければ、必ず成し遂げられる仕事なのだ。
ゲンが結局オレの問いかけには答えられないまま、泣きそうな顔になったところで、オレは「行くぞ」と声をかけた。上司からの質問に正しい答えを用意しようとする姿勢は良いのだが、分からないなら分からないと素直に言ってほしいものだ。
「男の目撃情報があるわよ」
いままでだんまりを決め込んでいたタルシスが突然声をあげた。タルシスの友人で同僚でもある者からの着信らしい。手にしている端末には「ペルちゃん」と表示されている。電話という機械は便利だ。いつ、どこにいても色々なヤツらと情報のやり取りが出来るからな。オレが大好きな人間の発明品のうちのひとつだ。
「社長、ペルがアンタに直接伝えたいってさ」
タルシスがそう言って端末をオレによこした。受け取り、耳に当てる。
「もしもし、ペルか。お疲れさん」
「お疲れ様です、社長。それとご無沙汰してます」
「堅苦しい挨拶はいい。本題を言ってくれ」
オレが言うと、今まで真面目な声を出していた電話の向こうの女は、途端にくだけた物言いでオレにつっかかってきた。
「は~?キレそ~!あたしなりにちゃんと礼儀をわきまえたつもりなんですけどぉ、そういう言い方はないんじゃないですかぁ?」
「……悪かった」
ここでオレが態度をわきまえろなどと言って反論したところで、話は脱線していって一向に進まないだろう。何事も円滑に進めるためには、どちらかが気を回すのが良い。
「フフン、デヴィが素直に謝るなんて、なかなかレアじゃない。まあいいわ、お望み通り本題を言ってあげる。あ、ところでゲンは元気?ギャハハ!ゲンは元気だなんてダジャレみたいね!」
「元気だよ。今もオレの横にいる」
大きくため息でもつきたい気分だ。
「また会いにいくわってつたえといてなんたってアタシは」
「いいから早く話せ!!!!」
オレが一喝すると、ペルは「ひ!」と言って言葉を引っ込め、ようやく真面目な声で本題に入った。
「社長たちが探している放火犯の男。東雲途六丁目にある葬儀場、『旅立ちの途』にいるそうです。直ちに向かってください」
「分かったすぐ行く」
オレは短くそう言ってタルシスに端末を返すと、ちらりとゲンを見た。
「今から男に会いに行く。覚悟はいいな」
ゲンが無言で頷いた。オレの言った「覚悟」とはどんな意味なのか、たぶんまだヤツは分かっていないだろう。オレが長い間保管していた「荷物」を、ゲンはちゃんと受け取ってくれるだろうか。
葬儀場に着いたとき、オレは全身にだらだらと汗をかき、ぜえぜえと喘いでいた。
「社長!むやみにその能力使わないでください!無茶すると社長の体が……」
「馬鹿言うな。受取人の居場所がわかったんだ。もたもたしてたらまたどこかに行ってしまうかもしれないだろ」
ゲンの言う通り、オレは非常に体力を消耗していた。行きたい場所に、瞬時に行けるという能力をもっているが、好き放題にいろんなところに行けるわけじゃない。移動する距離が遠いほど、そして移動させる人数が多いほど、オレの体力が削られていくのだ。今回、距離はそんなに遠くないが、ゲンとタルシスを同時に移動させなければならなかった。東雲途三丁目から六丁目まで、二人を担いで移動したようなものだから、オレの体力は一気に底をついたのだ。
だが、それが何だというのだ。受取人の居場所が分かった。だからいち早く「荷物」を渡すために、オレはできるだけ急いだのだ。オレがここでぶっ倒れようとも、ゲンやタルシスさえいれば仕事を無事に遂行することが出来る。部下の仕事を円滑に進めるサポートが出来てこそ、上司だと胸を張って言えるんじゃないだろうか。
「オレのことはいいから、はやく届けてこい」
オレは手近にあった縁石に腰かけた。長い距離を全速力で走り抜けたかのような疲労感はまだ残ってはいたが、呼吸はだいぶ楽になってきた。心に余裕が出来て周りを見渡してみれば、まさに誰かの葬儀の最中だった。
さめざめと静かに降り続く雨。葬儀場の中で式が行われているらしく、オレ達がいる外は、しんと静まり返っている。建物の入り口付近に設けられた献花台には、菊や蘭などの花がいくつも置かれており、雨の音を聞きながら遺族の想いを優しく受け止めている。
その献花台の前に、一人だけ男が佇んでいる。ヤツは、雨に濡れるのもおかまいなしに、凛とした姿勢で立ち、葬儀場の入り口のほうに視線を向けていた。
「社長、あの人ですよね」
ゲンがひそひそと耳打ちをしてくる。オレは頷く。抜け殻を自宅に残し、放火犯の男はここにいたのだ。
「あの、すみません」
ゲンが男のもとに駆け寄っていった。まだ立ち上がれるほどに回復していないオレを置いて、タルシスもいそいそと後に続く。男はゲンの声を聞いて、ふと我に返ったかのようにぴくりと背筋を強張らせ、ゲンのほうを振り返った。
「突然すみません、ワルイコ宅配便です。あなたは稲宮克さんですね。あなたにお届けものがあって、ここまでやってきました」
「ワルイコ……?いなみや、すぐる?」
不思議そうな表情で、男はゲンを見た。
「はい。私たちは貴方宛のお届けものをお預かりしていまして、貴方の自宅に伺わせていただきました。ですが貴方はご不在でしたので一旦荷物を持ち帰ったんですが、貴方がここにいるという情報をききまして、直接馳せ参じた次第です」
ゲンが爽やかな笑顔で述べた言葉を、男はいまいち理解出来ていないようだった。困ったように眉をひそめ、ゲンとタルシスを見ている。
「俺は、いなみやすぐるという名前なんですか?」
少しの沈黙が流れたあと、男が小さく吐き出した疑問に、ゲンは「へ?」と間抜けな声で返した。ゲンの顔から笑顔が消える。困ったようにタルシスをちらりと見たが、タルシスもどうしていいかわからないと、無言で訴えている。
それを見たオレは、大きな岩でも背負っているかのように重い腰をあげた。汗はひいていないが、もはや雨だか汗だか分からないくらいに体が濡れている。ワイシャツが体に張り付いて気持ち悪い。今すぐにでも脱ぎ捨てたい気分だ。
精一杯平静を装いながら、オレはゲン達のもとに歩いていった。オレの精神を疲労感がむしばむ。隙あらばオレの体を地面に引きずり落そうと企んでいる。だが、今はそんなものに負けている場合じゃない。オレはゲンの横に辿りつくと、ぎゅっと足を踏ん張って、男の前に立ち、じっとヤツを見据えた。
「あなたは……?」
「オレはデヴィ。こんなナリだが、こいつらの上司だ。オレ達は『ワルイコ宅配便』という会社の者で、今日はアンタに渡したいものがあって、ここまでやって来た」
「渡したいもの……」
稲宮は困ったような表情のまま、オレを見下ろしてきた。
「ワルイコ宅配便なんて、聞いたことがない会社だけど、運送業者さんですか?でも、誰も荷物を持ってませんよね」
「オレ達が運んでいるのは、形あるものじゃない。アンタ達の見えない、人間がしでかした悪事を運んでいるんだ」
稲宮が鼻で笑う。ばかみたいだと、オレを嘲った。
「あんたら、俺をからかいに来たのか?生憎だが、俺はそんな子供騙しみたいな話を信じるようなヤツじゃない。新手の詐欺か何か知らないけれど、不快だから消えてくれないか。大体、悪事を運ぶってなんだよ。俺が何かしたってのか?」
人間たちの中には、オレ達の言うことを信じることが出来なくて、中には稲宮のように居直ってくるヤツがいる。オレはもう慣れたもので、またか、と思いつつ、ただ真実を告げることしかしない。
「ゲン」
オレは稲宮を見つめたまま、部下の名を呼んだ。
「はい」
「オレが今からこの男に伝えなければならないことは、オマエにも関係があることだ。オレはオマエ宛の荷物を、ずっと保管してきた。いい機会だから受け取ってくれ」
「……はい」
戸惑いを隠せない、頼りない返答だ。だが、オレはそれに気付かないふりをして、先へ進めることにした。時にはそんな強引さも必要なのだ。
「稲宮さん、アンタが信じようが信じまいが、オレはただ真実を言っているだけだ。それに、さっきのアンタの物言いじゃ、下手すると自分で自分の存在を否定することにも繋がりかねないぞ」
「……どういう意味だよ」
稲宮は敵意がむき出しの眼差しをオレに向けてくる。
「気付いていないだろうが、アンタはもう人間じゃない。今のアンタは、人間でいうところの幽霊ってやつだ。アンタは自分が住んでいたアパートの部屋で、首を吊って自殺した。信じられないなら、自分で見てみるといい。アンタがかつて拠り所にしていた抜け殻は、今もアパートに残ったままだ。夏の早朝に木にくっついている蝉の抜け殻のように、誰かに見つかるまでずっとあの部屋の天井からぶらさがったままなんだよ」
「俺が……自殺?」
稲宮の頭にのぼった血は、どうやらだんだんと下降してきたようだ。今の自分の状況を必死で呑み込もうとしているのだろう。オレ達への怒りの代わりに、現状を把握できない自分に焦燥しているのが見て取れる。
「そうだ。アンタは自分のしでかした悪事から逃げることを選んだ。自分ではそんなつもりはなかったのだろうが、最悪の形でな。悪事から逃げるなんて、アンタも知っての通り許されることじゃないだろう。だからアンタは、その罰としてアンタの一番大切なものを奪われた。それが、名前だ」
「名前……その、それが、いなみやすぐるというやつ……ですか」
「そうだ。この世界にあるすべてのものには、どんなものでも名前がついているだろう。空、山、海、道、雨。オレ達はその名を呼ぶことで、それがどんなものなのか判別がつく。知らないものでも、名前さえわかれば調べて、知ることが出来る。アンタの稲宮克という名前も、それと同じだ。アンタが人間だった時にいた周りのヤツらは、稲宮克といえばアンタのことだってすぐにわかってくれただろう。だが、名前を奪われたアンタは自分が何者なのかすら分からなかった。アンタが初め、オレ達を見たときに訝しんだのと同じだ。名前が分からなければ、何もわからない。例えば空に浮かんでいる白いものは雲だと説明をしようとするとき、雲という名前を自分が分かっていなければ、説明のしようがないだろう。だから、名前を奪われるというのは、とても恐ろしいことなんだ。自分で自分が何者なのか分からなくなるからな。そうだよな、ゲン」
「はい、社長」
ふとゲンのほうをみると、ヤツはオレのことではなく、稲宮を見ていた。頼もしいヤツだ。うっすらと、自分が何者であるかを分かりかけているだろうに、取り乱すことなく冷静に対処しようとしている。
「稲宮さん、僕もそうなんです。気が付けば自分が誰なのか分からなかった。今まで何をしていたのか、何でここにいるのか。それがすごく怖かった。怖くて怖くて、誰かに助けを求めたくて、でもどうすることもできなかった。自分が何なのか分からないから、僕はそこで縮こまっているしかなかったんです。でも、僕は運が良かった。社長が……貴方の目の前にいるこの人が、僕を助けてくれたんです。どうしても名前を思い出せなかった僕に、社長は『ゲン』という名前をくれました。どうしてそんな名前を選んでくれたのか分からないけれど、僕はその時から『ゲン』としていきています。ゲンじゃない頃の僕のことは、未だに思い出せません。でも、それでいいかなって、ちょっと思っています」
ゲンの顔に笑みが戻る。爽やかだ。なんだか、オレは少し安心した。
「稲宮さん、貴方はまだ沢山の人に貴方の名前を覚えられています。貴方がどんな人で、どんな生き方をしていたのか。貴方の記憶にそれが無かったとしても、周りの人々がそれを覚えているんです。だから、受け取ってください。貴方が、稲宮克として生きていたときにしでかしてしまった悪事を」
「案外、物分かりのいい人で良かったじゃない」
結果として、稲宮はオレ達がよこした荷物を受け取ってくれた。その時点でオレ達の仕事は終わりを迎えるわけなのだが、オレはヤツのことが気がかりで仕方なかった。
タルシスの言う通り、ヤツはゲンの申し出にすんなりと首を縦に振り、自らの悪事を受け取ってくれた。オレ達が依頼人から預かった、「自分の犯した罪を償う勇気」は、無事に稲宮に届いたのだ。
荷物を届け終えたあとは、オレ達は受取人のことを詮索してはいけない。ソイツが荷物をどんなふうに扱おうと、それは受取人の自由なのだ。せっかく届けたんだからなどといってむやみに関わってはいけない。冷たくいってしまえば、荷物を届けたあとのソイツらの事なんて、オレ達にとってはどうでもいいことなのだ。
だが、オレ達は今、どうしたことか、稲宮の後をつけている。さっさと仕事を片付けて寝たいと言っていたタルシスには申し訳ないが、彼女とゲンにもついて来てもらっている。
「社長、どうしたんですか?いつもならすぐに会社に戻るのに」
「ああ……ちょっと気になってな」
稲宮は荷物を受け取ったあと、何かを決心したかのような表情で、葬儀場の中に入っていった。オレ達もひそかにあとに続く。
稲宮はただの物分かりのいい青年じゃない。
それはオレの直感だった。荷物を受け取ったことによって、戻ったヤツの記憶。自らを罪に走らせ、そして人間としての未来を絶たせることになってしまったそれを再び手にした今、ヤツはきっと本性を現すはずだ。
「社長、仕事は終わったんですよ、早く帰って酷使した体を休めないと」
「うるせえ、黙ってろ」
ゲンを睨むと、ヤツはすみませんと小さく呟いてシュンとなった。
「いいから、オマエも見てろ」
稲宮の進む先には、一人の男がいた。葬儀場のホールでは、まさに今誰かの葬儀が行われている気配がするのに、この男はどうしてここにいるのだろう。
稲宮はやがて静かに男の前に立った。オレ達のほうに背を向けているため、ヤツの顔は見えない。男は稲宮に気づき一瞥すると、目を見開いた。ぎょっとしたように見える。
「いい気味だ、店長」
稲宮はふつふつと笑った。水が沸騰した時にできる水泡のようにこみ上げてくる感情を体現したかのような笑い方だった。
「稲宮くん」
稲宮から店長と呼ばれた男は、しょぼしょぼと目をまばたきさせた。稲宮が抱いている感情のひとかけらも理解していないような様子だった。
「どうですか、自分の店と、命を失った気分は」
稲宮は、笑うのをやめ、静かにそう言った。
「君が、私を殺したのか」
「そうですね。結果的にはそうなるんですよね」
まるで他人事のような口調だ。そのとき、稲宮はちらりとオレ達の方を振り返って見たが、何も言わずに、すぐに元の体勢に戻った。きっと、まだオレ達がここにいるかどうかを確かめたのだろう。
「俺はあなたの店に放火をしました。でも、その時にあなたが店の中にいることなんて知らなかった。あなたを殺すつもりなんて、微塵もなかった。俺はただ、あなたの店が無くなればいいと思っていただけなんだ」
つまり、自分は悪くない。燃えた店の中にいたオマエが悪いとでも言いたいのだろうか。
「悪事は必ず、自分に返ってくる。それって本当の事だったんだな。あなたも俺も」
「私は……」
稲宮は、店長の言葉を遮った。
「あなたは俺達バイトをひどい待遇でこき使ってた。俺達が何か失敗すると、暴力をふるってきたし、なにか都合が悪いことがあると俺達にあたってきたりもした。それが原因で辞めた奴もいるし、辞める勇気がなくて、ずっと悩んでる奴もいた。俺達はバイトでしかなかったけれど、仕事のために体をこわしたり、精神を病んだりするなんて、絶対に嫌だった。だから俺は、こんな職場なんか無くなれば、みんな今の状況から抜け出せると思った」
そしてヤツは放火をした。あの店さえなくなれば、もう自分たちが酷い扱いを受けることはない。仕事はなくなるけれど、次を探せばいい。そう思ったのかもしれない。
だが、結果的に稲宮は罪を犯したことになる。ヤツの心は弱かった。自分が起こしてしまった過ちを、自分で受け止められなかった。自分が放火をしたことによって、人がひとり死んだことも分かった。
弱い心に追い打ちをかけるかのように舞い込んできたその報せに、稲宮は壊れてしまったのだろう。
「店を燃やしたとき、オマエは神にでもなったつもりだったのか?俺がみんなを救った、悪者を裁いてやった、見たか!クソジジイ……とでも思っていたのか?」
稲宮はこくりとうなずいた。
「最初はそう思った。店から離れて、どんどん燃え広がっていく炎を見ながら、俺はそれまでに感じたことのない気分になっていた。俺が悪い奴に制裁をくわえてやった!悪い奴は必ずその報いを受けるんだって、笑っていたよ」
おそらく稲宮の人生で一番虚しい笑いだったのだろう。そうしてヤツは、時間が経つにつれて自分の愚かさに気づいた。自分は神などではなかった。自分も、結局ただの悪人になってしまったと。
神なら、そもそもそんな気持ちを抱くことはない。自分のすることが一番正しいとかたくなに信じ、なにをしようとも、常に自分が正しく、そこに「悪」という概念はない。
「そうか稲宮、お前が私を殺したのか……」
店長はふらりと立ち上がり、稲宮に近づいていく。
「稲宮ぁ、誰が俺の店を燃やしていいといった?誰が俺を殺していいといった?……稲宮ぁぁ!!!!」
今にも殴りかかろうとした店長の体を、ゲンが羽交い絞めにして壁に抑えつけた。素早いヤツだ。オレにもゲンの動きは見えなかった。
「何をしやがるクソガキ!!離せ、離せよおぉ!!!!」
「離しません。暴力では何も解決しない。ここで稲宮さんを殴ったって、何も変わらない。あなたと、稲宮さんの憎しみが、余計に膨らむだけです!」
暫くゲンと店長はもみ合っていたが、ゲンの力があまりにも強すぎたのか、はたまた違う理由があったからなのか、店長はいきなり大人しくなった。もう大丈夫だと判断したのか、ゲンは店長の体を離し、乱れた自分のシャツの襟を直している。
「俺は、これからどうしたらいいんですか」
稲宮が涙目でオレを見下ろした。
「知らねえよ。オレ達の仕事は、依頼された荷物を送り先に届けることだけだからな。アンタのこれからに口出しする権利なんてねえよ。テメエのことはテメエで考えろ。ま、そろそろ『お迎え』ってやつが来るんじゃねえか」
オレはゲンとタルシスに「帰るぞ」と促した。二人が素直にオレの元へとやってきたその時、オレの目の前にどこからともなく一人の子どもが現れた。
「こんにちはデヴィさん、ご無沙汰しています」
襟付きのパリッとした白いワイシャツの上に黒い袖なしのベストを着て、膝丈の灰色のスラックスを履いたその子どもは、どこかの品のいい小学校に通っている金持ちの坊ちゃんにしか見えない。だが、オレは知っている。コイツの正体を。
「初めまして、稲宮さん、根田さん。ボクはエンジといいます。こう見えても天使です。あなたたちがこれから路頭に迷わないように、行くべき場所に導くのが、ボクの仕事です。あ、それと稲宮さん」
いきなり出てきて淡々と事を進めるエンジに稲宮と店長の根田は戸惑った表情を浮かべている。だが、エンジはそれに気付いているのかいないのか、さっさと続きを話し始めた。
「ボクは天使ですが、この色黒のお兄さんと同じで、運送会社の社長を任されています。とはいっても、このお兄さんとは違う会社で、運ぶものも違います。ワルイコ宅配便さんは人間の悪事を運びますが、ボクの会社、『イーコット』は、人間の善事を運びます。稲宮さん、あなたは根田さんの店を燃やしたことで、あなたと同じバイト仲間のみなさんを救ったんです。その善事をボクがお預かりして、後程そのみなさんにお届けしますね」
エンジは可愛らしい笑顔をうかべて、稲宮をじっと見据えた。オレが見れば胡散臭く感じてしまうそれも、稲宮にとっては言葉通り天使の笑顔にみえるようだ。
「俺がやったことは、間違いじゃなかった?」
稲宮の困惑した声に、エンジが「はい」とかぶせる。
「仮に根田さんの店が燃えずに、あのまま営業を続けていたとしましょう。稲宮さんが店を燃やさなくても、もしかすると他の誰かが稲宮さんと同じことを企てたかもしれない。根田さんのお店の営業方針に耐えかねて、思いつめた誰かが命を絶ってしまうかもしれない。もしくは、誰かが根田さんの命を奪っていたかもしれない。それらのかもしれない出来事を、あなたは食い止めたんです。あなたが根田さんの店を燃やしたことによって、他の方々が悪事に手を染めるのを救った。大変素晴らしいことだと、ボクは思いますよ」
「なら、私はどうなんだ」
根田がゆらりとエンジの前に立つ。
「私はこいつに店も命も奪われた。あの店はな、だんだんお客さんも増えてきて、これからって時だったんだぞ。そんなときに、私はすべてを奪われた。この男に!それでもお前さん、稲宮がやったことは良いことだったって、そう言うのか?」
エンジが一瞬、ほんの一瞬真顔に戻ったのを、オレは見逃さなかった。「チッ」という舌打ちがヤツから聞こえたのも、多分オレの気のせいではないはずだ。だが、次の瞬間にはすでにエンジの顔には笑顔が戻り、にこにこと根田を見上げていた。
「不幸な事故です。でも、当然の報いだと、ボクは思いますよ」
根田がエンジにつかみかかろうとした。さっきから随分と、短気なおっさんだ。だがエンジには触れることすらできない。何かに拘束されたかのように、根田の体はぴたりと動きを止めてしまった。
「人間は時として、ボク達が感心する言葉を産み出してくれます。根田さん、貴方は『カルマ』という言葉をご存知ですか?」
「知らねえよ」
「では、『因果応報』は、どうでしょう」
「それは知ってるよ。悪いことも良いことも、自分に返ってくるってやつだ」
「素晴らしいですね、その通りです。ちなみにカルマというのも同じような意味ですよ」
エンジの解説にゲンが「へぇ」と感心する。オレはそんなヤツの頭をはたいてやった。
「では根田さん、貴方はなぜその言葉を知っておきながら、ボクにつかみかかろうとしたのでしょう。貴方は生前、自分の店で働いてくれている方々をないがしろに扱いました。誰が見ても、それは悪事です。貴方のような人間ごときが、他の人間たちを軽んじることなど、してはならないんです。結果的に貴方は自分の財産も命も失ってしまった。だけどそれは当然の報いだと、ボクは思いますよ」
エンジの説教じみた言葉を聞くにつれ、どんどん根田はうなだれていった。エンジの正体はどうであれ、自分よりも随分と年少の、言ってみればクソガキだと罵りたいくらいの見た目のヤツにこんなことを言われ、面目も丸つぶれだと感じているのだろうか。
「稲宮さん、貴方も同じですよ」
エンジが稲宮に向き直ると、なぜか稲宮は気をつけの姿勢で立ち尽くした。
「貴方の仕事仲間には、あいつが俺達を根田店長から解放してくれたって、英雄視されるかもしれません。でも、根田さんのご遺族や友人の方々からは、貴方はただの殺人犯であり、放火犯です。たぶん、貴方たちに関係のない人間たちにも、そう思われるでしょう。貴方はもう、そんな方々に弁解することもできません。これからずっと、貴方は彼らにとって悪人として語り継がれるでしょう。勤務先に火を放ち、上司を殺害し、その重圧に耐えきれなくなって自分の命を絶った愚か者だと蔑まれるかもしれません。でもそれが、貴方にとっての報いです。貴方の行動によって救われた人もいるのに、何が善か悪かなんて、きっとそういうのは、関わった人によって捉え方が変わるものなんでしょうね」
エンジはひととおり語り終えて満足したのか、さあ行きますよなどと言って稲宮と根田を後ろに引き連れて、姿を消した。オレへの挨拶はない。礼儀を知らないクソガキだ。
オレ達も帰路につくことにしたが、瞬間移動は使わなかった。あれは緊急性のあるときだけに使わないとオレの体がもたない。
「社長、エンジくんは子どもなのに、随分といろんなことを知っていましたよね。僕ですら、カルマなんて言葉の意味は知らなかったです」
オレは噴き出した。
「アイツが子どもだって、オマエ本気で思ってんのか!?」
「え?ちがうんですか?」
ゲンは不思議そうな顔をしている。
「まあいいや、オマエにはそう見えるんだったら、それでいい」
ふっと、オレは空を見上げた。雨はすっかり上がっていたが、まだまだどんよりとした雲が果てまで続いている。
エンジが拾い上げた稲宮の「善事」は、無事に誰かに届いたのだろうか。オレの会社とは違ってアイツの会社は人手不足だから、もしかすると届くのが遅くなってしまうかもしれない。
人間は欲にまみれた生き物だ。邪な気持ちだって簡単に持ってしまう。だからこそ、オレ達が悪事を見つけるのは容易い。だけどもしかすると、良いことも、同じくらいあふれ返っているのかもしれない。いかんせん、それを届けるヤツらがオレ達よりも少ないから、なかなか人間たちに気づかれないのだろう。
少ない人数ながら懸命にどんな小さな善事でも見つけ出すエンジ達に、同業者として見習わなければならないのかもなと、オレは思ったりもした。
第1話 おわり
ワルイコ宅配便 甲斐勇翔 @kaiyuto1
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